第60話 マルチタスク
廊下に出ると執事?のようなロマンスグレーの渋い男性が待っていた。
「ご案内いたします」
「ああ、アレクサンドル、頼むよ」
私も、
「お願いいたします」
と付け加える。
王宮の奥、つまりは王族とそれに仕える者しか立ち入らない空間は、意外に狭かった。ただ絨毯にしろ所々にある美術品にしろ、素晴らしいものであることは私でも分かる。私はそれを目だけ動かして楽しみ、人生のハイライトだなと考えていた。
「アン、何年かしたら、僕達はこのあたりを普通に歩いているんだよ」
ステファンには私の思考が完璧に見抜かれている。
案内された部屋は食堂の前室であったようで、そこにはフィリップとヘレンが既に居た。
「うわあ、聖女様、きれいにしてもらったわね」
「うん、ネリーはすごいわ」
「馬子にもい、イテッ」
フィリップはヘレンにつねられていた。まあこういうアホな発言で場を和やかにすることにかけては、フィリップは一流である。
「うちの奥様に失礼のないようにしろよ」
ステファンは嬉しいことをいつも言ってくれる。
「フィリップ、あんたも私にそれくらいのこと言えないのかね」
「いやあ、あはは」
バカな会話をしていても、ヘレンは美しかった。濃い紺色のドレスにところどころ光るものがあしらわれている。そしてそのドレスの美しさにヘレンが負けていないのがすごかった。
「そのドレス、どうしたの?」
と私が聞くと、
「ネリーさんが置いてった」
とのこと。詳しく聞けば、いつものように騎士の姿でフィリップと王宮に来ていたのだが、控え室に連れ込まれ、ネリーの置いていったドレスをメイドさん達が着付けてくれたのだそうだ。
「ネリーさんの姿をみるとね、メイドさんたちの背筋がピッとまっすぐになるのよ」
「そうか、ネリーって、もしかしてすごい人?」
「そうなんじゃない? だって離宮の女性スタッフのトップだよ。もしかして将来、女官長とか?」
「じゃヘレン、いろいろしっかり教わっておかないとね」
「そうか、今気づいた」
「何を騒いでいるんだ?」
やってきたのはミハエル王子にエスコートされたヴェローニカ様だった。
「ヴェローニカ殿」
ステファンが挨拶に行くと、ヴェローニカ様はドレスのまますっと腰を屈め、臣下の礼をとった。
「ヴェローニカ殿、いつもアンがお世話になっているあなたが、お幸せになられる、お祝い申し上げます」
「ありがとうございます、殿下」
「兄上も、おめでとうございます」
「ありがとう、次はステファンの番だな」
「そうありたいです」
絵になる光景であった。着飾ったヴェローニカ様、今夜も真紅のドレスがとてもお似合いになる。そこにやはり着飾られた王子2名、マンガなら背景がバラだらけだろう。写真というものがこの世界にないことが惜しい。天体観測のためにも、次のケネスの仕事は写真にしよう。
「いやあ、俺だけ場違いだな」
そう呟いたのはフィリップだ。実はフィリップは我が国の北部の都市ノルトハイムの領主の息子だ。
「あんた一応貴族なんでしょ」
私の指摘にフィリップは、
「ほんと一応なんだけどね」
と答えた。これはいかんと思い、
「あんたがしっかりしないと、ヘレンが可哀想よ。それともヘレンに気合い入れてもらう?」
「いやあお待たせした。食堂へ行こう」
気さくな声と共に国王陛下ご夫妻が現れた。
ヴェローニカ様はさきほどと同じくさっと礼をされ、私とヘレンも真似をして、私だけバランスを崩しそうになる。本当は女学校で教わってはいるのだ。
「さあヴェローニカ、今夜の主役はあなただ。堅苦しいことは抜きにしよう。早く食べ始めないと、料理長に叱られる」
みなニコニコとしているが、不慣れな私には、陛下のお言葉がどこまで冗談なのだかさっぱりわからない。
大きなテーブルに案内され、ステファンが椅子を引いてくれる。危うくそのまま座りそうになったが、すんでのところでマナーを思い出した。女性の中では身分は私が一番高いが、この場所の女主人は王妃殿下だ。ややこしい。
そして王妃殿下は、
「今夜はヴェローニカのお祝いでもあるの。ヴェローニカ、おかけになって」
とおっしゃった。
緊張感でいっぱいの私の頭脳は、かえって高速回転をはじめた。
着席時、一瞬王妃殿下はこちらを見て、おそらく聖女に恥をかかせないよう配慮しつつあった。
ヴェローニカ様は、微笑みだけで十分なお返事を王妃殿下にされ、なんであれで王妃殿下のお気遣いに対する感謝まで失礼なく表明できるのか、謎である。
ヘレンはヘレンで、身分的に一番下というのはなんでも最後にされておけばよいので、気楽でいい。なんだが、私にほんの0.7秒遅れくらいで着席するその仕草は優雅だった。いつ、どこで、勉強または練習したのか、これまた謎である。
そして今日この瞬間ほど、ステファンが第二王子でよかったと思ったことはなかった。もしもミハエル殿下より先に生まれてしまっていたら、私は聖女の立場に加えて王太子妃とか王妃とかになってしまい、毎日こんな形式だらけの生活を送る羽目になる。第二王子の立場でもある程度は形式ばったことは出てくるだろうが、第一ほどではなかろう。そしていざとなったら私は聖女室、さらには第三騎士団に逃げてしまえばいい。
食事を前にしながら、ステファンを身近に感じながら、さらには出席者との会話を楽しみながらこんなことを考えていた。我ながら強烈なマルチタスク能力である。パソコンに例えれば、CPUの一つのコアに、4つくらいのスレッドがあるようなものだ。私はパソコンのタスクマネージャーの、各論理ブロックにどれだけ負荷がかかっているかのグラフを思い出していた。
自分の頭脳の処理能力の高さに満悦しながら会話をしていたら、陛下が突然おっしゃった。
「聖女アン、ふつうに会話を楽しんでいるように見せかけて、なにかよからぬことを考えているのではないか?」
なぜバレたのか、その衝撃に私のCPUはフリーズした。
したがって、そのご下問への回答は、親友ヘレンが行った。
「失礼ながら陛下、聖女様はおそらく、堅苦しい宮廷のしきたりがめんどうになったら、第三騎士団に逃げようとかお考えになっていると思います」
ほぼ正確に言い当てられた。
その後の会話も、内心冷や汗をかきながらなんとか乗り切った。気になっていたのはヘレンの言葉で、「失礼ながら」がヘレンが発言したことにかかるのか、それとも私の思考が「失礼」なのか、ということだった。