第4章 青い鳥の羽ばたき
その日、里桜からのメッセージで史香の妊娠を知った蒼馬は佐久山を呼んだ。
「すぐに車を」
「どちらまで」
「どんなことをしてでも彼女に会いたいんだ」
「かしこまりました。ヒルズコマースでよろしいですね」
「ああ、頼む」
はやる気持ちを静めることなど無理だ。
なりふり構ってなどいられない。
配慮とか遠慮とか社会的常識とか、そんなものを気にしていたのがまずかったんだ。
――なぜだ、史香。
なんで相談してくれなかった。
落ち着け。
俺は責めようとしているんじゃない。
ただ、会って話がしたいだけなんだ。
リムジンがツインタワーに到着する。
中層階用のエレベーターからオフィスに駆け込むと、蒼馬は当惑顔の受付スタッフに史香への面会を申し入れた。
「どういったご用件でしょうか」
「道源寺蒼馬が来ていると伝えてください」
と、そこへ課長がやってきた。
「道源寺様でございますね。わたくし黄瀬川の上司の菅原と申します。大変お世話になっております」と、頭を下げると、そのまま受付スタッフに顔を向ける。「すぐに黄瀬川さんを呼んできて」
「分かりました」と、スタッフが奥へ駆けていく。
「このたびはわざわざ弊社までお越しいただきありがとうございます」
課長の挨拶など耳に入ってこない。
適当に受け流していると、うつむき加減に史香が現れた。
まだ体つきはそれほど変わっていないが、明らかに顔色は良くない。
心臓が破裂しそうなほどに鼓動を高める。
全身から汗が噴き出しそうなほど体が熱い。
――落ち着け。
やっと会えたんじゃないか。
あくまでも紳士でいろ。
蒼馬は課長にたずねた。
「業務中申し訳ありませんが、二人だけで話をしたいので、外へ出てもいいでしょうか」
「ああ、それでしたら、弊社の小会議室が空いておりますので、そちらをお使いください」
「ありがとうございます」
後を託して課長たちがオフィスに戻っていく。
史香は同僚の目を気にしてか、とくに抵抗することなく自ら小会議室へ蒼馬を案内した。
二人だけの部屋で、折りたたみテーブルを挟んでパイプ椅子に座る。
「体は大丈夫?」
肩をピクリとさせつつ、史香は返事をしない。
「どうして連絡をくれなかったんだよ。ずっと待っていたんだよ」
あくまでも落ち着いて冷静に語りかけたつもりだった。
だが、やはり史香は答えない。
「子供ができたんだろ?」
単刀直入にたずねると、ハッとした目で顔を上げた。
だが、すぐに狼狽の色は消えて、また感情を隠してしまう。
「どうして知ってるんですか?」と、冷たい声が返ってくる。
「里桜から聞いたんだ」
「私、教えてないのに」
「ん、そうなのか。まあ、いいさ。どうして黙ってたんだよ」
「あなたには関係のないことだから」
「そんなはずないだろ。俺の子だろ」
「違います」
「他にいるはずないじゃないか。だって、君は……」
強い口調で史香がさえぎった。
「あれから、他の人にも抱かれました」
「まさか」
蒼馬はまったく疑うことなく、苦し紛れの嘘だと見抜いていた。
「あなたは一目惚れなんて言ってましたけど、私のことなんか何も分かってなかったってことです。あなたが思っているような女ではなかった。それだけです」
棒読みのセリフみたいな声が震えている。
「じゃあ、その男と結婚するのか?」
「いえ、一人で育てます」
「そんなのおかしいじゃないか」
蒼馬はテーブルを回って史香の横にひざまずくと、その手を握った。
「嘘までつかせてすまなかった」と、頭を下げる。「そんなに苦しませた俺を責めてくれ。君の悩みを引き受けられなかった俺が悪いんだ。自分だけで抱え込むことはないんだよ」
ため息交じりに蒼馬は続けた。
「期間限定とか、お試しとか曖昧なことを言ったのがいけなかったんだよな。君の心理的ハードルを下げるための方便だったんだが、誤解を与えてしまったんだろ。心配かけて悪かった」
蒼馬は史香の手をそっと握り直した。
「さんざん迷ったり悩んだりしたんだろ。もっと早くこうしていれば良かったんだよな。すまなかった」
「あやまらないでください」と、史香がつぶやく。「私一人の問題ですから」
蒼馬はいったんこらえて心を落ち着かせた。
「一人で抱え込まなくていい。史香だけの子じゃない。俺の子だろ。だったら、ちゃんと俺にも責任を取らせろよ。何度でも言うよ。俺が大事なのは史香なんだよ。遊びでも演技でもなく、お試しでもなく、これは運命なんだって」
蒼馬は立ち上がると、座っている史香の肩を抱き寄せた。
胸で頭を包み込み、髪に頬を寄せてささやく。
「お願いだから、俺の話を聞いてくれよ。俺の愛が罪だというのなら、俺は地獄の底から這い上がってでも君を探しに来るよ」
そして、蒼馬は史香の髪を優しく掻き撫でた。
――初めて愛し合ったあの夜のように。
「愛してるよ。今までもこれからもずっと」
史香の肩を抱く蒼馬の手に滴が一粒垂れた。
ひとしずく、もうひとしずく。
「愛してすまなかった」
史香はうつむいたまま首を振った。
蒼馬の手に自分の手を重ね、声を抑えて泣いている。
「幸せになろう、三人で」と、蒼馬がプロポーズの言葉をささやく。
おなかに手を当てながら、史香は静かにうなずいていた。
◇
少し気持ちが落ち着いたところで二人で小会議室を出ると、首がちぎれ飛びそうな勢いで課長が顔を向け、こちらへ駆けてきた。
「お茶も出さず、申し訳ございませんでした」と、蒼馬に頭を下げる。
実際のところは課長が気を利かせて、邪魔しないでくれたってことなんだろう。
「いえ、こちらこそ、業務中に押しかけてしまって失礼いたしました」と、蒼馬も丁寧に頭を下げる。
「いえいえ、とんでもない。いつでもお越しください」
男同士の顔の立て合いを放置してオフィスに戻ると、さっそく菜月がモニター越しに顔を出してきた。
「史香さん、あの人、道源寺家の人なんですか」
「うん、まあ、そうね」
「玉の輿じゃないですか。チョーうらやましいんですけど」
山に沈む夕日のように菜月が引っ込み、モニターの向こうで呪文のように愚痴がこぼれる。
「あーあ、私もどこかにいい人いないかな。そうだ先輩、結婚式呼んでくださいね」
と、言われても、まだ相談もしていない。
「きっと、向こうの関係者もいっぱい来ますよね」と、声が勝手にはしゃいでいる。「私も絶対どこかの御曹司つかまえちゃいますから」
――あれ?
「今、つきあってる人、いるんだよね」
「それはそれ、これはこれですよ、先輩。とりあえずキープしてるだけですから。電車だって快速が来たら乗り換えるのが当たり前じゃないですか」
ハア……。
自分のことでも精一杯なのに、後輩の恋愛なんか面倒みてられないや。
「あ、あの、それでですね、先輩」
まだ何か?
「ちょっと、ここの書式なんですけど」
「え、ああ、はい。どうしたの?」
なんだ、仕事のことか。
ああ、そうだ。
産休に入るまでに仕事を任せられるようにしないとね。
……ていうか。
私、仕事続けてもいいのかな。
結婚したらどんな生活になるのか、想像もつかない。
蒼馬と相談しなくちゃならないことはたくさんあるけど、まだこれからだし、向こうのご両親にもご挨拶に行かなければならない。
そもそも認めてもらえるのかすら分からないんだし。
結婚となると、蒼馬の気持ちだけでは決められないことなのではないだろうか。
いくら個人の意思が尊重されると言っても、家同士の関わりがないわけではない。
なにしろ、むこうは道源寺グループの経営者だ。
生活レベルが違いすぎる。
そうなると、うちの両親だって、あんまり気が進まないんじゃないのかな。
「先輩どうしたんですか」
――え?
モニターの横から菜月が顔をのぞかせている。
「ため息なんかついてましたよ」
「え、あ、そう?」
この前は鼻歌、今日はため息。
無意識に感情を垂れ流すなんて、自分らしくない。
「先輩、マリッジブルーになるのは早すぎますよ」
空気を読めない菜月のジョークのおかげで、すうっと気持ちが静まっていく。
「くだらないこと言ってないで、仕事、仕事」
「はぁい、先輩」
調子のいい菜月の返事は危険信号だ。
あーあ。
あっちも、こっちも、悩み事だらけじゃないのよ。
妊婦を、イライラさせないでよ、もう。