表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
風のあとさき  作者: 紫子
7/9

第5話 冬来りなば

 戸の向こうで風の音が鳴っていた。吹き下ろす山風が隙間から忍び込み、まだ夜の名残を引きずった台所に、身を切るような冷気を置いていった。

 アヤ子は、一人、火鉢の火を起こしながら、指先をこすり合わせる。まだ鶏も鳴かない時刻。秋なのに、すでに真冬かと思うような朝だ。

 米を研ぎながら、アヤ子はふと息を吐いた。白い吐息がふわりと立ちのぼり、それがすぐに見えなくなるほど、空気が冷たい。

(──甘味は、使えん)

 それが一番の痛手だった。炭鉱夫弁当で使っている、黒糖入りのかりんとう饅頭──町を出ていく人たちが、最後に頬張るもの。あれは、章が工夫して作り上げた“ふうらいどう”の看板とも言える菓子だ。それを入れるわけにはいかない。今回の弁当は、章の名を借りず、アヤ子一人でやると決めたのだから。

(じゃあ、何を詰める?)

 甘味は難しいとしても、おかずを工夫しよう。その分、腹持ちがよくて、冷めても味が変わらないものがいい。

 アヤ子は研ぎ汁を捨て、桶に張った水にもう一度米を沈めた。しん、と静まりかえる中で、釜戸の薪がぱちりと音を立てた。

 握り飯──そういう素朴なものに戻ってみてもいいのかもしれない。けれど、それだけでは弱いのだ。

 釜を火にくべてから、今度は、いつもの炭鉱夫弁当と朝食作りに取りかかる。

 鍋がくつくつと音を立てる中、アヤ子はその泡ぶくの中に菜箸を突っ込み、小芋をひっくり返す。ふと、しぐれ煮にでもしてみようかと思った。けれど、また迷う。

(味の濃いもんを入れたら、ご飯が進む。でも、それやと……)

 味が立ちすぎる。米が足らなくなる。寒い中、冷たい弁当では米の味がのらない──

 また、初めから考え直しだ。

(章さんは、こんなふうに、何べんも悩んでたんやろか……)

 唇を噛むと、ふっと冷気が背筋を撫でた。風が止むと、外はますます静かになった。夜の気配が少しずつ薄れ、やがて、東の空が僅かに白んでいく。

 弁当で、鉄道や町の未来を守ることはできない。しかし、浩司らの一日を、ほんの少しだけでも、支えることができたら、それでいい。

 兎にも角にも、まずは弁当の主役を決めることだ。

 アヤ子は、籠の中から、ごぼうと人参、蒟蒻を取り出した。

(しぐれ煮にするなら、このへんを細かく刻んで……)

 しかし、と、ごぼうの皮を包丁の背でこそげながら、炭鉱夫弁当の“味の芯”を思い出す。セキさんの味、章が覚えていたからこそできた濃い味だ。味噌と酒、黒糖を効かせたあの一品は、ふうらいどうの色でもあった。

 小鍋から立ちのぼる湯気を見つめながら、アヤ子はふと、セキさんのことを思った。

 章は、自分の母親について語ることはほとんどない。それでも、甘く濃い煮物は、間違いなくセキさんの味であり、章の身体に染み込んだ“家の味”なのだろう。

(あの味は、九州のものなんやろか……)

 久原の炭鉱夫たちは、その味を、口をそろえて、懐かしいと言った。若い者も、年寄りもだ。

 思えば、彼らの多くは九州の鉱山から来た人々の子や孫だった。祖父母の時代に移ってきて、炭鉱の町で生きてきた人々──だから、章の煮物は、彼らにとっての“母の味”なのかもしれない。

 しかし、仕出しを届ける相手は、鉄道員たちだ。

 彼らの中には、炭鉱とは縁のない家に生まれた者もいる。本線沿いの麓から通ってくる者、途中の町の出身という者も少なくない。

(そやから……あの人たちにとっての“おふくろの味”は、ちょっと違うかもしれん)

 例えば、関西風の味付けはどうだろう。

 アヤ子が思い出す、母のしぐれ煮がそうだったように。そうだ──白味噌の甘さはどうだろうか。出汁は鰹もいいが、昆布でじっくり取ってみよう。塩をひかえたら、酒粕の風味が立つはずだ。

 そういう味を、恋しがっている者だっているかもしれない。

 アヤ子は調理台の脇に帳面を開き、“白味噌のしぐれ煮”、“関西風の炊き合わせ”と書いた。──しっかり味のしぐれ煮と、薄味で仕立てた根菜。組み合わせれば、甘みと塩気の輪郭もはっきりして、きっと、ご飯が進むはずだ。

(章さんにも、……一度、食べてもらいたい)

 思ったそばから、気配がして、アヤ子は慌てて帳面を閉じた。

 台所の障子が、ぎい、とゆっくり開く。

「……おはよう、ございます」

 章の声音には、昨日までの張りがない。目元に疲れが滲んでいるのは、寝不足のせいだけではないのだろう。足元の冷えを気にするように、もぞもぞと足袋を整えている。

 アヤ子は、すぐには返事ができなかった。何かを言えば、また昨夜の続きになってしまいそうだった。

「……おはようございます」

 ようやく絞り出した声は、炭のはぜる音にかき消されるほど弱かった。

 章は台所の棚に手をかけ、湯呑を探している。背中を向けていても、どこかぎこちない。

 喧嘩を引きずるような人ではないはずだ。そんなことは、よく知っている。けれど、明らかに、気まずさは残っていた。いつもならぼさぼさの頭髪も、最初の頃のように整えられている。

(他人行儀な)

 これは当て付けだろうか?

 アヤ子は、帳面に手を添えたまま、章の背中を見つめた。

 ──言わな、と思う。なんでもないことで、一つくらい、言葉を交わさなければ、いよいよ距離が開いてしまう。

 しかし、昨日の章の顔を思い出すと、どうしても声が出なかった。いつになく大きな声を出した時の、あの表情や、捕虜だったことを打ち明けた時の、静かな目……。

 どんなにか勇気がいっただろうと思う。一生、ひた隠して生きることもできのに、彼はそうしなかったのだ。──今の今まで、触れてきたことがなかった理由も、なんとなく分かった。

(章さんの心の真ん中には、まだ入れてもらえん……これから先も、そうなんやろか)

 仕出しのことで、あんなに否定するような言い方をしなければ良かった。ごめんなさい、ごめんなさい……と、後悔が胸に燻る。それでも、やると言った言葉を取り下げるつもりは、微塵もなかった。

 独りよがりかもしれない。けれど、章が顔を背けているものだからこそ、無下にしてはならない気がしたのだ。

(章さんだって、町に帰ってきてお店を開いて──お菓子や炭鉱夫弁当を作り続けてるのは、どっかに、町や皆への思いがあるからや)

 かつて鉄道員だった男が、廃線に思うところがないわけがない。章は、自分の夢が潰えたからといって、他人の不幸を喜ぶような人間ではない。それに、浩司があんなふうに頼んできたのも、昔の章ならば、一緒になって、声を上げていたと思うからだろう。

 アヤ子は、意を決して夫に歩み寄ると、木べらをぐいっと突き付けた。

「さあ、今日も始めますよ。餡子、お願いします」



 雨上がりの午後だった。

 久原口駅の構内はしんと静まり、かつては賑やかだった待合室も、今は、終始ひっそりとしている。およそ四年ぶりに訪れる駅事務室の壁際の棚には、当時と同じく、封筒や伝票が重ねられていたが、書類の山は、心なしか薄っすらと埃を被って見え、いっとう寂しく思えた。

 それでも、確かに、懐かしい空気があった。

 アヤ子は、ストーブの前で、古い時計の針が刻む音に耳を澄ます。

 あの頃は、制服の襟をきちんと正して、きりっと髪をまとめ、同僚たちと顔を見合わせて、朝礼を受けた。上司が命令を読み上げる声に合わせて、鉛筆を持ち、帳簿を広げ、運行表を読み上げたものだ。

「久しぶりなんやろ」

 浩司は、詰襟の制服ではなく、土煙に汚れた作業着姿をしている。首から引っ提げた手拭いを取ると、手持ち無沙汰そうに拳に巻き付け、何とも形容し難い表情で、椅子を指し示した。

「はい……最終出勤のことは、よう覚えとります。その時はまだ、浩司さんも戻っていませんでしたね」

 アヤ子は腰を下ろし、膝の上で指を組んだ。

「──“職業婦人”って、なんだか格好良くて、なんとなく、続けられると思っていたんですけど」

「アヤ子ちゃんは、よう仕事できたもんなぁ……」

 吐息の混じった掠れ声で言い、浩司は天井を仰いだ。

「そんなこと、なかったです」

 しばしの沈黙が落ちる。アヤ子はふと、出札台に目をやりながら、少し笑って言った。

「……見習いが明けてすぐの時、最終の汽車の時間ぎりぎりに切符を買いにきた人がおって、浩司さん、助けてくれましたよね」

 その日も、似たような空模様だった。

「ああ、あったな。確か、赤紙が来たって報せ受けて、田川(たがわ)に戻る人やったな」

 当時のアヤ子は、ようやく制服の袖にも慣れてきた頃だったが、出札の扱いはまだぎこちなく、切符一枚作るにも時間がかかっていた。そんな中、切羽詰まった様子で窓口に飛び込んできた青年がいたのだ。

『すみません、田川まで、最後の便に……』

 彼は、息を切らして言った。

「──そんな遠くまでの切符、作ったことがなかったんですよ。よくて、本線沿いのどこかで。炭鉱の人たちが兵隊に取られるのも、それまでは、めったになかったですし」

 最終の汽車まで、あと十分も時間がなかった。

 焦る心を押し隠しながら、アヤ子は帳面とにらめっこし、路線の接続先を確認しようとしたが、指が思うように動かないのだ。冷や汗が背中を伝い、窓口の向こうで青年の足元が小刻みに揺れるのが見えた。その時だった──

『貸してみ』

 不意に背後から手が伸びてきた。休憩中だったはずの浩司が、制帽を頭に載せながら出札台に立った。

『田川まで? そんなら、伊田(いた)でええね? 後藤寺(ごとうじ)のが近かろうが……』

 彼は、さっと帳面を繰りながら、慣れた手つきで手続きを始める。

『ああ、伊田で』

 青年はほっとした様子で頷いた。来る時、そこから乗ったから、と付け加える。

 浩司は、唖然としているアヤ子の横で、あっという間に出札を済ませてしまった。そして青年の手に切符を渡すや否や、汽車、ちょっと待たせてくる、と言って、雨に濡れたホームを駆けていったのだ。

 その背中は大きくて、頼もしくて──

「……あの時は、ほんまに助かりました。私、一人やったら、間に合わんかった思います」

 アヤ子がそう言うと、浩司は少しだけ顔を背け、ああいう時は、皆でやらんと、と照れくさそうに鼻を鳴らした。

 二人の笑いは、ごく短く、すぐに収まった。

「──あの人、アヤ子ちゃんの字、覚えとるかもな」

 しばし、遠くを見るような顔をしていた浩司だったが、不意に眉を上げた。

「そういや、俺が帰ってくる前……客車の車掌、やってたって聞いたことあるぞ?」

 アヤ子は、つい驚いて、目を丸くした。

「えっ。……誰から聞いたんですか、それ」

「いや、だいぶ後になって。噂だけやけど、あれほんまなんか?」

 浩司は、少し身を乗り出して訊ねる。

「……はい。復員兵の乗車が増えて、女性の代用車掌が必要やった時期があって。数ヶ月だけでしたけど、本線の手伝いもしました」

 アヤ子は、僅かな誇らしさを込めるように言った。その声の調子に、自分でも少し驚いているくらいで、机の上の帳面に目を落としながらも、指先が無意識にページの端を触れていた。

「へえ……なんか、すごいな。あの制服、着たんか?」

 浩司は、出札台に軽く肘を突いた。目元には、懐かしさと、少しの悔しさのような色が見え隠れしている。

「着ましたよ。スカートの丈が中途半端で、冬は足元が凍えました。雪が舞う日なんか、凍ったステップで滑りそうになって……」

 言葉にしながら、アヤ子は自分の足元をちらりと見た。冬の冷たさを思い出すように、足先を少し揺らす。

「そりゃ危ないわ」

 浩司は目を細めて笑ったが、その笑みは、どこか影を含んでいるように見えた。過ぎ去った時間の重さが、彼の表情に、ひっそりと刻まれているようだった。

「あの頃は、アヤ子ちゃんが切符切って、俺が石炭くべてたのになぁ。そうか……」

 彼の言葉に、アヤ子はそっと息を吐き出す。机の引き出しを、意味もなく開け閉めしながら、少しだけ背中を伸ばした。

「──ええ。汽車の音、いまも耳に残ってます」

「シュッシュッてな。あの調子は、汽車を降りても、身体に染みついとるわ」

 浩司は机の端に手を置き、指先で軽くリズムを取る。アヤ子もその動きに目を向け、微笑んだ。

「……だからでしょうかね。今でも夢に見るんですよ、汽車に乗っとる夢」

「俺もや」

 視線がふっと交わると、言葉にできない思いがその間に静かに流れ込んでいった。

 部屋の空気は穏やかに落ち着き、時間が少しゆっくりと流れる。微かに聞こえるのは、古い掛け時計の秒針の音だけだった。二人の胸の内にある、過ぎ去った年月と戻らない日々、交わらなかった言葉たちが、静かに、しかし確かに響いていた。

「──じゃあ、なおさら、今日はよう来てくれたなぁ」

 浩司は、今更ながら頭を下げた。

「……お前らを、喧嘩させてしもうて」

 アヤ子はゆっくり首を振った。

「浩司さんが謝ることじゃないです。章さんとは、わたしが勝手に……ぶつかっただけですから」

 苦笑混じりの言葉に、浩司は僅かに眉を寄せた。アヤ子が語ろうとしないことに、言い知れぬものを感じたのだろう。

「それっきり?」

 アヤ子は言い淀み、ほんの少し間を置いてから、長く息を吐いた。

「……章さん、何も言わんのです。何にも。今までと変わらないといえばそうなんですけど、でも、朝起きて、店に立って、お菓子作って……それだけなのに、なんだか遠い人になってしまったみたいで」

 わたしが悪かったんですけどね、と、アヤ子は肩をすくめ、腕をさすった。

 何かしらの怒りや衝突があったなら、それを越えて向き合うことが夫婦の姿だと、どこかで信じていた。けれど章は、アヤ子に“触れない”ことを選んだのだ。それが悲しくて、寂しい……本音を言えば、そうだった。

(こんなこと、誰にも言えん)

 章との夫婦仲に、あれこれお節介を焼いてくるイノにももちろん、浩司にも、これ以上は、きっと喋れない。“ふうらいぼう”の妻として、昔の章を知る人々から、色んな期待を寄せられていることは、祝言を挙げてもらった最初から、肌に感じていた。だから、上手くいっていないところを見せるのはいたたまれないし、この人に嫁ごうと、見合いの場で、なぜか即決してしまった自分の予感さえ裏切るようで、癪なのだ。──後悔はしたくないなぁ、と、ずっと思っている。毎日、心の中で口癖のように呟いている。

(このままやと、全部を後悔してしまう……)

 伏せていた目を上げると、浩司が、泣いている小さな子供を見るような顔をして、こちらを覗き込んでいた。

「なんや、あいつ……嫁さんを、こんなに悲しませて」

 呆れ果てたような、それでいて、憤ったような色を滲ませている。

 浩司は、唐突に頭に手をやると、前髪を掻き上げたその手で、目の辺りを覆った。

「──章は、妙に諦めがよくて、頑固な奴や。志願して戦地に行ったんも、“ふうらいぼう”になったんも、全部、そういう質のせいや。竹を割ったような真っ直ぐさが、あいつの信頼できるところなのは間違いねぇ。でも、あいつは、自分が物分かりのいい奴だと思っているが、本当は、諦めて、それ以上傷付かないように閉じているだけなんだ。人を寄せ付けないで、一人で抱え込んで、だんまりを貫いていれば、もうこれ以上、何も変わらないでいられると思ってる。心のどっかで」

 それを聞いているうちに、アヤ子は、視界がじんわり霞んでいくのに気が付いた。

「──そうかも、しれませんね」

 浩司の言うことは、その通りだと思った。閉じている……心の真ん中に触れさせてくれないと、自分が寂しいと感じていた部分を言い当てられて、動揺もしたし、それに気付いて言葉にできるのが、自分ではなく浩司だったということも、心に堪えた。

「わたし……章さんが捕虜になっとったって、打ち明けてくれて嬉しかったんです。章さん、あの時、自分から、閉じている殻を、少しだけ持ち上げたような気がして。でも、その思いを受け止めきれなかったのは、わたしです」

「そんなこと、ないさ」

 浩司はこちらに手を伸ばしかけたようだったが、思い直したように、膝頭を握った。

「俺は、あいつに、少し意地悪だったかもしれん。──俺、何も失ってないように見えるやろ。でも、不条理を飲み込めんで、全部が手をすり抜けてくみたいで。あいつのこと、羨ましいと思ってしまうんや」

 アヤ子は何も言えず、再び視線を下げた。

「章は、あいつは、悪運の塊みたいな奴やけど、何もかも失ったようでいて、でも、誰よりも大切な存在を手に入れた。それが、羨ましかったんやろうかなぁ」

 浩司は、自分でそう言っておきながら、困ったように笑った。

「──アヤ子ちゃんが申し訳なく思う必要はないよ。俺と章の問題やから。仕出しのことも、アヤ子ちゃんが覚悟を持って引き受けてくれるんやから、きちんと、商いの話をせんといかんな」

「……はい」

 アヤ子は気を取り直して、口元をきゅっと引き締めた。

「……仕出しの話、しましょうか」

 浩司も、気まずい雰囲気を振り切るように頷いた。

 話はすぐに実務的な内容に移った。

「味付けやおかずは? なんか希望ありますか?」

「しっかりしたもん。冷めても食べやすいもん」

 アヤ子はうなずきながら、懐から一枚の紙を取り出した。既にいくつかの試作を書き留めているが、ちょうど希望に添えそうだ。

「今回の仕出し弁当の中身ですが、少し考えてきたんです。──塩むすびに漬物、それから白味噌のしぐれ煮、関西風の炊き合わせ、だし巻き卵、そして梅の甘露煮……ふうらいどうのかりんとう饅頭は入れられませんけど、これで一食、四十円はどうでしょう?」

 浩司は腕を組み、眉をひそめながら答えた。

「……正直言うて、組合としては、一食三十五円が限界や」

 アヤ子は一瞬考え込み、すぐに笑みを作った。

「三十五円ですか……。そこはわたしも理解してます。少し工夫して、材料の調整や仕込みの効率化を図って、何とか三十五円に近づける努力をしてみます。けど、三十五円だと正直、どこかに妥協しなきゃいけないと思います」

 アヤ子は目を細め、真剣な表情で言葉を続けた。

「──漬物の種類を減らすか、だし巻きを小さくするか……品数や握り飯の大きさは削りたくないですよね。どうにか、三十七、八円くらい出してもらえんでしょうか?」

 浩司はしばらく黙り込み、やがて肩をすくめて言った。

「……俺が決められることじゃないからな。頼んでおいて、申し訳ない」

 このあたりで手を打つ他ないだろう。アヤ子はすぐに頷き、再び、にっこり笑った。

「そしたら、できるだけ三十五円に近付けられるように頑張ります。組合の皆さんに喜んでもらえるよう、全力で作りますね。」

 浩司は、少し安心したように目を細めた。

「頼んだで……アヤ子ちゃん、すっかり商売人やな」

「章さんに頼まずにやるつもりやって言うたら、……浩司さん、どんな顔するやろ思ってたけど」

 アヤ子は、膝の上で重ね合わせた手をぎゅっと握った。

「これは、わたしが決めたことです。章さんが……向き合おうとせんのなら、誰かがやらなあかん」

 浩司は言葉を失ったように、こちらを見た。

 アヤ子は続けた。

「町から必要とされとるのに、それに、いとも簡単に背を向けてええ理由なんて、ないと思うんです。章さんは一人で生きているつもりなんかもしれん。でも、あの人が見んふりするなら、わたしが見る。それだけのことです」

 迷いはあっても、逃げるつもりだけはなかった。ただ、浩司には、何か引っかかるところがありそうだった。章の心の中に何があるのかを、親友として、想像せずにはいられないのだろう。

(……見んふりしとるんやろうか。それとも、見えんようにしとるんやろうか)

 アヤ子は、こっそりと内心に問いかけた。

 窓の外では、山の稜線を流れる大きな雲が、影を作っていた。



 昼には上がっていた雨が、再び、静かに地面を打ち始めたようだ。磨りガラスを透かして、灰色の線が、幾筋も模様を作っていた。──風も、少しあるのかもしれない。

(今晩は、冷えそうやなぁ……)

 アヤ子は夕餉の味噌汁をかき混ぜながら、夫が、明日のぶんの仕込みに勤しむ背中を眺めていた。

 昼間、仕出しの打ち合わせのために出かけたのを、実際は、いつものように弁当を売ってくるとごまかしてしまった。嘘ではないが、なんだか悪いことをした気分だ。

(不味かったなぁ)

 一旦そうしてしまったからには、今更言い出すこともできず、アヤ子は悶々としていた。

 隠しごとは苦手だ。それでも、やってしまったのだから、時すでに遅し。

(──知ったら、章さん、また拗ねてしまうやろうなぁ)

 こっそり溜息を吐いた時だった。

 ふうらいどうの前で、鈍く軋む車輪の音が止まった。

「ごめん、雨宿りさせてぇな!」

 突然、戸口ががらりと開き、どんよりした空気を、大きな声が容赦なく切り裂いた。

 驚いたアヤ子は、ついお玉を取り落としそうになった。

「イ、イノさん……ああ、大変でしたね」

 しどろもどろのアヤ子と、迷惑そうな半眼を向けるを交互に見遣って、イノは姉さん被りにしていた手拭いを、えいやっとひっぺ返した。 

 土間に、滴がぽつぽつと丸い痕を付ける。

「そうよ、これ、みぞれ混じっとるわ。初雪も、花びらが降るみたいな雪なら感傷に浸れもするけんど、堪らんよ」

 イノは荷車から持ってきた麻の袋を、ほれ、と章に差し出す。代わりに麓で買い付けてもらった黒砂糖だ。

「大事な品物は濡らしてないからね」

「──ありがとうございます」

 章は頭を下げると、さっさと踵を返して、戸棚の方に行ってしまった。

「まあ、いい小遣い稼ぎさせてもらってるけど、そんな他人行儀なの、別にいいのにねぇ」

 上がり框に腰掛けながら、イノはその背中に言葉を投げかける。対して章は、纏わりつく羽虫を払うかのように、煩わしげに首を振った。

「──人の情けに漬け込むのは良くないです。それだけです」

 それを聞いて、イノは一瞬目を丸くしてから、大きく口を開けて笑った。

「だって他人じゃないか、なんて言われたらどうしようかと思ったよ」

 このお節介なご近所さんが来てくれたおかげで、アヤ子は、章との気まずい空間を凌ぐ必要はなくなった。けれど、いつ、イノが自分にも会話の矛先を向けてこないとも限らないのもまた、困りものだった。喧嘩していることが知れれば、一体どうなることやら、考えるだに気が重かった。

 懸念はすぐに、現実のものとなった。

「そういえば、アヤ子ちゃん、あの話」

 それは、おそらく、一番駄目な切り口だ。

「あの話って……何の……?」

 たじろぎ、僅かに後退りさえしながら、アヤ子は、ぎこちない表情を顔面に貼り付かせた。

「鉄道組合の仕出し、受けるんでしょう?」

 アヤ子は慌てて背後を振り返る。

 章は、餡をこね始めた手を止めず、作業台の向こうで、黙々と動いていた。

 イノは、こちらの動揺などお構いなしだ。

「あんた一人でやるつもりやって、浩司さんから聞いたわ。もっと早う教えてくれたらええのに。婦人会なら、皆、廃線には反対しとるけん、喜んで手ぇ貸すわ」

 それから彼女は、ちょいとちょいと、とアヤ子を手招きし、耳打ちする。

「“ぼう”のことも聞いとる。心配せんでええよ、あの子も、悪いことしたとは絶対思っとるんやから」

 そういう子や、昔から。──と、そう言うイノの声は、低められていても明るい。湿った空気を破って、真っ直ぐに響いた。しかし、その陽気さに、アヤ子は、どう反応して良いのやらと口ごもった。

 誰も声を発さない静かな時が、少しの間訪れた。

(章さん……ひとりぼっちになったような気がせんやろうか)

 ふと頭に浮かんだのは、そんなことだった。

 心の雨戸まで、すっかり閉じてしまっている彼を放って、周囲の人が皆で結託してしまったら、もう、殻の端っこすら、持ち上げてみようとは思わないかもしれない。

 その時、章がぼそっと呟いた。

「……手、貸してもらえるんやったら、そうしたらええ」

「え……」

 アヤ子は、思わず声を漏らした。章は顔を上げず、手を動かしたままだ。本当に、さっきそんなことを言ったのだろうかと、疑いそうになった。

 その声音には、これまでとは違う温度があるような気がした。突き放すような冷たさでも、諦めでもない。──ただ静かに、波のない湖のようで……これは、彼のささやかな歩み寄りなのだろうか。

 イノが目を丸くして、ぱちぱちと瞬きする。

「──おや、なんや、やっぱり“犬も食わん”ってねぇ」

 おどけた声が、しとしと降り続けるみぞれの音を割って、薄暗い土間にこだました。

 アヤ子は何も言えずに、お玉の柄を強く握りしめていた。

 けれど、胸の奥がふわりとほどけたような気がしたのは、確かだった。

 ほんの少し、安心した。章には、アヤ子が孤軍奮闘しているように見えているだろうが、アヤ子にとっては、章がそうなのだから。廃線反対は町の総意で、その中で、一人だけが否定者として残ってしまう居心地の悪さは、想像以上だと思うのだ。

(章さんは折れなくていい。章さんの主義を折らなくていい。だけど……)

 自分が、その分、町の役に立って、“ふうらいぼう”を繋ぎ止めていられれば。虚空を翔ける一枚の凧に、ここにちゃんと居場所があるのだと、地上から糸を絶対に離さないで、手を振り続ければいいのだ。

 そう思えると、つい膝が震えた。

 章が、ちゃんと自分を見ていてくれたのだと、投げ出さないでいてくれたのだということが分かって、本当にほっとしたのだ。

 アヤ子は顔を伏せるようにして、イノに頭を下げた。

「……よろしくお願いします」

「さあ、よう言うた! そないなこと、全部一人で背負うもんとちゃうからねぇ」

 イノの声は、何を言っても冗談めいており、底抜けに明るいので、今日ばかりは救われた。

 彼女はひとしきり笑った後、ガラス戸の外を透かし見ながら、眉を八の字にした。

「うーん、やまないねぇ」

「傘持って、送りましょうか?」

 アヤ子が提案すると、悪いねぇ、とイノが手を払う。遠慮しないところが、いっそ清々しい。

「──章さん、少し出てきますから」

 はい、と短い返事が返ってくる。

 アヤ子はイノに傘を差し掛けながら、二人で坂道を上がっていった。

 雨の匂いとみぞれの冷たさが、鼻の頭をつんと摘む。イノの荷車の軋む音が、しんとした道に響いていた。

「“ぼう”、アヤ子ちゃんのこと、ほんまに大事にしとるのは分かるけどな。大事にしすぎるのもな、まどろっこしいやろ」

 ふいにイノがぽつりと言った。

 アヤ子は思わず立ち止まりかけたが、休まず歩を進めた。

「……大事に。はい、してくれてると、思います、でも、仕出しのことで喧嘩して、それで……」

 言いかけたところで、イノが首を横に振る。

「アヤ子ちゃん、ええお嫁さんになろうとしとるけどね、たまには甘えてもええんよ。意地張るばっかじゃ、男はよう気がつかんけぇな」

 アヤ子は言葉を飲んだ。喉元まで出かかった思いが、声にならずに滞る。

 甘えるなんてことを、考えたことはなかった。

(──章さんに、どう向き合ってほしいんやろ……)

  アヤ子は俯いたまま、靴の先で地面をそっと擦った。冷たい風が頬を撫でていく。

 たしかに、自分は、ちゃんとしようとしていた。良い嫁になろうと、迷惑をかけないように、重荷にならないようにと、考えていた。──こんな自分を、貰ってくれたのだから。

 そんなふうに息巻いているうちに、いつの間にか、章さんと向き合うことが怖くなっていたのかなぁ、と、何かが胸の奥にすとんと落ちた。

 些細な言葉の選び方一つで、互いの心を測ろうとして。上手く測れない時には、自分のせいにして、黙ってやり過ごす。

(甘えるって、どうやって……)

 心のどこかで、頼らない自分でいることが、唯一の拠りどころになっていた。声に出せば泣いてしまいそうな言葉を、胸の奥でこらえるようになったのは、いつからだろう。──兄や婚約者が死に、母が感情を失って、辛いからといってすがる相手はなくなってしまった。そのせいだろうか?

(分からない、そんなの)

 アヤ子は、やり場のない悲しみを転がし続けた。

 なぜ、見合いをしようと思ったのか、嫁に行こうと思ったのか……それを、ふと、胸の引き出しからそっと取り出す。──生きていくため、それだけに尽きた。

「──初対面の時、章さんは」

 アヤ子は口の中で呟いた。

「そのつもりは全くないのに、勧められたから、断るのも面倒だからって顔してました。いかにも、しぶしぶやってきた感じがして…… 」

 イノは、突然何を語り始めるのやら、といった表情を浮かべたが、すぐに笑い出した。

「“ぼう”らしいねぇ。話を持って行ったのは、あの子の父親が世話になってた炭鉱の職員さんだから、たしかに、断れなかったんだろうねぇ」

「そうだと思います」

 アヤ子はちらっと笑みを溢した。

「なんにも……期待してない顔をして、こんな人間ですから、どうぞ断るなら断ってくれ、みたいな。投げやりなことを言っていました」

「へぇ、全く、あの子らしいねぇ」

「──はい」

 見合いの時のことを思い出すと、今でも、なんだか可笑しくなってしまう。

 彼の背広は、誰に借りたのか……亡くなった父親のものだったのか、袖丈や肩が合っていなかった。それに、ネクタイは何度も結び直した跡が見え、結目も少し曲がっていた。極め付けは──

「そういえば、章さん、あの時は髪が少し長くて、七三に分けていて……整髪料を使い過ぎてテカってたんです」

 イノは目を丸くし、違いない、と肩を揺らして笑った。

「よく覚えてるんだねぇ」

 アヤ子は、少し息を呑んだ。

「それは……」

 言葉を途切らせ、目を伏せる。知らず知らず、口角が上がっていた。

「わたしも、章さんのこと言えんのです。色々あって、女がこの先生きていくためには、結婚しかない思って。それでも……章さん、あんな感じやったのに、わたしは、期待してしまったんです」

(そうか……)

 話しているうちに、ようやく気が付いた。

 それを、アヤ子はそっと押し出した。

「なんでしょう……一人より、この人と二人の方が、お互い、心が丈夫でいられるかなって」

「不思議やねぇ」

 イノはしみじみと言った。

「あの子、驚いとったでしょう。断られると、端から決めつけとったろうに。アヤ子ちゃんも、それを分かっといて、手を差し伸べてくれたんやねぇ」

 アヤ子は微かに頷いた。

「──そうなんです。なんでなんか、そう思いました。でも、それなのに……時々、選択に自信が持てなくなる時があります」

 アヤ子は、イノに傘を差しかける右手に左手を添え、ぎゅっと握り締めた。

 章の背中は、ただ、ほんの少し、手を伸ばせば届く距離なのに。半年の間、どの夜も、それすらできなかった。話せばすむことかもしれない。けれど、今となっては、その一歩が、とてつもなく遠く感じるのだ。

 わたし、甘えるのとかよく分からなくて。と、アヤ子は正直に言った。

「……いつか、もっと側に感じられるようになったら、ええんですが」

 アヤ子の返事に、イノはしばし黙ってから、闇の色の天を仰いだ。

「“ぼう”は……あの子は、アヤ子ちゃんを壊れ物みたいに思っとるんよ、きっと。自分から気持ちを投げかけることが、恐ろしいんやろうねぇ。でも、アヤ子ちゃんが飛び込んでいけば、受け止める優しさのある子やよ」

 傘の先から、溶けたみぞれが垂れ、落ちながらぽつぽつと弾けて、飛沫がかかる。その粒が、薄らと黄金色に輝いていて──振り返ると、ふうらいどうの灯りが、真っ暗な町並みの中、ここが帰る場所なのだと、静かに両手を広げて待っているように見えた。

「そうですよね。わたし、章さんの優しいこと、よく分かってます」

 アヤ子は答え、再び坂の上に目を向けた。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ