第8話 赤ちゃんにアサルト!
紘和62年10月16日(金)
夜、22時。
「いいのよ? わざわざ離れまで来なくても?」
「いや。ここに全部置いてあるから。勉強道具」
「そう? わたしはいいけど」
べびたんはいつもの通り、わたしが住むこの離れの2Fで勉強してる。
――あ、でもいつもと違う点がひとつ。わたしが勉強していない。
べびたんの通うみなと中央高校は今、二学期の中間テストの真っ最中だよ。そしてわたし、れんげ東高校のテストは。
昨日、1日早く終わっていた。
まあこういうのってだいたい同じタイミングでやるんだけど、ぴったり日時が重なるとは限らないんだよね。
なので、わたしはベッドに腰かけて足の爪のお手入れ。
う~。テスト終わったらべびたんに思いっきりかまってもらおうと思ってたのに。
わたしは足をぶらぶらする。
う~。できないよ。
ページをめくる音がたまに聞こえる。「わからないところ聞いてね」って言っといたから質問来ると思うんだけど。‥‥‥‥今のところぬっくんは静かだよ。
集中してるのかな? 暗記科目やってるのかな?
‥‥‥‥っと。テス勉の邪魔したらわたし「ウザい女」だよね? だからって人が集中して勉強してるのに後ろで遊ぶのも‥‥‥‥。
本当はいつもみたいにふたりでじゃれ合いたい。テストが終わったら思いっきりそれができると思ったのに。いえ? 日程はわかってたよ? でもさあ。
あ~~。やっぱり同じ高校が良かったな~~。
「愛依、ごめんね」
足のお手入れを終えて枝毛チェックをしていたら、頭を上げたべびたんが片目でこちらを見ていた。
「ううん。それより勉強がんばってね。あ、飲み物用意しよっか?」
一瞬かまってもらおうかと思った気持ちを押しこんで、笑顔で答えた。
「じゃ、コーヒー」
「珍しいね。コーヒー?」
「うん。眠気覚ましだよ」
離れを出て、母屋と呼ばれる中央棟に行く。庭を歩いたら思った以上に静かで、夜の闇が湿っぽかった。
インスタントコーヒーを見つけてカップに淹れる。あ、しまった。これくらいだったら離れの台所で作れるんだった‥‥。
ガサゴソ。厨房のほうで人の気配。大きい冷蔵庫の前で、夜食を探しているすずさんにバッタリ。
「あ、すずさん。こんばんは~」
「‥‥夕食の時会ったけどね。‥‥‥‥あのさ」
魚肉ソーセージの皮をむきながら、こっちを向かずにすずさんは続けた。
「私さ、あんま勉強とか得意じゃなくってさ。は~くんのこと、頼んだよ? ‥‥‥‥それだけ」
「‥‥‥‥はい!」
わたしは頷きながら思った。やっぱりすずさんはいい人だ。――――あと。
すずさんスレンダーでうらやましい。こんな時間に食べても太らないんだもん。わたしのウエストも足も、ぷにぷになのに。
お盆にコーヒーを乗せて離れに戻ると、べびたんが待っていた。ふたりで並んでベッドに座る。
「あれ? 愛依の分は?」
「あ、忘れた」
「ふたりで飲もうよ?」
「う~~ん。いいよ。わたしはべびたんが飲んでるとこ見てる」
「はは。なんだそれ」
「うふふ。なんだろうね?」
べびたんが吹きだしながらカップに口をつける。
――確かに傍から見たら高校生男子がただコーヒー飲んでるだけの画だよ? 何の変哲もない。
でも。‥‥‥‥わたしはこれが愛おしい。首を肩まで曲げて見入ってしまう。こうやってふたり並んで腰かけて、過ぎゆく日々を一緒にいられるのが何よりも大事なこと。
「う~~ん。見られてると‥‥」
他にやることがないべびたんはひたすらカップを傾けて、熱々のコーヒーを飲みほしてしまった。熱くなかった?
「‥‥‥‥‥‥おいで。愛依」
と、突然向けられた彼の両腕。
「いいの? 勉強は?」
「だいぶ進んだから。もう15分休憩」
「やっったあぁっ~~!」
しまった。思わず立ちあがって小躍りしてしまった。
べびたんが苦笑してる。
いくら婚前同居だからって、実質夫婦生活の予行演習だからって。
ここまで本音を晒してしまうのは恥ずかしいよ。なんか自分を安売りしたみたいだし。
たぶん、わたしだけ勝手に顔を真っ赤にしてたと思う。
「‥‥‥‥‥‥!」
わたしは無意識に、いいえ思いっきり意識的に、この状況を誤魔化そうと脳をフル回転させたよ。
べびたんのいるベッドから少し距離を取る。
「‥‥? ‥‥どしたの愛依?」
「マジカルカレント発動!」
「へ?」
「‥‥‥‥距離、10戦闘距離‥‥!」
「ん?」
「回転槍、規定回転数をクリア」
「あれ? それって?」
「‥‥‥‥突撃!」
「誰のマネだよ!!」
ツッコミと相打ちで、わたしは彼に飛びかかっていた。
ギチリと軋むベッド。
どうしよう? 気恥ずかしさを誤魔化すためにやったのに、べびたんを押し倒しちゃった。
「ふぎゅ」
顔と顔が当たって変な声が出る。突撃したわたしを、べびたんはぎゅっと受け止めてくれた。
楽しい! 足をばたばたさせる。
ごめんね。勉強の邪魔して。――でもその大切な時間を、わたしに割いてくれたのがとってもうれしい。
そのまま取っ組み合いになった。こういう時に離れの一軒家なのはいいよね。アパートとかだったら苦情が来るかも。
わたしはべびたんの顔に嚙みつこうとして、彼はそれを阻止しようとして。
ちょっと荒事っぽくはなる。
「あはははは」
「うふふふふ」
笑いあっていたのが、だんだんと息が荒くなっていって。
「あ! 痛てて!」
べびたんのおとがいあたりに歯が当たったのがキッカケで、彼の腕にいっそう力が込められた。当然、わたしの敵わない膂力です。
「‥‥んっ」
ごろごろ、ベッドの上で体を上下していたのが止まる。わたしはあえなく組み伏せられ、ベッドの上で固定される。はあはあと息を切らせて見つめあうわたしとべびたん。何か変な気分になってきちゃった。
両手を掴まれて仰向けに倒されている。ちょっとだけ襲われている気分。
べびたんだから怖くはないけど、実際に襲われたらこんな感じなのかな?
胸のドキドキが「運動由来」から「そうじゃない由来」に置きかわっていくのがわかる。でもこれは何も不埒なことじゃないよ。
こういう時にドキドキするのは人間の自然な生理。医学的に正しいことだし、それこそ人類が何万年も積み上げてきて、今に至ってるリアクションなんだから。
「もう。本気で噛んでくるんだから。やったらまた組み伏せるよ」
べびたんの視線に宿ってた「男の目」だけど、双眸からその色が消えた。わたしの鼓動はまだ鳴りやまないまま。
そのまま腕まくらをされて、幼子みたいに寝かしつけられてしまった。彼曰く「こうしたらおとなしくなるから」と。
寝かされて布団をかけられ、髪に指を滑らせながら梳かれた。
もうそれだけで気持ちがいい。
わたしは思わず深呼吸をする。
あれから秒で寝てしまったのかもしれない。
何しろ。
「超記憶」というギフト持ちのわたしが。
彼に「おやすみなさい」を言った記憶がないのだから。
※まだ第8話ですがタイトル伏線回収。




