第50話 離宮の休日
翌朝ベランダに出ると、ネリスとマルスが先頭に新入団員たちを率いてランニングしているのが見えた。驚いたのは、ネリスとマルスのペースに新入団員たちがついていけてなかったことである。昨晩私はネリスに、ランニングはデートを兼ねているのではないのかと指摘したのだが、ちゃんと体を鍛えていることがわかった。もともとネリスは活発な方だが、年上の新入団員よりも体力が上とは恐ろしい。ランニング後ネリスはお風呂に誘ってくれる。危険を承知で一緒に風呂に入るとくすぐられくすぐり返してとなってしまう。もしランニングなしで一緒にお風呂に入ったら、入浴後の掃除はもっとたいへんなことになりそうだ。
午後の勉強では、私は新入団員の質問には安易に答えないよう気をつけた。自分の頭で考えるクセをつけるためだ。学問のためにも必要なことだし、女学校卒業生の彼女たちは騎士団では幹部候補だ。幹部は自分で考え決断する能力を身に着けなければならない。
多少厳しくても、心を鬼にして彼女たちを鍛えることにする。
もう一つ変化したことがある。私のスケジュールだ。
基本的にスケジュールは私自身が考え、極力事前にフローラとレギーナに伝えておく。前はそれはほぼその通りのスケジュールが組まれていたのだが、近頃はそうはいかない。まず希望を言ってもすぐには返事してくれないし、結構な頻度でリジェクトされる。フローラに文句を言ってもとりあってくれないので、レギーナに抗議する。例えばである。
「あのですね、明日のうちに四分儀の設置をやっておかないと、全体のスケジュールが遅れてしまうと思うんです」
そのようにレギーナに言っても、全然受け付けてくれない。
「聖女様はもう、6日間休み無しで働いてらっしゃいます。明日は完全休養日です」
「でも、四分儀の設置にはぜひ立ち会いたいのです」
「聖女様がいらっしゃらなくても、大丈夫です」
むしろいないほうが、と言わないだけまだいい。言われたら私は泣く。
「ステファン殿下も明日はお休みですよ、どうかお二人でごゆっくりしてください」
「ステファンは私と居れば調子がいいらしいです。だからちょっとくらい……」
「聖女様、そもそも離宮へは、国王陛下のご厚意によりご静養のためにいらしているはずです。これ以上ごねますと、陛下に反逆することになりますよ」
強制的に休日をとらされた朝が来た。ベランダに出る。
今朝も、ネリス、マルスは新入団員を引き連れランニングしている。
ベランダの椅子は今朝もしっかりと拭き上げられ、露の一滴もついていない。ここでお礼をお礼を言おうとすると控えているメイドさんが飛んできてしまうから、感謝は心の中だけにして座らせてもらう。
騒がしい鳥の声を聞いていると、その騒音の中にお茶を運ぶカチャカチャという音が混ざって近づいてきた。
ネリーにお礼を言おうと振り返ると、お盆を運んでいるのはステファンだった。
「ステファン、おはよう。お茶、持ってきてくれたのね」
「うん、ネリーの仕事、うばちゃった。どうしても二人でお茶を飲みたくてね」
前の世界なら抱きついたりしちゃうところだが、人目があるのでそこまではできない。
ステファンはたったまま、お茶を淹れてくれた。
「自分でやるのに」
「やりたいんだよ」
日没までこのままでいい。
「ありがと」
と言って、一口含む。おいしい。
ステファンはポケットをごそごそして、なにか出してきた。
「朝食前だけどさ、それだけに美味しいんじゃないかな?」
クッキーだった。
私はステファンに抱きつきたい衝動を抑えるのに必死だった。
朝食はいつもどおり、みんなと食べる。さっきクッキーを食べたけど、ふつうに全部食べる。
食事が終わるといつもなら事務室へ行くのだが、今日はビョルンが書類を食堂に持ってきた。
「お休みなのに申し訳ありません。これだけは目を通していただきたく」
「ありがとうございます」
確かに決裁を先延ばしできないものだった。さっさと決断してサインする。
「おねがいします」
そう言って書類をビョルンに返すと、頭をさげてビョルンは行ってしまった。
食堂を出ていつも通り事務室へ行こうとすると、フローラに注意された。
「今日は休みでしょ。事務室禁止。騎士控室も、観測台も工房も禁止。あ、図書室も禁止ね」
うしろでヘレンが笑っている。
「ステファン殿下、今日はしっかり聖女様を見張ってね」
「いやあ、自信ないな」
実はこんなこともあろうかと、数学の書籍は少し寝室に隠してある。
今日の午前中は、乗馬の予定だ。離宮から少し離れたところの湖を見に行く。
厩舎に行くと、懐かしい馬が待っていた。ヘルムスベルクで乗ったニコラである。
「メルヒオール殿が、ぜひ乗ってほしいと送ってきたらしいよ」
私はニコラの首筋を撫でながら、
「お礼の手紙書くわ」
と言った。
「どんな馬なんだい?」
「うん、一緒に出撃した。襲撃されてもね、ニコラは落ち着いてるんだよ」
「すごいな、僕はそういう経験がないから、落ち着いて対処できるか自信がないな」
「そういうことにならないよう、外交、がんばってもらわないとね」
「そうだね」
私には乗馬の用意をするステファンの背中が淋しげに見えた。健康に不安があるステファンは、政治にしろ軍事にしろほとんど表舞台に立っていない。私の聖女就任式などの形式的なものに顔を出す程度だそうだ。今、私はステファンに気の利いたことが言える自信はない。
私は考える。
もしもステファンと私の距離がステファンの健康維持に関係があるのなら、これから死ぬまで、ステファンの近くにいなければならない。その事自体はいいのだが、ステファンの仕事をどうするかが問題だ。
前世では私が理論、修二くんが実験でいっしょに仕事をしてきた。私の物理的仮説にそって修二くんが実験することもあったし、修二くんの実験アイデアに私が理論的裏付けをしたこともあった。そのように、車の両輪のように、この世界でも二人で仕事をしていきたい。
「アン、なにか難しいこと、考えてるね」
「へ?」
「考えるのはいいけどさ、湖の景色見てからにしてよ。そのほうが思考の効率もいいよ」
「はーい」