第74話 峠越え
海べりでの野営のあと、道は海から別れ、山道を上がっていく。緯度の高いこの地域は背の高い樹木は育たない。天気がよくて助かった。もしこれが雨だったら、かなり厳しい旅程になっただろう。朝出発時、ケネスが「聖女様は晴れ女だね」などと言っていたが、フラグが立ちそうでこわい。くねくねとした道を上がっていくとどんどん高度感がでてきて、馬車から下を見るのが怖くなってきた。
「すごいねステファン、標高は多分たいしたことないのに、とんでもなく高い山にいるみたい」
「そうだね、気温が低いんだね。秋のうちに来れてよかった」
納得である。冬の峠越えは、雪山登山となにも変わらないだろう。気になるのは青空に刷毛ではいたような筋状の雲が出始めていることだ。口には出さないが、天気が崩れてくる可能性が高い。
気がつくとステファンも鋭い目で、その雲を見ていた。
峠についた。一度馬車を降りて景色を見てみる。最初に今まで登ってきた道を振り返る。なだらかな海岸線がずっと南西へ続いている。昨日までいたラーボエの港も、なんとかわかる。そしてこれから進む道の方をみると、急な斜面の先に湾が見えた。明らかに氷河地形で、いわゆるフィヨルドである。
フィヨルドは昔氷河が山を削ってできた地形で、氷河がけずったU字谷に海水が入ったものである。これからむかうローゼンタールは、湾まで降りきらず、もう少し湾の奥の方まで行ったところの山間である。休憩しながら景色を楽しむが、ついつい空が気になる。高層に見える雲はまだ増えてきてはいないが、早朝は快晴であったことから、天気が下り坂であることが認識される。
だれも話題にしないが、仲間たちは皆、空を時折みている。同じことを心配しているのだろう。
ステファンを除く仲間たちは戦地の経験がある。秋から冬、更に春までの戦争だった。そのなかで身にしみているのは、雪よりも雨のほうがやっかいだということだ。雪は服の表面からはらえばあまり濡れずに済む。一方雨はどうしても衣服に染み込み、降雨後に気温が下がれば凍結し、危険である。ただ護衛の騎士団、親衛隊の人たちは同じ経験を持っているはずだし、気象に関する知識も持っている。それなのに明るく普段通りに振る舞っている。意識してそう振る舞っているのか、それともそれくらいのことでは動じないのか、よくわからない。
フローラが近づいてきて話しかけてきた。
「峠の向こうは、植生がかわっているね」
言われてみてみると、峠の向こう側の下の方は樹木がある程度育っている。
「季節風かな?」
私が言いたいのは、冬の間の風はほぼ峠の私達が北側から吹き付けているということだ。風が当たる側はどうしても樹木が育ちにくい。しかし峠の向こう側は風が弱まり、樹木の成長がある程度は可能だということだ。
「そうだね、それでもあんまり高い木はないね」
「絶対的に、気温が低いのじゃろうな。測候所をたてたいところじゃな」
ネリスも会話に参加してきた。私もそれには同意見だ。
「私もそう思う。問題は測定結果をどうやって王都まで伝えるかだよね」
ところがフローラが、
「リアルタイムに伝わんないと、天候の予測に役に立たないね」
と厳しいことを言う。
「私としては、伝書鳩魔法を考えていたのだけど、風が強いと無理かな」
一応考えていたことを言うが、伝書鳩魔法はフィリップの守備範囲で、今はよくわからない。するとステファンが口を出してきた。
「とりあえず中央に伝えることはできなくても、各地で一冬測定結果をまとめておくのは意味があるんじゃないかな」
それでは戦に間に合わないと私はいいそうになったが、ケネスも言い出す。
「そうだね殿下。一冬分のデータを各地からかき集めれば、学問的には大いに意味があるだろうね」
「あ」
なんと私としたことが、学問を優先していなかった。まあそれだけ私に戦争が与えた影響が大きいということだろう。そしてその驚きが顔に出ていたのだろう。みんなに笑われた。そして一番大笑いしていたのはヴェローニカ様だった。
私達が気楽に会話していた間、馬車の御者は車輪の点検などをしていた。下り坂のほうが車体の負担も大きく、事故の危険が大きいからだろう。馬たちにの世話にも余念がない。私も一頭一頭「下りもよろしくね」と声をかけて回る。見たところ馬に故障は無いようで安心する。
いよいよ下りに入る。馬車が揺れるたびについ、体を固くしてしまう。ネリーも同じようで緊張した面持ちだ。ステファンは優しく微笑んでいて、安心させようとしてくれているのか、ずっと手を握っていてくれた。ネリーはそういう相手が同乗していないので、ちょっと気の毒になる。
そんな道行きも、がまんしていれば傾斜もゆるくなり、車の揺れも小さくなってきた。車窓から見る景色は低い木に囲まれるようになってきた。やはり木というものは、こころにやすらぎを与えてくれる。
目的地のローゼンタールには午後の早いうちに到着できた。今日の私は設営には加わらず、ローゼンタールからの戦死者のご遺族を訪問した。戦死者にはすでに二人のお子さんがいて、お母さんがつかれた顔をしていた。ステファンはそのお母さんの顔をじっと見ていた。