第1章 交わるはずのない出会い
十時を過ぎていた。
クリスマスイルミネーションの輝く街にそびえるベイサイドヒルズツインタワーのビジネス棟にはまだまばらに明かりが残っていた。
その中の一つ、中層階の明るい窓は黄瀬川史香が働く『ヒルズコマース』のものだ。
ネット通販プラットフォームを提供する新興IT企業は急成長を遂げ、上場も視野に入れているが、慢性的な人材不足で残業が続いていた。
暖房の設定は弱いのに、史香の額には汗がにじんでいる。
――だめだ、終わらない。
向かい合わせに座った後輩がモニター越しに顔を出す。
「黄瀬川先輩、すみません」
史香は唇の端をゆがめて笑みを返した。
「いいから、今晩中に終わりにしないと、企画自体が終わるかもしれないんだからね」
「はい、本当に、すみません」
――なんとかしないと。
育休に入った前任者に代わって、入社五年目で初めて任されたプロジェクトだ。
これまではサポート役で携わってきた業務だけど段取りは分かっているし、史香自身にミスはなかった。
なのに、与えられたメンバーの質が悪すぎる。
新人に一から教えなければならないのは、次の世代を育てるのも仕事のうちと割り切れるけど、とっくに育っていなければならない後輩がやらかした失敗の尻拭いをさせられるのは正直なところ納得がいかない。
史香は書類作成の手を止めて後輩にたずねた。
「東山さん、契約書のコピーと企画資料の追加はどうなってるの?」
「え、追加ですか?」
――まただ。
嫌な予感が的中だ。
「えっ、ええっと……」
新人の頃から史香が面倒を見てきたから知っている。
菜月のこういった態度は警告ランプだ。
「あの、ええと、どの企画資料でしたっけ」
「仕様変更の説明で先方から要求されてた分だけど」
史香にはもう分かっていた。
資料はどこにもない。
東山菜月は有名私立大学を出て入社三年目になる後輩だ。
飲み込みは早いが、書類の誤字や数字の入力間違いなどを自分で見直すことができないし、仕事の優先度を調整することができない。
すべてに目を通して修正の指示を出してやらないと業務が進まない。
――私ね、学校の先生じゃないのよ。
『先生、丸付けしてください』って、漢字ドリルでもやってなさいよ。
まだ謝罪をされるだけましだが、手間がかかることに変わりはない。
一応頭では分かっている。
プロジェクトのリーダーに抜擢されるということは、後輩のミスも背負わなければならないということだ。
だけど、それが重なるようだと、最初から全部自分に任せてくれた方が早いと愚痴を言いたくもなる。
――ああ、もう、無理。
全部投げ出したい。
急に涙がこみ上げてきてしまった。
使えない後輩の前でそんな弱気な顔を見せるわけにはいかないからこらえたけど、早くこの場から逃げ出したかった。
「今日はもう終わりにしましょう」
「え、でも、まだ……」
「大丈夫」と、立ち上がって史香は菜月にうなずいて見せた。「明日課長に相談してみるから」
相談ではない。
報告と謝罪だ。
責任は全部自分にある。
だけど、もう無理。
最初から私には無理だったんだ。
オフィスの戸締まりをするからと先に菜月を帰らせて、史香は手の甲で頬をぬぐった。
◇
中層階用のエレベーターからエントランスホールへ出たところで、史香はいったん立ち止まった。
なんだか視界が揺らいでいる。
ふらつく足取りで回転ドアを押しながら外へ出ると、乾いたビル風が首筋を撫でていく。
憧れの街と言われる『ベイサイドヒルズ』は駅を挟んで南北で顔が変わる。
戦前からの高級住宅街であるノースエリアは櫻坂と呼ばれる並木道沿いにセレブ御用達のブティックが並び、大使館やオーベルジュもあって落ち着いた雰囲気に包まれている。
近年開発が進んだサウスエリアは駅から国際港へと続くヒルズストリートを挟んでショッピングモールと五つ星ホテルが開業して注目を浴び、ツインタワーは隣接するビジネスエリアのシンボルとなっていた。
豪華客船も寄港するベイエリアの夜景を楽しめる最上階の展望台は、人気女優久永里桜主演映画のラストシーンで話題になったばかりだ。
だが、さすがにこの時間になると人通りはほとんどなくなる。
ビルの前を通り過ぎていく車は史香には縁のない高級車ばかりだ。
幾何学的に刈り込まれた街路樹には、さっきまでゴージャスなイルミネーションが輝いていたはずなのに、すでに消灯されていて街はコーヒーゼリーで固められたように真っ暗だった。
イルミネーションが始まったのは先月だけど、残業続きで、片手で数えられる程度しか見たことがない。
どうせ自分にはそんなおしゃれな風景なんか似合わないもんね。
クリスマスなんて、今までだって何もなかったし。
これからもただの師走なんだろう。
プロムナードを駅へ向かいながら、史香はアパートの冷蔵庫の中身を思い起こしていた。
夕飯、何かあったかな。
そういえば、お昼は何を食べたんだっけ。
仕事のことばかり考えていて、他のことは何も覚えていない。
あまりにも忙しすぎて、お昼を食べていないことにすら気づかなかった日もたまにあるくらいだ。
そんな生活がもう五年も続いている。
食事も身だしなみも休日の予定すら自分の好みで決める余裕などない。
すべて惰性だ。
給与こそ、残業代は支払われているけど、基本給が低いし、体力の消耗以上に気力が削られる職場は離職者も多い。
育休の前任者も、おそらくもどっては来ないだろう。
そんな会社だからこそ、プロジェクトを任されたというより、押しつけられたのだ。
滑走路のようにまっすぐ水平に伸びるヒルズストリートまで来て赤信号で立ち止まり、何度目かのため息をついた時だった。
揺らいでいた視界が急にゆがみ始めた。
――えっ?
二つに割れた風景が、古い映画の特殊効果のようにぐにょりと渦を巻き始める。
何これ、気持ち悪い。
ジェットコースターに逆さ吊りにされて振り回されているみたいだ。
吐き気をこらえながら史香は歩行者用信号の柱につかまってうずくまった。
経験したことのないめまいに襲われ、ぎゅっと瞼を閉じる。
目を開けてしまうと吐き気がこみ上げてくる。
――どうしよう。
助けを求めようにも、周囲には誰もいない。
かろうじてスマホをつかんだ時には、歩道の石畳に倒れていた。
信号が変わり停止線にロングボディのセダンが止まる。
歩行者信号が点滅し、切り替わろうとした時だった。
セダンの後部ドアが開き、細身のスーツ姿の男が姿を現した。
史香のもとへと駆け寄ると声をかけたが、彼女は顔を向けることすらできなかった。
運転席からも背筋の伸びたグレイヘアの男が出てくる。
「蒼馬様、救急車を手配いたしましょうか」
「いや、この車で病院へ運んだ方が早いだろう。佐久山、手を貸してくれ」
「かしこまりました」
若い男は自分の上着を脱いで史香の体をくるむと、二人がかりで彼女を後部座席に乗せた。
黒塗りのセダンはノースエリアへ向かって静かに去っていった。
◆
セダンの後部座席に横たわる史香を前席に腰掛けた蒼馬が見守っている。
ロングボディセダンの座席は、スイッチ一つで対面式のリムジン仕様に変更できる。
シートヒーターが効いているから体が冷えることはないだろう。
蒼馬はスマホを取り出した。
「ああ、先生、道源寺です。道に倒れていた女性を今から連れていきますので、救急の受付をお願いします」
スピーカーから聞こえてくる困惑気味の声はベイサイドヒルズ総合病院の院長だ。
『蒼馬さんのお知り合いですか』
「いえ、通りすがりです」
『症状は?』
「分かりません。交差点の角に倒れていたので佐久山と車に乗せて寝かせています。外傷はないようなので事故ではないと思います。目を閉じていますが、意識はあるようです。あ、ええと、嘔吐していますね」
蒼馬は横向きの史香の口からこぼれた吐瀉物をハンカチで拭った。
『喉に詰まると呼吸困難になりますので、横向きにして気道を確保してください』
「はい、大丈夫です。息はしています」
『そうですか。その方の身元は分かりますか』
「ああ、社員証をぶら下げたままですね。ええと、黄瀬川史香。ヒルズコマース社員のようです」
『分かりました。受け入れ準備をしておきますので、救急入口へ車を回してください』
「はい、お願いします」
通話を終えたところでメッセージが光った。
《蒼ちゃん、今から会えない?》
女優の久永里桜からだ。
耳元でささやかれるような声が聞こえた気がした。
《無理だ》
《誰かいるの?》
《病院に向かってる》
《事故?》
《急病人》
《本当?》
嘘じゃない、と打っているうちに返信する気が失せてスマホをしまう。
里桜はベイサイドヒルズノースエリアに住む証券会社社長の娘だ。
母親が歌劇団のトップスターだった関係で、生まれる前から女優になる運命だったと公言するような自信家で、蒼馬とは幼なじみになるが、それ以上でもそれ以下でもない。
ただ、強力なコネを持つ母親が娘の後ろ盾になっているとはいえ、それだけでのし上がれるほど芸能界は甘くない。
《衝撃スクープ!》と題した記事がネットに流れたのは先週のことだった。
もちろん、事務所が映画の話題作りとしてあえてリークしたやらせ記事だ。
大物俳優のスキャンダルをもみ消す代わりに、若手女優の話題を写真誌に提供するという一石二鳥の作戦だ。
主演映画の公開に合わせて交際を匂わせるのに協力しただけなのに、里桜はこんなメッセージを毎晩送ってくるようになっていた。
今のところ蒼馬には交際相手や婚約者はいないし、学生時代の淡い思い出に免じて暗黙の了解で話を合わせ、人目のあるヒルズストリートのレストランで食事も共にしたものの、これではまるで本気みたいではないか。
約束が違うと突き放したくもなる。
眉のあたりを指で揉んでいるとセダンが病院の敷地へ入って行った。
史香は息をしているが、きつく目を閉じたままだ。
「もうすぐ医者に診てもらえますからね」
声をかけても返事はない。
ベイサイドヒルズ総合病院はセレブ御用達とあってプライバシー保護が徹底している。
病院の入口は外部からの目にさらされないように地下にあるし、あらかじめナンバーを登録された車両しか敷地内には入れない。
救急入口でラグビー選手のような男性スタッフが三人待ち構えている。
横付けされた車のドアを中から開けると蒼馬はそのまま外に出た。
素人が手を貸すよりも専門家に任せた方が早い。
実際、スタッフは横たわった史香を手際よくストレッチャーに移すと、あっという間に院内へ消えていった。
車内に残された嘔吐物のついた蒼馬のスーツを、運転手の佐久山がビニール袋へ入れ、脱臭処理をおこなう。
「あとは私どもにお任せください」と、受付スタッフがホテルのコンシェルジュのように頭を下げた。
「一応私の名刺を置いていくから、渡しておいてください。あと、快復後に相手の許可があればお見舞いに伺いたいと伝えておいてもらえますか」
「かしこまりました」
再びセダンに乗り込もうとすると、運転手が予備の上着を広げて待ち構えていた。
「お風邪を召しますといけませんので」
「ありがとう、佐久山」
肌触りのいいスーツに袖を通し、後部座席に乗り込むと、運転手は軽く会釈しながらドアを閉めた。
病院の地下からロングボディのセダンがゆっくりと姿を見せたかと思うと、エンジンをうならせることなく長い櫻坂をなめらかに駆け上がっていく。
まもなく日付が変わろうとしていた。
◆
ベイサイドヒルズノースタウンの南ゲートからやや櫻坂を下ったところにある私立櫻坂学園は富裕層の子女が通う初等部からの一貫校だ。
ノースタウンの住人はどこへ出かけるにもお雇い運転手による送迎が当たり前だが、南ゲートから櫻坂にかけての通学路は朝夕の時間帯に自治会が雇った警備員が等間隔に並んで交通整理にあたるため、生徒は安全に通うことができる。
初等部の頃は里桜を学校まで連れていくのが蒼馬の仕事みたいなものだった。
マラソンが嫌いとか、算数の宿題をやっていないなどと、里桜は毎日のように登校拒否をしていた。
ただそれはべつに甘やかされて育ったわがままというのではなく、むしろ幼い頃から自分の運命を自覚していて、やりたいことがはっきりしていたからだったのだろうと蒼馬はとらえていた。
そんなふうに自分を理解してくれる蒼馬を里桜は慕っていて、まわりからは兄妹のように思われていた。
学年が四つ違っていて中高で在学期間は重なっていなかったものの、校舎が別なだけで敷地は同じだったから、昼休みなどはいつも里桜が高等部の蒼馬のクラスへ押しかけていた。
中高で生徒会長だった蒼馬は当然女子からの人気も高かったが、里桜が番犬のようにまとわりついていたせいで、告白されても交際に発展することはなかった。
『蒼ちゃんには私がいるじゃん』
ただ、お似合いのカップルと言われていた二人だが、里桜が無理矢理せがんだキス以上の関係にはならなかった。
『蒼ちゃんはお兄ちゃんなんかじゃないよ』
腕に絡みついて迫られてみても、蒼馬にとって里桜は妹のような存在に過ぎなかった。
桜舞い散る季節を重ねるうちに、その差は広がっていくばかりだった。
『蒼ちゃんが卒業したら、二人で櫻坂を歩けなくなるのかな』
高等部進学を機に里桜が本格的に芸能界デビューしたことをきっかけに、プライベートで二人が一緒にいる姿を見ることはなくなっていた。
◇
目を覚ました時、史香は夢の続きを見ているのかと、しばらくぼんやりと周囲を見回していた。
リゾートホテルのスイートルームのような部屋に天蓋付きのベッドがあり、自分はそこに横たわっている。
ソファセットの置かれたリビングスペースの隣には、大きな鏡の備わるドレッシングルームが続き、広いバスルームとトイレは別になっているらしい。
ただ、そこが病院であることは、自分の腕につながれた点滴のチューブと、ベッド脇に並ぶ心電図などの医療器械から理解できた。
服装も水色の病院着だ。
――そうだ、私……。
ひどいめまいで倒れたんだっけ。
あの嫌な視界のゆがみを一瞬思い出しそうになって記憶から追い払う。
幸いなことに、もう症状は治まっているらしく、頭を振っても視界は安定しているし、吐き気もない。
ただ、あまりにも寝心地が良すぎてベッドから起き上がる気分にはなれなかった。
不謹慎で申し訳ないけど、このまま一生ここから出られない方が幸せかも。
腕を伸ばして大きくあくびをしていると、ドアが開く音が聞こえた。
「お目覚めですか?」
まるでメイドさんかと思うような物腰で看護師さんが入ってきた。
はしたない姿を見られたかと慌てて布団を直す。
「具合はいかがですか?」
「はい、もう、めまいはありません」
「それは良かったですね。今、朝食をお持ちしますね」
朝食と言われて朝なのかと気づく。
「あの、ここは?」
「ベイサイドヒルズ総合病院ですよ。夜遅く救急科に到着して、検査と処置の後、こちらのお部屋で寝ておられました」
「どなたか、通報してくださったんでしょうか?」
「いえ、通りかかった方がお車で連れてきてくださったそうです」と、看護師さんがサイドテーブルから名刺を取り上げた。「こちらの方です」
史香はそれを受け取り、窓から差し込む光に当てて眺めた。
《道源寺蒼馬》
ただそれだけだった。
肩書きも連絡先も書かれていない。
「この方はどのような方ですか?」
看護師さんは柔和な笑みを浮かべただけで答えなかった。
「後で担当の先生からお話があると思いますので、先に朝食をご用意いたします」
針だけを残して点滴のチューブを外し、いったん看護師さんが退室すると部屋がまた静かになる。
なんだろう。
ずいぶん変わった名刺だな。
名前だけなんて、もらっても困るというか、逆にどんな場面で使うんだろう。
と、そんなことを考えていると、さっきの看護師さんが戻ってきた。
なぜか手に白い布をかけて持っている。
あれ、朝食を持ってくるって言ってなかったっけ。
今からシーツを交換するのかな?
一晩だけだからまだ替えなくてもいいと思うんだけど。
ところが、看護師さんはベッドではなく、窓辺に置かれた丸いテーブルの前に立って白い布を広げ始めた。
――ああ、テーブルクロスか。
病院なのに、ホテルのルームサービスでも頼んだのかと錯覚してしまいそうな光景だった。
しかし、それは単なる準備に過ぎなかった。
ドアが開き、次に姿を現したのはコックの帽子をかぶった紛れもないシェフだった。
後ろにワゴンを押した助手を数人従えて部屋に入ってくると、史香に一礼してメニューを差し出す。
「おはようございます。本日調理を担当する梅原と申します。さっそくですが、本日のメインとなる料理をお選びください」
差し出された見開きのメニューにはサラダ、ソーセージとホウレンソウのソテー、選べるメインとして『エッグベネディクト』と『フレンチトースト』が書かれていた。
メニューを眺めている間もテーブルの上には静かに食器が並べられ、助手の人がソーセージを焼き始めていた。
「エッグベネディクトはオーソドックスなポーチドエッグにカマンベールチーズを添えた物。フレンチトーストはスクランブルエッグでアレンジした物をお作りいたしますが、どちらになさいますか」
「え、ええと……」
病院の食事といえばトレーに載った味のしない煮魚とかそんなのをイメージしていたせいで、史香の思考は停止してしまって選ぶことができなかった。
「あ、あの……ええと、そうですね、ごめんなさい、選べなくて」
「よろしければ両方お作りいたしましょうか」
「え、いいんですか?」
「ええ、医師からは特に制限を受けてはおりませんので。むしろ、たくさん召し上がって体力をつけていただいた方がよろしいかと」
横で看護師さんも微笑んでいる。
「胃腸の病気ではないので、食事に制限はないと先生から指示を受けていますので、どうぞお好きなものをお好きなだけお召し上がりください」
とても病院とは思えないようなおもてなしに史香の心は弾んでいた。
ふだんはあまり朝は食べられないのに、テーブルの上に並べられた色鮮やかなサラダや焼き上がったソーセージを見ているだけで食欲がわいてくる。
昨夜の夕飯を食べ損ねて空腹だったにしても、こんな気分は久しぶりだった。
シェフがワゴンに設置されたコンロで丁寧にエッグベネディクトを調理している間に、看護師さんが掛け布団を畳んでスリッパを用意してくれる。
「どうぞテーブルの方へ」
「ありがとうございます」
席に座ると、曇りなく輝くナイフとフォークを取り上げ、さっそくサラダと前菜をいただく。
みずみずしいレタスに茹でたアスパラとブロッコリーが添えられ、お皿に模様として描かれたドレッシングはそれぞれ味が違う。
ソーセージはあえて皮が破れるほどに焦げ目がついてスモーキーな肉汁がじゅわりと流れ出し、ホウレンソウとうまい具合に絡み合って絶妙な味わいを楽しませてくれる。
「果物も先にお出ししますね」と、看護師さんがフルーツを盛り合わせたお皿を置く。「のどごしの良いフルーツを先に召し上がると食が進むという方もいらっしゃいますから、カジュアルにお好きな順番で召し上がってくださいね」
「ありがとうございます」
まるでオーベルジュの朝食のように本格的なのに、肩肘張らなくていいのはありがたい。
熱帯の香りにむせそうな完熟マンゴーを口に入れると、舌の上で砂糖菓子のように一瞬でとろけ、飲み込んだことすら忘れてしまうほどに風味だけを残してあっという間に消えてしまった。
「お待たせいたしました」と、シェフからお皿が差し出された。「エッグベネディクトでございます」
ポーチドエッグの土台に薄切りカマンベールを並べ、ナイフを入れると黄身がとろりと流れ出し、チーズと一緒にオランデーズソースと絡み合う。
「フレンチトーストも少しお時間をいただきますので、ごゆっくりお召し上がりください」
「お願いします」
昨日交差点でしゃがんだ時はこのまま自分が死ぬんじゃないかと思ったくらいだった。
なのに、一晩たって朝を迎えたらこんな天国みたいな場所にいるなんて、と史香は自然と沸き起こる笑みを押さえることができなかった。
――本当に天国にいるわけじゃないよね。
ナイフを置いてそっとほっぺをつねるとちゃんと痛かった。
でもこれ、夢じゃないってだけで天国かどうか見分ける方法じゃないか。
そんなどうでもいいことを考えているうちに、エッグベネディクトを完食していた。
ああ、もっとちゃんと味わえば良かった。
あまりにもおいしいものを食べると、そんな余裕はなくなるらしい。
「フレンチトーストでございます」
次に出されたお皿を見て史香は目を丸くしていた。
――何これ?
その様子を見てシェフが満足そうにうなずく。
「こちらのフレンチトーストは卵液につけただけでなく、スクランブルエッグをまとわせ、さらにバーナーでキャラメリゼしたものでございます」
表面は茶色くパリッとしていて、中はふわっふわ、なのにパンはしっとりしていて、なんとも手の込んだ味わいだった。
絵画というか彫刻というか、もうこれ料理というよりは芸術じゃないの。
あっという間にフレンチトーストも完食し、史香は最後にもう一度マンゴーをじっくりと味わった。
こんな贅沢な料理を好きなように食べられるなんて、ここが病院だなんて信じられないな。
「紅茶をどうぞ」
下げられた皿の代わりに置かれた紅茶は香りが深く、カップに口を近づけただけで鼻がすっとする。
なのに味は意外とあっさりしていて、おなかに優しそうだった。
何もかもが計算され尽くしている。
そんな朝食を史香は心から堪能していた。
「ごちそうさまでした。とてもおいしかったです」
「それは何よりです。ありがとうございました」
調理スタッフがみな頭を下げて病室を出て行く。
ベッドへ戻ってスリッパを脱いだ史香に看護師さんが薬を差しだした。
「こちらはめまいのお薬です。症状が治まっても朝は飲むようにと指示が出ています」
「分かりました」
水で流し込んでベッドに横になると頭がぼんやりとしてくる。
「おなかいっぱいでまた眠くなりましたか?」と、看護師さんが布団を掛けてくれる。
「ええ、本当においしかったです。病院食とは思えませんね」
「ノースタウンのオーベルジュと契約してますからね」
看護師さんは当然といった口調で笑みを残すと病室を出て行った。
オーベルジュみたいじゃなくて、本当にそうだったなんて。
いったいこの病院、どうなってるんだろう。
◇
明るい光の入るスイートルームのような病室とはいえ、ベッドに横になっているだけだと、ふつうの病院と案外変わらないものだった。
ふと、会社のことを思い出す。
そうだ、連絡しなくちゃ。
それと同時に、嫌な気持ちもよみがえってきて思考が停止してしまう。
だけど、こんなところにいたらみんなに迷惑がかかってしまう。
課長にも進捗報告しないと。
良くなったんだから早く退院して会社に戻らないと。
ベッドの上で葛藤していると、ドアがノックされた。
「失礼しますよ」
白衣の男性が入ってきて頭を下げる。
「担当医の石本と申します」
史香も軽く頭を下げて迎え入れた。
「朝食も召し上がったようですね」
「はい。あの、私……」
「昨夜帰宅途中にめまいの症状で倒れたようで、こちらへ搬送された時に検査した結果では、良性の突発性めまいという診断になりました」
「それはつまり……」
「分かりやすく言えば、突発的に起きためまいで、脳出血などの重篤な原因があるものではないということです」
かえってよく分からない説明だ。
「めまいの原因にはいろいろあるのですが、はっきりとした異常があってそのせいで起きたものであれば、その原因を治療しなければなりませんし、再発の可能性もあります。ですが、黄瀬川さんの場合は機能上の問題はなく、再発の可能性も低いということです。ですから、回復すればそれ以上の治療の必要はありませんし、すぐに退院できますよ」
「ああ、そうですか」
「おそらく風邪のような症状から耳に炎症が起きて、それが原因で耳石がずれてめまいが起きたのではないかと思います」
「耳ですか」
「平衡感覚は耳で感じ取っていますからね」と、石本医師がタブレットに耳の内部の解説画像を出す。「よく、バットをおでこに当ててぐるぐる回ってから走るという遊びがありますよね」
「ええ、真っ直ぐ走れなくなるんですよね」
「はい。それが半規管と前庭器官の作用なのです。そこに何らかの影響が出て、めまいが生じたと考えられます」
お医者さんはタブレットを置いて史香にたずねた。
「ストレスや過労などに心当たりは」
ありすぎてつい笑みが浮かんでしまった。
「仕事が忙しかったので、知らないうちに疲れがたまっていたのかもしれません」
「なるほど」と、お医者さんは真剣な表情でうなずいた。「そういったことも行きすぎれば十分に原因となりますからね。やはり適度な休暇は必要ですよ」
それは言われなくても分かる。
だけど、それができれば誰も苦労はしない。
もちろんそんなことをここで吐き出してもどうにもならないから史香は言葉を飲み込んでしまった。
「それで、退院はいつごろ?」
「過労もあるようですから、今日はゆっくり休んでいってください。明日の昼ということにしましょう」
よけいなことを正直に言わなければ良かったかと史香は後悔した。
「今日では駄目ですか」
「そういった焦りも体には良くありませんよ」
「会社に連絡しないと」
「ああ、それでしたら」と、お医者さんがサイドテーブルの名刺を指した。「こちらの道源寺さんが社員証に書いてあった会社に連絡をしてくださったようですよ」
「え、そうなんですか」
それは大変申し訳ないことをさせてしまったと恐縮していると、お医者さんが思いがけないことを言い出した。
「ある意味、運が良かったかもしれませんよ。道源寺さんの車が通りかかって、直接ここに搬送されたのですから」
「あの」と、史香は名刺を取り上げてたずねた。「道源寺さんという方はどのような方なんですか?」
「ここの病院のオーナーです」
オーナーってどういうこと?
「この病院は道源寺グループの経営なんですよ。正確に言えば、蒼馬さんはグループを統括する社長の息子さんです」
病気の診断名と同じで、言い方を変えてもらってもやっぱり分からない。
なんかすごいお金持ちっぽい感じなんだろうか。
先生が口に拳を当てて咳払いをした。
「その道源寺さんですが、お見舞いに伺いたいそうですが、どうしますか」
「ああ、そうなんですか。では、よろしくお伝えください」
倒れていたところをわざわざ病院まで運んでくださったのだからお礼を言っておいた方がいいだろう。
そういえば、スマホはどうしたのかな。
「私の荷物はどこかにありますか?」
「こちらのロッカーにあると思いますよ」と、お医者さんが作り付けの戸棚の扉を開けてくれた。
まるで自分の家のクローゼットであるかのように服と鞄とピカピカに磨かれた靴がそろえて並べられている。
「私の方からの説明は以上です。他に何かあれば看護師を通じていつでもお呼びください」
「はい、ありがとうございました」
石本医師が出て行った後、史香はベッドから下りて鞄の中を見てみた。
スマホは入っているけど充電が切れている。
枕元のコンセントに電源コードをつないでスマホをつけると、連絡済みだからか、仕事関係のメッセージは入っていなかった。
――ふう。
過労は良くないって言われたけど、私にはどうしようもないよね。
張り詰めていた糸が切れてしまうと、やりがいも興味も責任感も失われてしまう。
これまで頑張ってきたことが急に色あせていく。
学生時代は勉強一筋、先生の言うことに従って良い成績を取れば褒められた。
社会人になっても仕事ばかり。
趣味もない、カレシなんていたこともない。
今まで全然おかしなことだとも思わなかったけど、どこかで心も体も悲鳴を上げていたのかな。
でも、今さら、どうすればいいの?
なんか、もういいや。
会社に連絡する気も失せてしまい、史香はスマホを布団の上に投げ出して目を閉じた。
◇
昼近くになって看護師さんがやって来た。
「道源寺様がお見舞いに来てますが、お通ししてよろしいでしょうか」
「あ、はい、どうぞ」
史香はベッドの上に体を起こして病院着の前を合わせた。
でも、そういえば、シャワーも浴びてないし、髪の毛もボサボサかも。
「あ、え、ちょっと待っ……」
「具合はどうですか」と、よく通る男の声が部屋に入ってきてしまった。
「あっ、ひゃいっ」
精一杯手櫛で髪をなでつけながらベッドの上で背筋を伸ばす。
「おかげさまでもう大丈夫です」
天蓋の白いレース越しに近づいてくる相手は長身で歩幅も大きく、靴音が堂々としている。
「道源寺蒼馬と申します」
レースのカーテンがめくられ、相手の顔が見えた。
意志の強そうな眉に彫りの深い二重の目は瞳がやや茶色がかって澄んでいる。
まっすぐに見つめられて史香は布団の下でギュッと手を握った。
「黄瀬川史香と申します。このたびは通りがかりに助けてくださったそうで、ありがとうございました」
「たいしたことではありませんよ。医療法人を経営する我が家では人助けは当たり前ですから」
『医療法人を経営する我が家』という言葉自体がもう史香にとっては当たり前の世界ではなかった。
「ここの病院の食事はとてもおいしいですね。レストランみたいでびっくりしました」
「喜んでもらえて何よりですよ」
明らかに生地の艶が違うスーツに身を包んだ男の声は自信に満ちあふれてはっきりしているのに、まるで耳元でささやかれているように穏やかだった。
耳が熱くなってしまいそうで、史香は気になっていたことをたずねてみた。
「あの、ぶしつけな質問ですけど、治療費はどのように……」
「ああ、それでしたら心配はいりませんよ」と、蒼馬が両手を広げた。「私の身内ということで処理しますから」
――ということは?
「無料でいいっていうことですか?」
「ええ、たいした金額じゃありませんから」
へえ、そうなんだ。
でも、高級ホテルの朝食だって、無料で済む金額じゃないよね。
しかも、シェフまで来ちゃうんだし。
まるっきりただというのは申し訳ない。
「あの、全額負担していただくのは心苦しいので、いくらかでも……」
「おそらく五十万円くらいですが」
――ん?
えっと……。
聞き間違いじゃないよね。
「ゴジュウマンエン?」
治ったはずのめまいが再発しそうだった。
健康保険なら高額療養費制度で上限があって、一晩入院しただけなら十万円にも行かないはずだ。
余計なこと言うんじゃなかったと思っても後の祭りだ。
「ここは先進医療と完全個室病棟を売りにした病院で、全額自費診療ですからね。これでも案外良心的な方ですよ。富裕層には感謝されています。クレームが来たことはありません」
そりゃあ、庶民は病気よりも請求書が怖くて、こんなセレブ病院で診てもらえないからでしょうよ。
「でも、心配いりませんよ。こちらで処理しておきますから」
「じゃあ、お言葉に甘えて、お世話になります」
ホッとした表情を見せたその瞬間だった。
蒼馬が思いがけないことを切り出した。
「一つだけ条件があります」
「なんですか?」
「明日の午後、ノースタウンのオーベルジュ『ベリーズ・ルージュ』でうちの会社のパーティーがある。それに私と一緒に出席してもらいたい」
急に有無を言わさぬ圧力を感じる口調になった。
「パーティーとは、どのようなものですか」
「会社の創立記念パーティーですよ。政財界のお歴々が集まる退屈なパーティーで申し訳ないのだが、是非お越し願いたい」
「私が? 何のためにですか?」
長身の蒼馬が上半身をかがめて史香に顔を近づける。
「退屈しのぎですよ。私の話し相手になってくれれば助かるんでね」
「話って、何を話せばいいんですか」
男が史香の耳元でかすかに笑った。
「スピーチを頼もうというのではありませんよ。ただ単に雑談の相手をしてくれればいい。それだけです」
分かるようで分からない理由だ。
そんな相手、べつに私でなくてもいいだろうに。
史香は混乱したまま何度もまばたきをした。
「来るか、来ないか。好きな方を選んでください。来てもらえるなら、お約束通り、入院費用は全額無料にしますよ」
それを言われてしまうと抵抗できなくなる。
仕事一筋でお金を使う暇もなかったから、それくらいの貯金はあるけど、こんなぼったくり病院に払いたくはない。
お料理はおいしかったけど……。
「ああ、そうそう」と、蒼馬が真っ直ぐに体を起こしながらわざとらしく手を叩く。「うちの車であなたを病院に搬送する途中で、あなたは嘔吐しましてね。私のスーツとハンカチを処分することになってしまったんだ」
「それは申し訳ありませんでした」
「いや、いいんだ」と、マクベスを演じる俳優のように両手を開く。「弁償なんて気にしないでくれ」
そんな言い方されたら、めちゃくちゃ気になるじゃないよ。
叱られた生徒のように史香はギュッと目を閉じた。
「イタリア製のオーダースーツに英国王室御用達のハンカチなんて、お金を出せば買える物にたいした価値はないからね」
ああ、もう。
史香はくわっと目を見開いた。
「分かりました。行かせていただきます」
男が柔和な笑みを浮かべて手を差し出した。
「では、取引成立だ」
点滴の針が刺さったままの腕を史香は渋々差し出した。
握手かと思ったら、男が両手で包みこんだ。
意外とふんわり柔らかな男の手もあることを史香はこの歳になるまで知らなかった。
「では、明日の昼にお迎えに上がります」
道源寺蒼馬はきっちりと腰を折ってお辞儀をしたかと思うと、握っていた史香の右手に軽く口づけを残して去っていった。
なんでこんなことになっちゃったんだろう。
静かになった病室で、右手の甲をさすりながら史香はため息をついた。
◇
お昼はスカンピとムール貝のパスタ、夜は職人さんが目の前で握るお寿司。
翌朝はまたシェフの梅原さんが作る完璧なパンケーキと、病院なのに太って出てくるのではないかというくらい食事を堪能してまた昼を迎えた。
めまいどころか、すっかりリフレッシュして体が軽くなったような気がする。
見るのが怖くてバスルームの体重計には乗らなかったけど。
あれほど心配していた会社には結局連絡しなかった。
向こうからも何も聞かれなかったからだ。
課長から業務の進捗具合を聞かれるかと思っていたのに、何のメッセージも入っていなかったし、後輩の菜月からも、気づかうメッセージは来ていない。
自分はその程度の人間だったかと思うと、会社に染まってきた五年間が何の価値もないように思えて悲しかった。
でも、大きなバスタブに薔薇の花弁を浮かばせたお風呂につかっていると、そんなことはどうでも良くなった。
全身を入念に洗い、退院に備えて身支度をする。
戸棚にしまわれていたパンツスーツとブラウスは、よく見るといつの間にかクリーニングに出してあったらしく、ぴっちりとアイロンがかけられていた。
だけど、こんな通勤用のスーツでいいんだろうか。
史香はおしゃれのセンスがないと自覚していた。
パンツスーツは意外と動きやすいし、いちいち何を着るか考えなくていいから楽だと思っていたけど、パーティーに着ていくのにふさわしいのかは分からない。
会社関係で出席したパーティーはスーツだったけど、それはもちろん仕事の一環だったからだ。
政財界の偉い人が来るパーティーって言ってたから、脇役は地味なスーツでいいのかな。
メイクも変にいじって失敗したら恥ずかしいからいつも通り無難に済ませておく。
「道源寺様がいらっしゃいました」と、看護師さんがやって来た。
「はい、どうぞ」と、史香は髪の毛をなでつけて振り返った。
入ってきた蒼馬はライトグレーのスーツにネイビーベースのストライプネクタイを締めている。
キュッとすぼまった結び目にできたえくぼのようなアクセントにも隙がない。
こんなおしゃれな結び方ができるのもシルクだからだ。
自分は明らかに釣り合わない。
「あの、こんな格好でよろしいでしょうか」
「ああ、そうですね」と、一瞬で全体を見回しうなずく。「その方がいいでしょう」
――ん?
どういう意味?
真意をたずねる間もなく、蒼馬が史香のカバンを持ち上げて歩き出してしまったので、慌てて後を追うしかなかった。
地下駐車場はホテルの車寄せのようにドアスタッフやアテンダントが待機している。
目の前に付けられたロングボディのセダンに史香は尻込みした。
――これ、総理大臣とかが乗るやつだよね。
「どうかしましたか」と、蒼馬が運転手に荷物を託す。
「あの、靴は脱いだ方がいいんでしょうか」
気後れして間抜けな質問をしてしまい、顔が熱くなる。
「そんなことは気にしなくて結構ですよ」と、微笑みが返ってくる。「車内で嘔吐したことも記憶にないんでしょうし」
――うわあ、そうだった!
はい、申し訳ございませんでした。
土下座して逃げ出したくなる気持ちを抑えて、病院のスタッフが開けてくださったドアから車内に乗り込む。
照明を反射してイルミネーションのようにきらめく黒塗りのセダンが滑らかに動き出すと、大きなボディはまったく揺れることなく、車内は外界と切り離され、隣に座る蒼馬の息づかいが伝わりそうなほど静かだった。
「緊張していますか?」
不意にたずねられて顔を向けると、蒼馬は前を向いたまましゃべっていた。
「ええ、まあ」
「それでいいんです」
「どういうことですか?」
「あなたは何も知らない」
ええ、だって、何も教えてくれないのはそっちですよね。
蒼馬は窓の外に視線を向けて淡々と話を続けていた。
「生まれつきの女優と対決するんだ。演技で勝てるとは思えない。本当に何も知らない方が都合がいい」
そして、ようやく口元に笑みを浮かべて史香に顔を向けた。
「俺も鬼の演出家にはなりきれそうにないんでね」
話の内容がまったく理解できないまま車がオーベルジュの敷地に入っていく。
まるで深い森に迷い込んだかのような通路を進んでいくと、ヨーロッパの城館が姿を現した。
この城館はスコットランドから本物の貴族の館を移築したものとして知られていて、ツインタワーのガラス張りのエレベーターから森の上に顔を出す塔の先端だけ目にしたことはあるものの、会員以外は敷地にすら入ることができないので、史香が全体を見たのはこれが初めてだった。
城館前の車寄せにセダンが止まると、バチカンの衛兵に似た制服をまとったスタッフがドアを開けてくれた。
「ようこそ道源寺様、お待ち申し上げておりました」
蒼馬に続いて史香も車外へ出ると、コートを着ていないせいで思わず自分の身を包むように腕組みをする。
「寒いですか。早く中に入りましょう」
気がつくと史香の肩には蒼馬の腕が回されて、二人は顔を寄せ合うように馬蹄型の曲線を描く優美な階段を上っていた。
ちょっと、近すぎません?
見られて恥ずかしいという気持ちと、人前で突き放したら失礼かという葛藤で混乱したまま城館の内部へと招き入れられる。
玄関ホールで待ち構えていたスタッフが蒼馬にアテンドして館内を進んでいく。
小さな部屋が並ぶ廊下を抜けたところが大ホールになっていて、すでにたくさんの人が集まっていた。
男性はみな蒼馬のように見ただけで高級品と分かるスーツで、女性は年配の方々ですら華やかなパーティードレスを身にまとった人たちばかりで、一着買うともう一着無料の量販店スーツしか着たことのない史香はすでに尻込みしていた。
「ありがとう、ここでいいよ」
スタッフにお礼を言って蒼馬は史香の肩から手を離した。
「俺は招待客にあいさつをしてくるから、好きな物でも飲んでいてくれ。医者は、酒でもなんでも大丈夫だと言っていたよ」
「あ、そうなんですか」
じゃなくって、こんなところに私一人で置いていかないでくださいよ。
しかし蒼馬はすでにお客さんの中に紛れてしまって、一人置き去りにされてしまった史香はしかたなく飲み物や軽食の並ぶテーブルへ歩み寄った。
シャンパングラスをトレーにのせたスタッフと目が合うけど、一瞬ためらってしまい、もらうことができなかった。
見ていると、みな慣れた様子でスタッフに気軽に話しかけてお酒をもらっている。
どう考えても自分は場違いだ。
と、いきなり後ろから声をかけられた。
「ああ、君ね、同じ酒をもう一杯くれたまえ」
はい?
振り向くと、そこにはなんとなく見覚えのあるおじいさんがいた。
差し出されたグラスを思わず受け取ってしまったけど、同じお酒って何?
ていうか、私、スタッフじゃないんで分からないんですけど。
困ったおじいさんだなと心の中で舌打ちをしたその瞬間、史香の手がグラスを落としそうなほど震え出した。
――森泉元総理!?
学生の頃ニュースで毎日見ていたあの人?
御本人?
「たっ、ただいまもらって参ります」
あらためてまわりを見てみると、国会で居眠りばかりしている大臣と選挙特番の顔と言われる学者さんが笑いながら話していたり、子供の頃に親が見ていたサスペンスドラマの女王がキャビアの載ったカナッペを口に入れたりしている。
崩れそうな膝をなんとか持ちこたえて史香は近くのスタッフにグラスを渡した。
「森泉元総理がお酒のおかわりだそうです。あ、同じ物だそうです」
「かしこまりました。すぐにお持ちいたします」
すごいな、同じ物で分かるのか。
と、見ていると、スタッフはテーブルの陰から史香も見慣れたアニメキャラの描かれたボトルを取り出した。
あれ、それ、クリスマスに子供が飲む炭酸飲料ですよね。
ポンと音を立てて栓を抜くと、きれいに磨かれたシャンパングラスにシュワッとドリンクが注がれる。
「森泉様はお酒を飲まれないんですよ」と、スタッフがそっと教えてくれる。
「あ、そうなんですか」
「人からお酒を勧められて断らなくて済むように、つねにドリンクの入ったグラスを持っているようにしているのだそうです」
へえ、政治家って大変なんだな。
「でも、甘いドリンクがおいしくてつい飲んでしまって、お医者さんに怒られるんだそうですよ」
スタッフは史香に代わってグラスを元総理に届けに行ってくれた。
談笑の輪の中へ入っていくこともできないし、かといって、歩き回っていると今みたいにスタッフと間違われそうなので、史香はグラスを持って壁際に立っていることにした。
やっぱりこの地味なスーツだとそう思われても仕方がないよね。
居心地が悪くてシャンパンの味もよく分からない。
退屈しのぎに話し相手をしろと連れてきたくせに、蒼馬は客たちへのあいさつまわりで忙しく、史香のことなど忘れているかのようだった。
私の方が退屈なんですけど。
手持ち無沙汰で帰りたくなった頃、ホールの入り口がざわつきだした。
スポットライトもないのに急に華やいだような気がした。
「蒼ちゃーん!」
年の割に、シックなドレスに身を包んだ若い女性が手を振っている。
自分に視線を集中させ、見られたい自分の姿をそのまままわりに印象づけることのできる女性だ。
周囲の客から感嘆の声が上がる。
「久永さんの娘さん?」と、史香のそばで年配の女性たちが話している。
「お母様はいらしてないのかしら」
「髪型を真似したり、私も憧れたわ」
「里桜ちゃんも若い頃のお母様にそっくりよね」
里桜は花から花へと舞う蝶のように人の間をすり抜けて蒼馬へと向かっていく。
「ねえ、蒼ちゃん、お母様のドレスをアレンジしてみたの。どうかしら?」
だが、蒼馬は呼びかける彼女に視線を向けることなくまっすぐに史香のところへやってきた。
そして、いきなり背中に手を回し彼女を抱き寄せた。
「ちょ、何す……」
抗議はキスで塞がれていた。
はじめはただ唇を重ねるだけ。
ぎこちなく応じる史香の緊張を和らげるように蒼馬が舌先で頑なな唇をもてあそぶ。
一度侵入されたら抵抗などできなかった。
フレンチトーストのようにしっとりと弾力のある舌が甘く滑らかに絡みつく。
息ができずに離れようとしても腰に回された腕が許さない。
人前でこんなことをするなんて、信じられない。
史香は全身の力で手を突き出し、蒼馬を押しのけた。
「いきなり何するんですか」
その返事は聞かされず、蒼馬に腕を引っ張られ、倒れるかと思ったその瞬間、まるで妖艶なタンゴを踊っているかのように腰を支えられ、男の微笑みが覆い被さってきた。
「ただの演技だよ。協力してくれ」
「初めてだったんですけど」
悔しさで涙が浮かぶ。
なのに、史香は彼に体を支えられたまま動けなかった。
「演技って、何の演技ですか」
「台本はない」と、蒼馬は片目を細めた。「アドリブで頼む」
――無茶でしょ。
拒む間もなく、再び史香の唇は蒼馬のキスで塞がれていた。
と、二人のもとへカツカツと靴音が近づいてきた。
「そ、蒼ちゃん……」
人目をはばからぬ口づけを交わす二人を、里桜が呆然と見つめていた。
横目でそれを確かめるとようやく蒼馬が唇を離した。
「彼女に嫌われたいんだ。俺を最低の男にしてくれ」
頬を寄せる仕草の流れで耳打ちされた史香は蒼馬をにらみつけた。
「もうすでに私に嫌われてますけど」
「なら、そのまま頼む」
蒼馬は笑みを浮かべると、史香の腰に回していた手を離し、そのまま里桜に向けて差し出した。
「やあ、いらっしゃい」
「ねえ、蒼ちゃん、これはいったい……」
「紹介しよう」と、史香の腰に再び腕が回される。「俺が今おつきあいしている……」
名前が出てこないらしい。
「あの、黄瀬川史香です」と、パンツの縫い目にきっちり手を添えて頭を下げる。
なんで私が協力してるんだろう。
思わず名刺まで差し出そうとしちゃったし。
自分から名乗って後悔がわく。
「おつきあいって」と、顔色を変えた里桜が蒼馬に詰め寄る。「蒼ちゃんの恋人は私でしょ」
「すまない」と、蒼馬は片手を上げて会場入り口に向かって歩き出す。「官房長官がお越しだ。ご挨拶してこないと」
「ちょっと、蒼ちゃん」
里桜は子供みたいに頬を膨らませて蒼馬の背中を見送っている。
知らない相手と置き去りにされた史香は軽くため息をついた。
――文句を言いたいのは私の方なんですけど。
丸投げして放置するのはうちの課長だけにしてよ。
「黄瀬川さんって言ったかしら」と、里桜が史香の視界に立ちはだかる。
すらりと背の高い相手に見下ろされて、史香は教師に叱られる生徒のようにうなだれてしまった。
――脚、きれいだな。
ついそんなことを考えてしまう。
こんな華やかなパーティーが日常で、人に見られることが当たり前の立場で、どうすれば自分の存在を印象づけられるかを常に考えているような人なんだろう。
高校時代、同級生に指摘されるまで脇毛の処理もしたことのなかった自分とはまったく接点のない相手だ。
「あなた、いったい何者?」
まわりに聞こえない程度の声で詰問される。
「ふつうの会社員です」
「なんで蒼ちゃんと知り合いなのよ」
「倒れていたところを助けてもらって」
「あなたが、あの時の?」と、里桜の目が細くなる。「スマホで言ってた急病人って」
「はあ、そうなんでしょうか」
曖昧な返事が相手を怒らせたらしい。
「ちょっと親切にされたくらいで、運命の人とか舞い上がってるんじゃないでしょうね」
――してませんけど。
冷静な表情がさらに相手をイラつかせていることに史香は気づいていない。
「あんたみたいなふつうの人が珍しいから、蒼ちゃんも興味を持っただけなんだからね」
社会人としての経験から、クレーマーを相手にすると、自分はどんどん引いて冷静になってしまう。
かなり見下されていることは分かるのに、あまり怒りはわいてこない。
実際、相手の言うとおりなんだろうし。
「私とあなたで、どっちが蒼ちゃんにふさわしいかなんて、言わなくても分かるでしょ」
「すみません」と、史香は一呼吸置いた。「あの、そもそもどちら様でしょうか」
「はあ?」と、肩をいからせながら里桜が拳を握りしめる。「ちょ、喧嘩売ってるの?」
「いえ、そういうわけでは」
「ああ、そういうことね」と、急に肩の力を抜いて腕組みをする。「まさか本物が目の前に現れるなんて想像もしてなかったから信じられないんでしょう」
心のこもらない営業スマイルを史香に向けて里桜が名乗った。
「久永里桜、女優よ」
――はあ。
史香の頭の中には芸能の知識は皆無だった。
学生の頃もアイドルに夢中な同級生から呆れられたほど興味がなかったし、社会人になって一人暮らしを始めてからは部屋にテレビを置いていない。
仕事で必要のない知識は無駄以外のなにものでもないのだ。
「有名な方なんですね。失礼しました」
褒めたつもりが逆効果だったらしい。
「それって、知らなかった相手に言う言葉よね」
うん、まあ、そうなので。
「あなたね、さっきからなんでそんなに冷静なのよ。ふつうはね、私みたいな芸能人を前にすると、一般人はみんな緊張してうまくしゃべれなくなったりするものなのよ」
「はあ、すみません」
世の中では有名なのかも知れないけど、史香にとってはやっかいなクレーマーに過ぎない。
しかも、自分とはまったく関係のない他人の問題で文句を言われているのだ。
――もう、私、帰ってもいいかな。
相手を怒らせることが目的だったのなら達成できたはずだ。
なのに、蒼馬を探そうと一歩間合いをおこうとしたら、里桜に腕をつかまれてしまった。
逃がさないんだからとばかりに、強引に史香を部屋の隅へと引っ張っていく。
「いいわよ、どうせあなただって、ネットの情報とか、そういうので私のイメージを誤解してるんだろうから」
いえ、本当に何も知らないだけなんです。
政治や経済のニュースはスマホに流れてくるのを見ているけど、興味のない芸能やスポーツ関係は最初からブロックしている。
里桜は史香の困惑に気づいていないのか、一人でまくし立てていた。
「私くらいの生まれつきの有名人になるとね、何をしたって親の七光りとか、背伸びして身の丈に合わない仕事に手を出してるとか、アンチのコメントばっかりネットにあふれるのよ。見ての通り、私、背伸びなんかしなくたって元々背は高いのにね。パリコレのランウェイに立ったことだってあるし、ブランドのアンバサダーだって務めてる。英語だってフランス語だって、ネイティブから習ってるし。努力だってしてるの。本当のことは何も分かってないくせに、匿名で言ってれば安全だと思ってるんでしょうよ。有名税って言うのかしら。どうせあなただって私のこと、そうやって笑ってるんでしょ」
「ごめんなさい」と、史香は手を振りながら頭を下げた。「私、久永さんのことを本当に知りませんでした」
「はあ?」と、女優らしさのかけらもなく、般若のような顔で吐き捨てる。「サイアク。興味もないゴミ以下ってこと?」
「そうは言ってませんよ。私、仕事ばかりでテレビも見ないから世間のことに疎くて」
「まあいいわよ」と、里桜が頬を引きつらせながら笑みを浮かべた。「蒼ちゃんがあなたみたいな地味な女に興味を持つわけないんだから。身の程を知りなさいよ」
「里桜」と、いつの間にか蒼馬がそばに来ていた。「失礼なことを言うんじゃない」
「だって」と、急に背が縮んだように上目遣いになって蒼馬に踏み込む。
そんなあざとさに身震いしながら鳥肌の立つ腕を史香は固く組んだ。
学生の頃にも、社会人になってからも、そういう人はいた。
自分はそういう人たちに哀れみの目を向けられてきたのだ。
――べつにうらやましくなんかないのに。
動物園で珍しい爬虫類でも見るような気持ちで史香は彼女の様子を眺めていた。
蒼馬は腕に絡みつこうとする里桜を手で押しとどめて、史香のかたわらに歩み寄った。
「俺はそんな気持ちでこの人とおつきあいしているんじゃない」
「嘘でしょ」と、初めて里桜が狼狽の色を見せた。
「本気だ」
――えっと、これ、演技ですよね。
リハーサルじゃないでしょ?
本気の演技?
どちらが俳優なのか分からない真剣な横顔に史香は引き込まれていた。
「だって、偶然知り合っただけなんでしょ」と、里桜はこわばった笑みを浮かべた。
「見ただろ」と、男はわざとらしく史香を引き寄せる。「本気のキスだって交わした仲だ」
――ちょ、え?
無理矢理しておいて何言ってるの。
突き放してやろうかと思ったものの、蒼馬の手は意外とがっちりと腰に回されていた。
「なんで、どうして」と、里桜の目に涙が浮かぶ。「私たち、雨の櫻坂を相合い傘で歩いたこともあったじゃない」
一呼吸置いて、史香に鋭い目が向けられた。
「傘に隠れてキスだってしたでしょ」
「中学生の話をいつまでも持ち出すな」
冷たく突き放そうとする蒼馬の胸に飛び込んだ里桜が、肘で史香をはじき出す。
いったい自分は何を見せられているのだろう。
「よさないか、里桜。人目がある」
忠告されても止まらない。
「昔から人目を気にしていたのは蒼ちゃんの方じゃないの」
「それは女優になる道が決まっていた里桜のためだろ」
「私のため?」と、納得のいかない表情で里桜が一歩退いた。
「経歴につまらない傷をつけるわけにはいかなかっただろ。お互いの立場は最初から分かっていたはずだ」
「それはそうだけど」と、里桜の瞳が揺れる。「財閥を継ぐことが決まっていた蒼ちゃんだって、そういう私を受け入れてくれてたんじゃないの。おたがいに通じ合っていたってことでしょ」
蒼馬は寂しげな笑みを浮かべながら首を振った。
――ええと、演技ですよね。
史香から視線を送っても、反応はない。
ついに里桜の目から涙がこぼれ落ちた。
「蒼ちゃん、なんで私じゃダメなの?」
「逆に、里桜はなんで俺なんだ」
「蒼ちゃんといる時の自分が一番好きだからかな。カメラの前にいる時よりも、舞台の上で拍手を浴びている時よりも、蒼ちゃんと一緒にいる時の自分が一番似合ってると思うの」
「俺もだ」
「えっ」と、里桜が顔を上げる。
「同じ景色を一緒に眺めている時の自分が一番落ち着く、そんな相手を俺も探していた」
蒼馬はふっと息を吐いて言葉を継いだ。
「だけどそれは里桜、君じゃない」
「そんな……」
うつむいてぽろぽろと涙を流す里桜を隠すように蒼馬が控え室へと連れ出す。
二人に注目させないためか、急にホールスタッフたちがカクテルグラスをのせたトレーを掲げて人の間を回り始める。
また一人取り残された史香は壁にもたれて天井を見上げていた。
――いったいどういうことなのよ。
演技しろとは言われてたけど、あの人が彼女と本気で別れようとしてたなんて聞いてない。
こんな人前で相手を本当に泣かせるなんて、リハーサルどころかぶっつけ本番じゃないのよ。
いくらなんでも、あれじゃあ、ええと……あの女優さんが気の毒じゃないの。
なんか、とんでもないことに巻き込まれちゃったんじゃないの、私。
史香は通りかかったスタッフに声をかけた。
「すみません、お酒もらえますか」
「どうぞ」
差し出されたグラスを一息であおると、史香はもう一杯おかわりをもらい、あのプライドの高い女優の名前を思い出そうとしていた。
◇
パーティーはすぐに和やかな雰囲気を取り戻し、史香は暇を持て余していた。
スマホを見ても、今日も休みの扱いになっているらしく、会社からの連絡はない。
今さらだけど、念のために課長に連絡しておいた方がいいかとホールを出ようとしたところで蒼馬が戻ってきた。
「私、帰らせてもらっていいですか」
「もう少しいてくれないか」と肩をすくめる。
「目的は済んだんじゃありませんか」
それはそうだが、と蒼馬は両手を広げた。
「里桜をうちの運転手に送らせたので車がない」
「歩くので結構です」
脇をすり抜けようとする史香の行く手を蒼馬がはばんだ。
「そう焦ることもないじゃないか」
「会社にも連絡しなくちゃいけないんで」
「それは心配ないよ。ちゃんと休みにしてあるから」
――え?
「心配なら電話してみればいい」
言われなくてもそうするつもりですよ。
史香は狭い廊下から玄関ホールへ移動しながらスマホをタップした。
課長はすぐに出た。
「あの、すみません、課長、今日退院したんですけど……」
「ああ、分かってる。今日はゆっくり休んで明日からでいいよ」
「そうなんですか?」
「そちらもいろいろあるだろうから、こっちのことは気にしないでいい。じゃ、また」
一方的に切られてしまった。
「どう?」と、蒼馬が横からのぞき込む。
「今日は休んでいろと」
「だろ」
だろって、どういうことなのよ?
蒼馬はパーティー会場の方へ手を差し出したが、史香はその場を動かなかった。
「せっかくだから何かつまみながら話さないか」
「いえ、もう結構です」
「すっかり怒らせたみたいだね」
それはそうでしょ。
史香はたまっていた感情を吐き出した。
「あなたは好きでもない女性と簡単にキスができる男性なんでしょうけど、私はそういう人を軽蔑します。私にとっては重要なことだったので。この歳まで経験がなかった私がいけないのかも知れませんけど。ただ、訴えたりはしません。病院でお世話になりましたが、二度と関わらないでください。治療費を支払えというのなら支払います」
玄関へ向かおうとする史香を蒼馬が追いかける。
「待ってくれ」
今さら待つ義理などない。
歩幅の大きい蒼馬に腕をつかまれた。
「放してください」
「君は勘違いをしている」
「何がですか?」
振りほどこうとして、かえって両肩を押さえられてしまった。
「俺は本気だよ」と、じっと目を見つめられる。
「本気って、何に対してですか」
「君に対してだよ」と、真剣なまなざしが史香を捕らえていた。「一目惚れだ」
「そんないい加減な話、信じろって言うんですか?」
「いい加減とはひどいな」
抗議しつつも、蒼馬の表情は柔和だ。
――だって。
里桜にした仕打ちを見ていたのだ。
人間性に難があると思っても仕方がないんじゃないだろうか。
二人の口論を見てスタッフがやって来る。
「何かございましたか?」
「ああ、いや、なんでもないんだ」
蒼馬は片手を上げて朗らかに答えた。
史香もつい笑みを浮かべて取り繕ってしまった。
「ええ、ちょっと声が大きくなってしまってすみません」
「ああ、君」と、蒼馬はスタッフを呼び止めた。
「はい」
「すまないが。飲み物と何かつまむ物を持ってきてくれないか」
「かしこまりました」
スタッフはホールへいったん戻っていった。
史香は軽くため息をついた。
「とにかく、これ以上、からかわないでください」
「困ったな。からかってなどいないよ」と、蒼馬が肩をすくめる。「どう言ったら信じてもらえるんだろうね」
「説明は結構です。私、そういう話が苦手なので。遊び相手なら、他を探してください」
「分かったよ。とにかく一目惚れなんだ。説明のしようがないよ」
説明して欲しいわけではないけど、理解できない話につきあいたくもない。
「君は一目惚れってしたことある?」
「ありません」と、史香は即答した。
苦い記憶がよみがえる。
新人研修の頃、同期と仲良くなった。
史香は単なる同僚として仕事を円滑に進めるために愛想を良くしていたつもりだったが、相手の男が恋愛感情と受け取っていたらしい。
何度か会社帰りに食事に誘われ、実際おなかも空いていたからついていったのが勘違いされたようだ。
『入社した時に一目惚れだったんだ』
学生時代にもそんなことを言われた経験がなかった史香は自分を女性とみて近づいてきた男に嫌悪感しか抱かなかった。
職場に波風を立てたくないという配慮からなるべく変わらない態度をとり続けていたものの、研修が終わって正式な配属が決まったころに、食事の誘いを残業を理由に断った時に『俺と仕事、どっちが大事?』と言われたことで、対応の仕方が分からず、一気に気持ちが切れて課長に相談してしまったのだ。
セクハラ案件として公開処刑のような状況となった同期は退職することとなった。
決して遊びでも、ましてセクハラでもなかったと史香自身も思うものの、自分ではどうすることもできず、いまだにこういったことに対応できる自信はない。
そんな記憶をたどっていると、スタッフがフルートグラスに注いだシャンパンとサーモンとクリームチーズのカナッペをトレーにのせて二人のところへやってきた。
「どうもありがとう」
蒼馬は受け取って史香を二階へ続く階段に誘った。
考え事をしたせいか、少し冷静になった彼女は抵抗せずについていった。
階段を上がったところにテーブルセットが置かれていて、二人は向かい合うように座った。
窓の外は早い冬の夕暮れが迫っていた。
蒼馬がグラスを掲げて目線を送ってくるのを、史香も軽くグラスを触れ合わせて応じた。
心に染み入るような澄んだ音のするグラスだった。
史香はさっきの苦い記憶を吐き出してしまうように蒼馬に話した。
「私、恋愛には向かないし、二つのことを同時にこなせないタイプなんです」
「君は悪くないよ。仕事と自分を選ばせるような男は傲慢だ」
話を合わせているだけかもしれなくても、否定されなくて少し嬉しかった。
「仕事のことなんか考えられないくらい夢中にさせてやれない男に価値なんかないよ」
「そこまで言うことはないと思いますけど」
「でも、君にはそれだけの価値がある」
「だから、そういう話は苦手なんです」
この場から逃げ出したいのに、蒼馬に見つめられると、椅子に糊付けされたみたいに腰が沈んでいく。
お酒の酔いも手伝って頭の中が真っ白になっていく。
なのに心はざわついて波がどんどん高くなっていく。
緊張から逃れようと史香はカナッペを口に入れた。
「おいしい」
率直な感想に蒼馬の表情も和らぐ。
「本当においしそうに食べるね」
はしたなかったかと顔が熱くなる。
昨日からずっとおいしいものしか食べていない。
仕事人間の自分が仕事をしたくなくなるような魔性の料理ばかりだ。
「ずっと君のことを考えていた」と、蒼馬がつぶやく。「なぜかなんて、理由は俺にも分からない」
そして自分の胸を親指で指した。
「だけど、ここにある気持ちがその証拠だよ」
「私の何が分かるんですか」と、史香はうつむいた。「何も知らない相手に抱く気持ちなんて、なんの根拠なんかないでしょう」
蒼馬が目を細めて口元に笑みを浮かべた。
「君だって俺のことを何も知らないで嫌ってるじゃないか」
――うっ。
そう言われてしまうと後ろめたく感じてしまう自分は人が良すぎるのだろうか。
「知り合うことが必要だというのは、俺も同意見だ」と、蒼馬が前のめりに見つめてくる。「だったら、知り合うためにチャンスをくれてもいいだろ」
断るための言い訳を探そうとしているうちに蒼馬がたたみかけてくる。
「もう年末だ。十二月も残り半分といったところか。どうだろう、今年が終わるまで恋人のふりをしていてくれないか」
「まさか、愛人になれと?」
感情のままにグラスをテーブルに置いた音が大きすぎて、冷静さを取り戻す。
「そうじゃない。本気でつきあうんだ。決して遊びとかゲームじゃない」
「私はあなたのことを好きじゃありません。お断りします」
「半月でいい。ふつうの恋愛を体験させて欲しい」
「ふつうって?」
「一般的にデートって言うと、映画を見たり、遊園地に行ったりするんだろ。俺はそういうふつうのデートをした経験がないんだ」
――私もないんですけど。
「だから、俺に、そういうデートを模擬的に体験させてくれればいい」
「無理です」
「どうして?」
「私も経験がないから」
「じゃあ、俺と経験すればいい」
こうなったら自分を捨ててでも嫌われるしかない。
「私、同級生に指摘されるまで脇毛の処理もしてなかったような女ですよ」
「今でも?」
「いえ、さすがに今は」
「俺はそんなこと気にしないけど」と、蒼馬は肩をすくめた。「ありのままの君がいい」
――いやいや、良くないでしょ。
身だしなみとか、清潔感って、社会人としても大事だと思う。
だから、高校で指摘してくれた同級生には感謝してるもん。
「うちは両親とも教師で忙しくて、あまり家のこととか、私のこととか、構ってもらえなかったんですよ。だから、そういうことが当たり前だって知らなくて」
「当たり前か。それなら俺も同じようなものだろ。経験のないことなんていっぱいある。さっきも言ったようにふつうのデートを経験したことはないし、免許はあるけど自分で車を運転したこともない」
「え、そうなんですか?」
見たこともないようなスーパーカーでも乗り回しているのかと勝手に思い込んでいた。
「フェラーリでも運転してる姿が似合いそう?」
「ええ、まあ」
「立場上、車の運転はさせてもらえないんだ。事故を起こしたら大変だからね」
いったん目を伏せてそうつぶやくと、蒼馬は視線を天井に向けながら指を折り始めた。
「他にも不自由なことはいっぱいあるよ。電車に乗ったことはないし。一人で出かけたこともない。常に誰かに見張られているんだ」
もしかして、今も?
ふと見回すと、一階のロビーに黒い服の男性が立っていて、史香と視線が合いそうになると急に目をそらしていた。
グラスを置いた蒼馬が改まった姿勢で頭を下げる。
「頼むよ。一生に一度の思い出を作らせてほしい」
「でも、なんで私なんですか。ふつうの人間が珍しいからですか」
「里桜に言われたことを気にしてるの?」
「そういうわけでは」
「何度も言うけど、一目惚れなんだ。他に言いようがないよ」
蒼馬がそっと手を差し伸べてくる。
引っ込めようとした時にはテーブル越しに手を握られていた。
――なんでだろう。
不思議と嫌な感じがしない。
そもそも自分は人と触れ合うことが苦手だ。
仕事中に気軽に肩に手を置いて話しかけてくるような人の神経が理解できない。
なのに、今の自分は心に安らぎを感じている。
――もっと触れて欲しい。
そんなふうに思った瞬間、我に返った史香は飛び退くように手を引っ込めた。
「それとも、何度でも言われたい?」
――はあ?
いやいや、違いますから。
「君に一目惚れしたんだ。本当だよ」
元々そんなに強くないのに急に酔いが回ってきて顔が熱くなる。
「お互い、将来に備えて練習しておくっていうのも悪くないだろ」
そんな機会が来るとは思えないけど。
「リハーサルってことでいいじゃないか」
視線は媚薬だ。
決してお酒に酔ったからではない。
史香はうなずいていた。
窓の外に目をやった蒼馬が腰を浮かせた。
「車が来た。場所を変えよう」
促された史香は催眠術にかかったかのように立ち上がっていた。