第2話 炭鉱夫弁当
蝉の声が、早々にも、夜明け前の空気に滲み始めていた。
夏の早朝は思いのほか蒸し暑く、まだ薄暗い台所の戸を開け放つと、ぬるい風がそっと入ってくる。
アヤ子は、すでに顔を洗い、髪をひとつにまとめて身支度を整えていた。
木の桶に水を張り、米を研ぎながら、ふう、と一つ息を吐く。
嫁いできて、もうすぐ一月になる。
最初のうちは気後れしていたが、ちょうど仕込みの段取りにも慣れてきた。
章に教わった通り、米を蒸す準備、豆を浸す準備。朝餉の支度も、章が仕事を終えたらすぐ食べられるように整えるのが、自分の役目だ。
だんだん、餅を丸めたり色々させてもらえるようになってきた。とはいえ、餡子だけは、絶対に触れられなかった。餡子は、この店の、章の、心そのものだとアヤ子は思っている。
米を蒸篭にあげ終わったころ、背後で襖が開く気配がした。
振り返ると、眠たげな目をした章が、ぼさぼさの髪のまま立っている。彼は湯気を嗅ぎ取るような仕草をし、それからあくびを噛み殺した。
「……おはようございます」
章はてきぱき働く人なので、朝に強いと思っていたが、近頃、別段そうではないのだと分かってきた。アヤ子がいることが当然になってくると、夜も朝も、睡魔に勝てないでいる様子を、隠さず見せるようになった。
アヤ子はほほえみ、少しだけ得意げに言った。
「もう、いつでも始められますよ」
章はそれを聞くと、わずかに口元をほころばせた。
「……そうですか」
敬語は抜けず、態度もそっけないけれど、不器用だからこそ嘘を付けず、信頼できるのが長所だと、アヤ子は思い始めていた。
湯気の立つ台所に、朝の光が少しずつ差し込んできた。
もうすぐ、忙しい一日が始まるのだ。
章は火鉢の上に鍋を据え、静かに小豆を煮始めた。
アヤ子はそれを横目に見ながら、朝食の支度を片付けると、すぐに炭鉱夫向けの弁当のおかず作りに取り掛かった。
「今日も、行く人がいるって聞きました」
アヤ子は油のはぜる様子を見ながら、ぽつりと言った。それから、寂しさをまぎらわせるように、芋の煮っころがしに、甘辛い味噌を絡めたりしてみる。
山を降りる炭鉱夫たちは、最後にこの町の味を思い出に持っていく。皆が懐かしがる“セキさん”は章の母親だが、炭鉱近くの食堂の看板娘だったそうだ。章の父親は炭鉱夫で、早くに亡くなった。セキさんは、章を女手一つで、食堂で働きながら育て上げた。章が復職できずにふらふらしていた時も、章がぷらっと出て行ってしまった時も、彼女は変わらず懸命に働き続け、閉山の前……章が戻るのを待たずに、風邪をこじらせて亡くなったという。
章はセキさんと一緒に食堂の手伝いをしたことがあったからか、料理に使う調味料の塩梅や隠し味まで身に付けていたが、それは全て目分量なので、アヤ子は、章が塩を摘めば、一旦紙の上に置いてもらって重さを計り、醤油を垂らそうとすれば、器で受け止めて重さを計った。
「そこまでせんでも」
分量が全てじゃない、と章は呆れ気味だったが、アヤ子は真剣そのものだった。
章が弁当を作るようになったのは、町を去る炭鉱夫に、何か腹に収めるものをと頼まれたのがきっかけだと聞いたが、炭鉱夫たちは、章の手作りだというだけで、懐かしい味を思い出してありがたがっている。
(それを、任せてくれるんやもの)
そんなふうに思うと、どんな小さな惣菜でも手を抜きたくなかった。
努力のかいあって、アヤ子の作った弁当も、変わらず評判は上々だった。店の名を貶めてはいけない……名前はまだないが……と、今朝も、アヤ子は必死で台所に立っていた。
一方、章は、小豆の煮え具合を何度も指先で確かめていた。
水に浸しておいた小豆を一度茹でこぼし、渋みを取る。新たな水でじっくり煮立て、皮がやわらかく割れはじめる絶妙な瞬間を、章は逃さない。沸き立つ鍋からは、甘やかな香りが台所いっぱいに広がっていた。
煮あがった小豆を手早く籔にあけ、余計な水気を切ると、今度は砂糖を加えて練り上げる。
焦がさぬよう、固くもならぬよう、木べらを絶えず動かしながら、章は真剣な顔で餡を練った。
その姿に、アヤ子は言い知れぬ敬意を抱く。
章の作る菓子は、餅、饅頭、きんつばなど、餡子の甘さがくどくなく上品なのが特徴だった。京都の修行先の味だという。もっとも、親父さんのは一味も二味も違いますけどね、と章は言った。
炭鉱夫の弁当にもかりんとう饅頭が入っているが、そればかりはセキさんの再現でなく、章の自分の色だ。
ふと、アヤ子の胸に一つの考えが浮かんだ。「……ねえ、章さん」
弁当箱に煮物を詰めながら声をかける。
「機関士さんにも、このお弁当、食べてもらえないかしら。麓に降りたときに、美味しかったって誰かに話してもらえたら……きっと、いい宣伝になると思うんです」
章は手を止めず、木べらを動かしながらちらりとアヤ子を見た。
特に表情は変えなかったが、しばらく考えてから、ぽつりと答えた。
「……好きにせい」
アヤ子はほっとして、顔を綻ばせた。
(やってみよう)
湯気の立つ台所で、そんな小さな決意を胸に抱いた。
朝方に作った炭鉱夫向けの弁当は、店を開けると、たいていすぐに売り切れてしまう。そのため、思い付いた後、アヤ子はすぐに作り増しし、弁当を籠に詰めて、一人、駅へと向かった。章の決まり文句は、決して否定的な意味でないことは、アヤ子には分かっていた。
駅舎の影に、手持ち無沙汰そうに立つ機関助手の青年の姿があった。休憩中なのだろうとあたりを付け、アヤ子はまず、彼にそっと声をかけた。
「あの……よければ、これ。お昼にいかがでしょう? 甘味も入ってますから、お疲れのときに」
籠の中から弁当を差し出すと、青年は最初、少し驚いた顔をした。
「もしかして、花本さん?」
相手は、アヤ子が鉄道員をしていたことを覚えていたようだ。
上手く返答できないでいると、彼はひらひらと手を振った。
「あ、俺が勝手に見知っていただけやから気にせんで」
アヤ子は肩をすくめた。
「ーーいいえ、こちらこそ、覚えていてくださったのに」
「花形の女子鉄道員だからね、あなたのことは、麓の人間もよく知ってるさ」
「じゃあ、ぜひ、麓の皆さまに、弁当の感想を聞かせてくださいな」
青年は制帽を取ると頭を掻いた。
「ええ。区所に戻ったら、また言っときますよ。美味かったぞって。……ただ、汽車が……ね」
彼は構内に目をやった。アヤ子もその視線を追い、掲げられた「団結」の旗を見た。汽車が動かない理由が、そこにあった。
「俺もすっかり困っちゃってね。貨物に乗って来たはいいが、帰りは客車担当のはずだったもんで、それが動かないんじゃあ……まあ、今日はこっちに泊まることになるかもな」
青年はそう言って弁当を代金を交換すると、片手を上げて歩いて行った。
その後ろ姿を見送ったアヤ子の胸に残ったのは、初めての商売の手応えではなかった。言葉にならない不安が募った。
たしかに、駅前の空気はいつもと違っていた。さっきからの曇り空のせいだけではない。人の流れがぎこちなく、何かが張り詰めている。アヤ子は青年の歩いていった先を目で追い、集まっている男たちの姿を認識した。
白シャツに腕をまくった鉄道員たちが十数人、手製の幟を掲げ、声を上げていた。中には顔馴染みもある。粗末な布に黒々とした文字が横たわる。「廃線反対」「仕事をよこせ! 未来をよこせ!」と殴り書きされており、通り過ぎる人々は、一瞬足を止めるも、すぐに視線を逸らして歩き去っていく。
「三嶽線をこのまま見捨てる気か!」
「俺たちは機関士になるためにここに来たんだ!」
「仕事をよこせ!未来をよこせ!」
アヤ子は、用意してきた弁当箱を胸に抱えたまま、思わず足を止める。
声を張り上げる男たちの中に、浩司の姿もあったからだ。
彼は額に汗を光らせながら、渾身の声を張っている。
「この町を育てたのは、炭鉱と、線路だろうが!
その線路を放ったらかしにして、廃線だ? ふざけんなよ!」
怒声に混じって、どよめきと、ため息と、静かな視線が交錯する。
「保線に回されたって、俺たちは誇りを捨てちゃいない! 汽車を動かしたいんだよ! 三嶽線を、もう一度!」
その言葉に、数人が拳を握り締め、何人かが小さくうなずく。
アヤ子は、弁当の包みを抱え直しながら、胸の奥が痛くなるのを感じた。
(浩司さん……)
背後では、管理者らしき男たちが腕を組んで様子をうかがっている。
町の空気ごと、重く、熱く、静かに揺らいでいた。
とても、声はかけられなかった。今の彼の表情は、アヤ子の知っている浩司ではなかったのだ。彼らが、見回りの警官と何か言い合いになっているのを見て、アヤ子はとっさに身を引いた。
籠を抱えたまま、その場を離れる。
(浩司さん……あんな……)
足早に駅を離れながら、アヤ子は胸のざわつきを抑えられなかった。駅での光景が頭から離れず、弁当もほとんど売れないまま、下を向いて帰路についた。
夜も更け、近所の犬の吠え声ばかりがやかましく響いていた。
卓の上には、一升瓶と、簡素なつまみが並んでいる。
章が酒を飲むのは、浩司が訪ねて尋くる時だけだった。
「悪いな、急に押しかけて」
浩司は遠慮がちに言いながら、座布団に腰を下ろした。
「いいさ、どうせ暇だ」
章は盃を傾ける。そっけない口調だが、まんざらでもなさそうだった。
アヤ子は、さりげなく煮物の皿を運び、二人の間に置いた。昼間のことは、帰ってすぐ、章に言わずにはおれなかった。自分が今日、何をしていたのか、章も承知しているのだろうと、浩司は予測しているようだった。
浩司は、すまん、と頭を下げ、箸を伸ばす。
薄暗くなった店の中、章と浩司は酒を酌み交わしながら、しばしとりとめもない会話を続けた。
お互いに言いたいことがあるが、言葉にするのをためらっているようだった。
「……今日は、派手にやってたようだな」
ついに、章がぽつりと言った。
浩司は一度口を開きかけ、酒をあおってから答えた。
「町の足を守りたいだけだ。ーー三嶽線も俺たちも見捨てられちまう」
「無駄だろ」
章の言葉は鋭かった。
浩司の顔にかっと火が点いたような色が浮かんだ。
「……お前も、鉄道員だったろ!」
彼は、思わず声を荒げる。
章は盃を置き、静かに浩司を見た。その目には、どこか深い陰があった。
「ーー冗談じゃねえよ。辞めたくて辞めたんじゃない」
低く絞り出すように言うと、浩司は、自分が言ってはいけないことを口走ったと気付いたのか、息を呑んだ。
しばし、重苦しい沈黙が流れた。
台所で皿を拭いていたアヤ子も、思わず手を止めた。
「……戦争のせいだな」
浩司は、盃を持ち上げ、虚ろに笑った。
「閉山して三嶽線も長らく運休して、仕事がのうなって、近いうち廃線と噂が流れて……将来の不安定さに、皆、疲弊しとるんじゃ」
章も、返す言葉を持たないまま、ただ静かに酒を飲み干した。それから、やがて、低く、途切れ途切れに口を開いた。
「……戦争が終わって、軍需のために敷いた線路は、用済みになった。人も物も、前みたいには動かんくなった。……仕方ないさ」
「俺たちの手で、やっとつないだ鉄路なのに」
浩司が、かすれる声で言った。
章は淡々と続ける。
「無理に抱えてりゃ、赤字になるだけだ。今の日本に、余裕なんてない。……いらないって線引きされりゃ、それで終わりだ」
台所で聞いていたアヤ子は、胸が詰まるような思いだった。章の言葉は冷たいようでいて、どこか、自分に言い聞かせるようでもあったからだ。
久見線がなくなれば、浩司たち久見機関区の者はどうなるか分からない。久但機関区は、すでに麓の本線の管轄になっているし、そこに吸収される形になるのかもしれない。ーーしかし、章やアヤ子と同じ身の上にならないとも限らないのだ。
浩司は拳を握りしめ、それ以上何も言わなかった。ただ、盃を手に取ると、ぐいと煽った。章もまた、静かに自分の盃を満たして、そしてまた、黙って飲んだ。
卓の上には、冷えた煮物と、どこか取り残されたような湯気の立つ酒だけが残った。
浩司が帰った後、アヤ子は湯呑みを洗いながら、章が湯を使う風呂の音を、ぼんやりと聞いていた。
(――ああして、浩司さんたちは、まだ諦めたくないんや)
でも、章さんは、仕方ない、と言った。それは、自分の無力さを受け入れた“ふうらいぼう”だから言える言葉だったと思う。敗戦も、社会の大きな流れも、自分たちにはどうしようもないことで、誰もが、否応なしに、厳しい風に吹かれているのだ。
(……わたしは)
アヤ子は、昼間のことを思い出す。弁当を買ってくれた機関助手の青年の顔と、麓に帰ったら仲間に話すと言ってくれたあの言葉。
(麓でも、章さんの弁当や菓子が有名になればなぁ)
町を去る炭鉱夫たちが、なぜ、あの弁当を求めるのか。ーー悔しさや不安を抱えながらも、過去を懐かしみ、前へ踏み出すための、よすがなのだ。それは、久見線が廃線になるかもしれないという現実を前に、ささやかな抵抗をしたいという、アヤ子の気分に似ていた。
(三嶽線を維持するんは難しい……炭鉱はもう終わったし、人もどんどんおらんなって。でも、たしかに賑わいはあったし、それは三嶽線がなくなっても変わらないものじゃないと駄目だわ)
ただ、アヤ子ができるとすれば、それは浩司のように声を張り上げることではないし、章のように、全てを呑みこんでしまうのも性分でない。
(やっぱり、お店に名前をつけないと。それから……)
弁当と菓子。久原町の名物になるようなものを、章さんと作ろう。それを通して、町にほんの少しでも、人の往来をつなぎとめられたら、と。そんな小さな思いが、アヤ子の胸に、ふわりと灯った。
まだ、具体的に何をするかなんて分からないし、できるかどうかも、分からない。けれど、章の諦観の眼差しを見ているのも、擦り減っていく浩司を見ているのも、きっと、その方がよほど辛いと思った。
アヤ子は戸棚から大判の懐紙を取り出すと、硯で墨を磨った。筆を執り、大きく力強く書く。ーー「三嶽炭鉱夫弁当」と。
(これで、よし)
千里の道も一歩からと言うではないか。