第5話 冬来りなば
戸の向こうで風の音が鳴っていた。吹き下ろす山風が隙間から忍び込み、まだ夜の名残を引きずった台所に、身を切るような冷気を置いていった。
アヤ子は、一人、火鉢の火を起こしながら、指先をこすり合わせる。まだ鶏も鳴かない時刻。秋なのに、すでに真冬かと思うような朝だ。
米を研ぎながら、アヤ子はふと息を吐いた。白い吐息がふわりと立ちのぼり、それがすぐに見えなくなるほど、空気が冷たい。
(──甘味は、使えん)
それが一番の痛手だった。炭鉱夫弁当で使っている、黒糖入りのかりんとう饅頭──町を出ていく人たちが、最後に頬張るもの。あれは、章が工夫して作り上げた“ふうらいどう”の看板とも言える菓子だ。それを入れるわけにはいかない。今回の弁当は、章の名を借りず、アヤ子一人でやると決めたのだから。
(じゃあ、何を詰める?)
甘味は難しいとしても、おかずを工夫しよう。その分、腹持ちがよくて、冷めても味が変わらないものがいい。
アヤ子は研ぎ汁を捨て、桶に張った水にもう一度米を沈めた。しん、と静まりかえる中で、釜戸の薪がぱちりと音を立てた。
握り飯──そういう素朴なものに戻ってみてもいいのかもしれない。けれど、それだけでは弱いのだ。
釜を火にくべてから、今度は、いつもの炭鉱夫弁当と朝食作りに取りかかる。
鍋がくつくつと音を立てる中、アヤ子はその泡ぶくの中に菜箸を突っ込み、小芋をひっくり返す。ふと、しぐれ煮にでもしてみようかと思った。けれど、また迷う。
(味の濃いもんを入れたら、ご飯が進む。でも、それやと……)
味が立ちすぎる。米が足らなくなる。寒い中、冷たい弁当では米の味がのらない──
また、初めから考え直しだ。
(章さんは、こんなふうに、何べんも悩んでたんやろか……)
唇を噛むと、ふっと冷気が背筋を撫でた。風が止むと、外はますます静かになった。夜の気配が少しずつ薄れ、やがて、東の空が僅かに白んでいく。
弁当で、鉄道や町の未来を守ることはできない。しかし、浩司らの一日を、ほんの少しだけでも、支えることができたら、それでいい。
兎にも角にも、まずは弁当の主役を決めることだ。
アヤ子は、籠の中から、ごぼうと人参、蒟蒻を取り出した。
(しぐれ煮にするなら、このへんを細かく刻んで……)
しかし、と、ごぼうの皮を包丁の背でこそげながら、炭鉱夫弁当の“味の芯”を思い出す。セキさんの味、章が覚えていたからこそできた濃い味だ。味噌と酒、黒糖を効かせたあの一品は、ふうらいどうの色でもあった。
小鍋から立ちのぼる湯気を見つめながら、アヤ子はふと、セキさんのことを思った。
章は、自分の母親について語ることはほとんどない。それでも、甘く濃い煮物は、間違いなくセキさんの味であり、章の身体に染み込んだ“家の味”なのだろう。
(あの味は、九州のものなんやろか……)
久原の炭鉱夫たちは、その味を、口をそろえて、懐かしいと言った。若い者も、年寄りもだ。
思えば、彼らの多くは九州の鉱山から来た人々の子や孫だった。祖父母の時代に移ってきて、炭鉱の町で生きてきた人々──だから、章の煮物は、彼らにとっての“母の味”なのかもしれない。
しかし、仕出しを届ける相手は、鉄道員たちだ。
彼らの中には、炭鉱とは縁のない家に生まれた者もいる。本線沿いの麓から通ってくる者、途中の町の出身という者も少なくない。
(そやから……あの人たちにとっての“おふくろの味”は、ちょっと違うかもしれん)
例えば、関西風の味付けはどうだろう。
アヤ子が思い出す、母のしぐれ煮がそうだったように。そうだ──白味噌の甘さはどうだろうか。出汁は鰹もいいが、昆布でじっくり取ってみよう。塩をひかえたら、酒粕の風味が立つはずだ。
そういう味を、恋しがっている者だっているかもしれない。
アヤ子は調理台の脇に帳面を開き、“白味噌のしぐれ煮”、“関西風の炊き合わせ”と書いた。──しっかり味のしぐれ煮と、薄味で仕立てた根菜。組み合わせれば、甘みと塩気の輪郭もはっきりして、きっと、ご飯が進むはずだ。
(章さんにも、……一度、食べてもらいたい)
思ったそばから、気配がして、アヤ子は慌てて帳面を閉じた。
台所の障子が、ぎい、とゆっくり開く。
「……おはよう、ございます」
章の声音には、昨日までの張りがない。目元に疲れが滲んでいるのは、寝不足のせいだけではないのだろう。足元の冷えを気にするように、もぞもぞと足袋を整えている。
アヤ子は、すぐには返事ができなかった。何かを言えば、また昨夜の続きになってしまいそうだった。
「……おはようございます」
ようやく絞り出した声は、炭のはぜる音にかき消されるほど弱かった。
章は台所の棚に手をかけ、湯呑を探している。背中を向けていても、どこかぎこちない。
喧嘩を引きずるような人ではないはずだ。そんなことは、よく知っている。けれど、明らかに、気まずさは残っていた。いつもならぼさぼさの頭髪も、最初の頃のように整えられている。
(他人行儀な)
これは当て付けだろうか?
アヤ子は、帳面に手を添えたまま、章の背中を見つめた。
──言わな、と思う。なんでもないことで、一つくらい、言葉を交わさなければ、いよいよ距離が開いてしまう。
しかし、昨日の章の顔を思い出すと、どうしても声が出なかった。いつになく大きな声を出した時の、あの表情や、捕虜だったことを打ち明けた時の、静かな目……。
どんなにか勇気がいっただろうと思う。一生、ひた隠して生きることもできのに、彼はそうしなかったのだ。──今の今まで、触れてきたことがなかった理由も、なんとなく分かった。
(章さんの心の真ん中には、まだ入れてもらえん……これから先も、そうなんやろか)
仕出しのことで、あんなに否定するような言い方をしなければ良かった。ごめんなさい、ごめんなさい……と、後悔が胸に燻る。それでも、やると言った言葉を取り下げるつもりは、微塵もなかった。
独りよがりかもしれない。けれど、章が顔を背けているものだからこそ、無下にしてはならない気がしたのだ。
(章さんだって、町に帰ってきてお店を開いて──お菓子や炭鉱夫弁当を作り続けてるのは、どっかに、町や皆への思いがあるからや)
かつて鉄道員だった男が、廃線に思うところがないわけがない。章は、自分の夢が潰えたからといって、他人の不幸を喜ぶような人間ではない。それに、浩司があんなふうに頼んできたのも、昔の章ならば、一緒になって、声を上げていたと思うからだろう。
アヤ子は、意を決して夫に歩み寄ると、木べらをぐいっと突き付けた。
「さあ、今日も始めますよ。餡子、お願いします」
雨上がりの午後だった。
久原口駅の構内はしんと静まり、かつては賑やかだった待合室も、今は、終始ひっそりとしている。およそ四年ぶりに訪れる駅事務室の壁際の棚には、当時と同じく、封筒や伝票が重ねられていたが、書類の山は、心なしか薄っすらと埃を被って見え、いっとう寂しく思えた。
それでも、確かに、懐かしい空気があった。
アヤ子は、ストーブの前で、古い時計の針が刻む音に耳を澄ます。
あの頃は、制服の襟をきちんと正して、きりっと髪をまとめ、同僚たちと顔を見合わせて、朝礼を受けた。上司が命令を読み上げる声に合わせて、鉛筆を持ち、帳簿を広げ、運行表を読み上げたものだ。
「久しぶりなんやろ」
浩司は、詰襟の制服ではなく、土煙に汚れた作業着姿をしている。首から引っ提げた手拭いを取ると、手持ち無沙汰そうに拳に巻き付け、何とも形容し難い表情で、椅子を指し示した。
「はい……最終出勤のことは、よう覚えとります。その時はまだ、浩司さんも戻っていませんでしたね」
アヤ子は腰を下ろし、膝の上で指を組んだ。
「──“職業婦人”って、なんだか格好良くて、なんとなく、続けられると思っていたんですけど」
「アヤ子ちゃんは、よう仕事できたもんなぁ……」
吐息の混じった掠れ声で言い、浩司は天井を仰いだ。
「そんなこと、なかったです」
しばしの沈黙が落ちる。アヤ子はふと、出札台に目をやりながら、少し笑って言った。
「……見習いが明けてすぐの時、最終の汽車の時間ぎりぎりに切符を買いにきた人がおって、浩司さん、助けてくれましたよね」
その日も、似たような空模様だった。
「ああ、あったな。確か、赤紙が来たって報せ受けて、田川に戻る人やったな」
当時のアヤ子は、ようやく制服の袖にも慣れてきた頃だったが、出札の扱いはまだぎこちなく、切符一枚作るにも時間がかかっていた。そんな中、切羽詰まった様子で窓口に飛び込んできた青年がいたのだ。
『すみません、田川まで、最後の便に……』
彼は、息を切らして言った。
「──そんな遠くまでの切符、作ったことがなかったんですよ。よくて、本線沿いのどこかで。炭鉱の人たちが兵隊に取られるのも、それまでは、めったになかったですし」
最終の汽車まで、あと十分も時間がなかった。
焦る心を押し隠しながら、アヤ子は帳面とにらめっこし、路線の接続先を確認しようとしたが、指が思うように動かないのだ。冷や汗が背中を伝い、窓口の向こうで青年の足元が小刻みに揺れるのが見えた。その時だった──
『貸してみ』
不意に背後から手が伸びてきた。休憩中だったはずの浩司が、制帽を頭に載せながら出札台に立った。
『田川まで? そんなら、伊田でええね? 後藤寺のが近かろうが……』
彼は、さっと帳面を繰りながら、慣れた手つきで手続きを始める。
『ああ、伊田で』
青年はほっとした様子で頷いた。来る時、そこから乗ったから、と付け加える。
浩司は、唖然としているアヤ子の横で、あっという間に出札を済ませてしまった。そして青年の手に切符を渡すや否や、汽車、ちょっと待たせてくる、と言って、雨に濡れたホームを駆けていったのだ。
その背中は大きくて、頼もしくて──
「……あの時は、ほんまに助かりました。私、一人やったら、間に合わんかった思います」
アヤ子がそう言うと、浩司は少しだけ顔を背け、ああいう時は、皆でやらんと、と照れくさそうに鼻を鳴らした。
二人の笑いは、ごく短く、すぐに収まった。
「──あの人、アヤ子ちゃんの字、覚えとるかもな」
しばし、遠くを見るような顔をしていた浩司だったが、不意に眉を上げた。
「そういや、俺が帰ってくる前……客車の車掌、やってたって聞いたことあるぞ?」
アヤ子は、つい驚いて、目を丸くした。
「えっ。……誰から聞いたんですか、それ」
「いや、だいぶ後になって。噂だけやけど、あれほんまなんか?」
浩司は、少し身を乗り出して訊ねる。
「……はい。復員兵の乗車が増えて、女性の代用車掌が必要やった時期があって。数ヶ月だけでしたけど、本線の手伝いもしました」
アヤ子は、僅かな誇らしさを込めるように言った。その声の調子に、自分でも少し驚いているくらいで、机の上の帳面に目を落としながらも、指先が無意識にページの端を触れていた。
「へえ……なんか、すごいな。あの制服、着たんか?」
浩司は、出札台に軽く肘を突いた。目元には、懐かしさと、少しの悔しさのような色が見え隠れしている。
「着ましたよ。スカートの丈が中途半端で、冬は足元が凍えました。雪が舞う日なんか、凍ったステップで滑りそうになって……」
言葉にしながら、アヤ子は自分の足元をちらりと見た。冬の冷たさを思い出すように、足先を少し揺らす。
「そりゃ危ないわ」
浩司は目を細めて笑ったが、その笑みは、どこか影を含んでいるように見えた。過ぎ去った時間の重さが、彼の表情に、ひっそりと刻まれているようだった。
「あの頃は、アヤ子ちゃんが切符切って、俺が石炭くべてたのになぁ。そうか……」
彼の言葉に、アヤ子はそっと息を吐き出す。机の引き出しを、意味もなく開け閉めしながら、少しだけ背中を伸ばした。
「──ええ。汽車の音、いまも耳に残ってます」
「シュッシュッてな。あの調子は、汽車を降りても、身体に染みついとるわ」
浩司は机の端に手を置き、指先で軽くリズムを取る。アヤ子もその動きに目を向け、微笑んだ。
「……だからでしょうかね。今でも夢に見るんですよ、汽車に乗っとる夢」
「俺もや」
視線がふっと交わると、言葉にできない思いがその間に静かに流れ込んでいった。
部屋の空気は穏やかに落ち着き、時間が少しゆっくりと流れる。微かに聞こえるのは、古い掛け時計の秒針の音だけだった。二人の胸の内にある、過ぎ去った年月と戻らない日々、交わらなかった言葉たちが、静かに、しかし確かに響いていた。
「──じゃあ、なおさら、今日はよう来てくれたなぁ」
浩司は、今更ながら頭を下げた。
「……お前らを、喧嘩させてしもうて」
アヤ子はゆっくり首を振った。
「浩司さんが謝ることじゃないです。章さんとは、わたしが勝手に……ぶつかっただけですから」
苦笑混じりの言葉に、浩司は僅かに眉を寄せた。アヤ子が語ろうとしないことに、言い知れぬものを感じたのだろう。
「それっきり?」
アヤ子は言い淀み、ほんの少し間を置いてから、長く息を吐いた。
「……章さん、何も言わんのです。何にも。今までと変わらないといえばそうなんですけど、でも、朝起きて、店に立って、お菓子作って……それだけなのに、なんだか遠い人になってしまったみたいで」
わたしが悪かったんですけどね、と、アヤ子は肩をすくめ、腕をさすった。
何かしらの怒りや衝突があったなら、それを越えて向き合うことが夫婦の姿だと、どこかで信じていた。けれど章は、アヤ子に“触れない”ことを選んだのだ。それが悲しくて、寂しい……本音を言えば、そうだった。
(こんなこと、誰にも言えん)
章との夫婦仲に、あれこれお節介を焼いてくるイノにももちろん、浩司にも、これ以上は、きっと喋れない。“ふうらいぼう”の妻として、昔の章を知る人々から、色んな期待を寄せられていることは、祝言を挙げてもらった最初から、肌に感じていた。だから、上手くいっていないところを見せるのはいたたまれないし、この人に嫁ごうと、見合いの場で、なぜか即決してしまった自分の予感さえ裏切るようで、癪なのだ。──後悔はしたくないなぁ、と、ずっと思っている。毎日、心の中で口癖のように呟いている。
(このままやと、全部を後悔してしまう……)
伏せていた目を上げると、浩司が、泣いている小さな子供を見るような顔をして、こちらを覗き込んでいた。
「なんや、あいつ……嫁さんを、こんなに悲しませて」
呆れ果てたような、それでいて、憤ったような色を滲ませている。
浩司は、唐突に頭に手をやると、前髪を掻き上げたその手で、目の辺りを覆った。
「──章は、妙に諦めがよくて、頑固な奴や。志願して戦地に行ったんも、“ふうらいぼう”になったんも、全部、そういう質のせいや。竹を割ったような真っ直ぐさが、あいつの信頼できるところなのは間違いねぇ。でも、あいつは、自分が物分かりのいい奴だと思っているが、本当は、諦めて、それ以上傷付かないように閉じているだけなんだ。人を寄せ付けないで、一人で抱え込んで、だんまりを貫いていれば、もうこれ以上、何も変わらないでいられると思ってる。心のどっかで」
それを聞いているうちに、アヤ子は、視界がじんわり霞んでいくのに気が付いた。
「──そうかも、しれませんね」
浩司の言うことは、その通りだと思った。閉じている……心の真ん中に触れさせてくれないと、自分が寂しいと感じていた部分を言い当てられて、動揺もしたし、それに気付いて言葉にできるのが、自分ではなく浩司だったということも、心に堪えた。
「わたし……章さんが捕虜になっとったって、打ち明けてくれて嬉しかったんです。章さん、あの時、自分から、閉じている殻を、少しだけ持ち上げたような気がして。でも、その思いを受け止めきれなかったのは、わたしです」
「そんなこと、ないさ」
浩司はこちらに手を伸ばしかけたようだったが、思い直したように、膝頭を握った。
「俺は、あいつに、少し意地悪だったかもしれん。──俺、何も失ってないように見えるやろ。でも、不条理を飲み込めんで、全部が手をすり抜けてくみたいで。あいつのこと、羨ましいと思ってしまうんや」
アヤ子は何も言えず、再び視線を下げた。
「章は、あいつは、悪運の塊みたいな奴やけど、何もかも失ったようでいて、でも、誰よりも大切な存在を手に入れた。それが、羨ましかったんやろうかなぁ」
浩司は、自分でそう言っておきながら、困ったように笑った。
「──アヤ子ちゃんが申し訳なく思う必要はないよ。俺と章の問題やから。仕出しのことも、アヤ子ちゃんが覚悟を持って引き受けてくれるんやから、きちんと、商いの話をせんといかんな」
「……はい」
アヤ子は気を取り直して、口元をきゅっと引き締めた。
「……仕出しの話、しましょうか」
浩司も、気まずい雰囲気を振り切るように頷いた。
話はすぐに実務的な内容に移った。
「味付けやおかずは? なんか希望ありますか?」
「しっかりしたもん。冷めても食べやすいもん」
アヤ子はうなずきながら、懐から一枚の紙を取り出した。既にいくつかの試作を書き留めているが、ちょうど希望に添えそうだ。
「今回の仕出し弁当の中身ですが、少し考えてきたんです。──塩むすびに漬物、それから白味噌のしぐれ煮、関西風の炊き合わせ、だし巻き卵、そして梅の甘露煮……ふうらいどうのかりんとう饅頭は入れられませんけど、これで一食、四十円はどうでしょう?」
浩司は腕を組み、眉をひそめながら答えた。
「……正直言うて、組合としては、一食三十五円が限界や」
アヤ子は一瞬考え込み、すぐに笑みを作った。
「三十五円ですか……。そこはわたしも理解してます。少し工夫して、材料の調整や仕込みの効率化を図って、何とか三十五円に近づける努力をしてみます。けど、三十五円だと正直、どこかに妥協しなきゃいけないと思います」
アヤ子は目を細め、真剣な表情で言葉を続けた。
「──漬物の種類を減らすか、だし巻きを小さくするか……品数や握り飯の大きさは削りたくないですよね。どうにか、三十七、八円くらい出してもらえんでしょうか?」
浩司はしばらく黙り込み、やがて肩をすくめて言った。
「……俺が決められることじゃないからな。頼んでおいて、申し訳ない」
このあたりで手を打つ他ないだろう。アヤ子はすぐに頷き、再び、にっこり笑った。
「そしたら、できるだけ三十五円に近付けられるように頑張ります。組合の皆さんに喜んでもらえるよう、全力で作りますね。」
浩司は、少し安心したように目を細めた。
「頼んだで……アヤ子ちゃん、すっかり商売人やな」
「章さんに頼まずにやるつもりやって言うたら、……浩司さん、どんな顔するやろ思ってたけど」
アヤ子は、膝の上で重ね合わせた手をぎゅっと握った。
「これは、わたしが決めたことです。章さんが……向き合おうとせんのなら、誰かがやらなあかん」
浩司は言葉を失ったように、こちらを見た。
アヤ子は続けた。
「町から必要とされとるのに、それに、いとも簡単に背を向けてええ理由なんて、ないと思うんです。章さんは一人で生きているつもりなんかもしれん。でも、あの人が見んふりするなら、わたしが見る。それだけのことです」
迷いはあっても、逃げるつもりだけはなかった。ただ、浩司には、何か引っかかるところがありそうだった。章の心の中に何があるのかを、親友として、想像せずにはいられないのだろう。
(……見んふりしとるんやろうか。それとも、見えんようにしとるんやろうか)
アヤ子は、こっそりと内心に問いかけた。
窓の外では、山の稜線を流れる大きな雲が、影を作っていた。
昼には上がっていた雨が、再び、静かに地面を打ち始めたようだ。磨りガラスを透かして、灰色の線が、幾筋も模様を作っていた。──風も、少しあるのかもしれない。
(今晩は、冷えそうやなぁ……)
アヤ子は夕餉の味噌汁をかき混ぜながら、夫が、明日のぶんの仕込みに勤しむ背中を眺めていた。
昼間、仕出しの打ち合わせのために出かけたのを、実際は、いつものように弁当を売ってくるとごまかしてしまった。嘘ではないが、なんだか悪いことをした気分だ。
(不味かったなぁ)
一旦そうしてしまったからには、今更言い出すこともできず、アヤ子は悶々としていた。
隠しごとは苦手だ。それでも、やってしまったのだから、時すでに遅し。
(──知ったら、章さん、また拗ねてしまうやろうなぁ)
こっそり溜息を吐いた時だった。
ふうらいどうの前で、鈍く軋む車輪の音が止まった。
「ごめん、雨宿りさせてぇな!」
突然、戸口ががらりと開き、どんよりした空気を、大きな声が容赦なく切り裂いた。
驚いたアヤ子は、ついお玉を取り落としそうになった。
「イ、イノさん……ああ、大変でしたね」
しどろもどろのアヤ子と、迷惑そうな半眼を向けるを交互に見遣って、イノは姉さん被りにしていた手拭いを、えいやっとひっぺ返した。
土間に、滴がぽつぽつと丸い痕を付ける。
「そうよ、これ、みぞれ混じっとるわ。初雪も、花びらが降るみたいな雪なら感傷に浸れもするけんど、堪らんよ」
イノは荷車から持ってきた麻の袋を、ほれ、と章に差し出す。代わりに麓で買い付けてもらった黒砂糖だ。
「大事な品物は濡らしてないからね」
「──ありがとうございます」
章は頭を下げると、さっさと踵を返して、戸棚の方に行ってしまった。
「まあ、いい小遣い稼ぎさせてもらってるけど、そんな他人行儀なの、別にいいのにねぇ」
上がり框に腰掛けながら、イノはその背中に言葉を投げかける。対して章は、纏わりつく羽虫を払うかのように、煩わしげに首を振った。
「──人の情けに漬け込むのは良くないです。それだけです」
それを聞いて、イノは一瞬目を丸くしてから、大きく口を開けて笑った。
「だって他人じゃないか、なんて言われたらどうしようかと思ったよ」
このお節介なご近所さんが来てくれたおかげで、アヤ子は、章との気まずい空間を凌ぐ必要はなくなった。けれど、いつ、イノが自分にも会話の矛先を向けてこないとも限らないのもまた、困りものだった。喧嘩していることが知れれば、一体どうなることやら、考えるだに気が重かった。
懸念はすぐに、現実のものとなった。
「そういえば、アヤ子ちゃん、あの話」
それは、おそらく、一番駄目な切り口だ。
「あの話って……何の……?」
たじろぎ、僅かに後退りさえしながら、アヤ子は、ぎこちない表情を顔面に貼り付かせた。
「鉄道組合の仕出し、受けるんでしょう?」
アヤ子は慌てて背後を振り返る。
章は、餡をこね始めた手を止めず、作業台の向こうで、黙々と動いていた。
イノは、こちらの動揺などお構いなしだ。
「あんた一人でやるつもりやって、浩司さんから聞いたわ。もっと早う教えてくれたらええのに。婦人会なら、皆、廃線には反対しとるけん、喜んで手ぇ貸すわ」
それから彼女は、ちょいとちょいと、とアヤ子を手招きし、耳打ちする。
「“ぼう”のことも聞いとる。心配せんでええよ、あの子も、悪いことしたとは絶対思っとるんやから」
そういう子や、昔から。──と、そう言うイノの声は、低められていても明るい。湿った空気を破って、真っ直ぐに響いた。しかし、その陽気さに、アヤ子は、どう反応して良いのやらと口ごもった。
誰も声を発さない静かな時が、少しの間訪れた。
(章さん……ひとりぼっちになったような気がせんやろうか)
ふと頭に浮かんだのは、そんなことだった。
心の雨戸まで、すっかり閉じてしまっている彼を放って、周囲の人が皆で結託してしまったら、もう、殻の端っこすら、持ち上げてみようとは思わないかもしれない。
その時、章がぼそっと呟いた。
「……手、貸してもらえるんやったら、そうしたらええ」
「え……」
アヤ子は、思わず声を漏らした。章は顔を上げず、手を動かしたままだ。本当に、さっきそんなことを言ったのだろうかと、疑いそうになった。
その声音には、これまでとは違う温度があるような気がした。突き放すような冷たさでも、諦めでもない。──ただ静かに、波のない湖のようで……これは、彼のささやかな歩み寄りなのだろうか。
イノが目を丸くして、ぱちぱちと瞬きする。
「──おや、なんや、やっぱり“犬も食わん”ってねぇ」
おどけた声が、しとしと降り続けるみぞれの音を割って、薄暗い土間にこだました。
アヤ子は何も言えずに、お玉の柄を強く握りしめていた。
けれど、胸の奥がふわりとほどけたような気がしたのは、確かだった。
ほんの少し、安心した。章には、アヤ子が孤軍奮闘しているように見えているだろうが、アヤ子にとっては、章がそうなのだから。廃線反対は町の総意で、その中で、一人だけが否定者として残ってしまう居心地の悪さは、想像以上だと思うのだ。
(章さんは折れなくていい。章さんの主義を折らなくていい。だけど……)
自分が、その分、町の役に立って、“ふうらいぼう”を繋ぎ止めていられれば。虚空を翔ける一枚の凧に、ここにちゃんと居場所があるのだと、地上から糸を絶対に離さないで、手を振り続ければいいのだ。
そう思えると、つい膝が震えた。
章が、ちゃんと自分を見ていてくれたのだと、投げ出さないでいてくれたのだということが分かって、本当にほっとしたのだ。
アヤ子は顔を伏せるようにして、イノに頭を下げた。
「……よろしくお願いします」
「さあ、よう言うた! そないなこと、全部一人で背負うもんとちゃうからねぇ」
イノの声は、何を言っても冗談めいており、底抜けに明るいので、今日ばかりは救われた。
彼女はひとしきり笑った後、ガラス戸の外を透かし見ながら、眉を八の字にした。
「うーん、やまないねぇ」
「傘持って、送りましょうか?」
アヤ子が提案すると、悪いねぇ、とイノが手を払う。遠慮しないところが、いっそ清々しい。
「──章さん、少し出てきますから」
はい、と短い返事が返ってくる。
アヤ子はイノに傘を差し掛けながら、二人で坂道を上がっていった。
雨の匂いとみぞれの冷たさが、鼻の頭をつんと摘む。イノの荷車の軋む音が、しんとした道に響いていた。
「“ぼう”、アヤ子ちゃんのこと、ほんまに大事にしとるのは分かるけどな。大事にしすぎるのもな、まどろっこしいやろ」
ふいにイノがぽつりと言った。
アヤ子は思わず立ち止まりかけたが、休まず歩を進めた。
「……大事に。はい、してくれてると、思います、でも、仕出しのことで喧嘩して、それで……」
言いかけたところで、イノが首を横に振る。
「アヤ子ちゃん、ええお嫁さんになろうとしとるけどね、たまには甘えてもええんよ。意地張るばっかじゃ、男はよう気がつかんけぇな」
アヤ子は言葉を飲んだ。喉元まで出かかった思いが、声にならずに滞る。
甘えるなんてことを、考えたことはなかった。
(──章さんに、どう向き合ってほしいんやろ……)
アヤ子は俯いたまま、靴の先で地面をそっと擦った。冷たい風が頬を撫でていく。
たしかに、自分は、ちゃんとしようとしていた。良い嫁になろうと、迷惑をかけないように、重荷にならないようにと、考えていた。──こんな自分を、貰ってくれたのだから。
そんなふうに息巻いているうちに、いつの間にか、章さんと向き合うことが怖くなっていたのかなぁ、と、何かが胸の奥にすとんと落ちた。
些細な言葉の選び方一つで、互いの心を測ろうとして。上手く測れない時には、自分のせいにして、黙ってやり過ごす。
(甘えるって、どうやって……)
心のどこかで、頼らない自分でいることが、唯一の拠りどころになっていた。声に出せば泣いてしまいそうな言葉を、胸の奥でこらえるようになったのは、いつからだろう。──兄や婚約者が死に、母が感情を失って、辛いからといってすがる相手はなくなってしまった。そのせいだろうか?
(分からない、そんなの)
アヤ子は、やり場のない悲しみを転がし続けた。
なぜ、見合いをしようと思ったのか、嫁に行こうと思ったのか……それを、ふと、胸の引き出しからそっと取り出す。──生きていくため、それだけに尽きた。
「──初対面の時、章さんは」
アヤ子は口の中で呟いた。
「そのつもりは全くないのに、勧められたから、断るのも面倒だからって顔してました。いかにも、しぶしぶやってきた感じがして…… 」
イノは、突然何を語り始めるのやら、といった表情を浮かべたが、すぐに笑い出した。
「“ぼう”らしいねぇ。話を持って行ったのは、あの子の父親が世話になってた炭鉱の職員さんだから、たしかに、断れなかったんだろうねぇ」
「そうだと思います」
アヤ子はちらっと笑みを溢した。
「なんにも……期待してない顔をして、こんな人間ですから、どうぞ断るなら断ってくれ、みたいな。投げやりなことを言っていました」
「へぇ、全く、あの子らしいねぇ」
「──はい」
見合いの時のことを思い出すと、今でも、なんだか可笑しくなってしまう。
彼の背広は、誰に借りたのか……亡くなった父親のものだったのか、袖丈や肩が合っていなかった。それに、ネクタイは何度も結び直した跡が見え、結目も少し曲がっていた。極め付けは──
「そういえば、章さん、あの時は髪が少し長くて、七三に分けていて……整髪料を使い過ぎてテカってたんです」
イノは目を丸くし、違いない、と肩を揺らして笑った。
「よく覚えてるんだねぇ」
アヤ子は、少し息を呑んだ。
「それは……」
言葉を途切らせ、目を伏せる。知らず知らず、口角が上がっていた。
「わたしも、章さんのこと言えんのです。色々あって、女がこの先生きていくためには、結婚しかない思って。それでも……章さん、あんな感じやったのに、わたしは、期待してしまったんです」
(そうか……)
話しているうちに、ようやく気が付いた。
それを、アヤ子はそっと押し出した。
「なんでしょう……一人より、この人と二人の方が、お互い、心が丈夫でいられるかなって」
「不思議やねぇ」
イノはしみじみと言った。
「あの子、驚いとったでしょう。断られると、端から決めつけとったろうに。アヤ子ちゃんも、それを分かっといて、手を差し伸べてくれたんやねぇ」
アヤ子は微かに頷いた。
「──そうなんです。なんでなんか、そう思いました。でも、それなのに……時々、選択に自信が持てなくなる時があります」
アヤ子は、イノに傘を差しかける右手に左手を添え、ぎゅっと握り締めた。
章の背中は、ただ、ほんの少し、手を伸ばせば届く距離なのに。半年の間、どの夜も、それすらできなかった。話せばすむことかもしれない。けれど、今となっては、その一歩が、とてつもなく遠く感じるのだ。
わたし、甘えるのとかよく分からなくて。と、アヤ子は正直に言った。
「……いつか、もっと側に感じられるようになったら、ええんですが」
アヤ子の返事に、イノはしばし黙ってから、闇の色の天を仰いだ。
「“ぼう”は……あの子は、アヤ子ちゃんを壊れ物みたいに思っとるんよ、きっと。自分から気持ちを投げかけることが、恐ろしいんやろうねぇ。でも、アヤ子ちゃんが飛び込んでいけば、受け止める優しさのある子やよ」
傘の先から、溶けたみぞれが垂れ、落ちながらぽつぽつと弾けて、飛沫がかかる。その粒が、薄らと黄金色に輝いていて──振り返ると、ふうらいどうの灯りが、真っ暗な町並みの中、ここが帰る場所なのだと、静かに両手を広げて待っているように見えた。
「そうですよね。わたし、章さんの優しいこと、よく分かってます」
アヤ子は答え、再び坂の上に目を向けた。