第6話 戦仕度
木の床にずらりと並んだ低卓。天井の裸電球が黄色く揺れ、湯気と炭火の煙がほのかに立ちこめる。即席の調理場では、外から運び込まれた七輪が並び、炭火がじんじんと赤く灯っていた。
年嵩の婦人が火の番をしながら、時折、ふいごで火を煽る。重ね着した襟元に、うっすら汗が滲むほどの熱気があった。
詰めかけているのは、割烹着姿の女たちが十五名ほど。どの顔にも皺と日焼けがあり、口も手も休まず動くその様子に、アヤ子は圧倒されっぱなしだった。
「ちぃと、これ火ぃ強かごたぁなか?」
「いや、これくらいでちょうどや」
「ばってん、焦げとるばい……」
鍋を囲んだやり取りに、アヤ子はおずおずと手を上げた。
「あ、あの、しぐれ煮は、焦げる前のところで火を止めて、白味噌の甘さを生かしてもろうた方が……」
途端に、その場の目が一斉にこちらを向く。
アヤ子はびくりと肩をすくめた。
(──だめや、声が震えとる)
「さっすが、“ふうらいぼう”の嫁さんやなぁ」
誰かが冗談めいた調子で言うと、場がどっと笑いに包まれた。
アヤ子は愛想笑いを返してから、出過ぎたことを……と頭を下げる。こうやって注目されるのは、居心地の良い気がしないものだ。
「ほらほら、いじめんといたって。アヤ子ちゃん、まだ二十三やで。けど、今日はこの子が先生やからね、ちゃんとやってもらうよ」
イノが、手を鳴らしながら割って入り、場の空気が少しだけ和らいだ。
アヤ子とて、誰も自分に敵意を向けたり意地悪を言ったりしているわけではないと分かっている。皆、祝言に来てくれた人たちだ。菓子も買いに来てくれる。しかし、婦人会の“輪”というものはかなり強固で、そこに余所者がお邪魔するには、肩身が狭過ぎた。
それでも、仕事は仕事だ。アヤ子は深く息を吸い、炊き合わせの鍋へと歩み寄った。
「──ここの味付けと違うかもしれませんが、関西風にしたんは……今回食べてもらうのは、炭鉱夫さんやのうて鉄道員さんらですから、その人らにとって、親しみのある味は、やっぱり関西風なんです。それで……」
木杓子を握りしめながら、少しだけ声を張る。
「炭鉱の皆さんは、慣れ親しんだ味じゃないかもしれませんけど、きっと、これも悪くないと思います」
蓋を静かに取ると、昆布だしと薄口醤油の香りが立ちのぼり、女たちの鼻がひくりと動いた。
味見した婦人の一人が、箸を止めてぽつりと言う。
「……だしの香り、よか匂いしとるばい」
(良かった……)
アヤ子はひとまず胸を撫で下ろし、ぺこりと頭を下げる。
「なんか、あっさりしとるばってん、中にゃ味がしゅんどるたい。飽きん味やねぇ」
婦人は、そう言って、また箸を進めた。
次第に他の女たちも手を伸ばし、味見の輪が広がっていった。
「こらぁ、なくなっちまうだろう?」
イノは呆れたように腰に手を当てた。
それを見て、アヤ子はつい、声を立てて笑った。
「アヤ子ちゃんもね、あと十年経てば馴染めるようになるよ」
耳打ちされたアヤ子は、つい、苦笑いを浮かべ、遠い将来の風景を思い描く。
「十年、ですか……もうちょっと、早く馴染みたいです」
幼い頃に三見村で見かけたような顔も中には混じっているし、もっと遠く、他所から嫁いできた者も、もちろんいるだろう。──彼女たちが、どうやって立ち回り、関係性を築いていったのか、アヤ子は思いを馳せた。
(旦那さんが炭鉱夫やと、その縁もあるんやろうなぁ)
婦人会は、坑内外問わず、現場に出る者を夫に持つ妻たちの集いだ。──といっても、その内情が複雑なのは、三見村だけでなく、ここ、久原町でも同じだろう。
(章さんもそうしたらええって言ったし、猫の手も借りたくて、軽い気持ちでお願いしたけれど……)
自分には、やっぱり、こういう集いは向いていない。そう思った。
(お母さん、十年やて)
果てしないなぁと思う。
アヤ子の母親は、兵庫の女子師範学校を卒業してすぐに三見村に着任した教師だった。低学年の担任や裁縫・唱歌などを担当していたが、坑内機械工の父と結婚し、二年後、アヤ子の兄が生まれる時に離職した。
母は、当時にしては、かなり自立した──自立し過ぎた人だったと思う。父はそういうところを気に入って、結婚後も教壇に立つことを認めていたけれど、周囲の目は、それをどう捉えていたことか……。
“マミ子先生”というのが母の渾名だ。裁縫の手つきを、隣の家の奥さんが、器用ねぇ、と褒めてくれた時。その声の裏に、ほんの少しの棘があったことも、子供心に分かっていた。
炭鉱の町に生きるということは、町の空気と、そこにいる皆の価値観に、どこまで自分を寄せていけるか──それが全てだった。母は十年と言わず、頑張った。けれど、受け入れられるかどうかは別だった。かろうじて一家が爪弾きにされなかったのは、父が坑内機械工として信頼されていたからだ。
そのせいか、兄は村を出たがって、麓の工業学校に進んだ。手先が器用で、母譲りに記憶力が良くて、神戸で造船の仕事に就いた。そんな彼だから、皆と少し距離のある副炭鉱長の息子と仲良くなったのも、理解できる。兄の伝手で婚約者となったその青年は、麓の高等学校を出た後、皆の反感を避けるために、アヤ子を置いて、志願して戦地に行った。
『アヤ子ちゃん、アヤ子ちゃんが、生き良いように頑張るよ』
──その言葉がありがたかった。彼は帰ってこなかったけれど、異分子同士、身を寄せ合って暮らす想像がついた。
アヤ子は、ふと周囲を見渡す。
誰が何をせずとも、自然に役割が流れていく空気。それは、長年積み重ねてきた共同体の呼吸そのものだった。
この中に、自分の居場所を作るのは──やっぱり、難しい。
(けど……)
章は、町の人たちに心配されていた。鉄道という、町の外とつながる道を選んだことも、勝手にどこかへ行ってしまったことも、皆は責めなかった。それどころか、“ぼう”の店だと、ふうらいどうを贔屓にしてくれる。そんなふうに思ってくれる人たちが、ここにいるのだ。
(それは、きっと章さんが、ただの異端者だったわけじゃない証なんや)
なら、自分も、“ふうらいぼう”の嫁として、夫の恩を返すべきだ。
(十年、か……)
アヤ子はもう一度、心の中で呟いた。
十年かけて、母が手に入れられなかったものがある。けれど、だからといって、ここで諦めるのは違う気がした。婦人会に入り込もうとは思わない。でも、こうして手を貸してもらった。なら、自分にできるやり方で、橋渡しになれることもあるだろう。なら──
「アヤ子ちゃん、これ、どこまで詰めるん?」
声をかけられて、我に返る。
「あ、はい、こっちのおかずは冷ましてから詰めてもろうて、だし巻きと握り飯の方は、明日の朝に……」
まだ緊張はしているけれど、少しだけ声が通るようになっていた。
「だし巻きも関西風なんか?」
鍋の向こうで火を見ていた婦人が声を上げ、周囲の視線がふたたびアヤ子に集まった。
「はい、そうです。お出汁は昆布と……かつおも少しだけ足してます。甘さは、ちょっとだけで」
「甘さ、ちょっとだけか……そらまた薄かのぅ」
「そやけど色が綺麗やな。白ぉて上品やし、弁当に映えるやろ」
イノが助け舟を出してくれた。
「想像つかんっちゅう顔しとるな? 百聞は一見にしかず……いや、百聞は一口にしかず、試しにアヤ子ちゃんに教えてもらうってのは?」
彼女が笑いながら言うと、別の婦人が手早く卵を取り出し、盆に乗せてきた。
「ほら、うちのと、アヤ子ちゃんのんと、並べて巻いてみようや。関西風がどげん味んか、試してみらんと分からんし。巻くの、うちは自信なかけど、やってみらすけん」
冗談まじりの言葉が飛び交い、笑いが場に広がる。一つ、二つと卵が割られ、菜箸が揃えられる。熱のこもった七輪の上で、今度は、フライ鍋がじゅうと音を立てた。
アヤ子は、笑いながら卵をかき混ぜる年嵩の女たちを見つめた。先ほどまでのぎこちなさが、少しずつ和らいでいくのを感じながら。
(……せやな、まずは味から、やな)
そして、湯気の立ちのぼる炭火の前に膝をついた。
家の前に立った瞬間、ふっと鼻をかすめたのは、小豆の柔らかな匂いだった。
(……餡子、炊いとる)
戸を開けるまでもなく、章が何をしているのか、アヤ子には分かった。
「ただいま戻りました。……今日は昼間、手伝えずにすみません」
土間の奥、作業台に向かっていた章が、ちらりとこちらを見る。
シャツの袖を肘まで捲り、白い前掛けの裾が、膝のあたりで揺れている。手拭いを額に巻いたその姿は、黙々と仕事に集中している時の章だった。
「……寒かったやろ」
ぽつりとそれだけ言うと、すぐに視線を手元に戻す。仕出しの準備はどうだったか、婦人会の人たちと上手くいったか、そんなことを一切聞かないのが彼らしかった。
アヤ子は、少しの間、躊躇してから尋ねた。
「今日は、お店の方、どうでしたか」
章は、小豆がくつくつ音を立てるのを見つめながら、首を振った。
「──なんも、普段と変わりませんよ」
「そうですか」
アヤ子は、章の後に立って、こっそり眉根を寄せた。
(いつもは、こんな時間に餡子炊かんでしょうが)
普段と変わらないわけがなかった。しかし、それを突っ込んでしまっては、章はまた、閉じてしまう。
アヤ子は溜息を吐いた。
「いつもより多く売れたのかなって、ちょっと期待しましたよ」
章は、小豆の表面をならすようにして答える。
「これ、試作です。年明けに新しい菓子出せたら思ってます」
「へえ……」
その言葉にアヤ子は、僅かに目を細めた。新しい菓子のことを、章から言い出すのは初めてだったし、そうしようと思うに至ったきっかけがまるで見えないのだ。
「どんなもん、考えてるんですか?」
問いかけてみると、章は木べらを鍋の縁にそっと立てかけた。そのまま棚の奥を少し探って、白木の折箱と、すぐ使えるように切り分けてある餅を包んだ布を、土間の一角に取り出して置く。
章は、しばらく何か思案しているようだったが、やがて、静かに言った。
「まだ、決まり切ってないです」
それだけ言うと、章はまた、餡の鍋に目を落とす。
アヤ子は台の隅に荷を置き、持ち出していた鍋や包丁を、一つ一つさっと水で洗う。それでも、炊きあがっていく小豆の匂いが気になって、手の動きはどうしても鈍った。あえてゆっくり動作を重ねている自分が、夫のことを探っているようで、少しだけ居心地が悪かった。
その時だった。
「……風呂、行ってきてください」
唐突に告げられ、アヤ子は手を止めた。
「俺は帳面つけてから入ります。先に入っといてええですから」
「はいはい、わかりました」
少しだけ肩をすくめると、アヤ子は大人しく座敷に上がり、履き物を揃えた。
静かに土間を後にする自分を、夫は一度も振り返らなかった。アヤ子はそれを確かめてから、もう何度目かの溜息を吐いた。
風呂小屋の引き戸を開けると、ほんのりと立ちのぼる湯気が、アヤ子の頬を撫でた。
釜は、すでにほどよく沸いていて、洗い桶の中に汲まれていた湯が、ほんのり赤茶けて揺れている。風呂焚きの準備まで、すでに章がしてくれていたのだと気づいて、アヤ子は小さく唇を結んだ。
湯気に包まれながら、髪をほどき、湯の中に手をさし入れる。ぬる過ぎず、熱過ぎず、ちょうど良い塩梅だった。
(──章さんはもっと熱いのが好きやのに)
脱衣籠に着物を収め、湯に浸かった瞬間、全身からすっと力が抜けた。
目を閉じると、天井の低い板張りの空間に、ぽつんと音のない呼吸が広がる。
今日、あの場にいた女たちの顔が思い出された。
火の番をしていた年嵩の婦人。白味噌に眉を顰めた人、匂いに箸を止めた人──そして、笑って卵を手に取った人。みんな、炭鉱に生きる人たち。町の空気を、長く吸ってきた人たちだ。
(……十年、か)
まだ、その数字が胸の底に燻っていた。
章のことを思う。
何も聞かないでおいた。けれど、あの小豆は、おそらく、試作なんかじゃない。
(もしかして、明日の仕出しに、何か添えてくれようと……)
でも、それに気付いてしまってはいけない。問い詰めたいけれど、黙っていなければ──
でも、ああして知らん顔をするのは、なんだかちょっと、ずるいなとも思う。
「……章さんの、馬鹿」
湯をすくって肩にかけながら、アヤ子は、ぽつりと独りごちた。
十年後、自分は、“ふうらいぼう”の嫁として、どう生きているのか。
(章さんが明日、どんな顔して起きてくるかも想像がつかないのに……)
アヤ子は静かに立ち上がると、湯を落として髪を絞り、手拭いで身を包んだ。──どういうふうに声をかけようか、布団の間は、どれくらい開けようか。自分が起きた時、眠りの深い章が、ちゃんと気付けるくらいには、近く……敷いておく必要がある。
(こんなことで、悩まん日が、来てくれるやろうか……)
軋む戸を開くと、湯気の余韻をまとった夜風が、そっと頬を撫でていった。その中に、小豆の優しい匂いが滲んでいる。──これが、章さんの手だったら、どんなにか良いだろう……アヤ子は、両手でそっと自分の頬を包んだ。
空が白み始める前から、アヤ子は、黙々と作業を続けていた。台の上には、あとは炊いた飯を詰めるだけになった炭鉱夫弁当が並び、釜の横では、章の朝餉用の味噌汁が、弱火で湯気を立てている。顔を洗う水も張り、火の元も確認した。戸口の側に風呂敷包みと手提げ籠──集会所へ持っていく荷は、すでにきちんと揃えられている。
(……さて、そろそろ)
割烹着を脱ぎ、息を吐いた、その時だった。背後で、ごくわずかに襖が動く音がした。
「……アヤ子さん」
呼びかけに、アヤ子ははたと手を止めた。それから、少しの逡巡の後に、驚いたふりをして振り返る。
夜着の上に半纏を引っかけた章が、寝起きの顔で、こちらを覗いていた。
「おはようございます。……起こしてしまいましたか?」
章は小さく首を横に振るだけで、土間の隅に目をやった。
明らかに、何か言おうとしている。むず痒いような気がするが、こちらからせっつくのは悪手だ。
息を詰めて見守っていると、彼は、居心地悪そうな表情で言った。
「アヤ子さん。……あれも、持って行ってください」
「あれ……?」
言い淀むように一拍置いて、章は、なおも繰り返す。
「……あれです」
視線の先には、昨日の夜にはなかった包みが置かれていた。風呂敷にきっちりと包まれた、小さな荷だ。
アヤ子は、隙間から中を確かめると、夫を振り返った。
「……餡子と、お餅、ですか?」
章はゆっくりと頷いた。
「水と餡子、一対一。火にかけて溶いて、餅は軽く炙って入れてください。それで、簡単に作れます」
「──もしかして、お汁粉、ですか?」
章の目が一瞬だけ伏せられた。
「餡子も、餅も……昨晩の試作の余りもんですから。気にせんと、使うてください」
アヤ子は、包みを、赤子でも抱えるようにそっと持ち上げた。風呂敷越しに、じんわりと伝わる温もりがある。
「……章さんが、分量まで」
そう言ったきり、しばらく言葉が続かなかった。けれど、何かを言えば泣いてしまいそうで、笑ってみせるしかなかった。
「行ってきます。寒いですから、お汁粉、きっと喜ばれますね」
章はそれには何も答えず、静かに襖を閉じた。
(照れ屋さんやなぁ)
アヤ子はふっと頬を緩ませ、マフラーを巻く。それから、両手に荷を持つと、戸口に立った。
外に出ると、まだ夜の名残を残す朝の空気が、ひんやりと肌を撫でた。包みの重さと温かさを胸に抱いたまま、アヤ子は、ひとつ深く息を吐いて歩き出した。