第一章 五月雨の秘密
最後に雨が降ったのは、いつなのだろう。もう二か月くらい、私は雨の日を知らない。ぱらぱらと雨粒が弾ける音も、ペトリコールのあの独特な臭いも、靴下が濡れる気持ち悪さも、全てはもう私の記憶の中にしかない。雨が降ったことは、翌日のアスファルトや水たまりを見てわかる。だからきっと、世界から雨が消えたのではなくて、私からだけ、雨が消えたのだと思う。その理由を、たぶん私は知っている。だけど、どうすることもできない。
明日になれば、どうせ全て忘れるのだから。
雨が止んだら、それから
春花火
最後に雨が降ったのは、いつなのだろう。もう二か月くらい、私は雨の日を知らない。ぱらぱらと雨粒が弾ける音も、ペトリコールのあの独特な臭いも、靴下が濡れる気持ち悪さも、全てはもう私の記憶の中にしかない。雨が降ったことは、翌日のアスファルトや水たまりを見てわかる。だからきっと、世界から雨が消えたのではなくて、私からだけ、雨が消えたのだと思う。その理由を、たぶん私は知っている。だけど、どうすることもできない。
明日になれば、どうせ全て忘れるのだから。
第一章 五月雨の秘密
春が終わり、半袖の人が増えてきた。六月の今日、京都はどうやら梅雨入りをしたらしい。
雨の日の一条さんは、少し様子がおかしかった。さらにいえば、雨の日の翌日は、もっとおかしかった。前者は、いつもよりボーっとしているような気がする。それだけなら、低気圧のせいだろうとも思った。しかし、後者は明らかに不自然だった。どんなことも卒なくこなすいつもの一条さんではないことに、僕は気づいていた。まず、友達との会話の仕方がおかしい。いつもは自分から話題を積極的につくって、会話の中心にいるような人なのに、雨が降った日の翌日はどこか受け身だ。相手の表情をこっそり伺っていて、変なことを口走らないように気をつけているかのようだった。そして、口を開くときが少なくてずっと相槌を打っているだけのように見えた。ちょうど、全く知らないアニメの話をされているときに僕がいつもしているみたいに。第二に、言葉が優しい。普段は、一本筋が通っているようなとてもはっきりとした物言いで、人によっては少し委縮してしまうような話し方をする。あるいは毒舌ともいうのかもしれない。でも、雨の日の翌日は、言葉がちょっとだけ柔らかくなる。そして、これが一番の違和感なのだが、授業中のノートを取るスピードと量が異常だ。いつもしっかりと板書を取ってまじめに授業を受けている印象はある。しかし、それとは比べ物にならないくらいの速さでノートに何かを書き付けている。それも、音もたてずに。僕も授業はちゃんと聞いているほうだが、正直なところ、そんなにメモをするポイントが見当たらなかった。右隣の席だから、書いている様子はよくわかるのだが、さすがにその内容まではわからない。授業とは直接関係のないこと、例えば落書きとかをしているのではないかと思っている。でも、落書きをあんなに真剣な顔でする人はきっといないだろう。だから、この仮説にはやや疑問が残る。
「……一ノ瀬君、さっきから当ててるんだけど、気づいてる?」
「あ、気づいてないです。板書をしてました。すみません」
「ノートを一生懸命取ってくれるのはいいけど、たまには顔を上げてくれると先生嬉しいな。一ノ瀬君も一条さんも全然こっちを見てくれないから。板書はそんなすぐには消さないわ」
担任で古典の先生でもある宮下先生は、そう言って優しい笑顔を僕に向けてくれた。ゆったりとしたシルエットの淡いグリーンのワンピースを身にまとっていて、小柄でとてもおっとりとした雰囲気がある。左手の薬指に輝く銀色の飾りを見つけていなかったら、僕はきっと先生に告白していたと思う。
「先生がかわいいから、前を見すぎると照れちゃうので見ないんですよ」
「あのねえ……。既婚者を口説こうとるのはあまり感心しないなぁ。そんなことより、質問に答えて。これ、なんて読むと思う? あてずっぽうでもいいから、答えてみて」
そういって先生は、チョークの先で黒板を軽く叩いた。『恋水』と書いて何と読むかという、万葉仮名についての問題だった。
「なみだ」
恋をして流れる水なんて、涙以外にないだろう。横で一条さんが驚いたような表情をしたのが見えた。僕が読み方を知っていたのが意外と言わんばかりに。
「大正解。一ノ瀬君は、流石ね。やっぱり、君たち二人を当ててもつまんないわ」
先生は、相変わらず優しく笑った。
授業はその後も滞りなく続いた。ミルクティーのように甘いその声に聞き入っていたかったのに、窓ガラスに激しくぶつかる雨音が邪魔をした。六月の午後、梅雨入りを思い知らされる雨だった。さて、今日の記録はここまで。僕は静かにシャーペンを置いた。
グラウンド部活と体育館部活では、決定的に違うことが一つある。雨の日の活動の有無だ。我々バドミントン部は、雨が降っているからといって、オフになることはない。蒸し暑さで汗がいつも以上にベタついてすごく気持ち悪かった。去年も味わったことのある感触だが、嫌なものはやはり嫌だ。
「この前の痴漢の話、まじで怖くない?」
「それな。まじやばい。夜は怖くてしばらく出歩けないかも」
「ほんとそうだよねーー」
コートが空くのを待って休憩をしていると、すぐそばで同じく休んでいる同学年の女子の会話が耳に入ってきた。彼女たちが話しているのは、一週間前に発生した痴漢事件のことだ。学校の近くで発生しているということもあって、全校で注意が促されている。
「それって、いつのことだっけ?」
彼女たちのうちの一人が尋ねた。
「え、つい一週間前だよ」
「葵、まさか忘れたの?」
「ていうか、痴漢あった場所、葵が家帰る道の近くじゃなかった?」
「そうそう! 危ないからしばらく三人で帰ろうねって話したじゃん。まあ、それぞれ忙しいから結局ばらばらに帰ってるけどね」
彼女はとても困ったような顔をしていた。何かを思い出そうとしているようにも見えた。
「あ、そうだ。思い出した」
そう言って、両手を叩いたが、その間といい言い方といい、僕には明らかに嘘っぽく聞こえた。しかし、女子二人はどうやら違和感なく信じたようで、もうしっかりしてよ、とか言っていた。
「ねえ、葵さ、最近なんか忘れっぽくなってない? 大丈夫?」
「え、そうかな。元々そんな感じじゃない?」
「いや、ちょっと最近変だよ。たまにボーっとしてるときあるじゃん。それに、昨日話したことなのに次の日その話したら全然覚えてなかったり。あと、たまにトンチンカンなこと聞いてくるし」
「なんか悩んでない? 無理にとは言わないけど、なんか話したいことあったらいつでも聞くよ」
二人から心配されたその子の眉間に、一瞬皺が寄ったのがわかった。困っているようにも、迷惑していそうにも見えたが、今、彼女がどんな感情でいるのか考えるのは難しかった。
「二人ともありがとう。でも、大丈夫だよ。なんか、雨の日はちょっとボーっとしちゃうんだよね。たぶん、低気圧が苦手でさ」
「なるほどね。たしかに、そういう人いるよね」
「お医者さん行ったら? 薬とか出してくれるんじゃない?」
二人の心配が止むことはなかった。彼女は今度こそ本当に迷惑そうな顔をした。それは、わからないでもなかった。過度に干渉されるのは時に鬱陶しい。放っておいてほしいことの一つや二つ、誰にだってあるだろう。
「佐野さん、北村さん。コート空いたから先に入っていいよ」
気がつくと僕はそう言っていた。女子に自分から話しかけるのはそんなに得意ではないのだが。
「いいの? ありがと!」
「ごめん葵、先に入るね! 何かあったらほんとに言ってね」
二人はコートに入って軽いラリーを始めていた。先日買い替えたばかりということもあって、今日は水鳥のシャトルがやけに飛んでいた。気持ちの良い音が体育館中に響いた。ふと見やると、取り残された人が一人、こちらのほうを、目を細めて睨んでいた。しかし、その目の鋭さとは裏腹に、口元は緩んでいて顔は険しくなかった。目と口が個別の生き物で、それぞれ別のメッセージを発しているようだった。その人は、大股で僕のところまでやってきた。女子にしては背が高く、僕より少し高いくらいだった。謎の威圧感を感じて、足に力が入った。
「……あ、ありがと」
耳元でたしかに彼女はそう言った。そして、振り返ることなくそのまま体育館の舞台袖に消えてしまった。
やはり、雨の日の一条さんは様子がおかしい。この日、僕は知り合って一年以上経ってはじめて、彼女の口から感謝の言葉を聞いた。今日の一条さんは、僕にも優しい。それは、おかしなことだ。これは、記録にしておかなければ。
更衣室を出ると、最終下校時刻がせまっていた。先生たちは、まだ校舎にたむろしている生徒を追い出すのに必死だった。この時期は、十九時といっても空はまだ明るいのだから、もう少しゆっくりさせてくれてもいいのにと思った。部活後にゆっくりと夕焼けを眺める時間はあって然るべきだと僕は考えている。しかし、文句を垂れても仕方がない。人波に紛れて、校門を目指した。どこを歩いても傘がぶつかりそうになって、鬱陶しかった。
その道中で一つ、思いがけないことが起きた。先ほど声をかけた二人組のうちの一人である佐野さんが、僕を探して追いかけてきたのだ。今日は珍しいことがたくさん起きる。右手には傘、左手にはノートを持っていた。幸い、濡れてはないものの湿気で紙が曲がってしまっていた。些細なことに見えるが、こういうのは何気に気分が下がったりするものだ。僕は、持ち主のことを少し可哀そうに思った。
「僕に何か用?」
「うん。何かしらの用だよ。じゃないと、女の子はこんな雨の中男の子を追いかけたりしない」
「そうか。じゃあ、もしかして僕に告白を?」
「違うわ」
佐野さんは即座に否定した。笑っていたが、そこにはたしかに明確な拒絶の意思を感じた。違うのかよ。先の言い方からして、その可能性は高いはずだと思ったのに。
「青砥くんって、普段はあんまり喋らないけど、喋ると結構面白いんだね。そういう人、私、嫌いじゃないよ」
「僕はいま冗談を言ったつもりはないんだけど」
「え、冗談じゃなくて素で言ってたの? 尚更やばいね。私は大丈夫だけど、他の女の子だと普通に引かれることのほうが多いから気をつけてね」
「わかった」
「びっくりするくらい素直だね。きみ、本当に高二男子?」
佐野さんは不思議だと言わんばかりに、首をかしげていた。
「で、用件はなに」
傘に砕ける雨粒のリズムが急に早くなった。相変わらず抑揚ないな、と彼女がぽつりと言うのが聞こえた。僕はそんなつもりは全くないのだが、家族にもよく言われるし、クラスメイトからも何回か言われたことがあるので、今さら気にならなかった。それに、抑揚がないからどうだというのだろうか。抑揚がないから感情がないということにはならないはずだ。表現できないものは存在しないとは暴論だ。
「これをさ、葵に届けてほしいんだ。家、近いでしょ」
佐野さんはそう言って、手に持っていたノートを差し出してきた。近くで見ると、表題は『日記』となっていた。そして、ページ数以上の厚みがあった。何度も教科書を開いていると、ページがしわくちゃになって、全体的に最初よりも厚くなるのと同じように。すなわち、随分と使い古されている。一条さんは、よく日記を見返す人なのだろうか。知らなかった。これは、記録するに値する。
「一条さんのをどうして佐野さんが?」
左手でノートを受け取りながら僕は尋ねた。受け渡しのときに雨でノートが濡れないように僕らは細心の注意を払った。
「更衣室に落ちてたのを私が見つけて拾ったの。もちろん中身は見てないよ。乙女の秘密は、世界平和の次に守られるべきものだからね」
「そんなこと疑ってないよ。でも、一条さんは乙女って感じじゃなくない?」
「あのさあ……。それ、本当に葵に言わないほうがいいよ。いいところでも、下半身不随で一ノ瀬くんは一生車いす生活だね」
豪雨のなかでもはっきりと聞こえる声で彼女は僕にそう宣告した。内容の悲惨さに反して、佐野さんは楽しそうにしていた。もし本当にそうなったら、責任を取って一条さんにこの先介護してもらうのも悪くない気がしてきた。
「わかった。返しとくよ」
そう言ったものの、先ほどから頭の中でずっと何かが引っかかっていた。彼女の家と僕の家が近いことを、なぜ佐野さんが知っているのだろうか。僕の家の住所を教えた覚えなどない。そして、それよりも気になるのが、なぜ僕が彼女の家を知っていると思ったのかである。第三者から見て、僕と一条さんがお互いの家を知っている仲だとは到底思えないはずだ。まさか、僕の秘密を知っているのだろうか。ふと、背筋にぞくっとしたものが走ったがそれはきっと雨粒ではないだろう。嫌な予感がした。しかし、今はこれ以上考えても仕方がなかった。暴力的に降り注ぐシャワーが僕の思考とモヤモヤを洗い流していった。佐野さんから教えてもらった彼女の住所を頼りに、横殴りの雨の中を歩いた。
一条さんの『日記』が、机の上にある。なぜか、一条さんの部屋のではなく、僕の部屋の。弁明すると、僕は一度一条さんの家まで行った。そして、郵便受けを必死に探した。が、なかった。そうなれば、インターホンを鳴らして、直接手渡すしかない。しかし、誰も出なかったのだ。
だから、一条さんの『日記』が、机の上にある。『日記』と書かれているからには、おそらくそれは本当に日記なのだろう。その事実は僕の胸を震わせた。心臓の拍動も明らかに速くなっていた。僕には、今、二つの選択肢がある。一つは、そのまま何もせずに明日を迎えて、朝一番に持ち主の元にこの日記を返すこと。もう一つは、己の道徳性を全て否定して、この日記を開くこと。脳内では、葛藤の余地もなく前者を選ぶべきだと告げていた。しかし、僕の心臓と指はそれとは真逆の決定を支持していた。
人の日記ほど覗きたいものはない。正直、知らない女の人の裸よりも。好きな人の裸とその人の日記だったら、同じくらいかもしれない。気持ち悪い比較ではあるが、とにかく、それくらい人の日記を読むのが好きだ。日記には、その人の本質が現れると僕は思っている。普段の会話では言葉などいくらでも取り繕うことができる。しかし、日記ではそれができない。いや、できないというよりする必要がないからしないのだ。つまり、そこにはその人の本当の姿が鏡のように現れる。僕は、その真実に気づいてから、何度となくネットの海を泳いで、ブログなどで公開されている日記を読み漁った。芸能人の日記も面白かったが、一般人の日記のほうがより飾り気がないことが多くて、ありのままを感じられたので好きだった。アルバイトをクビになった大学生、週末に一人でカフェに行くのが趣味の独身アラサー男性、オレオレ詐欺に遭ってしまった七十代女性。彼ら彼女らの名前は知らないけれど、そこにはたしかな温度を持って人が生きていた。
そして、一条さんの『日記』が、机の上にある。僕が今、誰よりも知りたいと思う人の姿がそこに映っているはずだ。僕は、一条さんのことが好きなのだろうか。それは、わからない。中学生のときやそれ以前に、たぶん片思いをしていた人は何人かいた。でも、今思えば、『あの子かわいいな』という程度だった。それを恋と呼ぶのなら、僕は出会った女の子ほぼ全員に恋をしていることになる。それは流石におかしいだろう。
しかし、一条葵は明らかに違った。当然かわいいが、それだけではない。僕は、彼女のことを、誰よりも知っていたいと思うのだ。そんなことを、他の誰に対しても思ったことはなかった。僕は、彼女の前では空気ではないような気がして、嬉しかった。初めて自分に興味を持って、きちんと関わろうとしてきた人だったかもしれない。とにかく一条葵という人を知りたくて、彼女の情報を集めるためだけのノートを作り始めた。それが恋なのかどうか、僕にはまだわからない。誰にも知られてはいけない、僕の秘密だ。
僕はこの日記を今にも開いてしまう。普段の情報収集が行為として気持ち悪いとしても合法ならば、これは行為として最低かつ違法だ。もう何も言い訳はできない。しかし、僕の指はページをめくった。
25.04.05 晴れ
母と洛北スクエアに行く。新しい服を買う。かわいい。でも、この服を見せたい相手がもういないと考えると虚しい。あの日のことだけが全く記憶にない。どうして。でも、事実だけは変わってくれない。それがどんなに受け入れられないことでも。気持ちの整理は当然ついてない。そりゃ当然でしょ。あの日に何が起こったか覚えてなくて、もうどうしようもない結果だけが手元に急に突きつけられたのだから。あまりに大きなトラウマを植え付けられるとそれを思い出さないたようにするめに脳が勝手に記憶を消すって話があるけど、それかな。
25.04.08 雨
明日から学校なのに課題がまだ二つ残っていた。数学のほうは自力で解いたけど、英語は答え写すしかなかった。写経は写経で虚無感がすごい。もう3時なので流石に寝る。桜がもう満開。
25.04.09 曇り
また不思議なことが起こった。朝起きたら終わってないと思っていた課題が二つ終わっていた。そして、机の上で寝ていた。そんな記憶全くないのに。昨日はちゃんとベッドで寝たはず。なんでだ。それで、昨日の日記を見返したら、ちゃんと課題終わらせている私がいた。でも、全く記憶にない。怖すぎる。昨日は存在しない一日だったのか? 夢の中で課題を終わらせたのか。何にせよ、何も覚えていない。あの日が思い出せないのも、偶然じゃないのかも。
♢♢♢
25.05.16 晴れ
この一カ月で疑念が確信に変わった。私は、雨が降った日の記憶を、その次の日に起きたときに全て忘れている。その日に起きたことの記憶を何一つ持ち越せない。なんでこうなったのか、証拠はないけど、心当たりはある。というか、ほぼ間違いない。そんなことが本当に人間に起こりうるのか。でも、現に私はそうなっているわけだし。そういう病気なのか。こんな病気見たことも聞いたこともない。医者に行っても、絶対取り合ってくれない。あと、親にも言わない。言ったところで、どうせ面倒になるだけ。雨の日の記憶が失くなるだけで、あとは全部普通なんだから。誰の迷惑にもなりたくない。特に学校の友達には本当に勘繰られたくない。まあ、勘繰ったところで、こんなあり得ないこと信じられるわけがない。だから、私がただの頭のおかしい奴になっちゃう。大丈夫。私なら、自分でどうにかできる。今までだって、心の中ではずっと一人だった。だから、誰かに頼ろうと言ったとて今さらだ。
病気だったら、名前がいる。色々考えたけど、どれもしっくりこなかった。だから、シンプルに『雨病』とよぶことにした。センスの無さが露呈してるけど、私しか知らない病気なんだから、どうだっていい。絶対治してみせる。これからは、晴れの日にちゃんと記憶とか考えとかを整理しなきゃ。雨の日の私は、死んでいるのと同じだから。
♢♢♢
25.06.02 小雨
雨病と名付けてから2週間くらい経っているらしい。体感ではそれより全然短い。もうすぐ梅雨がやってくる。最悪。梅雨の京都はずっと雨が降るから、最悪連続で5日間くらい記憶が無くなる。この2週間はメモの量を増やして、重要なエピソードと情報だけはギリギリ引き継げている。でも、それももうギリギリ。この方法だともうすぐ限界がくる。記憶は、その場の光景とか感情とかがあるからこそ、心に記憶として強く残るのであって、そうじゃないものは、単に文字としてインプットされるだけだから定着は明らかに悪い。歴史の教科書のほうが文脈とか時代背景とかそういう一貫したストーリーがあるから、同じ文字情報でも圧倒的に覚えやすい。授業はまだしも友達との会話を全て覚えるのは無謀。文脈も何もない会話が今までなぜ成り立っていたのか、逆に不思議。
一つだけいい収穫がある。忘れる度合いは、その日の雨量に相関関係がありそう。霧程度の小雨なら、かなり記憶を維持できている。ただし、どういう記憶が持ち越されるかの関係まではわかっていない。
とにかく、梅雨に備えなきゃ。
25.06.03 晴れ
日記によると、久しぶりの晴れらしい。自分は雨の日をほとんど覚えていないから、体感ではずっと曇りか晴れの二択で、特に新鮮味はないが、あったできごとをそのまま覚えていられるというのは今となっては嬉しい。
最近、一ノ瀬が授業中にやたらとノートに書いている。全部書いておかないと忘れちゃう私じゃあるまいし。何をそんなに必死に書いているんだろう。悪い奴じゃないけど、普通の人ではないし、前から色々とおかしいところがあるから、隣でそういうことされると普通に怖い。単純に気持ち悪い。部活のときも口数が少なくて何考えているかよくわかんないし。
一ノ瀬なら友達少なそうだし、そもそもあんまり喋らないし、強めに当たってもなぜか怒んないから、バレても一番無害な相手かもしれない。でも、それはそれとして、この秘密を知った人はまずは一回死んでもらうしかない。それで、私と同じように記憶をリセットさせたい。同じ苦しみを味わわせたい。
根本的な解決策は、未だ見つからず。
そっと、ノートを閉じた。閉じてすぐに読まなければよかったと後悔した。ネットで今まで見てきたブログ記事の日記から得られる満足感のようなものは一つもなかった。ただ、ずしりとした重さだけが残った。そして、読んでしまってから気がついた。これは、公開を前提として書かれているものではない。ありのままを見せているようで本当に見せたくないものは隠せる記事と違って、ここには他人に本当に見せたくないものがあって、それは本当に見てはいけないものだった。でも、もう謝罪のしようもなかった。
ただし、一つ解けた謎がある。やはり、雨は彼女にとっての呪いとなっていた。まさかこんな現象があるなんて信じられない。が、これで彼女の不可解な様子に合点がいった。『雨病』と独りで闘う苦しさを想像することしか僕にはできなかった。
寝る前にスマホを確認すると、LINEに一つのメッセージが入っていた。僕に連絡してくる人は、家族以外にほとんどいないから、開く前からその送り主のおおよその見当はついた。そして、このタイミングからして、その内容も。トークルームを開くと、ただ一言だけあった。
『日記見た?』
再度罪悪感が僕を襲ったが、これくらいでは何の罪滅ぼしにも罰にもなっていないのだけはわかった。迷った挙句、
「見た。本当にごめん。一回死んだほうがいい?」
と返した。既読がついてから20分ほど経った。そして、
『うん。そんな人でなしは死んだほうがいい』
『それで、記憶をリセットした状態で、明日の朝七時に部室に来て。今日を忘れた私たちだけで、話したいことがある』
ベッドに潜り、頭まで布団を被った。このままずっと息を止めたら、いい具合に窒息死できないだろうか。そうしたら、この罪も苦しさも全部無かったことになる。でも、そんなのは卑怯だ。勝手に秘密に触れて、傷つけて、傷つけたことすら勝手に忘れていくなんてことは許されるはずがなかった。窓を乱暴に叩く雨音のリズムは一定で、淡々と僕を苛めているようだった。




