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コップ一杯の交差点

作者: TOMMY
掲載日:2026/02/03

コップ一杯の水が欲しい。それだけでいい。

僕の頭の中は、ひどく渇いていた。


行き交う人々を見つめた。

誰も彼も、忙しそうに過ぎ去っていく。

車も、電車も、飛行機も、みんな同じだ。


交差点の真ん中で、僕は目をまわしていた。

周囲の腰や背中ばかりが、視界を横切る。


僕は、小さく声を出した。


「あの……」


言葉は汚れた空気に溶ける。


「……すみません」


冷たい視線が落ちた。


立ち止まっているのは、僕だけだった。

いぶかしげな顔で睨む人はいる。

距離を取るように避けていく人もいる。

けれど、聞く耳を立ててくれる人はいない。


僕は今回も、ここを越えられなかった。


車通りの多い交差点の白線の真ん中で、取り残される。


直進。

左折。

右折。


すべての車は、僕の存在を気にかけている。

「あぶない」

「何やってるんだ!」

ガラス越しに、そんな言葉が聞こえる気がした。


けれど、この交差点で、僕のために停まってくれる車はいなかった。


やがて左右の信号機は赤に変わった。

その瞬間、前後の車はブレーキを緩めた。

まるでスタート前の競走馬のように、車体を揺らしている。


前後の信号機が青に変わる。

灰色の排気ガスが宙を舞った。


僕の両脇を、車が凄まじい速度で駆け抜けていく。

汚染された空気が、喉の渇きを加速させた。


痛みを伴う咳が込み上げ、体力を大きく奪っていく。

僕はまた、交差点の真ん中の聖域で小さくなり、息を潜めた。


長い時間の果てに、車の波が静まった。

僕は気合いを入れる。

やっと、歩行者の番だ。


全方位の人々は、すっかり焦れている。

足を伸ばし、準備運動は万全と言わんばかりに、歩行者用信号機を一点に見つめている。


静寂。

車も人も、完全に動きを止める一瞬。

緊張。


僕の喉の奥は、錆びた金属みたいにきしんでいた。


そして、

パッポッと鳩の鳴き声が響くと、人々は一斉に歩き出した。


人の波が押し寄せる。


カツカツと響く革靴。

ガラガラと鳴るスーツケース。

ざわざわと囁く声。


それらが不規則に交差する。

もはや足音なのか、摩擦音なのか、話し声なのか、判別できない。

一瞬のうちに、何が起きているのかわからなくなった。

恐ろしいほどの人混み。

すれ違う速度が、速すぎる。


僕は、めまいをこらえながら、渇いた口を開いた。


「あの……すみません」


足音は遠ざかる。


「誰か、コップ一杯の水を」


凍てつく視線が、僕を貫いた。


焦る背中だけが、妙に熱い。

まるで踊り狂うピエロのように、僕は交差点を揺れ動く。


けれど、聖域に守られるように、誰も僕の近くには来なかった。


──そう思ったとき、ひとりのおばちゃんが、僕の手を力強く引いた。


「何やってるの!こっちに来なさい。あぶないでしょ!」


ぐいぐいと引かれ、僕は聖域を出る。

横断歩道の終わりが近づいてくる。


それが見えた瞬間、僕は足に力を込めて立ち止まった。


おばちゃんの腕と、僕の腕がぴんと張る。

互いに一歩、引き寄せられた。


「すみません。コップ一杯の水を下さい」


僕は、その手を振り払った。


おばちゃんは眉間に皺を寄せる。

「あのね。ここは危ないのよ。あっちで──」


僕は言葉を遮った。


「コップ一杯の水を下さい」


おばちゃんは呆れたように、交差点を去っていった。

僕は聖域へと早足で戻る。


冷や汗が、頬を伝った。

もう少しで、取り返しのつかない終わりを迎えるところだった。


間違った終わりだけは、迎えてはいけない。


「っ……!」


身体が急にきしみ、僕は道路に膝をついた。

喉の渇きが、限界を超えていた。


アスファルトを見つめ、浅い呼吸を繰り返す。

喉から、かすれた息が漏れる。


「……みず、を」


足音は遠ざかり、周囲の音は急に静かになった。

信号機が、チカチカと点滅している。


また、車の時間がやってくる。

もう、それを耐える体力は残っていない。


「……ここで、終わりなのか」


視界が白く歪む。

立ち上がる気力は、もうなかった。


──そう思った瞬間、全身から力が抜け落ちた。


僕は聖域で、力尽きた。

コンクリートが肌に刺さる。

寒い。

身体中の血の気が、引いていく。


この交差点は救えなかった。

意識は、静かに遠ざかった。


……


プーーーー!

ブーーーー!


けたたましいクラクションが鳴り響く。

その音に、かすかに意識が戻った。


「動くんじゃないよ!」


視界に影が落ちる。

ジリ、と石を踏みしめる音。

どこか懐かしい匂いが、鼻をかすめた。


「見えないのかい。倒れているじゃないか!」


重たいまぶたを、必死に開く。


くたびれたサンダル。

力強く踏みしめられたアスファルト。


大きな背中が、交差点の真ん中で両手を広げていた。


「もう大丈夫だからね」


おばちゃんの声だった。


戻ってきてくれた。

僕のことを、思い出して。


ゆっくりと、おばちゃんは振り返る。

その顔は、やさしく笑っていた。


そして、僕にコップ一杯の水をくれた。

ゴクリ、ゴクリと飲み干す。


なんて、美味しいのだろうか。

身体は小さく震え、鼓動を取り戻した。


視界が、澄んでいく。


──交差点は、とても静かだった。


いつの間にか、クラクションは止んでいた。

みんな、ようやく僕の存在に気づいたみたいだった。


ずっと、ここにいたんだよ。


心の中で叫ぶ。

その瞬間、身体が、ふわりと浮かんだ。


おばちゃんは、交差点の真ん中に咲く、一輪の花に手を合わせていた。


この交差点はきっと大丈夫。

心地よい風が吹き抜けた。


渇きは、もうなくなっていた。

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