第51話 湖畔にて
馬にまたがろうかというとき、ステファンが珍しく文句を言った。
「アン、もう少し早くこういう機会が欲しかったよ。2・3年前なら、相乗りでもよかったんじゃないかな」
「う、うん、そうだね」
木々の間の道を騎乗して進む。真夏の森は、太陽の光をちょうどよく遮ってくれる。森の中の風は涼しく気持ちいい。相乗りしていたら、風が遮られて暑いのだろうか。
あれ、なんかおかしいぞ。
ご夫人と相乗りする男性の姿、いくらでも見たことあるぞ。
私まだ、そんなに太ってないぞ。
「ねぇステファン」
「なんだい」
「私、相乗りができないほど体重、重くないと思うんだけど」
「やっと気づいたか」
ステファンはハハハと笑い、護衛の騎士たちからもいくつか笑いが漏れた。
このやりとりは今夜あたり、離宮で噂される可能性が高い。
魔物の気配などない道を抜け、湖畔に出た。湖に流れ込む川が河原を作っており、そこで一休みすることにした。
「いいとこだろう、あそこ、思い出さないか?」
ステファンの言うあそことは、上高地の大正池のことだろう。穂高連峰に連なる活火山焼岳が大正年間に噴火、そのときの溶岩による堰止湖だ。
ただ、ここには火山はない。
「ここ、堰止湖ではないわよね」
ステファンは小声で答えた。
「うん、僕の見たところ、ここは人造湖だよ」
「え?」
「湖の下流側が、直線的なんだ。失われた技術だと思う」
「見に行けるかな」
「夏場はブッシュに覆われてるから、難しいと思う」
「ステファンいつ見たの?」
「春先」
春先ならば木々の葉もなく、下生えも雪の下だ。
「わかった。来年の春、私絶対ここ来る」
「そうだね、一緒に来よう」
汗が出てきた。陽光が河原の石を温め、このあたりだけ気温が高い。
馬たちが暑がってないかなと思ったら、馬たちは少し離れたところで水を飲んでいる。
私は両手を広げて伸びをした。
「離宮の近くでこんな広いとこ、珍しいね。ルドルフでも降りられるくらい」
「ルドルフか、僕、会ったことないんだよね」
「そうか」
「アンとルドルフの活躍は有名だよ。新聞記事になってるくらいだ」
「そうなの?」
「そうだよ、会いたいんだよなぁ、ルドルフ。兄貴がこないだ自慢してた」
兄貴というのはミハエル第一王子殿下のことだ。先日のノイエフォルトでの経験を話したんだろう。
「呼べばくるんだよね」
「呼ばなくても、必要なら来る」
私は空を見回した。
この話の流れなら、ルドルフはかならず来る。
すこしして、同行していた騎士のラースが言った。
「なにか来ます! 南南西の方向です。空です」
騎士たちと親衛隊がステファンと私の周りを固める。
「大丈夫です、ルドルフです」
私は確信を込めて言った。それでも騎士たちは警戒態勢を緩めない。
私は彼らが職務に忠実であることを知っているから文句は言わない。
南南西の方向を見ていると、やがて黒い点が見え始めた。そしてそれは徐々に大きくなり、羽ばたくドラゴンの姿を取り始めた。
「あれがルドルフなんだね」
「うん、友達になってね」
「もちろんだよ」
そしてルドルフは私達の頭上に到達し、私達を見ながら3周、そしてふわりと着地した。
「ルドルフ、来てくれたのね」
「ウォーン!」
「ルドルフ、紹介するわ。私の夫、ステファンよ」
「ウォーン!」
「こんにちはルドルフ、会いたかったよ」
「ウォウォオーン!」
「わはは、ルドルフ、くすぐったいよ」
見るとルドルフは大きな舌で、器用にもステファンの顔を舐めている。ルドルフが私以外の人の顔を舐めるのを初めて見た。
「ステファン、ルドルフは認めてくれてるみたいよ」
「そうか、それはありがたいな」
ルドルフは満足したのか、どっかりと腰を下ろした。
「ルドルフ、よっかかってもいい?」
「ウォン」
私はステファンを伴い、ルドルフの横に回り込み、お腹に寄りかかった。
「ドラゴンって、あたたかいね」
「そうでしょ」
「ウォン」
私は幸せだ。だって隣にステファンがいて、ルドルフも受け入れてくれている。ルドルフは幸せなのだろうか?
「ルドルフ、ルドルフって、奥さんいるの?」
「ウォン」
いないらしい。
「そっか、早くできるといいね」
「ウォン!」
「そしたら、紹介してね」
「ウォン! ウォン!」
ルドルフがもぞもぞとしたので私達は立ち上がった。
ルドルフは去っていった。
「アンは、ルドルフと会話できるんだね」
「う~ん、なんとなく言ってることはわかるし、こっちの言う事もわかるっぽい」
「僕のこと、認めてくれたかな」
「大丈夫だと思う」
「そっか、よかった。そう言えば、ルドルフのぬいぐるみ作ってるんだってね」
「うん、かわいくするんだ!」
「そう言えばアン、なんか難しいこと、考えてたみたいだけど」
「うん、私とステファンのこと」
「どういうこと?」
「うん、距離をとっちゃいけないみたいだから」
「アンは秋、各地の収穫祭を回るんだよね。陛下に聞いてみなきゃわかんないけど、僕も同行できないかな」
「ステファン、予定ないの?」
「僕に予定なんか、ないよ」
「ご、ごめん」
私はステファンの言われたくないことを言ってしまったかと思った。しかし空を見上げるステファンの横顔は、初めて上高地に行ったときを思い出させた。