第1話 名前のない商店
町に入って最初の角を曲がると、小さな川が流れている。橋の袂には洗濯板と桶が置かれていて、誰かの手仕事の余韻が残っていた。そこから先は、九十九折りの坂道が上へ上へと登り、肩幅の狭い民家や商店が軒を連ねる。炭鉱の町ならではの風景だ。
乾いた風が斜面を駆け上がっていく。どこかの家の物干し竿がきいと鳴ったかと思えば、屋根の上で丸くなった猫は、そちらを一瞥してから目を閉じる。心なしか、何もかもが、アヤ子を注意深く観察しているように思えた。
荷車のきしむ音が背後から近づいてきた。引いているのは婦人で、黙々と坂を登ってくる。
アヤ子は道の端に寄って頭を下げた。
「イノさん、そこまで押してやろうか?」
浩司は気さくに声をかける。小さな町では、誰もが顔見知りだ。
「ありがたいけど、浩司さん、大荷物じゃあないの」
イノと呼ばれた女は、路傍に佇むアヤ子をしげしげと見つめだした。
「おやぁ、もしかして、この子が“ぼう”んとこに来るっていう?」
「そうさ」
「駅に見慣れない女の子がいたって聞いたから、どっかで会うんじゃないかと思ってたよ」
彼女は、なぜか得意気に言った。
「“ぼう”が身を固めるんは、さぞやセキさんも嬉しかろうねぇ、見せてやりたかったよ」
「イノさんは、いの一番に嗅ぎつけたよな、章の見合い」
「当然でしょ、あのふうらいぼうが、きちんとした格好して出かけていくなんて、雨が降りそうだからねぇ」
なかなか器量良しじゃないか、そういえば、前に駅で働いていたのを見たことがあるよ、と彼女は言い添えた。
「ほれ、“ぼう”んとこは、あと一つ曲がったところさ」
先に行くよ、とイノはヒラヒラと手を振る。
「絶対、後で冷やかしに来るぜ」
浩司は耳打ちした。
アヤ子は額に浮かんだ汗を拭うと、もう一度、坂の上を見上げた。里見さんが営むという店は、この先のどこかにあるという。――それから、少し不安になって、足元を見た。靴下が、砂埃をうっすらまとっていた。
坂を一つ登り切ると、浩司が立ち止まった。
「ここ、章の店」
そう言って顎をしゃくる先には、庇の低い一軒の商店があった。引き戸のガラス越しに、硝子瓶や紙袋、木箱が無造作に並ぶ棚が見える。看板も掲げられていないので、商店というより、何かの作業場のようだった。
「……お店の看板、ないの?」
アヤ子がぽつりと問うと、浩司は鼻を鳴らして笑った。
「そうそう、それを最初に言うんだがな、みんな」
その言葉の直後、戸がからん、と音を立てて開いた。中から現れたのは、薄い色の前掛けをかけた男だ。
「……なんだ」
耳を疑うくらい素っ気ない一言を発したのは、あろうことか、見合いで顔を見た相手だった。
「なんだとはなんだ、アヤ子ちゃんをここまで連れて来たんだぞ」
浩司は諌めるように言う。
「いや、頼んでおいた小豆が来たのかと」
「おいおい、優先順位がおかしいぞ」
浩司は少し苛立った様子も見せつつ、道も分からぬ新妻を一人で放っておくとはどういう了見だと言った。
「ーー里見、章です。この前も会いましたが」
アヤ子が呆気に取られているうちに、彼は蛇足もありつつ、改めて名乗った。
「お疲れでしょう、奥へお入り下さい」
アヤ子より二つ、年上のはずなのに、その口ぶりは丁寧で、どこかよそよそしい。それでもまっすぐ見据える目だけは、年相応のしっかりとした意志を湛えていた。
「ああ、ありがとうございます。ーーアヤ子です、この前もお会いしまたが……」
アヤ子も少しだけ背筋を伸ばして、言葉を返した。ぎこちない挨拶の間にも、彼の背後に漂う香ばしい甘い匂いが、店がただの作業場ではないことを物語っていた。
引き戸の先、店の奥は土間が広がっていた。壁際に大きな釜、天井には干した蜜柑の皮、柿、瓶の中には飴玉が鈍く光っている。粉だらけの台の上には餅箱が幾重にも積み上がっていたが、午前のうちに売れてしまったのか、中身が入っているのは、表に出してあるぶんだけだった。
「……あの、名前がないんですね、このお店」
何から話して良いやら迷った末、ぽつりとアヤ子が言うと、先に奥の座敷に上がった章は、振り返りもせず答えた。
「なくても、来る人は来ますから」
「でも、外から見て何屋さんかわからないと、来たくても来られない人もいるんじゃ……」
座敷の隅には、木彫りの小さな仏様があった。アヤ子は言葉を切ると、そっと手を合わせた。
「おぅい」
軒下から浩司が顔を出している。
「俺は新婚を邪魔する趣味はねぇから、帰るぞ」
「ああ、勝手にせい」
章はしばらく黙ってから、戸棚に手をかけた。
「そういう人は、無理に来なくていいと思ってます」
話が途切れていたのを気にする様子もなく、缶に入った茶葉を覗き込んでいる。
「あの……わたしがやります」
「ええい、ええい、座っといてください」
無理矢理茶筒を奪うわけにもいかず、アヤ子は座布団の横でかちこちになって待つことになった。ああ、母親が見たら、旦那さまに何をやらせるのかと怒るやろうなぁ……と、そんなことを考えてやり過ごした。
淹れたばかりの茶がまだ湯気を立てている頃、引き戸が勢いよく開いた。
「ごめんくださぁい」
章はその声を聞くと、いかにも煩わしそうに瞬きをした。
さっき会ったイノさんだ。その後ろには、肩に風呂敷包みを提げた女性たちが二人くっついていた。
「おや、取って食いやしないよ」
イノは、驚き呆れているアヤ子を見るなり、声を高くした。
「“ぼう”から何も聞いてないかい?」
「……何の話ですか?」
アヤ子は戸惑いながら章を見る。章は湯呑を持ったまま、ほんの少し眉をひそめている。
「祝言さ。町の集会所で」
当然のことのように言ってのけるイノに、アヤ子は言葉を失った。
「ちょっと待ってください、そういうのは、章さんが派手嫌いだからと……」
「いやね、“ぼう”はそういうつもりだったみたいだけど、浩司さんから、あんたが来るって聞いたときに、みんなで話し合ったのよ。そういうの、早いに越したことないでしょ? 何でも後に回すと、縁も運も逃げてくっちゅうもんよ」
章はようやく口を開いた。
「……俺は、まだ何も返事してません」
しかし、その抗議は虚しく散る。
「返事も何も、もう決まってるようなもんでしょ。ほら、こっちは引き出物の手配もしてあるの。トシ江さんとこが赤飯炊いてくれるし、千代ちゃんが小包み折って……ああ、それでね、アヤ子さん、振袖なんだけど、うちの姪っ子のがまだ残してあって、寸法も近いと思うのよ。試しに袖通してみない?」
「え、あの……」
畳みかけるようにしゃべるイノの勢いに、アヤ子は完全に飲み込まれていた。
「ちょっとイノさん、落ち着いてください」
章がようやくそう言うと、イノはふっと笑って肩をすくめた。
「なによ、あんたがもたもたしてるからでしょ。見合いの時も、ろくに話もできずに帰ってきたんでしょう。ほら、アヤ子さんも、偏屈者から逃げるなら今のうちよ?」
「……いえ、あの……」
アヤ子は顔を伏せた。
「ーー章さんさえ良ければ、ありがたいお話です」
ほら、と勝ち誇った表情を浮かべるイノを前に、章は、好きにせい、としか言いようがないのだった。
イノたちが引き上げた後、二人はようやく、ぬるくなった茶を啜った。アヤ子は小さな声で、あの……祝言のこと、と切り出そうとしたが、章はそれに応えるでもなく、遠くを見た。
「……昔は、ああやって言われるのが、苦じゃなかったんですよ」
なんだか言い訳のように聞こえる。
「え?」
アヤ子はそっと章の横顔を見つめた。
「てっきり、人嫌いなのかと……」
「そう見えますか」
アヤ子は正直に頷いた。
「お見合いの時も、さっきも、言葉少なでしたから」
「そりゃ、ああいうかしこまった機会は慣れませんから」
章は弱ったように肩をすくめる。
「ーーお店を始めたのは、どうしてですか?」
それならと、アヤ子は質問の方向を変えた。
「そりゃ、生きていくためです」
奇妙なことを言う。そんなことを聞きたいわけではなかったのだ。
「でも、仕事は他にもあると思います」
そうさなぁ……と言って、章は腕組みをした。
「俺が、戦争終わってしばらく、ふらふらしとった話は、聞いているでしょう」
「ええ……」
アヤ子はつい面食らった。触れてはならない部分だと思っていたからだ。
“ふうらいぼう”と揶揄われることを、彼はどう思っているのか。気にしていないように見えて、こんなことを言い出すくらいだから、実際はそうではないのかもしれない。
「皆に、いつ汽車を動かすとこを見られるかなんて言われたところで、返す言葉もないんですよ。戻れんかったなんて、全員にいちいち説明するのも面倒ですから」
彼の横顔は静かで、けれど、どこか張りつめている。
「噂は風より速いもんじゃ。同情買うくらいなら誰とも付き合いとうないし、誰も知らんところに行ってしまおう思って。仕方ないから、昔の知り合いが動かす汽車に、乗りとうもないのに乗って、町を出たんです。ーー菓子を作るようになったんは、たまたまですよ。行き倒れみたいになっとった俺を面倒みてくれた親父さんが職人で、手に職を付けたら、それでやっていこう思っただけで」
(同情されとうない、当然やね……)
アヤ子はつきっとした胸の痛みを感じた。
章は、俯いたアヤ子を、ほんの少し不思議そうに見遣る。
「戻ってはみたけんど、それはそれで、“ふうらいぼう”が帰ってきたと、皆がああやって茶化すもんで」
だから、あなたにも少し迷惑をかけることになると思う、と彼は言った。
「とんでもない……でも、なんだか嬉しいです。そういうお話、してくれるのは」
章からは何の返答もない。つい恥ずかしげもなく言ってしまったと思って、アヤ子は少し後悔した。けれど、恐る恐る顔を上げると、驚いたようにこちらを見つめる章の顔があった。
アヤ子は赤面しかけたのを隠したくて、急いで言葉を継いだ。
「ーーだからって、家に来た人に『なんだ』って言うのはどうかと思います」
彼は、ふっと目を伏せて笑った。
「……そりゃ、仰る通りです」
夕方近くなると、アヤ子は、迎えに来たイノらに伴われて集会所に向かった。一応順序があるからと、章とは別行動だ。
小さな町なので、こういうことがあれば、町をあげての催しになるのだ。あちらこちらから人が集まってきた。川べりに灯がともり、近所の子どもたちが手鞠唄を歌いながら駆けていく。
「よう来たなぁ」
浩司は制服のまま駆け付けたようだ。
「アヤ子ちゃんが準備しとる間に、俺が章を迎えに行くけん」
集会所の軒先には簡素ながら紅白の布が下げられ、広間には、すでに祝い膳が並んでいた。
「あのう……これは、こんなことしてもろうて」
アヤ子は声を潜めて浩司に言った。
「言ったろ、イノさんが冷やかしに来るって」
「そういう意味だったんですね」
「なんね、あんたも一緒に企てたくせにねぇ」
イノは威勢よく言い、周囲の婦人らに、浩司に茶を出すよう指示した。
「悪かった、茶をいただいたら、さっそく章んとこに行くよ」
浩司は湯呑みを受け取ると一気に飲み干し、そそくさと退散する。
「よろしく頼むよ」
それからイノは、くるりとアヤ子の方に向き直った。
「さてさて、花嫁さんは、うんと飾り立てなくちゃね」
彼女の声は明るくて、楽しげで、そして少しだけ強引だった。
「えっ……あの……」
アヤ子は思わず言葉を詰まらせた。しかし、イノにむんずと腕を掴まれ、否応なしに鏡台の前に座らされる。若い娘たちが箱を抱えて控えていて、紅絹の襟、簪、絞りの帯揚げなど……どれも、近所の人たちが持ち寄った精一杯が詰め込まれている。
「ええのよええよ。きちんと祝言挙げることなんて久しぶりで、皆、張り切ってるんだから」
そう言いながらイノは、アヤ子の髪を撫でて結い上げにかかった。
アヤ子は鏡越しに、自分の顔を見つめる。
「……なんだか、すごいですねぇ」
馬子にも衣装です、と言うと、女たちはどっと笑った。
日が傾いた頃、町の人たちが提灯に火を入れると、静かな集落にほのあかりが灯った。
そろそろだよ、とイノに背を押されて、アヤ子は広間に出る。
障子の向こうには大勢が居並んでおり、すでに章もいた。作業着ではなく、きちんと羽織袴を着ている。けれど、どこか落ち着かない様子で、指先をそわそわと動かしていた。
「あ、あの……」
先に声をかけたのはアヤ子だった。照れ隠しのようにちょこんと頭を下げると、章は、ゆっくりと顔を上げた。
「……よう似合ってます」
ぼそっと、でも確かにそう言った。
アヤ子は思わず笑みをこぼす。
「イノさんたちが、全部、用意してくれたんです」
「……そうでしょうね」
章も、ようやく口元をゆるめる。
浩司に促され、二人は揃って座布団に腰を下ろした。
急ごしらえの小さな祭壇が設えられている。
二人の間に、赤い布を敷いた小さな膳が置かれる。三三九度――盃事の準備だった。
「はいはい、じゃあ、見よう見まねでやっちまおう」
近所の年寄りが茶化すように言って、笑いが起きる。
アヤ子が盃を手に取り、章が受け取る。
最後の盃を交わしたとき、ぽつりと誰かが、めでたいなぁ、と呟いた。すると、一斉に拍手が湧き起こった。甘酒が注がれ、子どもたちがわらび餅を頬張り、年寄りたちは、まるで祝詞のように、ええ日やなぁ、と口にした。
「ほら、お前主役だぞ。気の利いたことの一つでも言え」
章はじっと盃を見つめていたが、小さくため息をついてから、ようやく口を開いた。
「……来てくれて、ありがとうございます」
たったそれだけだ。しかし、町の人々はそれで十分だったようで、あちこちから笑い声が上がった。
年配の女がアヤ子の側ににじり寄って言った。
「“ぼう”に、いい嫁さんがついたよ」
その人もやはり、セキさんに会わせてやりたかったねぇ、と呟いた。
やがて、炊き出しの雑煮が振る舞われた。酒の匂いと笑い声が、夜の町にぽつぽつと明かりを灯すように広がっていく。
その夜の、町の小さな祝言は、拍子抜けするほど穏やかで優しくて、誰もが、これでいい、と思えるものだった。
そして、ひとしきり賑わった後、夜の静けさの中、章とアヤ子は皆を見送り見送られ、並んで家の方へと戻っていった。
提灯の灯が二人の肩を照らす。
「足元、悪かろう」
ゆっくりと章が手を差し出し、アヤ子はその手を取った。冷たくも、熱くもない、けれど確かに温かい――そんな手だった。
二人は、店の奥にある小さな畳部屋に布団を並べて寝ることになった。とはいえ、互いの距離には、まだぽっかりと空白が横たわっている。
章は壁際に座り、干した柿をかじりながら帳面に目を落としていた。アヤ子は慣れない空気に少し緊張しながら、静かに畳を撫でていた。布団に入りたくても、恥ずかしくてきっかけが掴めなかった。
ふと、昼間のことを思い出した。
「……あの、お店の名前の話、まだちゃんとできてませんでしたよね」
章の手が止まる。
「たとえば、“里見堂”とか、無難なのでも付けませんか? ちょっと古風だけど、こう……昔ながらの、って感じで」
章は気乗りしなさそうに、うーんと小さく唸った。それから、黙ったまま帳面を閉じ、布団のほうへ体を向ける。
「ーー気に入りませんでしたか?」
「そんなこともないですが……今日はようけ歩いて、人に囲まれて疲れたでしょう。それは、おいおい考えましょう」
アヤ子は、やっぱり駄目かぁ、と少しうなだれた。
「明日も早いんで、先に休ませてもらいます」
それだけ言うと、章は灯りを落として横になる。
アヤ子はしばらくのあいだ、薄暗い天井を見つめていた。つい話しすぎたかもしれないと、小さく反省する。でも、言いたかったのだ。“ふうらいぼう”の居所を、ちゃんと、名前のある場所にしかった。
静かに、町の夜が更けていく。遠く、坂の上の方で、犬が一声だけ吠えた。
(とにかく、明日の朝は、ちゃんと、章さんより早起きせんと)
そう念じ過ぎたせいか、アヤ子は何度も目を覚ました。まだか、まだか、と。
――気が付けば、窓の外はほんのり白んでいた。そして、章の布団は、すでにもぬけの殻だった。心なしか、小豆を煮る甘い香りが漂ってきているような気がする。
「あ……」
アヤ子は、小さく息を飲んだ。
寝巻きのまま、慌てて台所の戸を開けると、ぼんやりとした明かりの下、章の背中が黙々と動いていた。
「お手伝いできずにすみません!」
頭を下げたが、章は手を止めない。
「まあ、いつも一人ですから」
淡々とした声だった。咎めるでも、慰めるでもない、ただ事実だけを述べるような。
アヤ子は膝に手を置いたまま、小さく身を縮めた。
「せめて、何かお手伝いを……」
「ええい、ええい。朝餉はこれが終わってからですから」
章はずっと真剣な眼差しを鍋の中に向けていて、こちらをちらとも見ない。
「でも、お手伝いしたいんです」
アヤ子が懇願すると、彼は観念したように言った。
「じゃあ、仕込みのことは、また、午後にでも教えますから」
「はい……」
嫁いできた身で、何もできずにいるのがもどかしかった。台所に満ちる小豆の香りと、鍋から立ちのぼる湯気のあたたかさが、妙に遠く感じられた。