第115話 秋の離宮へ
仲間たちは実験中であるはずだった。今日の実験に危険はないということで、ステファンも参加している。教室のある建物を出て、早足で実験をしている屋根付きの作業場へ急ぐ。向かい風が邪魔である。
うしろからカロリーナが、
「聖女様、お待ち下さい。私が行きますから」
と言って止めるが、足のほうが勝手に止まらない。
実験場に着くとフローラに咎められた。
「ここには来ないでって言ってるでしょう!」
「ごめん、緊急事態。今すぐ離宮へ行くよ!」
離宮という一言で、フローラはどういうことかわかってくれた。
「わかった! 大急ぎで片付けるから、聖女様は私達のカバン、よろしく!」
「わかった!」
「ステファン殿下も行って!」
「わかった」
私は今度は駆け足で自分たちの部屋に戻った。部屋には4人ともいつでも出発できるようにカバンに着替えなどが用意してある。男子も同様で、それをステファンが取りに走った。
私とステファンが馬車に荷物を積み込んでいると、残り6人がやってきた。
すぐに馬車に乗る。
騎士達は準備万端ですぐにでも出れるようにしてあった。だから私は御者に出るようお願いしようとしたら、ソニアに止められた。
「聖女様、ほんの少し、ほんの少しでいいですからお待ち下さい。飲み物食べ物を厨房の者が用意しておりますから」
一刻も早く出発したいところだが、副官のソニアが止めるならそれだけの理由があるのだ。それでもイライラしていたらステファンに注意された。
「アン、そんな顔してたら、みんな困るよ」
「ごめん、ありがとう」
「ルドルフはなんだって?」
「とにかく来てほしいみたい」
「ヴェローニカ殿の様子は?」
「うーん、悪くはないと思う」
「じゃあ大丈夫だよ。単にもうすぐってことだよ」
「そうだよね」
食料が届き、警護の親衛隊が位置に付き、馬車は出発した。
馬車の進路の両脇には学生たちがズラッと並んで見送ってくれた。みな両手を胸の前で組んで祈りの姿勢であり、かなりの数が跪いている。みな私と同じ気持ち、ヴェローニカ様の安産を願っている。私は学生たちに手を振りながら、この願いが届かないのならこの世に神様なんていないと、不敬にも思ってしまった。
馬車は通常の移動速度ではなかった。戦地に向かう速度である。特に指示はしなかったが、騎士たちは敬愛するヴェローニカ様の出産に、なんとしても駆けつけたいのだろう。強烈に乗り心地が悪いが、気持ちはもっと飛ばせと叫んでいる。仲間たちの口数も少ない。
離宮への道は、秋深い農村地帯を抜けていく。離宮へ行ったり今年の収穫祭へ行ったりともう何度も通った道だ。それだけに残りの距離がわかり、もどかしく感じる。雲一つ無く晴れ上がった空は、ノルトラントが待ち望んだ慶事を予告しているのだろうか。
めずらしくステファンが厳しい顔をして景色を見ている。男の子が生まれれば甥、女の子ならば姪だから、やっぱり心配なのだろう。
「ステファン」
「ん?」
「大丈夫だと思うよ。なんか飲む?」
「ああ、ありがとう。そういえば喉が乾いたな」
私はソニアから渡された水筒を出した。
一口のんだステファンがじっと水筒を見つめている。
「どうしたの?」
「うん、ガラスで二重にできたら、魔法瓶ができるかなって思ってね」
「さすが低温の実験屋ね」
私は北海道の夏休み、両親が大学の実験の様子を見学した際のことを思い出した。修二くんたちが使っていた液体ヘリウム用の魔法瓶(デュワー瓶という)の真空度が下がってしまっていたことを思い出した。
「ははは、問題は真空引きだな」
「そうね、あと、できれば真空層の内側は銀メッキしたいね」
「そうだね」
「あのさ、あの銀メッキがあるとないとでそんなに違うものなの?」
「そうだね、ガラスデュワーの銀メッキ無しは経験ないけれど、冷凍機でラディエーションカットをつけ忘れると、劇的に温度が下がらなくなるよ」
温度をもつすべての物体は、温度に応じた光を放射している。この光を受け取ったものは温められる。ステファンが言っているのは、絶対零度付近の実験で、その光を反射させる金属板を装置につけ忘れると温度が下がらなくなるという事実だ。
その会話を聞いていたフローラが口を挟んだ。
「殿下もかなり聖女様に毒されてるよね」
「どういうことよ」
「ヴェローニカ様のご出産間近のときに、思いっきり物理の話だよ。普通そんな話する?」
「べつにいいじゃん。なにかできるわけでもないし」
「お祈りすれば?」
「わかた」
飛ばしに飛ばしても離宮に着く頃はもう真っ暗だった。暗い空にルドルフが迎えに出てくれていた。
離宮の正面玄関に馬車を止め、早足で内部に入る。親衛隊は武装しているから、明かりの灯された玄関ホールに足音も物々しく響き渡る。ヴェローニカ様はどこかと考えていたら、
「なんだなんだ、反乱軍かと思ったぞ」
と柔らかい服に大きなお腹を覆ったヴェローニカ様が現れた。
「ヴェローニカ様、お加減は?」
「いたって普通ですが、聖女様」
「そ、そうですか」
「何事でしょうか、聖女様」
「え、ルドルフに呼ばれまして、急遽参りました。そろそろかと」
「確かに医者の見立てではそろそろですが、陣痛はまだですぞ」
「そうですか」
拍子抜けした私はルドルフに文句を言いたくなったが、ルドルフは外だからそうも行かない。
「とりあえず、お変わり無かったようで何よりです」
「ありがとうございます聖女様」
「アンでいいですよ」
「勇み足だったな、アン」
「はあ」
「まあ疲れたろう、皆もありがとう、かけつけてくれて」
そう言ったのはいつの間にか姿を現していたミハエル殿下だった。
私以外の者達はあわてて跪く。
「どうか皆、楽にしてくれ。聖女様もありがとうございます」
「いえ、なんか間の抜けたことで」
「ははは、ヴェローニカは体が強いから、子どもが出てきたくても母体の方で気づいてないだけかもしれませんから」
「そうですね、ヴェローニカ様、もう寒いですからお部屋に戻ってください」
「いや私は鍛えているから、大丈夫」
「ヴェローニカ様が大丈夫なのはわかってます。私が心配しているのはお子さんです」
「アンも言うようになったな」
「聖女様、広間へどうぞ。暖炉が暖かいですから」
ミハエル殿下が私を誘導した。なかなかいい考えである。私が移動すれば、それにくっついてヴェローニカ様も移動するだろう。
「ありがとうございます」
私はミハエル殿下に導かれるまま広間に歩き出したのだが、そでのあたりを引っ張られた。
引っ張っているのはヘレンで、ヘレンはお腹をおさえるヴェローニカ様を見ていた。