コップ一杯の交差点
コップ一杯の水が欲しい。それだけでいい。
僕の頭の中は、ひどく渇いていた。
行き交う人々を見つめた。
誰も彼も、忙しそうに過ぎ去っていく。
車も、電車も、飛行機も、みんな同じだ。
交差点の真ん中で、僕は目をまわしていた。
周囲の腰や背中ばかりが、視界を横切る。
僕は、小さく声を出した。
「あの……」
言葉は汚れた空気に溶ける。
「……すみません」
冷たい視線が落ちた。
立ち止まっているのは、僕だけだった。
いぶかしげな顔で睨む人はいる。
距離を取るように避けていく人もいる。
けれど、聞く耳を立ててくれる人はいない。
僕は今回も、ここを越えられなかった。
車通りの多い交差点の白線の真ん中で、取り残される。
直進。
左折。
右折。
すべての車は、僕の存在を気にかけている。
「あぶない」
「何やってるんだ!」
ガラス越しに、そんな言葉が聞こえる気がした。
けれど、この交差点で、僕のために停まってくれる車はいなかった。
やがて左右の信号機は赤に変わった。
その瞬間、前後の車はブレーキを緩めた。
まるでスタート前の競走馬のように、車体を揺らしている。
前後の信号機が青に変わる。
灰色の排気ガスが宙を舞った。
僕の両脇を、車が凄まじい速度で駆け抜けていく。
汚染された空気が、喉の渇きを加速させた。
痛みを伴う咳が込み上げ、体力を大きく奪っていく。
僕はまた、交差点の真ん中の聖域で小さくなり、息を潜めた。
長い時間の果てに、車の波が静まった。
僕は気合いを入れる。
やっと、歩行者の番だ。
全方位の人々は、すっかり焦れている。
足を伸ばし、準備運動は万全と言わんばかりに、歩行者用信号機を一点に見つめている。
静寂。
車も人も、完全に動きを止める一瞬。
緊張。
僕の喉の奥は、錆びた金属みたいにきしんでいた。
そして、
パッポッと鳩の鳴き声が響くと、人々は一斉に歩き出した。
人の波が押し寄せる。
カツカツと響く革靴。
ガラガラと鳴るスーツケース。
ざわざわと囁く声。
それらが不規則に交差する。
もはや足音なのか、摩擦音なのか、話し声なのか、判別できない。
一瞬のうちに、何が起きているのかわからなくなった。
恐ろしいほどの人混み。
すれ違う速度が、速すぎる。
僕は、めまいをこらえながら、渇いた口を開いた。
「あの……すみません」
足音は遠ざかる。
「誰か、コップ一杯の水を」
凍てつく視線が、僕を貫いた。
焦る背中だけが、妙に熱い。
まるで踊り狂うピエロのように、僕は交差点を揺れ動く。
けれど、聖域に守られるように、誰も僕の近くには来なかった。
──そう思ったとき、ひとりのおばちゃんが、僕の手を力強く引いた。
「何やってるの!こっちに来なさい。あぶないでしょ!」
ぐいぐいと引かれ、僕は聖域を出る。
横断歩道の終わりが近づいてくる。
それが見えた瞬間、僕は足に力を込めて立ち止まった。
おばちゃんの腕と、僕の腕がぴんと張る。
互いに一歩、引き寄せられた。
「すみません。コップ一杯の水を下さい」
僕は、その手を振り払った。
おばちゃんは眉間に皺を寄せる。
「あのね。ここは危ないのよ。あっちで──」
僕は言葉を遮った。
「コップ一杯の水を下さい」
おばちゃんは呆れたように、交差点を去っていった。
僕は聖域へと早足で戻る。
冷や汗が、頬を伝った。
もう少しで、取り返しのつかない終わりを迎えるところだった。
間違った終わりだけは、迎えてはいけない。
「っ……!」
身体が急にきしみ、僕は道路に膝をついた。
喉の渇きが、限界を超えていた。
アスファルトを見つめ、浅い呼吸を繰り返す。
喉から、かすれた息が漏れる。
「……みず、を」
足音は遠ざかり、周囲の音は急に静かになった。
信号機が、チカチカと点滅している。
また、車の時間がやってくる。
もう、それを耐える体力は残っていない。
「……ここで、終わりなのか」
視界が白く歪む。
立ち上がる気力は、もうなかった。
──そう思った瞬間、全身から力が抜け落ちた。
僕は聖域で、力尽きた。
コンクリートが肌に刺さる。
寒い。
身体中の血の気が、引いていく。
この交差点は救えなかった。
意識は、静かに遠ざかった。
……
プーーーー!
ブーーーー!
けたたましいクラクションが鳴り響く。
その音に、かすかに意識が戻った。
「動くんじゃないよ!」
視界に影が落ちる。
ジリ、と石を踏みしめる音。
どこか懐かしい匂いが、鼻をかすめた。
「見えないのかい。倒れているじゃないか!」
重たいまぶたを、必死に開く。
くたびれたサンダル。
力強く踏みしめられたアスファルト。
大きな背中が、交差点の真ん中で両手を広げていた。
「もう大丈夫だからね」
おばちゃんの声だった。
戻ってきてくれた。
僕のことを、思い出して。
ゆっくりと、おばちゃんは振り返る。
その顔は、やさしく笑っていた。
そして、僕にコップ一杯の水をくれた。
ゴクリ、ゴクリと飲み干す。
なんて、美味しいのだろうか。
身体は小さく震え、鼓動を取り戻した。
視界が、澄んでいく。
──交差点は、とても静かだった。
いつの間にか、クラクションは止んでいた。
みんな、ようやく僕の存在に気づいたみたいだった。
ずっと、ここにいたんだよ。
心の中で叫ぶ。
その瞬間、身体が、ふわりと浮かんだ。
おばちゃんは、交差点の真ん中に咲く、一輪の花に手を合わせていた。
この交差点はきっと大丈夫。
心地よい風が吹き抜けた。
渇きは、もうなくなっていた。




