24時間営業銭湯
24時間営業銭湯
山田一郎、31歳。
清掃業界で働いて10年になるが、銭湯の清掃を担当するようになったのは半年前からだった。
「松の湯」は昭和40年創業の老舗銭湯で、午前6時から午後11時まで営業している。
山田の仕事は営業終了後から翌朝5時までの夜間清掃だった。
男湯、女湯、サウナ、水風呂の清掃。
床や壁の洗浄、設備の点検、翌日の準備。
一人での作業だが、今まで様々な施設の夜間清掃を経験してきた山田はある程度慣れていた。
最初の一か月は順調だった。
午後11時、最後の客が帰った後、山田は作業を開始する。
まず男湯から始めて、浴槽の湯を抜き、床と壁を洗浄する。
次に女湯、サウナ室と順番に進めていく。
常連客は高齢者が多く、昔ながらの銭湯を愛する人たちだった。
番台の主人である田中さんも70代の温厚な人で、清掃員である山田とも気さくに話してくれた。
「山田さん、いつもご苦労様です」
「こちらこそ。ここは良い銭湯ですね」
「昔からこの地域の人たちに愛されてきましたからね」
山田にとって、松の湯は働きやすい現場だった。
しかし、最初に異変を感じたのは、二か月目に入った頃だった。
午前1時頃、男湯の清掃をしていると、浴槽から水音が聞こえた。
山田は作業を止めて耳を澄ました。
確かに水の音がする。誰かが湯船に入っているような音だった。
「おかしいな」
山田は浴場に入った。
営業は11時に終了しており、店番を含む全ての客や山田以外の従業員が帰ったことを確認している。
浴槽を見ると、湯は既に抜いてある。
そこには空の浴槽があるだけだった。
「循環システムの音が聞こえただけか」
山田はそう判断した。
古い設備なので、時々異音がすることもある。
しかし、翌夜も同じ音が聞こえた。
今度は女湯からだった。
山田はまた確認に向かった。
女湯の浴槽も空にしてあった。
しかし、確かに水音が聞こえていた。
「変だな」
山田は設備を点検したが、特に異常は見つからなかった。
三日後、更に奇妙なことが起こった。
男湯の清掃に入ると、浴槽に湯が張ってあった。
山田は困惑した。
営業終了後、必ず湯を抜くことになっている。
自分も確実に抜いた記憶がある。
「給湯システムが故障したのか?」
山田は湯を抜き直した。
しかし、湯面を見ていると、誰かが入浴した後のようなものがあった。
湯船の縁には、石鹸の泡が残っている。
「まさか、客が隠れていたのか?」
山田は浴場内を隈なく調べたが、誰もいない。
翌日、山田は田中さんに報告した。
「昨夜、清掃後に浴槽に湯が張ってありました」
田中さんは困った表情を浮かべた。
「そういえば、前の清掃の方からも似たような話を聞いたことがあります」
「前の清掃員さんですか?」
「ええ。佐藤さんという方でしたが、『夜中に湯船から音がする』と言っていました」
山田は似た状況に興味を持った。
「その佐藤さんはどうして辞めたんですか?」
「体調を崩されて。最後の方は『湯の中に誰かいる』とよく言っていましたが、勘違いでしょうね」
「その前の清掃員さんはどうでしたか?」
「田村さんという方でしたが、やはり短期間で辞められました。
『湯船で溺れそうになった』と言っていました」
田中さんは続けた。
「実は、あまり良い話ではないのですが、ここ一年で三人の清掃員さんが短期間で辞められているんです。
みなさん、夜中の異常を報告していました」
山田は驚いた。三人もの前任者が同じような体験をしていたのか。
「何か心当たりはありませんか?」
田中さんは少し考えてから答えた。
「この銭湯は古いですからね。昔からいろいろなウワサはありましたが…。」
「どんなウワサですか?」
「夜中に電気が点いているとか、営業時間外に人影が見えるとか。でも、詳しいことは分かりません」
山田は不安になり始めた。
翌日、山田は近所で聞き込みをしてみることにした。
銭湯の常連客である高齢の女性に話を聞いた。
「松の湯のことですか?」
女性は少し困った表情を浮かべた。
「あそこは昔から、夜中に電気が点いているんですよ」
「営業時間外にですか?」
「ええ。深夜の2時、3時頃に前を通ると、中から明かりが漏れていることがあってね」
山田は驚いた。自分が清掃している時間帯だ。
「清掃の人が作業しているからでは?」
「それもそうですね。でも、湯気も上がっているんです。
まるで誰かが入浴しているような…。」
女性は続けた。
「昔から『松の湯には夜の客がいる』って言われていました」
「夜の客?」
「営業時間外に来る客です。でも、その客は...」
女性は言いよどんだ。
「普通の客ではないって言われています」
山田は詳しく聞こうとしたが、女性はそれ以上話したがらなかった。
別の常連客である老人にも話を聞いた。
「ああ、知ってますよ。昔からの話ですね」
老人は淡々と答えた。
「この銭湯で事故があったんです。いつだったかな、もう20年以上前のことになるんですかね」
「事故?」
「お客さんが浴槽で亡くなったんです。死因は心臓発作だったと聞いています」
老人は続けた。
「それ以来、夜中に一人で入浴する人がいると言われています。でも、誰も姿を見たことはありません」
山田は震えた。亡くなった客が今でも入浴を続けているということか。
「その後も似たような事故は?」
「清掃の人が浴槽で溺れそうになったことがあったと聞きましたね。幸い命に別状はなかったみたいですが」
その夜、山田は緊張しながら清掃を開始した。
午後11時30分、男湯の清掃に入る。
今夜は特に注意深く観察することにした。
浴槽の湯を抜き、床の清掃を始める。
午前1時頃、予想通り水音が聞こえ始めた。
山田は作業を止めて、音の方向を確認した。
男湯の主浴槽から聞こえている。
山田は恐る恐る浴槽に近づいた。
湯は完全に抜いてある。空の浴槽があるだけ。
しかし、確かに水音がしている。
まるで誰かが湯船でゆっくりと体を洗っているような音。
山田は浴槽の縁に手をかけて、中を覗き込んでみた。
特に何もない。
しかし、浴槽の底にぬめりがあるような気がした。
山田は手を伸ばして底に触れてみた。
確かにすこしぬめぬめとしている。
しかも、まだ温かい。
「これは一体...」
山田は混乱した。
その時、女湯からもまた水音が聞こえ始めた。
山田は急いで女湯に向かった。
女湯の浴槽も空にしてある。
しかし、同じように水音が聞こえている。
山田は女湯の浴槽も確認した。
やはり底にぬめりがあって、温かい。
さらに、石鹸の香りがした。
まるで誰かが今まで入浴していたかのような匂い。
山田は本能で理解した。
この銭湯には見えない入浴客がいる。
営業時間外に、誰にも見えない客が銭湯を利用している。
一週間後、山田は決定的な体験をした。
いつものように清掃を開始した午前1時過ぎ、男湯で異変が起こった。
空にしたはずの浴槽に、湯が張ってあった。
そして、まるで誰かが今、湯船に浸かっているような波紋が湯面に映っていた。
山田は震えながら浴槽に近づいた。
湯船の中央で、湯が人の形にへこんでいる。
明らかに誰かが座っている。
しかし、何度目をこすっても何も見えない。
山田は恐る恐る湯面に手を伸ばした。
その瞬間、湯の中から手のような形のものが出てきた。
透明な手が、山田の手首を掴んだ。
山田は驚いて引こうとしたが、力が強い。
そのまま湯の中に引き込まれそうになった。
「やめてくれ!」
山田は叫んで、必死に抵抗した。
その時、手の力が緩んだ。
その隙に山田は慌てて浴槽から離れた。
湯面を見ると、また静かになっている。
目には見えないが、確実に“何か”がいる。
山田は恐怖で体が震えた。
それから数日間、山田はいつも通りに清掃を続けたが、毎晩同じような現象が起こった。
見えない入浴客たちが、営業時間外に銭湯を利用している。
時々、山田に気づいて手を伸ばしてくることもあった。
山田は段々と疲弊していった。
睡眠不足と恐怖で、日中もまともに生活できない。
食欲もなくなり、体重が減った。
そして、ある夜。
山田は男湯の清掃中に、足を滑らせて浴槽に落ちた
湯は張ってなかったはずだが、落ちた瞬間に温かい湯を感じた。
そして、湯の中で複数の手に掴まれた。
見えない人たちが、山田を湯の中に引きずり込もうとしている。
山田は必死に抵抗した。
「助けて!」
山田は浴槽の縁を掴んで、何とか這い上がった。
しかし、その体験は山田に深刻なショックを与えた。
翌日、山田は田中さんに辞職を申し出た。
「体調が悪くて、続けられません」
田中さんは残念そうだったが、引き留めることはしなかった。
山田は最後の報告書に書いた。
『湯の中に大勢いる。もう行けない』
一か月後、新しい清掃員が雇われた。
鈴木健二、29歳。
「前の清掃員さんはどうして辞めたんですか?」
鈴木は田中さんに尋ねた。
「体調を崩されて。夜勤は体に堪えますからね」
田中さんは山田の詳しい事情は話さなかった。
鈴木の初日の夜。
午前1時過ぎ、男湯の清掃中に水音が聞こえた。
「配管の音かな?」
鈴木は気にしなかった。
しかし、浴槽を確認すると、湯が張ってあった。
「あれ?湯抜きを忘れたかな」
鈴木は浴槽に近づいた。
湯面に波紋があった。
鈴木は首をかしげて、湯面を覗き込んだ。
その時、湯の中に人影が見えた。
一人ではない。
複数の人が湯に浸かっている。
その中の一人は、山田によく似た男性だった。
目を閉じて、静かに湯に浸かっている。
山田らしき人物が目を開いた。
鈴木と目が合った。
山田は微笑んで、手を差し伸べた。
『こっちに』
声は聞こえないが、そう言っているようだった。
『一緒に温まろう』
鈴木は震えた。
しかし、不思議と恐怖よりも安らぎを感じた。
温かい湯の中は、とても心地良さそうだった。
鈴木は無意識に湯面へ手を伸ばそうとした。
その時、電話が鳴った。
鈴木は電話の音で我に返って、急いで電話に出た。
「はい、松の湯です」
ただの間違い電話だった。
受話器を置いて振り返ると、浴槽にはなにもなく、お湯も空になっていた。
しかし、鈴木は確実に見た。
湯の中にいた人たちを。
山田らしき人物を。
鈴木は理解した。
前任者たちは辞めたのではない。
ここにいるのだ。
翌朝、田中さんは鈴木に尋ねた。
「昨夜はどうでしたか?何か変わったことは?」
鈴木は少し迷ったが、答えた。
「特に何も問題ありませんでした」
田中さんは安心したようだった。
「それは良かった。何かあったらすぐに連絡してくださいね」
鈴木は頷いたが、心の中では複雑だった。
今夜も彼らに会うことになるだろう。
湯の中で静かに過ごしている人たちに。
そして、いつか自分も彼らの仲間になるのかもしれない。
温かい湯の中で、永遠に過ごすことになるのかもしれない。
松の湯の看板は今日も静かに立っている。
『午前6時開店 午後10時閉店』
しかし、本当の営業時間は24時間なのかもしれない。
見えない客たちのために。
【完】




