プロローグ
夢に見ていた花嫁行列は、もっと華やかで淑やかで、機関車の煤煙が白無垢を汚してしまわないかと、きっと、そんなことに気を揉むのだろうと思っていた。誰が想像するだろうか、自分の嫁入道具を背負って、半日がかりで、汗もしとどに、たった一人で山を越えるなどと。
アヤ子の生まれ育った三見村は、山間の炭鉱集落で、鉱夫の家族や勤労動員の若者たちがたくさん住んでいた。今、アヤ子がわっしわっしと踏みしめているバラストは、この三嶽炭鉱のために敷かれた久見線ーー土地の者は三嶽線と呼んでいるがーーに他ならない。延々と続く線路の果てには久原町、炭鉱輸送の拠点になった小さな町がある。
つい先頃、炭鉱が閉じてから、町は驚くほど静かになった。石炭から石油に変わったとかで、もう、出涸らしの鉱脈から、無理矢理石なんか掘る時代じゃないのだと、誰かが言っていた。そうして列車も動かなくなった。あっけないものだった。
日に焼けた線路に草が生え、風に揺れている。アヤ子は足元の枕木を踏むたび、かつて運んだ石炭の重さを思い出していた。それに比べれば、嫁入道具なんて大したものではないはずだが、まさか、ここを歩いて嫁入りする日が来るとは、思いもしなかったのだ。めでたいとか嬉しいとかの感情よりも、ちょっとした憤慨が、荷と一緒に背中にのしかかっていた。
父は、長年の炭鉱の仕事で肺を悪くしていたが、閉山してから急に調子を悪くして老け込んだ。母は、兄の戦死ですっかり憔悴してしまった。それから、ずっと待っていた婚約者も、兄と同じように帰って来なかった。挙句の果てに、帰還した男手が復職するのと入れ替わりに、アヤ子たち女子鉄道員は解雇されてしまった。そうでなければ、夢に見ていた通りの嫁入りが叶うはずだったのだ。
動かないものを動かす仕事に胸を張っている人は多かった。アヤ子が女子鉄道員になったのは、工場勤めをしたり、農作業に勤しんだり、色々と勤労動員先のある中で、花形とされたから、という見栄の部分が大きいものの、やはり、選抜されて就いた職に若干の誇りはあったと、今となってはそう思う。
(ーー里見、章さん)
アヤ子は、嫁ごうとする相手のことを思い浮かべた。
お世辞にも、愛想の良い男とは言い難かった。彼は元鉄道員だ。高等小学校を出てすぐに勤め、十七の時に、いずれ徴兵に採られるならと、軍に志願した。赤紙が来るまでは鉄道でお国のために働けと言われたのに聞かなかったからか、復職が叶わなかったそうだ。本人の口からは何もなかったが、仲人から聞いていたので、アヤ子はすっかり知っていた。話は全然弾まなかったが、同じような境遇に同情したから結婚を決めた。
(“ふうらいぼう”さんかぁ)
復職できなかったことでやけになり、行方をくらませたかと思うと、今年に入って急に戻って来て、商いを始めた。久原の人々は、変わり者の彼を、誰ともなしにそう呼ぶようになったという。
レールに沿って歩く足音だけが、乾いた音を響かせる。線路を歩くなんて、汽車が走っていた頃にはとんでもないことだった。しかし、今はもう、誰も怒らない。
急な曲線を過ぎると、朽ちかけた信号所がぽつんと立っていた。屋根のトタンが風で捲れ上がっており、中には当然、誰もいない。小屋の壁に、まだ「火気厳禁」の札が残っていたのが可笑しくて、アヤ子は少しだけ笑った。
線路沿いに点々と残る集落の小屋は、もう人の気配も薄く、煙突からの煙も見えなくなっている。それでもところどころ、炭鉱夫だったであろう男たちが、鍋やら布団やらを背負って山を下りていくのが見えた。
彼らもまた、アヤ子と同じように、久原の方へと、線路の上を歩いていくのだろう。
集落と町をつなぐ道は、まだ整備されていない。軍道は残っているが、荷車が通れるようなものではない。それでも、三見村や他の炭鉱集落に、まだ人が住んでいるうちは、物資は行き来している。時々、背に大荷物を担いだ歩荷たちとすれ違った。男もいれば、痩せた女や年老いた者まで混じっていた。戦地から戻ったきり仕事にあぶれた兵隊や、閉山で生計を失った者たちが、荷を担いで日銭を稼いでいるのだ。
「お嫁入りかい」
ひとりの歩荷がすれ違いざまに声をかけてきた。アヤ子は長い時間歩くにしてはめかし込んでおり、その上、大荷物を持っているので、炭鉱夫に混じってよく目立った。だから、男はそれと察したのだろう。
「ええ、久原の町まで」
「そりゃまた……ずいぶん、えらいとこへ」
男は、アヤ子が髪にさした芍薬をしばらく見ていたが、再び口を開いた。
「線路、歩いてきたのか」
「はい、もう汽車は走りませんから……」
歩荷も困ったように笑い、また荷を揺らして歩き出した。
久原町に近づくにつれて、古嶽峠、笠森山、鷹ノ巣山の三山が遠ざかって、道沿いに民家がぽつりぽつりと現れた。町は、もう煙もないのに、どこかうすぼんやりとしていた。
線路はそのまま緩やかに傾斜し、久但線に吸収されていく。久見線はこの路線の炭鉱支線だったのだが、久但線は貨物を切り離し、旅客中心に再編されつつあった。
午後の光が落ちる下り坂の先に、閑散とした駅がぽつんと建つ。戦中、戦後すぐまでは、ここから久見線の山側終点三嶽口駅までの、勤労動員や鉱山従業員の通勤のための汽車もあったというのに、そのうち客車は消え、昨年には貨物も走らなくなった。
アヤ子は、端の低くなっているところから、乗降場に上がった。反対に、降りてくる人もいたが、それ以外の人影はなかった。久但線の汽車も日に二、三本に減ったので、その時間でないと誰もやって来ないのだ。
煤けた屋根、風に揺れる蜘蛛の巣、駅名板の白いペンキも灰燼で汚れ、「久原口駅」という文字はかろうじて読めるくらいだった。繁盛していた時には、掃除もろくにできないほど忙しかったし、それがかえって箔になっていたのに、今では真逆で、貧相に見えるのが不思議だった。
出迎えなどないのだと、薄々分かってはいたが、それでも胸の奥がきゅうっとなった。改札を潜った風がスカートのすそを持ち上げ、アヤ子はそれを押さえながら、何気なく待合室に目を向けた。
まさか、と思う。見たことのある横顔だった。
「……浩司さん?」
勤労奉仕の時、数ヶ月の間、同僚だった。終戦間際に徴兵されたが、後に生還したとは聞いていた。
青年は、アヤ子の声にゆっくりと顔を上げた。
「……ようやっと来たか、アヤ子ちゃん」
どこか呆れたような声だった。よう似合うとる、と芍薬を指して付け加える。
「復職されたんですね」
アヤ子は肩をすくめた。久しい人に何と言って良いか分からず、彼の詰襟の制服を見てそう尋ねた。
「ーーまあ、なんとかね。でも走る汽車がないから機関助手にもなれん。三嶽の信号も要らんなった。今は久但の保線に回されとる」
「そうですか……」
心の中では、わたしも他の女子鉄道員も、里見さんも解雇になったのやけど、と思ったが、残った者にも相当の辛さがあるのだろうと飲み込んだ。
その代わり、アヤ子は肝心のことを尋ねた。
「……その、里見さんは?」
その名を出したとき、浩司の表情がほんの僅か揺れた。
「あいつは仕込みじゃ。その、餡子の」
「餡子の」
アヤ子は繰り返した。浩司は頷くと、膝に手を突いて立ち上がった。
「線路、歩いて来たなら分かるやろうが、歩荷が多かろう。それに、閉山以降、こっから久但線で完全に山を降りる者も増えとるんじゃ。あいつの菓子は休憩や手土産にちょうどいいらしい」
「ーーなら、よう売れとるんですね」
ついて来い、と浩司は言った。出迎えがむさ苦しい男一人では、花嫁行列にもならんですまん、とも。
風がまた吹いて、木造の駅舎が、背後でぎい、と鳴った。
「夕方の便まで駅は誰も使わん。あいつの家分からんじゃろ、送っちゃる」
アヤ子は彼にひょいと荷物を奪われ、急に身軽になった。そういえば、なぜ浩司さんが見合い相手にならなかったのか、不思議だと思った。
(最初の一回で決めてしまったからやろうか)
惜しいことをした、といえばそうなのかもしれない。
(けんど、後悔はしたくないなぁ)
「女が嫁入りのために、線路を歩いて山を越えるなんて話も、きっと笑い話になって、誰かの酒の肴になるんでしょうねぇ」
アヤ子は軽口を叩きながら目を伏せた。