第61話
ダニエルは己の顔の表情筋の仕事を放棄させていた。そうしないと感情がダダ漏れになってしまうからだ。全くもって、この国のご令嬢という者は、淑女教育を受けていないのだろうか?そう疑念を抱いてしまう。
なぜならば、先ほどからダニエルの周りにはかしましく、そして悪臭……いや、化粧品と香水の匂いが複数混じり合った甘ったるい独特な匂いが充満しているのだ。母国にいた時は騎士団長の息子として鍛錬に励んでいたし、こちらに来てからは騎士学校にて修練してきた。そうして王族の護衛の任務についているわけなのだが、どうにもこれには慣れない。
(うるさくてイライラする)
ダニエルは目線だけを動かして隣に立つ上官を見た。上官は慣れてるのか完全に無表情を決め込んいた。だから上官の心が穏やかなのか見た目ではまったく分からなかった。だからダニエルもそれに習って無表情を決め込むしかないのである。なぜなら、今は勤務中だからだ。
ダニエルが今上官と一緒に立っているのは、豪華絢爛な王宮で開催されている舞踏会の隅っこだ。隅っことは言っても王族の座る席近くの扉の前だ。この扉は給仕係りの者たちが通る専用の扉である。食事や飲み物かどのように会場に運ばれ下げられていくかを王族が確認するからだ。もちろん、その際に不審な者が近付かないようにダニエルたちが立っているのである。
ただ、王族の姿が見やすいため、このように貴族の独身女性が集まりやすいという欠点があるのだ。そのため強面ではなく、柔らかい印象のある者が担当させられるのだが、新人教育の一環ということでダニエルが上官と担当させられている。上官は貴族家の四男だったか五男だったか、その辺は忘れてしまったが、実家を継ぐ当てはなく、入婿出来そうな親戚もないためこうして騎士になったと聞いている。そして、その辺の事情を知っている貴族のご令嬢たちは、遊び相手として上官に声を掛けているわけで、当然ながら上官は仕事中ということで無視を決め込んでいるのだ。
もちろん、ダニエルは平民であるから完全に遊び相手だ。見ただけで分かるほどに若く、そして見知らぬ騎士であるから、ご令嬢たちからすれば新しいおもちゃの登場というわけで、少し離れた所からもこちらを見ているのである。全てのご令嬢が遊び相手を求めている訳では無いが、中には三女四女五女なんて立場で、貴族としても微妙な家柄な場合もあるだろう。そんなご令嬢は貴族の家に嫁げるかどうかさえ微妙なのだ。だからこそ、騎士と結婚したいと一縷の望みを本気で抱いている場合もあるわけで、一概に無下に出来ないのである。
だがしかし、ダニエルにとって苦痛なのはこのむせ返るような化粧の匂いである。給仕係りが押すワゴンに乗せられた料理たちは、冷めているものが多く、匂いはさほど気にならない。それに通り過ぎてくれるから、匂いがする時間は極めて短いのだが、こうして居座り続けるご令嬢たちからはずっと化粧品の匂いがするのである。ハンカチや扇で口元を抑えられることが、こんなにも羨ましいと思ったことはなかった。
ダニエルが、何とか無表情を決め込んで真面目な顔をしていると、背後の扉から声がかかった。扉が開くため、ダニエルと上司が周りにいるご令嬢たちに移動を促す。その際決して触ってはいけないため、なかなか面倒なことなのだ。だが、それを顔をに出すわけにもいかないため、とりあえずは少しだけ笑ってみせ、移動してもらう。ご令嬢たちとて、王宮で催されている舞踏会で何かしら騒ぎを起こすつもりは無いのだ。
「…………」
扉が開き、ダニエルの前をワゴンを押して通り過ぎるのは銀髪の侍女だった。舞踏会の席であろうとも侍女服を身にまとい、髪を美しく結い上げて薄化粧をしている。ゴテゴテとしたドレスに厚化粧、オマケに髪はやたらと飾り付けられている。そんなご令嬢たちの前を悠然と通り過ぎていく。背後の扉は静かに閉じられ、一度も振り返ることなく銀髪の侍女は目的の場所に向かい去っていった。
その様子を目線だけで追い続ければ、やはり第一王子ウェンスのところであった。珍しく第一王子が来ているということで、ご令嬢たちが浮き足立っていたのだ。もちろん、ダニエルの回りにいたご令嬢の殆どは第一王子を見たいがためにここにいたのだろう。
「なんですの、あれは」
「ウェンス様が……そんな」
「手、手で、手でお受け取りに?」
口々に発せられるのは目に見えた光景についてだ。もちろん見たままを口にしているから、ダニエルからすればいちいちうるさい。と言うことなのだけれど、ご令嬢たちの口は止まらない。
「誰ですの、あれは」
「ど、どちらの家柄なのかしら」
「社交界ではお見かけしていませんけれど」
「まさか平民……」
「ウェンス様のお側に上がれると言うことは、身元も確かなはずですわ」
「で、でも、わたくしは知らなくてよ」
「わたくしも、ですわ」
次から次へと聞こえてくるのは、自分が知らないのだから、と言う浅はかな考えばかりで、ダニエルは辟易した。別にここにいるご令嬢たちが知らなければいけないなんてルールはないのである。あの第一王子が側に置くことを許したのだから、それをたかだか貴族令嬢程度が何を言っているのだろう?ダニエルは聞こえてくる声を無視しようとしたのだが、聞き捨てならない言葉が耳に入ってきた。
「思い知らせて差し上げなくてはいけないのではなくて?」
「あら、やはりそう思われます?」
「だって、どちらの家柄か分からないのですもの」
「わたくしたちに挨拶もないのですもの、よろしくございませんわよねぇ」
何を根拠に言っているのかまったく理解が出来ない会話である。王族に仕えるのに、なぜここにいるご令嬢たちの素性調査が必要なのだろうか?そもそも、自分たちが知らないから身分が低いなんて頭が悪すぎる。わけアリの他国の王侯貴族かもしれない。という考えに至らないのだろうか?遠目からでも分かる洗練された所作や見た目の美しさを考えることが出来ないと言うのは、本当に可哀想な事だ。
ここにいるご令嬢たちが何か仕掛けることが分かった以上、ダニエルと上司は警戒しなくてはならない。あの侍女は第一王子付きなのだ。何か起きれば第一王子に対する不心得とみなされる。おそらく、ここにいるご令嬢たちはそこまでの、考えに至っていないのである。大事になる前に阻止しなくてはならない。ダニエルは上司からの目線にちいさく頷いた。
ワゴンを押した侍女がゆっくりとこちらに向かってきた。その凛とした姿に若い男性貴族は目を奪われていた。そして、ゆっくりと歩く侍女のことを何処かで見たことがある。と、気付いた貴族が隣の貴族に確認をする。だが、扉の前に集まっているご令嬢たちはそんな周りの動向に気づく様子は無い。自分たちの見知らぬ侍女を懲らしめたい。ただ、それだけの思いで目当ての侍女がやってくるのを待っているのだ。
ワゴンを押した侍女が来たから、ダニエルと上司は扉の向こう側にいる者に声をかけた。それはワゴンが立ち止まることなく扉を通過するようにである。扉はゆっくりと内側に開いてゆき、それに合わせてワゴンを押す侍女が扉へと真っ直ぐに向かう。ワゴンには、使い終わった食器が乗せられていた。ワイングラス、陶器の皿、銀のカラトリー、それらは全て一つだけ。
ワゴンを押す侍女は立ち止まる気配は見せず、真っ直ぐに扉へと向かう。だが、その前を横切るドレスがいた。給仕係りなら、扉の前で立ち止まり一礼をしたことだろう。だが、ワゴンを押す侍女は立ち止まる気配はまるでなく、そのまま扉の中へと入ろうとした。
ガシャン
耳障りな音が響きわたり、ドレスが床に倒れた。
「無礼者っ」
倒れたドレスが悲鳴をあげるより早く、ワゴンを押す侍女が一喝した。その凛として気高さを感じる声をダニエルはずっと前にも聞いたことがあった。確か学園で、アンジェリカが廊下を走って他の生徒にぶつかったのだ。その時に聞いた。だが、あの時よりも遥かに声に威厳があると思う。
「なっ」
倒れたドレスが驚きのあまり目を大きく開いた。その他のドレスも開きかけた口をそのままに、驚いた顔で侍女を見ている。
「無礼者。第一王子のご使用になった食器の前を横切るとは何たることか。しかもそれらを乗せたワゴンにぶつかり、そのせいで第一王子の大切な食器が割れてしまったではありませんか」
とても落ち着いてはいるが、よく通る声でハッキリと告げられたため、何が起きたのか見えていない貴族たちにまで状況が知れてしまった。ドレスを止められなかったのはダニエルと上司だ。だが、ドレスは貴族のご令嬢であるため、騎士が行動を制限することは出来なかった。
「無礼者、名を名乗りなさい」
冷たい声が響いた。
その声がワゴンを押す侍女のものだとはにわかに信じられないほどに。
「あ……アイシャス・リガノ……です」
「そう、リガノ……伯爵家ですね。追って沙汰を申し伝えます。邪魔です。退きなさい」
言われてアイシャスは青ざめた顔でよろよろと立ち上がり仲間のドレスの方へと歩いていった。だが、仲間のドレスたちは一歩二歩と後ろに下がる。そんなことをしても、今更なのに。
目の前から邪魔者がいなくなると、侍女はワゴンを押してそのまま扉の中に消えていった。美しく結あげられた銀の髪に背筋を正した美しい後ろ姿。一度も振り返ることなく立ち去る背中に視線が集まっていたが、静かに閉められた扉によってそれは終わりを告げたのであった。




