第3章 予期せぬ波乱と暗雲
真横から差し込む朝の日差しで目を覚ました蒼馬は、まだ夢を見ているような気分だった。
眠っているうちに見ていた夢なのか、現実が夢なのか、それともまだ夢の中なのか。
混乱しながら頭をかき、両腕を広げてあくびをしたところで、ようやく昨夜の出来事を思い出す。
――お、おい。
史香?
ベッドから跳ね起き、スイートをくまなく探す。
バスルームに使った形跡があるが姿はない。
――どうして?
どこへ行ったんだ?
一緒に朝食を味わおうと楽しみにしていたのに。
結局、俺を信頼してくれなかったのか。
落胆を振り払うように冷たい水で顔を洗い、蒼馬はスイートを出た。
地下駐車場に降りると佐久山が待ち構えていた。
「おはようございます」
「おはよう。家まで頼む」
「かしこまりました」
オーベルジュの脇を通り、櫻坂を上がる。
昨日、あの場所にいたことや、この隣に史香が座っていたことが遠い過去のように思える。
ぽっかりと穴の開いた心に史香との甘美な体験が泉のように沸いてくる。
それはあまりにも刺激的で、それでいて安らぎに満ち、なおかつ官能的な興奮と切なさが入り交じった愛の形だった。
――俺は見つけたんだ。
幻なんかじゃない。
一晩だけなんて言わないでくれ。
何度でも抱きたいよ、君を、史香。
連絡先は交換していないが、勤務先は分かっているから会えないことはないはずだ。
だから、あらためて交際を申し込むことに問題はないだろう。
焦る気持ちを抑え込むように、蒼馬は自分にそう言い聞かせていた。
リムジンはノースエリアのゲートを通過し、お屋敷街に入る。
一区画の敷地が三百坪以上で二階建てまでの住宅と協定で定められた住宅地は、電柱がなく空が広い。
大きな岩で組んだ石垣にツツジの植え込みが並ぶ住宅の前でリムジンが速度を緩めた。
鋼鉄製の門扉が開き、リムジンは敷地内へと入っていく。
ゴルフ場のように刈り込まれた芝の庭に円弧を描く石畳のアプローチをゆっくりとリムジンが進む。
一階にあるガラス張りの縁側に、コーヒーを飲みながら読書をする父、道源寺啓介の姿があった。
時価総額三千億円を超えるとされる道源寺グループを率いる最高経営責任者だが、仕事の半分は人脈作りのゴルフと豪語し、日に焼けた肌をして髪も黒々としているせいか、実年齢の五十四歳よりもかなり若く見える。
リムジンを降りて家に入った蒼馬はさっそく父に挨拶に行った。
「おはよう、父さん」と、父の向かいの椅子に腰掛ける。
蒼馬は道源寺ホールディングスの副社長であるが、家ではふつうの親子だ。
「おう、どこに行ってた?」と、カップを置いて父が顔を上げる。「聞くだけ野暮か。まあいい、そこに座れ」
「どうかした?」
「ハノーファーの医療機器コンベンションなんだが、おまえ、行けるんだな」
「え、父さんが行くって言ってたじゃないか」
「俺はインドになった。永田町からの要請だ」
「そんなこと急に言われても」
蒼馬の頭の中は史香のことで一杯で、それどころではなかった
「甘ったれたことを言うな」と、父が鋭い目を向ける。「仕事は常に急だ。臨機応変。どんな出来事にも即座に対応できなければ人の上に立つ仕事はできないぞ」
将来会社を継ぐために必要な実務を経験している段階だから父の命令は絶対だ。
「チケットはミュンヘン経由で手配してある。今夜だ」
「今夜?」と、蒼馬はテーブルに手をつき前のめりになる。「いくらなんでも」
「昨日のうちに連絡したんだぞ。何をしてたか知らんが、見てないおまえが悪い」
スマホを見ると、たしかに連絡が入っていたし、なぜか既読までついている。
史香に夢中で心あらずだったのだろう。
情けない失態に顔が熱くなる。
「むこうの取引先との会合日程は機内で確認しろ」
「いや、今見ておくよ」
「それでいい」
父がカップを持ち上げた。
話は終わったという合図だ。
「クリスマスマーケットくらいなら、楽しんできて構わないぞ」
まったく、こっちはそれどころではないというのに。
だが、ここは気持ちを切り替えなければならない。
仕事は仕事。
せっかくだから史香にお土産でも買ってこよう。
次に会った時の話題にもできて一石二鳥だ。
できれば、一緒に連れていってしまいたいんだが。
さすがにそれは急ぎすぎか。
「おい、蒼馬」
――ん?
「なんだ、浮かれてるのか?」
「いや。だって仕事だろ」
「当たり前だ。おまえは会社の代表者として行くんだぞ」
「分かってるって」
これ以上追及されてはかなわない。
蒼馬はさっさと退散した。
夕方、空港へ向かう車の中で蒼馬は運転席の佐久山に相談した。
「彼女と連絡を取りたいんだが」
「黄瀬川様でございますか」
「ああ。ヒルズコマースの社員であることは分かっているだろ」
「ええ、存じております」
「帰国したら会いたいんだが、連絡先を聞いてなかったんだ。病院には記録が残っているだろうが、個人情報の私的流用を頼むわけにはいかないし、彼女に直接会うしかないと思うんだ」
名刺に連絡先を書いておかなかったのは失敗だった。
「ヒルズコマースに連絡を取って、黄瀬川様につないでもらってはいかがでしょうか」
「それも考えたんだが、私的な連絡を会社にするのは迷惑かと思ってね」
「さようでございますか」と、ルームミラーに佐久山の目が映っている。「では、お調べしておきます」
「内密に頼むよ」
「かしこまりました」
国際線ターミナルでリムジンを降りた蒼馬は一瞬ドキリとした。
広大なターミナルビルのあちこちに巨大な里桜の笑顔が掲示されていたのだ。
どうやら空港バスの広告キャンペーンらしい。
また、新しいイメージキャラクターの仕事をもらったのか。
若手女優として活躍の場が広がっていくのはうれしいが、スキャンダルが心配だ。
ただ、それは蒼馬が相手ではない。
史香との一夜であらためて分かったことだ。
里桜じゃないんだ。
すまない。
心の中で里桜に別れを告げて、蒼馬はファーストクラスのチェックインカウンターに向かった。
◇
史香はタクシーでいったん自分のアパートに戻ると、もう一度シャワーを浴び直し、着替えてから出勤した。
「先輩、おはようございます。もう大丈夫なんですか」
後輩の菜月とエレベーターで一緒になる。
なんとなく目を合わせにくい。
入院は二晩だけで、最後は蒼馬と甘い時間を過ごしていたなんて話せるわけがない。
「心配かけてごめんなさい。仕事も大変だったでしょ」
「それがなんだか変なんですよ」と、菜月が唇をとがらせる。「課長がみんな定時で帰れとか言い出して」
――え?
「どうして?」
「それが全然意味分からないんですよ」
あなたは仕事全般分かってないでしょうけど、と喉から飛び出しそうになるのを押さえる。
進捗についても聞きたかったけど、他社の人もいる公共の場所では話せる内容ではなかった。
オフィスに入ってから史香は課長のところへ挨拶に行った。
「課長、おはようございます。大変申し訳ございませんでした」
「ああ、退院できて良かったな」と、課長が椅子から立ち上がる。「まだ休んでいても良かったんだぞ。落ち着くまで」
「いえ、もう、なんともありませんから」
「まあ、そう無理しなくてもいいから」
なんだか気をつかわれすぎているのか、背中がむずむずする。
今までこんな対応はなかった。
いつも綱渡りの進行で、自分のように病んで辞めていった社員ばかりだったのだ。
「どうかしたんですか、課長」
「いや、何も気にすることはないんだ」
気になって仕方がない。
「もしかして、プロジェクトが中止になったとか?」
「いや、そういうことじゃないよ」と、広いおでこを覆う前髪をかきあげる。「我が社も上場が近いということで、コンプライアンスとか、そういったことに注意すべきと上からのお達しがあってね」
ああ、そういうことだったのか。
「社員の健康管理も重要だというわけだ」
それにしても、奥歯に物が挟まったような言い方が気になる。
史香の視線に観念したのか、課長が声を落とす。
「黄瀬川君の入院について我が社に知らせてきたのが道源寺グループの御曹司だったのは聞いてるか?」
「ああ、ええ、まあ」
その本人と一夜を過ごしたなんて言ったら、課長が入院してしまうかもしれない。
「道源寺と言えば、うちの親会社の取引先で以前から社長同士の交流もある。社員が過労で倒れたのを救護して入院させたなんて言われたら、社長も立場がないだろ」
ああ、だから、昨日電話で話した時からもう様子がおかしかったのか。
「とにかく、当分の間、定時で退社してくれ」
「でも、それでは進捗が」
「人員の手当はするから」
そんなことで解決するとは思えない。
菜月のようなメンバーなら、また一から教えなくてはならないし。
――はあ。
なんかため息しか出ない。
そんな史香の様子を心配そうに課長が見ている。
「あ、大丈夫です。もう元気ですから」
肘を折り曲げてありもしない力こぶをたたいて見せると、史香は自分の席に戻った。
案の定、二日分の工程がそのままぽっかりと穴が開いている。
文句を言っても何も解決しない。
史香が淡々と業務をこなしていると、モニター越しに菜月がチラチラと視線を向けてきた。
ただそれはいつもの危険視号とは異なる気配だった。
「どうしたの?」
「先輩こそ、どうしたんですか?」
「え、もう平気だけど」
「なんか、すごくうれしそうだから、何かあったのかなって」
――はあ?
「べ、べつに、何も……あるわけないでしょ」
「鼻歌歌うなんて珍しいなって」
え、うそ!?
思わず手で口をふさいでしまう。
「エレベーターの時からずっとですよ」
「あ、まあ、しっかり休んで疲れも取れたからじゃない?」
史香はモニターに隠れるように首をすくめて仕事に戻った。
全然、気づいてなかった。
私、浮かれてたの?
蒼馬の顔が思い浮かんで顔が熱くなる。
ちょっと、消えてよ。
今は出てこないでください。
そもそも、一晩だけって約束したんだから。
もう……関係ないよね。
向こうが私を求めてくるなんてことはありえないし、本当は交わらない世界に生きてるんだもん。
不思議なもので、定時で帰ると決まっていると、昼食ものんびり食べられるし、ピリピリしていないせいか仕事の進行もかえっていつもよりペースが良かった。
菜月がミスをしなかったのも意外だ。
慎重にできないんじゃなくて、ふだんは焦って余裕がなかっただけなのかもしれない。
その日実際定時に退社して、史香は初めてツインタワーの地下で夕飯のおかずを買って帰った。
冷凍ご飯を解凍し、その間、昨日半分食べて冷蔵庫に入れておいた味噌汁の小鍋を火にかける。
野菜が不足しがちな一人暮らしだから、冷凍素材を常備しておいて、味噌汁にトーフや油揚げの他に、ほうれん草、しめじ、ねぎ、ささがきごぼう、レンコンを入れて具だくさんにしている。
具が多い分、一食分だけ作るのが難しいから、いつも半分食べて残りは次の日に食べきるようにしている。
二日目の味噌汁なんておいしくないという人もいるけど、具材の甘みが出るのか、そんなに悪い味にはならない。
買ってきた黒酢餡の唐揚げとエビ団子のチリソースもレンジで温め直せば一人晩ご飯の完成だ。
史香は自分の部屋では酒は飲まない。
元々強くはないし、お金ももったいないと、つきあいのときだけにしている。
ふだんはやかんのお湯でジャスミンティーを沸かし、冷蔵庫で保管して三日で飲みきるようにしている。
家事が好きというわけではないが、それなりに要領はいい方だと自分では思っていた。
久しぶりにしっかりと味わいながら食事を済ませ、シャワーを浴び、寝る支度をすると、まだ九時前で手持ち無沙汰になってしまった。
寝てしまえばいいのだろうけど、なんだか落ち着かない。
動画でも見ようかと思っても、何を見たら良いか分からないし、趣味らしい趣味もないからただベッドの上に座って膝に手を置いて座っているしかなかった。
――私、まずくない?
今まで何やって生きてきたんだろう。
史香はスマホを取り上げ、たまたま表示されていた漫画の広告を眺めた。
上半身裸のイケメンキャラがヒロインを組み敷いたアングルで迫ってくる。
『おまえは俺だけのものだ。誰にも触れさせたくない』
『俺のことしか考えられないようにしてやるよ』
『運命を疑うのか。俺が信じさせてやるよ』
そんなセリフが蒼馬の顔で脳内再生されてしまう。
肌がざわついてからだが火照り出す。
あまり覚えてはいないが、蒼馬にされたことが浮かんでくる。
ち、ちがっ……そういうのじゃないから。
史香はベッドの上にスマホを投げ捨て、座ったままの姿勢でコテンと横になった。
不意に心の中にぽっかりと穴が開いて熱を持っていたからだが冷えていく。
連絡先だけでも交換しておくべきだったんだろうか。
だけど、そんなことをしたら余計苦しくなるだけだ。
遊ばれるだけの関係に何を期待しているんだろう。
分かっていたからこそ、一晩だけって約束したんじゃないの。
史香は布団に潜り込むと、何度か寝返りを打ちながら体を丸めて目を閉じた。
枕に顔を押し当てる。
抱き枕、買っちゃおうかな。
◇
定時退社の毎日を繰り返しているうちにクリスマスも過ぎ、正月休みに入ってしまった。
年末までつきあってくれと言われていたのに、あの晩だけで終わったのは、結局、自分を口説く嘘だったんだろうと思いながら、史香は静岡に帰省した。
――そもそも、あの時だって、映画を真似した演技をしていたんだし。
捨てられたことに対して蒼馬を恨む気持ちはなかったし、最初の頃は枕を抱きしめながら眠っていたものの、時がたつにつれて、思い出すことも少なくなっていた。
やっぱり、自分には恋愛なんて向かないんだろうな。
妙に納得している自分を笑ってしまう。
実家の父は県庁の公務員、母は近所のドラッグストアでパートをしている。
「なんかいいことあったの?」
正月の料理を食卓に並べながら母がたずねる。
「なんで?」
「いつもより顔色がいいから」
心配をかけたくなかったから、親には入院したことは連絡していなかった。
「仕事が定時で終わるようになったからかな」
「働き方改革?」
「うん、なんか上の都合みたい」
「自分の時間が持てるのはいいことだ」と、父も機嫌がいい。
正直なところ、無趣味な史香は時間を持て余しているだけなのだが、よけいなことを言う必要もないから曖昧にうなずいておいた。
初詣やらおせちやら、お茶とミカンに炬燵。
久しぶりに帰ってきた一人娘を甘やかす両親のおかげで、雑煮の中に放り込まれそうなほどぐだぐだな三が日を過ごし、元の生活に帰ってきた。
今年もまた去年までと同じ一年の繰り返しなんだろうな。
休みすぎたせいで仕事に戻るのが憂鬱だ。
業務に復帰した日も定時で退社し、コートをかき合わせながらツインタワーを出ると、史香はいつも通り駅へつながるプロムナードを歩いていた。
定時とはいえ、冬だ。
もう日は落ちて暗くなっている。
クリスマスや正月を過ぎてイルミネーションもなくなったプロムナードは寒々しい景色だった。
と、そこにマスクと帽子の女性が立っていた。
「黄瀬川さんよね」
急に名前を呼ばれて立ち止まると、それが答えだと受け取った相手が詰め寄ってくる。
「探したんだからね」
背の高い相手に見下ろされてたじろいだものの、それがすぐにあの女優だと分かった。
「久永……さん?」
「そうよ」と、マスクと帽子を外す。
「どうしてここに?」
「うちのマネージャーにあなたことを調べさせたのよ」
ストーカーまがいのことを堂々と宣言する里桜に戸惑いながらも、史香は話の続きを待った。
「ねえ、いったい、あなたは蒼ちゃんのなんなの?」
ほんの少しだけ考えを巡らしてみたものの、いい答えは何も思いつかなかった。
「べつに、なんでもないですよ」
「そんなわけないでしょ」
「どうしてですか?」
「パーティーでおつきあいをしてるって言ってたでしょ。あれから蒼ちゃんにいくらメッセージを送っても無視されてるし」
こちらはメッセージすら来てないんですけど。
……なんて言ったって、納得しないだろうな。
歯に染みるようなビル風が吹き抜けていく。
里桜は史香をにらみつけたまま歩道の真ん中から動こうとしない。
どこか暖かいところに移動したいけど、べつに話があるわけでもない。
困惑していると、里桜の表情に、幽霊でも見たかのような狼狽の色が現れた。
――え?
後ろから足音が近寄ってきたかと思うと、史香の脇をすり抜けて何者かが里桜に駆け寄っていく。
「里桜たん!」
誰?
史香だけでなく、里桜も動揺している。
ちょっと太めの男がゾンビのように両手を突き出しながら、人気女優に遠慮なく迫っていく。
「ずっと見てたよ。里桜たんがノースエリアのゲートから歩いてくるのをつけてきたんだ」
腕をつかもうとする男をなんとかかわして里桜は史香の方へ逃げてきた。
「ちょ、えっ!?」
「お願い、助けて」と、背後に隠れる。
「誰なの?」
「知らない人」
――ストーカーのストーカー?
現実が頭に入ってこなくて、そんなどうでもいい言葉を思い浮かべてしまう。
「おまえ、邪魔するなよ!」
男が鈍く光る物を取り出した。
サバイバルナイフだ。
「僕の里桜たんが他の男の物になるなら、僕がそのきれいな顔を切り刻んであげるよ」
里桜にはコートをつかまれるし、足がすくんで身動きがとれない。
男は邪魔な史香に真っ直ぐ突っ込んでくる。
と、その時だった。
暗闇から黒服の男が飛び出してきたかと思うと、二人の前に立ちはだかった。
「下がって」
スーツ姿の佐久山だ。
迫ってくる相手の腕をつかみ、腰を支点にくるりと豪快な背負い投げを決めると、流れのまま歩道の石畳に組み敷いた。
ナイフが乾いた音を立てて滑っていく。
あまりの見事な決まり方に相手も呆然と動けずにいる。
「さ、お二人とも、あちらのお車へ」
佐久山が顔を向けた方にリムジンが止まっている。
「後のことはわたくしどもにお任せください」
気づけば、佐久山の他にも何人かの黒服の男たちがまわりを取り囲んでいた。
ストーカー男を引き渡した佐久山がリムジンのドアを開けてくれる。
「間に合って何よりでした」
「どうもありがとうございました」
「ふ、ふみかすゎん」
動揺した里桜は顔をくしゃくしゃにして泣きじゃくっている。
命を落とすかもしれなかったのだ。
史香だって動揺しているものの、他人の泣いている姿を見ているとなんとかしなければと冷静になれた。
「佐久山さん、久永さんのお宅はご存じですか」
「はい。道源寺家のすぐ近くですので」
里桜にきつく手を握られる。
「史香さん、一緒にいてください」
「じゃあ、私のアパートまでお願いします」
「かしこまりました」
史香が住所を告げると、リムジンは静かに発進した。
「あぁ」と、声も体も震わせながら里桜が子供のように手の甲で涙を拭う。「こわ……ひっく……かったです」
「大丈夫。もう、大丈夫だからね」
さっきまで敵対視してきた相手を慰めることになるとは。
笑うわけにはいかないけど、なんだか不思議な気分だ。
赤信号で止まった時に、運転席の佐久山がミラー越しに史香を見た。
「男は警察に引き渡されたそうです」
よく見ると、佐久山の耳に受信機のような物がはまっている。
「それは良かったです。でも、私たち、現場に残ってなくて良かったんでしょうか」
「それは問題ありません。映像で記録も残ってますし、あの者たちの一人は顧問弁護士ですので警察との交渉はすべて代行してくれますから」
いたれりつくせりだ。
「あの人たちは蒼馬さんの警備担当の方々ですか」
「はい。ふだんは蒼馬様付きですが、たまたまこちらに来ておりました」
「蒼ちゃんもいたの?」と、里桜が涙声でたずねた。
「いえ、蒼馬様は今ドイツに出張中でございます」
「なんだ、そうなんだ……」と、シートに背中を預けてため息をつく。
信号が青に変わってリムジンが再び走り出す。
「佐久山さんはなぜあの場所にいたんですか?」と、史香はたずねた。
「黄瀬川様にお伝えしたいことがございましたので、お待ちしておりましたが、久永様とお話をなさっていたので控えておりました。ストーカーの出現は予想外でしたが」
「わざわざそのために?」
「はい、さようでござます」
ずいぶんと回りくどいというか、手の込んだことをしていたものだ。
ただ、そのおかげで里桜が救われたのだから、良しとすべきなのだろう。
「いいな、史香さんは」と、里桜が両手を膝において背中を丸めた。「蒼ちゃん、私の連絡なんか無視するくせに」
それからまた涙声になって愚痴をこぼす。
「なんで私ばっかりこんな目に遭うんだろう。蒼ちゃんには振られちゃって、ストーカーには週刊誌のヤラセ写真で狙わるし」
裏側を暴露してしまうのはご愛敬だが、振られた原因は史香のせいだ。
気まずい空気が漂い、史香はいたたまれなくなって話題をそらした。
「佐久山さんは蒼馬さんの担当になって長いんですか?」
執事兼運転手は前を向いたまま淡々と答えた。
「わたくしは最初、現当主である啓介様付きとして御屋敷に上がりましたので、かれこれもう四十年近くでしょうか、蒼馬様のお生まれになる前から道源寺家にお仕えしております」
「そんなになるんですか」
「声の調子を聞けば蒼馬様が何をお考えなのかも分かります」
静かな車内に丸みのあるいい声が通る。
「蒼馬様の家庭教師も務めておりました」
「私もよく宿題を見てもらってたの」
昔話でようやく里桜が明るさを取り戻した。
ただそれは、史香よりも前から蒼馬と関わりがあったことを示したい気持ちがこもっているのかも知れなかった。
リムジンが狭い住宅街の道に入って、ようやく史香のアパートに着いた。
降りる時に、佐久山が名刺を差し出した。
「差し出がましいようではございますが、こちらはわたくしの連絡先でございます。久永様がお帰りになる際にも、お呼びいただければいつでもお迎えに上がります」
「はい、ありがとうございます」
――あれ?
二枚重ねになっている。
そのまま裏返すと、もう一枚は蒼馬の個人的な連絡先が記載された名刺だった。
ああ、そういう……。
里桜に見つからないようにしてくれたんだろう。
住宅街では浮いてしまうリムジンが静かに去っていき、史香は一応周囲を警戒しながら1DKのアパートに人気女優を招き入れた。
「狭くてごめんね。クッションあるから使ってね」
フローリングの床にはホットカーペットを敷いてある。
里桜がベッドを背にして座りながら、無言であたりを見回している。
自分の部屋と比べているんだろうか。
張り合うつもりはないけど、恐縮してしまう。
幸い、洗濯物は二日に一回で今日は干していかなかったから部屋はそれなりに整頓されている……んじゃないかな。
「今、すぐに温かい物作るね」
鍋に水を入れてコンロにかける。
冷蔵庫から卵を取り出して溶きほぐしておき、沸いた鍋に粉末のコーンポタージュを二人分入れ、よく溶かしてから卵を投入。
かき混ぜたところで火を止めてカップに移す。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
両手で湯気の立つカップを持って口に運ぶ里桜を見ていると、CM撮影に立ち会っているような気分になる。
「うわあ」と、満面の笑顔がこぼれる。「すごくおいしいですね」
「良かった」と、史香も笑顔を返す。
「やわらかい茶碗蒸しみたい。コーンポタージュと卵って組み合わせ、考えたことなかったな」
「コーンと卵の中華スープだってあるから」
「そういえばそうですね」
実際のところは牛乳ベースと鶏ガラスープでは全然違うんだけれども。
「心が冷えてる時は体を温めると落ち着くでしょ」
話をしている間にレンジで冷凍ご飯を温め、やかんにお湯を沸かしておく。
冷蔵庫の鮭フレークと生姜のチューブを出しておき、急須にお茶の葉を入れる。
「史香さんも一緒に飲みましょうよ」
「私、猫舌なの」
「ええ、そうなんですか」
「先に飲んでて。今、ご飯作ってるから」
「なんでも作れてすごいですね」
そんなたいしたものじゃないんだけど。
解凍したご飯をお茶碗に分けて、鮭フレークにショウガをのせてお茶を注ぐ。
お茶漬けにはワサビが普通だけど、寒い季節にはショウガであったまるのもいい。
「はい、どうぞ」
「わあ、これってお茶漬けですか?」
「うん。食べたことないの?」
さすがセレブ。
「うちの母、歌劇団のトップスターだった頃にストレスで拒食症になったらしくて、食事にうるさくって。ちゃんとした料理しか食べさせてもらえないんです」
と、ハッとしたような顔になってあわてて手を振る。
「あ、あの、ちゃんとしたって言い方、ごめんなさい」
「ううん、気にしないで」と、笑顔でレンゲを渡す。「ある物しかないから、こちらこそごめんね」
「でも、ある物で作れちゃうって憧れます。私、ふだん自分では料理しないんで」
湯気の立つお茶漬けをレンゲですくってハフハフと口に運ぶ。
「うーん、おいしい。お茶が甘くて香りもいいですね。これ、すごくいいお茶ですよね。お茶が好きなんですか?」
「静岡出身だからね。この前帰省した時にもらってきたの」
「ああ、そうなんですか。すごくおいしいですね」
それからしばらく二人は無言のままあたたかいご飯を食べた。
最後の一粒まできれいに食べた里桜がぽつりとつぶやく。
「私、中一のバレンタインで初めてチョコレートクッキーを焼いて蒼ちゃんにプレゼントしたんですよ。そしたら、生焼けで、でも、無理して食べた蒼ちゃんがおなか壊しちゃって。小中高とずっと皆勤賞だったのに、その時だけ学校お休みしちゃったんですよ」
なんとも微笑ましいエピソードだ。
蒼馬には気の毒だけど。
「なんでなのかな。料理が下手な人って、変なアレンジとかしがちって言うじゃないですか。だけど、私はいつもちゃんとレシピ通りに作るんですよ」
「だからじゃないですか」
「えっ」
「クッキーの作り方に『百八十度のオーブンで九分加熱』とか書いてあると、その通りにセットするでしょう」
「だって、そうやって書いてあるんですよ」
「だけど、実際には、その時の室温とか、生地の温度とか、分量によっても焼き加減は変わるし、あと、家庭用のオーブンって、熱のまわり方に結構ムラがあるから、均一に加熱されないことが多いですよね」
「そんなこと言われたって」と、里桜が頬を膨らませる。「でも、その通りに作らないと、『変なアレンジするから』とか言うじゃないですか」
「料理する人は、レシピももちろん大事だけど、目の前の素材の様子を見て調整するのよ。クッキーの色を見て、もう少し加熱した方がいいかなとか、自分で考えるのよ」
「そんなの、分かりませんよ。どうやったら、できるようになるんですか」
ふと、会社の後輩を思い出して笑ってしまった。
菜月の場合は笑い事じゃないんだけどね。
「久永さんだって……」
「里桜でいいですよ」
いきなり蒼馬みたいなことを言い出した。
「ええと……里桜さんは」
「『さん』じゃなくて、呼び捨てでいいですって。私の方が年下ですよね」
「じゃあ、里桜ちゃんは……」
「『ちゃん』は子供扱いされてるみたいで嫌です」と、キッパリ。
ああ、もう、難しい。
「里桜……は、演技する時に、台本通りなの?」
「それはちゃんとその台詞の通りに言いますよ。自分で勝手に変えたら作品が台無しになりますから」
あ、と何かに気づいたように目が見開く。
「言葉は変えませんけど、言い方というか、声のトーンとか、そういうのは自分なりに考えますね。その人物のその場面での気持ちとかを自分なりに考えて表現します」
「私は逆にそういうのがよく分からないタイプかな。だから、いつも誰に対しても同じように接して、感情が読めないとか、冷たい感じがするとか言われることが多いかも」
里桜はテーブルの上に手を伸ばすと、史香の手に重ねた。
「全然冷たくないですよ」
手の温度じゃないんだけど、と言いかけて口をつぐむ。
まさに、そういうところだ。
「史香さんは親切だし、私みたいな馬鹿なストーカーにまで優しくしてくれるんですから」
あ、そう言えば、その話、忘れてた。
その話題になるかと思ったら、里桜は話を元に戻した。
「史香さんって、苦手なことってないんですか」
「恋愛とか……かな」と、言ってしまって後悔する。
まるで自分がそっちの話をしたいみたいだ。
「それってさっきの話と同じじゃないですか。感情を見せるのが苦手って」
「ああ、そうかも」
「でも、たぶん、それが史香さんの感情表現なんですよ。それをちゃんと受け取ってくれる人がいれば伝わる」
なんとか話を戻せたかと思った時だった。
里桜が斜め上に視線を巡らせた。
「それがきっと、蒼ちゃんだったんでしょうね」
ああ、やっぱり、その話になるか。
それはそうだよね。
史香は観念して正面から向き合う覚悟を決めた。
「蒼ちゃんと……したんですか」
真っ直ぐに見つめられて真っ赤になってしまう。
「そっか」と、里桜がクスッと笑ってうつむく。「抜け駆けされちゃった。史香さんの泥棒猫」
「でも、一晩だけの約束だから、ただの……遊びというか、その……」
「蒼ちゃんはそんな人じゃありません」と、顔を伏せたまま里桜が語気を強めた。
――え?
「史香さんは蒼ちゃんがそんな人だと思ってるんですか」
いえ、あの……。
「蒼ちゃんはいつも私を大事にしてくれました。史香さんのことだって本気です」
テーブルにぽたりと涙が落ちる。
「だから……だから悔しいんだもん」
なんと声をかけてあげたら良いのかまるで分からない。
しばらく、相手が泣くままに史香もじっとうつむいていた。
「でも、これで良かったのかも」
――え?
顔を上げると、里桜が涙でぐしゃぐしゃの顔に晴れ晴れとした笑みを浮かべていた。
「私も夢があったんですよ」
「あれっ、女優になることじゃなかったの?」
「それもそうなんですけど、イギリスで勉強したくて」
「へえ、そうなの」
「シェイクスピアとか、そういう演劇の勉強を本場で取り組んでみたくて。日本の大学で学べたら良かったんですけど、私、その前にデビューしちゃったから」
「ああ、二足のわらじは難しいものね」
「でも、できることはやっておきたいから、英語の勉強は続けてるんですよ」
――偉いんだね。
史香はそう思ったが声には出さなかった。
自分は素人なのに、なんだか上から目線みたいだったし、それがどの程度の努力なのかも分からないで言うことでもないと思ったからだ。
仮に、ただ単に英会話のお勉強という程度なら、史香とたいして変わらないレベルになる。
「私、今になって思うんですけど、なんでも蒼ちゃんを理由にしちゃってたのかもしれないんです」
「理由?」
「女優にならなくちゃって思ったのも蒼ちゃんに振り向いてもらいたかったからだし、留学したいって思うようになったのも蒼ちゃんがアメリカに行ったのがきっかけだったし、逆に留学をあきらめたのも、帰ってきた蒼ちゃんと離れたくなかったからだし。全部蒼ちゃんのせいにしてたなって」
――そっか。
「だから、なんか、ようやく吹っ切れたっていうか、自分の中でちゃんとしなくちゃっていう気持ちになれました」
そして、里桜はテーブルに手をついて史香に頭を下げた。
「どうもありがとうございました」
「いや、あの、お礼を言われるようなことはしてないから」
むしろ、ストーカーされるほど恨まれても仕方のないことだ。
里桜が思いがけないことをつぶやいた。
「私、女優辞めようかなって思ってるんです」
「どうして?」
「女優として、なんか壁にぶつかってるっていうか、自分がやりたいこととは違うんじゃないかって思うようになってるんです」
親が元芸能人で生まれた時から女優になると定められていて、まわりからはちやほやされていても、悩んでいたのか。
人気女優といったって一人の人間。
なんでも手に入れたようで、何もつかんでいない。
――あれ?
それって、蒼馬と同じ?
「里桜は女優に向いてると思うよ」
「向いてないわけじゃなくて、このままじゃ嫌だなっていう感じですかね」
「成長してるってことなのかもね。止まってたら目の前に壁があってもぶつからないじゃない」
史香は仕事でうまくいかないことがあると、そんなふうに考えてきた。
ただ、その真面目さが体を壊す原因になったわけで、向上心とのバランスの取り方が下手だと言われたら反省するしかなかった。
「ああ、そうなのかなあ」と、里桜は自信なさげに首をかしげた。「でも、どの仕事もたしかに慣れてきてるって感覚はありますね」
「私、『十年後』の……って、あの映画を見て泣いちゃってね。里桜の演じる女の子がまるで自分みたいで、感情移入しちゃって。今までそういうことがなかったから自分でもビックリしちゃって」
「ありがとうございます」と、告白された女の子みたいにはにかむ。「今まで聞いた中で一番うれしい感想だったかも」
首をかしげたまま口元に笑みを浮かべてため息をつく。
「でも、それがうまく伝わる人と、受け取ってもらえない人っているんですよね。万人に受ける演技っていうのはないのかも知れないけど、私はたくさんの人に受け止めてもらいたいなって思うんです」
「できるんじゃないかな」と、根拠はないけど、史香の本心だった。「まだ若いけど、キャリアはあるから早い段階で壁にぶつかっちゃったのかもしれないし」
「そうなんですかね」と、里桜も納得したようにうなずいている。「なんか、ストーカーしちゃったくせに、悩み事相談までしてもらっちゃってすみません」
勝ち気なようで、意外と素直な子なんだな。
人前に出る仕事だから、自然と強気なキャラに見られてしまうのかもしれないし。
そんなふうに考えていたら、里桜がまた思いがけないことを言い出した。
「史香さんみたいなお姉ちゃんがいたら良かったのになって思っちゃいました」
――お、お姉ちゃん?
「だって、きっといつだって私の背中を押してくれただろうから」
ああ、かなわないな。
こういう素直なところか。
人を引きつける魅力。
この人は天性の女優なんだな。
と、そこで里桜がうつむきながらつぶやいた。
「史香さん、今日、泊まっていっていいですか?」
「家とか事務所の人、心配するんじゃない?」
「連絡しておけば大丈夫ですよ」
そうなのかな。
「私、友達の家とかにお泊まりしたことなくって」
なら、なおさらまずいんじゃないの?
「子供の頃、友達の家に遊びに行くとかもなくて、蒼ちゃんのところだけだったな」
お金持ちとか、有名人って、なんか窮屈そうだな。
今でこそコミュ障気味だけど、史香は小学生くらいまでは近所の友達の家に入り浸っていたし、茶摘みの手伝いなんかにも行ったりしていたものだ。
「じゃあ、ちゃんと連絡はしてね」
「はーい」
さっそく里桜がスマホを取り出すので、史香も佐久山に迎えは必要なくなったとメッセージを送信しておいた。
里桜が史香の方へ回ってきて顔を寄せる。
「はい、撮りまーす!」
ちょ、え、待って。
虚を突かれた顔が連写される。
写真のデータをもらうついでに連絡先も交換してしまった。
なんでこんなことになってるんだろう。
私、恨まれてるんじゃなかったっけ?
「ねえ、史香さん、お風呂に入る前にメイクしてみません?」
「なんで?」
「史香さんって、あんまりメイクとか練習したり、動画とか見て研究したりしたことないでしょ」
「うん」
そもそも興味がないし、やっても無駄だと思うからだ。
よく見せようとするより、社会人として失礼のないようにしておく程度でいい。
「肌に合わないとか、心配だからやめておく」
「大丈夫ですよ。今使ってるのを見せてください」
「たいしたものないんだけど」
実際、自分の肌に合うことを確かめてある基本的なものしか使っていない。
「史香さんって、眉の入れ方が上手ですよね」
おっと、いきなり褒める方から入るタイプ?
「だけど、アイシャドウが控えめすぎて、せっかくの良さが消えてるんですよね」
説得力ありすぎて聞き入ってしまう。
「もっとはっきりめの方が、素材がいいから映えますよ。丸目より切れ長系かな」
なんか目立ちすぎると落ち着かないような気が……。
里桜の手つきが早すぎて全然覚えられそうにないけど、自分がしたことのないやり方は参考になる。
「それで、チークの入れ方だけでも全然印象変わりますから。目元との対比を意識して色を使い分けると全然仕上がりのバランスが違うんですよ」
と、ブラシが一本しかないことに驚いている。
「いつもこれって、逆に器用じゃないですか。ブラシはやっぱり太めと細めで最低でも二本使い分けた方がいいですよ」
「中くらいので兼用できない?」
「うーん、やっぱり違いますよ」
――だって面倒なんだもん。
鏡の中の自分がどんどん変わっていく。
さすがに女優と比べるほどおめでたくはないけど、地味な自分もやり方次第で見せることができるんだなと感動するレベルだった。
「私、撮影の時とかに、メイクさんに聞くんですよ。『これって、どういう意図があるんですか』って、明るい顔とか、暗い顔とかだけじゃなくて、悲しい表情に合うメイクとか、ライティングとかも関係するんで、そういうやり方を知っておくと今の自分がカメラにどう写るかとか、演技しながら分かるんですよ」
「へえ、そうなんだ」
そこまで考えながらやってるのに壁に当たるって、大変なんだな。
――違うか。
そこまで考えてるからこそ、次へ進むための壁にぶつかってるんだ。
いつの間にか里桜を応援している自分がおかしくて笑ってしまう。
予備の布団は毛布一枚しかないから、エアコンを高めに設定して寝ることにした。
史香にとって初めての女子お泊まり会の翌日、二人はアパート近くの牛丼屋さんで朝定食を食べてから、同じ電車でベイサイドヒルズまでやって来た。
駅を出て里桜が大きく手を振る。
「史香さん、ありがとうございました」
「気をつけてね」
まあ、昨日みたいな変質者はいないだろうけどね。
ただやっぱり、マスクと帽子で顔は隠せても、オーラは消せないらしい。
「ねえ、あれ、久永里桜じゃない?」
気づいた人たちが噂をしている。
「えー、うそぉ。ちょっと似てるだけじゃない?」
「だって、ベイサイドヒルズに住んでるでしょ」
「セレブがラッシュ時の電車使うわけないって」
「そっかあ。だよね」
そういうことにしておいてください。
心の中でそう願いながら、史香はツインタワーの職場へ向かった。
◆
一月後半になってもまだ蒼馬は史香と連絡が取れずにいた。
正月明けの里桜の事件も佐久山から聞いていたし、連絡先は伝わっているはずなのに、向こうからは何の連絡もない。
さすがに蒼馬は焦っていた。
俺は振られたのか?
ただの遊びだと思われているのか。
たしかに、お試しとは言ったが、それは相手の心理的ハードルを下げるためであって、決して軽い気持ちではなかったのに。
このままただ連絡を待っていても進展はないだろう。
かといって、無理矢理押しかけて嫌がられたら、それこそ終わりだ。
帰国してからも、年始の挨拶回りや仕事でスケジュールが詰まっていて気の休まる暇がなかった。
長いフライトで眠ったことが今となっては唯一の休息だった。
――史香に会いたい。
その思いだけがつのっていく。
今日も蒼馬は各国大使を招いたレセプションに参加していた。
「蒼馬、久しぶりだな」
「ああ、これはマウリージョ大使」
「肩書きで呼ぶのはよしてくれよ。アメリカでは一緒に学んだ仲じゃないか」
「君も出世したものだな」
「人材不足なんだろ」
大使が書記官に蒼馬と握手した写真を撮らせる。
「SNSに掲載してもいいだろ。日本の若きビジネスマンとの絆を宣伝したいんでね」
「ああ、もちろん、かまわないよ」
蒼馬はすでに経済誌などで写真が出回っているし、会社としても著名人との交流は宣伝になる。
マウリージョ大使は幼少期に親の仕事で日本で暮らし、高校から大学院まではアメリカで学んだという経歴の持ち主で、蒼馬とは大学時代に交流があった。
流暢な日本語でSNSに投稿することから『バズる若きイケメン大使』として知られている。
「どうだい、蒼馬、もういいねが千を越えたぞ」
スマホの画面を見せながらシャンパンのグラスを掲げる。
蒼馬もグラスを掲げて乾杯に応じた。
――史香もこれを見てくれれば。
見ていたからといって連絡をくれるものでもないだろうが、一縷の望みにもすがりたくなる。
レセプションからの帰宅途中にリムジンがツインタワーの横を通る。
佐久山は里桜の件で史香から連絡をもらっている。
ならば、佐久山に連絡先を聞けばいいのではないか。
それとも、代理で連絡をしてもらうようにするべきだろうか。
「佐久山……」
「はい」
「いや、なんでもない」
「さようでございますか」
佐久山は深くたずねては来ない。
すべてを理解しているからだろう。
信頼できる執事というものは、こういうときに困る。
まさか、里桜に聞くわけにもいくまい。
完全に手詰まりだ。
蒼馬は前髪をかき上げ、額に手を当てた。
――どうしたらいい?
愛することが罪だというのなら、愛されないことは罰なのか。
だが、いったい俺が何をしたと言うんだ。
俺はただ……史香を愛しただけじゃないか。
◇
ヒルズコマースの定時退社は一時的なものではなく、一月下旬も続いていた。
しかし、ツインタワーを出て駅へ向かう史香の足取りは重かった。
正月に親からは顔色がいいと言われていたが、最近、妙に疲れるのだ。
風邪でも引いたのかなあ。
変に食欲はあるから、早く帰って暖かいものでも食べて寝よう。
と、そこへやたらとポケットのついたキャンプベストを着た中年男が近づいてきた。
ストーカー事件もあって思わず史香は立ち止まって身構えた。
「いや、すみません。わたくし、こういう者です」
男はベストのポケットから名刺を取り出し、丁寧に差し出した。
《フォトグラファー 榎戸直弥》
カメラバッグを肩からかけていて、服装もいかにもという感じだ。
頬から顎にかけて無造作にひげを生やしているが、がっしりとしたスポーツマンタイプで、不潔感はない。
三十代の半ばくらいだろうか。
ドキュメンタリー番組のナレーターのような落ち着いたいい声をしている。
「フリーランスですが、ふだんはこういうタウン誌なんかの写真を撮ってます」
男はベイサイドヒルズ各地で無料配布されている『ヒルズプレミア』を開いて見せた。
「私に何か?」
「黄瀬川……史香さんですよね」
「はい、そうですけど」
返事をしたものの、名前を知られているのが気味悪い。
「少しお話を聞かせてもらいたいんですがね」
男はスマホの画面を史香に示した。
「あっ……」
思わず声を上げてしまった。
里桜がストーカーに襲われている写真だった。
あの場所を目撃していたというのだろうか。
「他にもこういうのもあるんですよ」
淡々としたしゃべり方の相手が示したのは、蒼馬と二人で展望台にいる時の写真だった。
――えっ!?
うそ、いつの間に。
言葉を失う史香にカメラマンがたたみかけてくる。
「ここじゃ寒いんで、あったまれるところまでつきあってもらえませんかね」
ベストの上にコートでも着たらと突き放すわけにもいかず、史香は相手と並んで歩き出した。
ヒルズストリートはバレンタイン向けのディスプレイが華やかだ。
榎戸はベイサイドヒルズのメインストリートから一本裏に入った昔ながらの喫茶店に史香を誘った。
「あそこのラウンジじゃなくて、すまないね」
路地から見え隠れするツインタワーの最上階を、顎を向けるように見上げる。
すべて知ってるぞと匂わせる相手の真意はどこにあるのか。
不安を感じながらも史香は店内へ足を踏み入れた。
「いらっしゃいませ」
コーヒーの香りに包まれた昭和喫茶に似合う渋い男性がカウンターの奥で出迎える。
史香はふと執事の佐久山を思い浮かべた。
「俺はコーヒーとナポリタン。あんたもコーヒーでいいか」
常連なのか即決の榎戸に対して、史香は一通りメニューを眺めてから訂正した。
「あ、ええと……サイダーを」
「寒いのにな」
コーヒーという気分でもないのだから仕方がない。
そういえば、最近、あまりお茶も飲まなくなったな。
いろいろあって、疲れてるのかな。
豆を挽く音が静かに聞こえてくる。
――なんだろう。
ものすごく居心地が悪い。
お店はいい雰囲気なのに。
飲み物が運ばれてきて、男は香りを味わいながらブラックでコーヒーを一口すすった。
「あらためて、俺は榎戸直弥。フリーランスのカメラマンだ」
「回りくどい話はいいですから用件を聞かせてください」
「それはありがたいね。ただ、ナポリタンが来るまでは少し世間話につきあってくれ」
そう言うわりに、男は自分からは話を切り出そうとしなかった。
サイダーの氷をストローでゆったりとかき回しながら史香がたずねた。
「あなたはいったい何者ですか?」
「それはどういう意味かな」
「あなたはただのカメラマンではないですよね」
「持ち物で言うならカメラマンだ」と、鞄を開けて中を見せる。
望遠鏡のようなレンズと一眼レフのボディなどがぎっしり詰まっている。
「でも、普通の写真を撮る人じゃないですよね」
「普通とそうじゃないの違いは?」
「ごまかすだけなら、帰ります」
強気に見せようとしたわけではなく、本当にここから出たい気がしたのだ。
はあ……。
早く帰って休みたい。
「まあまあ、俺は腹が減ってるだけなんだ。ほら、ナポリタンが来た」
男はクルルと器用にスパゲティを丸めるとほんの少しゾズッと音を立ててナポリタンを口に入れた。
「あんたも頼んでもいいぞ。取材に協力してくれるお礼だ」
「いえ、結構です」
「じゃあ、ケーキでも」
「いえ、本当に。今はけっこうです」
実際、体がだるいし、なんか胸もモヤモヤしていて急に食欲がなくなってしまったのだ。
男がフォークを皿に置いた。
「久永里桜と道源寺蒼馬の密会写真を撮ったのは俺だ」
「密会?」
史香は週刊誌の記事を知らない。
榎戸はスマホの画面にネットニュースの記事を表示した。
里桜と蒼馬が二人で食事をしている様子を望遠レンズで切り取った写真が掲載されている。
「変な写真ですね」
正直に感想を言うと、榎戸の眉が上がった。
「密会にしてはまわりにお客さんがいるじゃないですか。隠すつもりなら、もっと個室とか、それこそ、会員制のオーベルジュとかを使うんじゃないですか?」
「よく分かってるね。意外と事情通なんだな」
里桜と蒼馬の本当の関係を知っているという意味ならその通りだ。
榎戸は笑顔になってナポリタンの残りを食べながら話を続けた。
「まあ、あんたの言うとおり、これは事務所からのリークがあって掲載された記事だけどな。大人の事情ってやつだ。だが、それを信じたファンが暴走して久永里桜に襲いかかった。その場にいたのがあんただ。ただの通りすがりでないことは、道源寺蒼馬との写真から明らかだ」
食べ物が口に入っている時はしゃべらず史香の返事を待っている。
態度とは裏腹に食事のマナーはきちんとしている。
「あなたもいたみたいですけど。たまたま通りかかったんですか」
「俺はカメラマンだからな」と、紙ナプキンで口についたケチャップをぬぐう。「シャッターチャンスは逃がさないさ」
「私は関係ありません」
ごまかせるとは思えないが、相手の思い通りに話を進めてはいけない気がした。
「SPに守られて、豪勢なリムジンに乗り込む人間が無関係ってことはないだろ」
あっさり論破されてしまう。
「何が言いたいんですか」
「あんたと道源寺蒼馬の関係は?」
「ですから、何の関係もありません」
はっきりと答えることができた。
――だって、事実だから。
もう、終わった関係だ。
榎戸は紙ナプキンで口を押さえながら笑う。
「展望台であんな親密そうにしていたくせに、か?」
その後ラウンジへ行ったことも知っているのだ。
ごまかしようがないのは分かっていた。
「まさか、あれは演技だったなんて言ってごまかすつもりじゃないんだろ」
思わずクスッと笑ってしまう。
真相はそのまさかなんですけど。
いい歳した男女が映画のまねをしていたなんて、信じてはもらえないだろうな。
ただの恋愛ごっこ。
ホント……何やってたんだろうな、私。
史香の笑みの意味をいぶかしみながら榎戸はナポリタンを完食した。
「久永里桜襲撃事件については、今のところ事務所の圧力でマスコミは黙っている。なにしろ、あそこの母親に睨まれたらギョーカイ的にいろいろやりにくくなるんでね」
榎戸は皿を脇に寄せるとテーブルに肘を突いて手を組み、顎をのせて史香を見つめた。
こちらも視線をそらさずたずねる。
「それで、結局、あなたの目的は何ですか?」
「俺にも分からない」
「結論を早く言ってもらえないなら帰ります」
「いや、すまない。ただ、分かっていないのは事実なんだ。何が正解なのかを知りたいってわけさ」
――正解?
「たとえば」と、榎戸はテーブルの上で手を伸ばし、椅子に背中を預けた。「人気女優と交際している有名企業の御曹司が別の一般人に二股をかけていたと暴露する」
「それは……」
榎戸が人差し指を立てる。
「健全なイメージが損なわれれば、医療や介護なんかのお堅いビジネスにも影響が出るかもしれない」
「道源寺さんは私とは何の関係もありません。事実でないことを広めるのはまずいんじゃありませんか。名誉毀損とか、風説の流布とか……」
かばおうとすればするほど蟻地獄のように相手の思惑にはまっていくのを感じて史香は焦っていた。
「べつに、俺は嘘なんかついてないだろ。あんたと道源寺蒼馬が一緒にいるところを写真に撮っただけだぜ。それをどう受け取るかは読者や顔の見えないネットの連中だからな。風評っていうのは、ほんのささいなきっかけさえ与えてやれば、たきつけなくても勝手に燃え上がる」
「お金ですか?」
榎戸がほくそ笑む。
「俺はそんなこと一言も言ってないぜ」
ここまで話してようやく史香は気がついた。
直接蒼馬のところへ行って脅すのではなく、まずは弱い一般人を揺さぶってボロを出させようという作戦だったのだ。
まんまと相手の手のひらで踊っていたことに気づいて史香はため息をついた。
「ま、今日のところはこのくらいで」
余裕の表情で残りのコーヒーを飲み干した男が憎らしい。
伝票をつかみながら男が立ち上がる。
「おごる代わりに正直な感想を言っていいか?」
「感想?」
「あんた、いい女だな」
はあ?
「久永里桜みたいなわかりやすい美人じゃないが、妙に色気がある。通好みだな。道源寺蒼馬が惚れたのも分かるぜ」
な、何を言って……。
「気に障ったならすまないね」
マスターから領収書をもらって会計を済ませ、二人は店を出た。
重い足取りで駅へ向かおうとする史香を榎戸が呼び止めた。
「なあ、もしかしてさ」
「まだ何か?」
「あんた、妊娠してるんじゃないのか?」
ハッとした史香の表情をカメラマンは逃がさない。
「心当たり、あるんだろ」
「いえ、ありません」
ありすぎて汗が噴き出てくる。
「体に気をつけて」と、男が去っていく。
後に残された史香は一人ため息をつき、ベイサイドヒルズ駅へ向かって歩き出した。
◇
言われてみれば思い当たることはあった。
生理が遅れていたし、朝目覚めた時に軽い吐き気を感じていた。
ただ、まさか自分がという思い込みが目を背けさせていたのだった。
史香は地元の駅で電車を降りると、まっすぐにドラッグストアへ向かった。
妊娠検査薬を買い、はやる気持ちをおさえながらアパートへ帰り、早速試してみる。
――ああ。
くっきりと赤い線が出ている。
妊娠していたんだ。
見た瞬間、めまいとともにいろいろな思いが駆け巡っていった。
『初めてでも妊娠するから必ず避妊しなさい。相手に任せてはいけません』とクラスのみんながドン引きするくらい授業で強調してくれた保健の先生の言うとおりだった。
言いつけを守れない生徒で申し訳ありません。
でも、この子に罪はない。
私一人で育てていけるだろうか。
いや、育てていかなくちゃいけない。
弱音を吐く暇があったら、現実的な対応をしていかなければ。
会社はどうしよう。
産休育休の制度を調べないと。
とりあえず、五年間でためた蓄えはあるからすぐに生活に困ることはないだろう。
スマホで妊婦の健診について検索する。
地域の助成金や支援制度など、次から次へと調べるべきことが増えていく。
受験勉強どころではない情報量だった。
妊娠の初期症状。
眠気、微熱。
前回の月経を起点として排卵が二週間。
妊娠した時はすでに妊娠二週目になる。
受精と着床で三週目。
検査薬は着床して十日後から。
五週目からつわりが出始める。
メンタルのイライラも。
――ああ、どうしよう。
本当にイライラしてきた。
親にはなんて言えばいいんだろう。
喜んでは……くれないだろうな。
孫ができるのは嬉しいだろうけど、シングルマザーは世間体とか、やっぱりあるよね。
特に、都会じゃない、実家の『世間』の目は昔と変わらないからなあ。
翌日会社に休みの連絡を入れ、産婦人科へ行って妊娠が確定した。
あっさりしたものだな。
自分の意思なんか全然関係なく物事が進んでいく。
――違うか。
変わるなら、自分を変えなくちゃいけないんだ。
史香はその場で課長に妊娠したことを電話で報告した。
父親となるべき人には教えないのにね。