第7話 陣触れ
線路と公道を区切る有刺鉄線を風が通り抜けると、あちこちに掛けられた旗や横断幕がばさばさと鳴った。
アヤ子や婦人会の面々は、弁当や調理用具を積んだ荷車を駅前広場の前に停め、どうしたものかと顔を見合わせた。場の空気に、婦人会の面々は口数を失っていたのだ。声の大きさで炭鉱の男連中を圧倒してきたであろう人たちばかりなのに、今日は、周囲を見回して、気圧されたように互いに目を見合わせる。それを可笑しいと思う余裕があるあたり、アヤ子は、やはり鉄道の人間なのだった。
横断幕を高いところへ張ろうとする若い組合員の掛け声や、スピーカーの試験音が耳をつんざく。
「……なんや、思ったより物騒やわぁ」
イノが小声で漏らすと、他の者も苦笑いを浮かべた。駅舎の庇から睨む警官の姿を目にすれば、さすがに肩がこわばるらしいのだ。
「……炭鉱のストライキやったら、こんなピリピリしてなかったもん」
誰かが声を潜めると、皆が呼応して頷く。
「せやせや。あん時は炭鉱長や外勤と、鉱夫衆とで顔突き合わせての言い合いやろ。結局は同じ町内の仲間内での小競り合いやったもん」
「子どもらが走り回っとったくらいやしねぇ。炊き出しして、終われば皆で酒飲んで……祭りの延長みたいなもんやった」
「──国を相手にしてますからね」
アヤ子が呟くと、女たちは一様に背筋をのばして、旗竿を抱えて行き交う青年らを見送った。
それでも、広場の隅に空いた一角を見つけると、ようやく小さな安堵が広がった。
ここなら七輪を据えられる。炊き出しの場を作るのが自分たちの役目だと分かっているからこそ、戸惑いながらも、女たちの足は自然と動いていった。
「ちょっと、浩司さんに挨拶してきます」
アヤ子が声をかけると、イノは眉を跳ね上げた。
「それ、ずっと抱えたままやねぇ」
章に渡された小包の中身は、すでに婦人会の皆の知るところだ。
「はい、浩司さんに一刻も早う見せてあげたいんです」
「ほう、あの子も驚くやろうねぇ」
行っといで、と彼女は手をひらひらさせる。
声を張り上げる人々の合間を縫って、アヤ子は、気後れしながらも歩き続けた。浩司がいそうなところ……マイクテストをしているテントの下や、壇上を組む人集りを一つ一つ覗いていく。
「アヤ子ちゃん、来てくれたか」
呼び止める声は、思いがけず背後から飛んできた。
「浩司さん……」
彼の胸を大きく上下させる鋭い吐息と、やや上擦った調子が、その場の緊張をそのまま映しているようだった。
久しぶりに見る制服姿で、ゼッケンを着けている。そこには「廃線阻止、勤労兵庫」という四角い文字が黒々と並んでおり、なんだか物々しい感じがした。
「おう、久々に袖を通したんだが」
こちらの視線に気付いたのか、彼はわざとらしく姿勢を正して見せた。
「良かったら、似合うとるって言ってくれ」
からかうような言い方に、アヤ子は思わず瞬きをした。どう返すべきか迷って、それでも丁寧に言葉を選ぶ。
「──やっぱり、詰襟だと、映えて格好良いですね」
「せやろ」
にかっと歯を見せて笑うと、浩司はアヤ子のマフラーを指差した。
「アヤ子ちゃんも、ええの着けとるな」
「ああ、これ……」
赤い毛糸のマフラーは、アヤ子が巻くにはやや長さが余る。
「──本当は、章さんにと思って」
アヤ子は、正直に白状した。
「でも、このことで喧嘩してしまって、なんとなく渡しそびれてしまって……自分で使ってるの、なんか当てつけみたいですよね。それに、よく考えたら、章さんはこんな派手な色、好むはずがないんです」
完全に、わたしの好みですから、と付け加える。笑ってごまかそうとしたが、最後の言葉はすでに言い訳になっていた。
浩司は眉を下げ、しばし視線を泳がせる。それから、溜息を一つ吐いて言った。
「いや、アヤ子ちゃんの作ったものなら、なんだって嬉しいやろ」
「そうですかねぇ……」
マフラーの端を弄りながら、夫の顔を思い浮かべる。今頃は、起き出していつものように菓子を作り始めているだろう。アヤ子がいないので、炭鉱夫弁当の仕上げも彼の仕事だ。
(──今日も、注文が入っていたっけ……)
こうして最終決戦のストライキが行われている中でも、町を出ていく人はいる。章の弁当を持った彼らは、久但線をしばらく歩いて、神子畑駅を目指すのだろう。さすがに本線との接続を全て切るわけにはいかないので、久但線で最も乗降の多い神子畑からは、朝夕に、せめて一本ずつ、旅客列車を走らせるはずだ。それでも、アヤ子が三見村から嫁いできた時と同じように、ほとんど半日を歩き通すことになる。
もし、何かのボタンを掛け違えていたら──章が軍に志願せず、鉄道職を全うしていたら、今、ここにいただろうか。そんなことが頭を過ぎる。
(わたしの知らん、章さん……)
この色のマフラーは、“ふうらいぼう”と呼ばれるようになる前、浩司と一緒に機関士を目指していた頃の彼を、思って作ったのかもしれない。知らず知らずのうちに──。彼の中には、明け渡してくれない過去がある。異国の言葉を使えるようになるまでに、戦場でどんな日々を生きてきたのか……その傷は、自分には癒すことなどできないだろうし、共有したいと言っても、無責任に映ってしまう。
(それでも……)
章の作る餡子は美味しい。菓子も弁当も、皆に愛されている。──そういう人だったのだろうな、と思う。アヤ子は、誰もが語らない彼のことを、ずっと知りたいと思っているのだ。
「今からでも遅くないやろ」
その気持ちを見透かしているわけではないだろうが、浩司の声は、どこか励ますようだった。
「そうですかね……お礼に、渡してみようかな」
「お礼?」
「はい。なんせ……今日は、お汁粉付きですから」
アヤ子は、胸に抱えた包みを掲げてみせた。 冷え込む空気の中、ほんのり漂う甘い匂いが、頬を緩ませた。
「……章が?」
浩司は驚きをもってそれを眺め、それから、空を仰いだ。乾いた笑いが漏れる。
「変わらんな、章のやつ。顔には出さんくせに」
けれど、その温もりとは裏腹に、外の空気は緊張を孕み始めていた。
その時、壇上に、腕を組んだ組合幹部が上がった。マイクから割れるような声がほとばしり、広場を揺らす。
「──諸君! このままでは、われわれの未来はない!」
歓声と拍手が渦を巻き、旗が一斉に揺れた。
「──もう、始まるんですか?」
アヤ子がおずおずと尋ねると、浩司は小さく頷いた。
「本番前の鬨の声みたいなもんや……なあ、アヤ子ちゃん……」
改めて名を呼ばれ、顔を上げると、彼はあっけらかんとした様子で続けた。
「──わしらは、負けるかもしれん」
悔しさや恨みつらみを超越したような、どこか爽やかな言い方だった。それが浩司らしいとも思うが、あれほど労働争議に熱中していたのに、急に全てを受け入れる姿勢を見せる彼には、多少の違和感を覚えた。
「そんなこと……言うてもええんですか?」
──駅員も、機関士も、保線の者も、町の人々も、一人として欠けてはならん! 総力をあげて、この闘いに臨むのだ!
場を支配する呼びかけが、頭の中をぐわんぐわんと揺さぶっていた。
(──なんか、戦争の時みたいな)
尋ねておいて、アヤ子は、突然に渦巻いた記憶を打ち消した。あの頃に似ている、とつい思ってしまったことを。
浩司は、声を低めたアヤ子の耳元に顔を寄せた。
「実はこの間な、組合と町役場の者とで、東京まで陳述に行ったんや。でも、管理局も、お上も、もう決めてしまっとる。手は尽くした。ここで俺らができるのは……せいぜい、憂さ晴らしや」
そうか、と思う。何かが、すとんと胸の内に落ちた。
──章は、妙に諦めがよくて、頑固な奴や。志願して戦地に行ったんも、“ふうらいぼう”になったんも、全部、そういう質のせいや。
夫をそう評価した、彼の言葉が蘇った。
──あいつは、自分が物分かりのいい奴だと思っているが、本当は、諦めて、それ以上傷付かないように閉じているだけなんだ。人を寄せ付けないで、一人で抱え込んで、だんまりを貫いていれば、もうこれ以上、何も変わらないでいられると思ってる。心のどっかで。
(あれは、章さんだけやなくて、浩司さんのこともだったんや)
目の前の、詰襟の制服に身を包んだ、元同僚。戦地に行き遅れ、死に遅れて、機関士にもなれず……けれど、復職できなかった親友に比べて自分こそ“悪運の塊”だとは、口が裂けても嘆くことができない男。──彼は、思い出してほしいのだ。他の誰でもなく、章に。
(取り戻してほしいんや……)
章に比べて人当たりもよく、世渡りも上手い。要領が良い。そう思っていた浩司だが、本当に不器用なのは、彼の方なのかもしれない。
アヤ子が立ち尽くしているのを見て、浩司は、そんな深刻に考えるな、と肩を叩いた。
「負けると分かってても、立ち上がらんと、何も残らんやろ? 誰かが声を出さんと、黙って消えていくだけや」
その語尾に、マイクの声が重なる。
──総力を結集し、この鉄路を死守するのだ!
ありゃ、だいぶ気合いが入っとるな、と浩司は壇上を見て言った。
「午後には、大阪から鉄道管理局長がやってくる。そこからが本番や……おれも、あそこに登るで」
「浩司さんも?」
アヤ子が目を丸くすると、彼は大きく受けあった。
「もちろんやろ? そしたら……演説会の前に昼食のアナウンスを入れさせるから、弁当、配ってやってくれ……章の汁粉もな」
後手に手をひらひらさせながら去っていく背中を見て、アヤ子は思った。
(──まるで、西郷さんみたいやな)
教科書で習った維新の英雄。明治を創った男が、最後は官軍に追われる身となって、それでもなお、信念を曲げずに死んでいった話。勝ち目のない戦いに挑むその姿は、時に無謀と呼ばれたが、それゆえに、人は胸を打たれたのだと。
浩司もまた、そんな男なのだ。敗れると分かっていて、なお、立ち上がる。
「──憂さ晴らし、かぁ……」
アヤ子は、髪を直すふりをして、そっと目元を拭った。