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9/11

里桜 act.3

 三月に入ってやや春めいてきた頃、一つの芸能ニュースが社会を揺るがした。

 久永里桜が活動休止を電撃発表したのだ。

 ネットで速報が流れ、その日の夕方、ベイサイドホテルの大広間で記者会見が行われた。

 フラッシュの嵐が浴びせられる中、登壇した里桜の姿にマスコミ陣からどよめきの声が上がった。

 長かった髪を耳の下あたりでバッサリ切ってしまっていたのだ。

 集まった記者たちに深く頭を下げ、用意された席に着いた里桜はゆっくりと会場を見回した。

「本日はお集まりいただきありがとうございます。まず、今回のことについて、わたくしから、ファンの皆様へご挨拶をさせていただきたいと思います」

 マネージャーが司会役として控えているが、母の霧ヶ崎雪乃は同席していない。

「わたくしは本日をもちまして日本での芸能活動すべてから引退することを決断いたしました。これまで女優としてさまざまな作品に関わって参りましたが、応援してくださったファンの皆様、いっしょに作品作りに携わってくださったスタッフの方々へお礼を申し上げます。ありがとうございました。今後についてですが、事務所を退所し、イギリスへ拠点を移し、今までの自分を捨てて一から演技の勉強をやり直したいと考えております」

 記者からの質問が飛び交う。

「突然の発表に困惑しているファンも多いと思いますが、活動を継続する上で何か不都合なことでもあったのでしょうか」

「いいえ。わたくしの個人的な考えです。キャリアを見つめ直してみたいと思ったからです」

「CMなどの契約はどうなるでしょうか」

「関係各所への説明はこれからですが、誠心誠意お話しをさせていただいて、契約不履行等の問題については誠実に対応したいと考えております」

「真偽は不明ですが、ネット上の投稿によれば、違約金は十億円近くになると言われていますが」

「それについては今の段階では何も申し上げられませんが、仮にそういった補償が必要であれば、時間はかかるかも知れませんが、私自身が責任を持って全額返済します」

「ご両親に負担してもらうということでしょうか」

「この件に関しては、両親は関係ありません」

「髪を切ったのは決意表明ですか?」

「いえ、ただ短くしたかっただけです」

「人生を変える決断だったと?」

「髪を切ったことがですか?」

 記者がうなずく。

「そんなのは決断でも何でもありません。髪を切ったくらいで人生が変わるわけではありませんから」

 挑発的に受け取られたのか、フラッシュが焚かれテレビ中継の画面が真っ白になる。

「これまでのキャリアを捨てることに迷いはありませんか」

「ありません」

「英語の習得はどのようになさるおつもりですか」

「これまでも勉強はしてきましたし、現地で慣れていくしかないと思います」

「日本に帰ってくる予定は」

「ありません」

「勝算はあるんですか」

「確定的というものはありませんが、可能性なら無限にあると思います」

 記者の間から失笑が漏れる。

「お母様はこの件に関してどのようにおっしゃっているか、話せる範囲で構わないので、教えていただけますか」

「事務所の社長である母は、賛成はしておりませんが、わたくし個人の意思として退所することについて母の意思は関係ありませんので、それ以上はノーコメントとさせていただきます」

「お母様は同行なさるんでしょうか」

「いいえ。まったく関係ありませんので」

「何か現地にコネのようなものはあるんですか」

「ありません。日本では有名な母の娘として活動してきたことは事実ですが、世界に出たらただの一人の人間です」

「もう一度おたずねします。人気絶頂の今、活動を休止するその理由は何なんでしょうか。芸能活動を続けられないような何かスキャンダルがあるのではないか。そう思われても仕方のない状況だと思いますが、ファンの皆さんへの説明責任をどうお考えでしょうか」

「何もありません。ただ単に、わたくしが個人的にやりたいことをやろうとしているだけです。ないものを説明しろと言われてもできません。ファンの皆様へは、これまでの応援に対し、お礼を申し上げたとおりです。あらためて、ありがとうございました」

 困惑する記者たちの中で、一人の外国人記者が挙手した。

「イギリスの通信社です。あなたの目標は?」

 記者の日本語はアクセントに癖もなく流ちょうだ。

 里桜はリラックスした表情で答えた。

「大学でシェイクスピアの研究をしたいと思っています。オフィーリアを演じられる女優になりたいです」

「なるほど」と、うなずきながら英語に変わる。「To be, or not to be, that is the question.」

 笑みを浮かべながら里桜が即座に応じた。

「As one incapable of her own distress.(自身の災厄もわからぬままに)」

「なるほど」と、記者が微笑む。「ウエストエンドであなたの舞台を見てみたいです」

「ありがとうございます。ぜひ近いうちに」


   ◇


 ツインタワー内の巨大モニターに映し出された里桜の記者会見を、史香は後輩の菜月と一緒に眺めていた。

 退社の時間帯で行き交う人も多い中、ベイサイドヒルズ在住でシンボル的存在だった若手女優の引退発表とあって、足を止めて見上げる人々も多かった。

 画面を見つめながら菜月がつぶやく。

「私、久永さんって、アイドルみたいにかわいいだけじゃなくて、意外とすごい女優さんなんじゃないかなって思ってたんですよ。きれいな女優さんって、何をやっても、その人のイメージが前に出ちゃうじゃないですか。でも、久永さんは、その登場人物が実際に目の前にいるみたいに思えるんですよ」

 自分と同じ意見だと史香はうなずいていた。

「久永さんの映画を見てると、久永さんが涙を流すと、同じタイミングで私も泣いちゃってるんですよ。悲しい場面だから泣いたんじゃなくて、場面を変える力があるっていうか、久永さんが泣いたから悲しくなったみたいな。共感というか、感情がすっと入ってくるんですよね」

 うんうん、分かる。

「それがどんな役柄でも、その人になりきってて違和感がないのがすごいですよね。本当にその人がいるとしか思えなくて」

 初めて菜月と意見が合った気がする。

 SNSには感想があふれていた。

《うまくいかないで半年後に帰国だろう》

《わざわざ偉そうに喧嘩を売って出て行くやつなんか、もう応援しない》

 否定的な意見もあったが、日本のマスコミが休止に対する憶測にこだわり謝罪を引き出そうとするばかりで、里桜がこれから何をしたいのか聞き出そうとしなかった点を疑問視する声も多かった。

《ガラパゴス化した日本のマスコミと世界標準を目指す女優。最初からステージが違いすぎる》

《今まで持ち上げていた人気者が一度自分たちの手を離れると急に手のひらを返すのがマスコミ》

《まともな質問がイギリスの通信社だけというのが情けない》

 菜月がスマホに流れるニュースを史香に見せる。

「私は応援するけどな。自分自身を貫くって、かっこいいですよね」

 と、史香のスマホに着信があった。

 カメラマンの榎戸直弥からだ。

「なんの用ですか」

『久永里桜のことで話がある』

 ツインタワーのカフェで待っていると言われ、史香は菜月と別れてエレベーターに戻った。


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