第3話 精霊まんじゅう
八月の陽射しは、朝からじりじりと屋根を焼いていた。
店の裏手にある小さな庭には、茄子と胡瓜の精霊馬が三つ並べてある。アヤ子は手を合わせると、ゆっくりと目を閉じた。
「兄さん……それから……」
思い出す顔は二人。兄の寡黙な背中と、かつての許婚の柔らかな笑みだ。
(セキさん、どのようなお人だったんやろ)
手を合わせ終えると、アヤ子は台所に戻った。今日は特別に、座敷の隅の仏様にも、菓子と弁当を供えるつもりだった。
縁側に腰掛けたアヤ子は、団扇でぱたぱたと風を起こしながら、冷やした茶を一口すすった。台所の火を使いっぱなしだったせいで、顔にほんのり汗が残っている。
兄は、水まんじゅうが好きだったなぁ、と、ふと思い出した。
(ーーそういえば、章さんのお店に水まんじゅうはないなぁ)
暑い夏限定の菓子があったら、皆、買いに来るのではないか。など、アヤ子はぐるぐると考え始めた。
ひやりと冷たい、透明なお菓子は、まるで水そのものをすくってきたみたいで、夏の暑さを忘れさせてくれる。それを、笹の葉にちょこんと乗せて、船のように見立てる。一つずつ、竹の皮に包んで、箱に詰めたら……。
「……“精霊まんじゅう”とか」
小さく口に出してみると、どこかくすぐったいような、懐かしい響きが胸に広がった。
ふと、戸口に人影が差した。
「……暑くてかなわんですね」
章は手拭いで額を押さえているものの、早朝から鍋と向き合っていたので、全身が汗でびっしょり濡れている。近所の男らは上裸だったり、袖無しを着ていたりしているが、章は、何のこだわりがあるのか、最初に会った時と変わらず、シャツと長ズボンを着用している。
(鉄道員時代の名残りなのかしら)
アヤ子は、その姿がなんだか可笑しく、肩をすくめた。
「わたしが店番をしている間、水浴びでもしたらいかがですか?」
章は、庭の精霊馬に手を合わせて戻ってきた。湯呑みを差し出すと、素直にそれを受け取って腰を下ろす。
「そうやなぁ……菓子に影響したらいけん」
どうやら、清潔を保つ意味で納得したようだ。
「……ねえ、章さん」
アヤ子は団扇をゆるりと止め、夫の方に膝を向けた。
「ん?」
「何遍も言ってますけど……このお店、名前、つけませんか?」
嫁いで来てから、しつこいくらいこの話をしているが、一向に兆しが見えない。何をそんなに面倒くさがるのか……その点だけ、アヤ子には理解し難かった。
章はぴたりと動きを止めた。
「いつも“あそこの菓子屋”とか“ふうらいぼうんとこ”って呼ばれてますけど、ちゃんと名前があったほうが、商いも分かりやすいと思うんです。たとえば、包装紙に印を押すとか……。ほら、炭鉱夫弁当の包みにも、店の名前があったら、麓に降りた人が誰かに話してくれるかもしれませんし」
「……ピンと来るものがな」
章は麦茶を一口飲み、少し間を置いてからぽつりと答える。
「それに、看板持てるような、そんな立派なもん違います、俺のは」
また、それを言う。少しばかり呆れながら、アヤ子は首を振った。
「そんなことないです。炭鉱夫弁当のかりんとう饅頭、機関士さんたちの間で人気で、いつも褒めてくれます」
「……そうか」
章は、湯呑みを見つめながら、ぼそりとつぶやいた。
「……あとは、何かお店の名物、町の名物になるくらいのお菓子を作りたいです」
アヤ子が付け加えると、章はふうと息を吐いた。
「名物は、作ろう思って作るもんじゃない。いつの間にか“そう呼ばれる”もんです」
「ーー章さんは、欲がないですねぇ」
少し言葉を途切らせてから、アヤ子は、思い切って提案することにした。
「……“精霊まんじゅう”って、どうですか?」
「え?」
具体的な話をされるとは思わなかったのか、章は目を丸くした。
「お盆に合わせて、新しいお菓子を作れたらなって、考えてたんです。水まんじゅうです。透明で、冷たくて……それを、笹の葉に乗せて、小さな舟みたいにしたらって。お盆に、川を渡って帰ってくる精霊を思ってーー“精霊まんじゅう”、なんて……どうでしょう」
再び、団扇をぱたぱたと動かしながら、アヤ子は目をそらした。この案に、彼がどんな反応をするのか、どきどきして、待っているのがもどかしかった。
章は一瞬、眉を上げた。
「……いいと思いますよ。ちゃんと“涼”も“縁起”もある」
「ほんとうに……?」
「はい。笹は香りも移るし、防腐にもなる。水まんじゅうの餡、どうします? 普通のこし餡じゃ芸がない」
存外、乗り気のようだ。
アヤ子は、つい、目を輝かせた。
「梅餡とか……どうですか? 酸味でさっぱりして、夏らしくて」
章は頷きながら、しかし、目はどこか遠くを見据え、すでに工程をあれこれ考えているようだった。
「梅餡は、水分の加減が難しいですよ。練り直し覚悟でやらないと」
「やります。何度でもやりますから」
アヤ子のやる気に当てられたのか、章は少しだけ口元を緩めた。
「じゃあ、やってみましょうか。“精霊まんじゅう”」
アヤ子も、当然、満面の笑みを返した。
「じゃあ、やっぱりお店の名前、考えておいたほうがいいと思います。きっと、必要になりますから」
「……しつこいなあ」
章はそう言いつつ、水を浴びてくる、と立ち上がった。
アヤ子は、小さな達成感を胸に、一つ深呼吸した。
昼下がり。弁当や菓子の仕出しが一段落すると、章とアヤ子は台所に並んでいた。
大鍋には、寒天と葛粉を合わせた透明な生地が、ゆるりと煮立っている。アヤ子は木べらを手にしながら、ぷつぷつと立ち上る泡を見つめた。
「……思ってたより、すぐ固まりそうですね」
「水まんじゅうは勝負が早いんです。手早くやらんと、すぐダマになる」
章がそっと手を添え、木べらを持つアヤ子の手に力の入れ方を示すように動かす。
「もうちょい深く。鍋底をさらうように」
「はい……あっ、そろそろ透明に……」
「火、止めて。すぐ型に流す」
二人は準備しておいた小さな丸い型に、生地を手早く流し込んでいく。その中心には、少し甘酸っぱい梅餡が小さく包まれていた。
「……上手く包めてますかね?」
アヤ子がおずおずと尋ねたが、章はすんなり頷いた。
「流したときに浮かばなきゃ大丈夫。冷やしたら分かります」
冷水に張ったボウルに型ごと沈めると、薄い葛の膜がみるみるうちに張ってゆく。アヤ子は黙って、それを見守った。
数分後。型を外すと、ぷるんとした透明な水まんじゅうが現れた。中心にうっすら透けて見える梅餡が涼しげだった。
「……きれい」
アヤ子が呟いたのを、章は満足気に眺めた。
それから、流しの中に置いた籠から笹の葉を取り出し、水気を拭って広げていく。近所の子供が山に遊びに行くのを捕まえて、笹をたんと採ってくるよう頼んだのだ。お返しにお菓子をやると言うと、皆、勇んで走っていった。
「舟みたいに折るんですか?」
アヤ子は章の手元を覗き込む。
「そう。こうやって……端をちょっと折り込んで……」
章の手元を真似て、アヤ子も、自分なりに笹舟を作ってみる。
「ええ感じじゃ」
そう声をかけられると、胸の底の方が、ほんわかと浮かび上がった。
たらいに水を張り、店先に三つばかり並べる。
「なんね、なんね?」
通りかかったイノが声を上げたので、他の通行人わらわらと寄ってくる。
二人で作った“精霊まんじゅう”は、笹の舟に乗せられ、順番に水の上に放たれる。
「“精霊まんじゅう”です、涼しそうでしょう?」
アヤ子が日の光にかざすと、梅餡が良い具合に影になって生地に模様を浮かべ、まるでビー玉のように輝く。
「綺麗ねぇ……お一ついただこうかしら?」
「イノさん、おおきに。一個五円です」
「ここで食べさせてもらうわ」
イノはつるんと滑る水まんじゅうを指で摘む。地面に落ちないよう、アヤ子はさっと、手近にあった盆を差し出した。
「……ありゃ、これは、ほんに冷たくて美味しい」
「ありがとうございます!」
章の方を振り返ると、彼は、店の奥でこっそりこちらを覗っているところだった。
(興味ないふりして、気になっているのね)
「“ぼう”の腕も大したものね!」
イノもそれに勘付いていて、わざわざ大きな声で言う。
そこに、笹の葉を採って来てくれた子供らも集まり、店は大賑わいに賑わった。
「章さん、硯と紙、用意してください」
アヤ子は大わらわで声をかける。
「ーー用意しましたが、どうするんです?」
「”精霊まんじゅう”、一個五円、三個で十二円って、そう書いてください」
俺は字が汚いんですが、とぼやきながら、章は筆を取った。その間にも、近所中の人が、騒ぎを聞きつけて集った。
章が値段を書いた紙を店先に貼る。気が進まなそうだったわりには「納涼」と書いた半紙も添えられている。
(……これは、売れる!)
アヤ子は胸の高鳴りを抑え切れなかった。
「章さん、良ければ、作り増しお願いします」
はいよ、と言い、章は腕まくりをする。
「こうして、人が集まるんは、ええいな」
章がぽつりと言うので、アヤ子はその横顔を見上げた。
「名物があれば、誰でも、迷わずここへ来るようになりますよ。……名前があればなお良しです」
アヤ子はそっと目を伏せた。兄と、かつて婚約していた青年の顔が浮かぶ。それから、セキさん。遠いどこかで、この小さな甘味が、還らぬ人々にも届くことを願いながら、そっと舟の端を整えた。
夕方の風が少しだけ涼しく感じられた。西日が差し込む台所で、アヤ子はそっと箸を置いた。試作した水まんじゅうが、陽の光に透けて、硝子細工のようにきらりと光っている。
「熱心にやりますね」
帳面を付けている章が、そろそろ終わりにしないかと目で問いかけている。
「もっと、綺麗に作れるようになりたいんです」
そうか、と彼は微笑む。アヤ子が腕を磨こうとするぶんには、菓子作りの師として満更でもないようだった。
「……ねえ、章さん」
アヤ子この機を逃すまいと切り出した。
「この店……名前、つけましょう。今夜、決めましょう」
章は手元の帳面に目を落としたまま動かない。
「名前……なくてもやってこれたけど」
「ふうらいぼう、じゃ……だめですか?」
章がふと顔を上げる。その目に、少しだけ揺れるものがあった。
「……あれは、俺の渾名みたいなもんだ」
「でも、わたしが好きになったの、その“ふうらいぼう”ですよ」
アヤ子は言った後になって、顔を真っ赤に染めた。章も、何も言えないようだった。その沈黙の中に、笹舟のかすかな香りが漂っていた。
「ーーじゃあ、“ふうらいどう”で」
頭の中が真っ白になって、ほとんど適当に言った店名だったが、案外、とても良いと思った。
章も同様だったようで、目をぱちくりさせた後、ふっと息を吐いた。ついに、観念したようだ。
「……なら、そうするか」
そう言って章が立ち上がる。台所の隅に積み上げた薪の山から手頃な木屑を取り出すと、表面を平らに削り始める。
「ーーそれ、どうするんです?」
「看板はできませんけど、表札くらいの大きさなら、作れますから。戸口にでも掛けておけるようにです」
字はアヤ子さんが書いてください、と、章は付け加えた。
アヤ子は胸の奥が熱くなるのを感じた。風のように流れてきた彼の日々が、ようやく根を下ろす場所を見つけた気がしたのだ。