第60話
第一王子の執務室から戻り、ヴィオラは使用した茶器を丁寧に洗っていた。もちろん、厨房にその程度の雑務をする人はいる。けれど、ヴィオラはウェンスの性分がよくわかっているから、あえて自分で洗い物をしているのだ。
「あらぁ、第一王子付きになったと聞いたのに、下女になった。の間違いかしら?」
甘ったるい声を出し、その声と同じぐらい甘ったるい臭いを撒き散らしてヴィオラと同じ侍女のお仕着せを着た集団がやってきた。
「洗い物なんて、手が荒れるじゃなぁい。王族の方の前に出るのに見苦しいわァ」
そう言って、ヴィオラが丁寧に洗った茶器を指でつまもうとした。それを横目で見たヴィオラは、無言でその手を払い除けた。
バシィッ
小気味よい音がして、その後に小さな悲鳴が響いた。だが、ヴィオラは一切そちらを見ない。
「触るな」
「ひっ」
ヴィオラが発した恐ろしく低い声に、手を払われた侍女が青ざめた顔で小さく声をひくつかせた。ヴィオラの表情は全くもって見えてはいないが、銀色の美しい髪を綺麗に結い上げ、白磁のような肌をしたその横顔は恐ろしく程無機質だった。
「お前ごときが触っていいわけが無いでしょう。これらは第一王子ウェンス様のものよ。ウェンス様がお認めになったものしか触ることは許されないのよ」
ヴィオラは全ての茶器を丁寧に磨きあげると、そっとワゴンの上に載せた。そして美しいレースをふわりとかける。
「ウェンス様が認めない者がウェンス様の物に触れられるわけが無いでしょう?ウェンス様のお目が触れないところであってもよ」
ヴィオラがそう口にすると、集団はゆっくりとヴィオラから離れていく。そうやって、ワゴンを押すヴィオラの道を作り出した。
「あなたたち程度が私に何をするつもりなのかしら?」
ヴィオラはそう言い残しワゴンを押して去っていった。ワゴンを押すその姿勢も凛として美しい。そうして最後に一瞥をくれてやる。それだけで勝敗は喫したのだ。
ヴィオラはお仕着せのポケットから鍵を取りだし、ウェンス専用の収納庫に入った。元々貴重な食器類は国宝にもなっているので厳重に鍵のかかった部屋に保管されているのだが、美しいものしか見たくないウェンスが暴走した結果、ウェンス専用の食器類が揃えられ、それらを厳重に保管するための場所が設けられたというわけだ。つまり、朝の目覚めのお茶を飲む為のカップから、日常の食事をとるための皿や銀食器に至るまで、ウェンスのものだけ別に保管されている。
もちろん、これらを取り扱えるのはウェンスの審美眼にかなった人物だけである。料理は料理人が作ったとしても、それを盛りつける為の皿を並べるのはウェンスの審美眼にかなった者だ。
そんなわけでついこの間までセシルが朝早くから給仕の真似事までさせられていたのだけれど、ヴィオラがやってきたおかげでようやくお役御免となったのだ。
「ちょっとしたコレクションルームよね」
食器棚に並んでいるのは全て一組だけの食器だ。よく分からないが、ウェンス自らが選び抜いた品々らしい。
(城下に買いに行ったのかしら?)
セレネルの邸で見た事のある模様のついた食器もあるし、王太子妃教育を受けていた時に王妃様とのお茶会の時に見たのと同じ工房の茶器もあった。どれを見ても確かに美しい。ただ、漂白剤なんてない世界だ。この美しい白磁を保つ方法や、銀食器を曇らせない方法など、それらを覚えて実行するのはヴィオラだ。
時間がかかって大変で、確かに手荒れが起きるけれど、そのおかげで交じり物が有るとどうなるのかがわかった。侍女として出世するために重要な知識で有る。しかしながら、王太子妃教育で習ったりはしなかった。
「毒味役がいたからか……」
口にして思わず身震いをした。前世では考えられないことだった。
部屋の中を確認し、扉の鍵をしっかりとかけると、ヴィオラは次なる仕事に向かった。もちろん、ポケットからクリームを取り出してしっかりと手に塗ることは忘れなかった。
なぜなら、このクリームをヴィオラによこした人物は、
「ヴィオラ、今日も綺麗だね」
第二王子であるツェリオで有る。
「ごきげんよう、ツェリオ様。もったいないお言葉です」
そう答えてヴィオラは一礼をする。あくまでもヴィオラは城勤の侍女である。そうして、ツェリオはこの国の第二王子。だからこそ、ツェリオは場内でヴィオラを見かければ気安く声をかけてくる。
もちろんこれは牽制だ。これ以上ヴィオラに悪い虫が寄りつかないように。ただでさえ、いきなり兄で有るウェンスに気に入られてしまったのだ。もちろん、ウェンスにそんなつもりがなかったとしても、周りはそう思う。特に、父と母である国王と王妃はついに第一王子がお気に入りの侍女を見つけた。と大喜びをしているのだ。
当然だが、それを面白くないと思う輩もいるわけなのだが、そう言ったことに無頓着なウェンスは何も策を取らない。だからこうしてツェリオが一日一回はヴィオラに声をかけるようにしているのだ。が、どうにもヴィオラには必要がなさそうだ。と、気付いたのは割とすぐだった。
隣国で王太子の婚約者であったヴィオラは柔なご令嬢ではなかったというわけだ。
言われたら言い返すだけの語彙力を持っていた。とても流暢にこの国の言葉を話し、その美しい顔に氷のような微笑みを乗せるのだ。それだけで大抵の者は怖じけずいてしまうというものだ。それでもヴィオラに挑む者はいる。家格と血統第一主義者の令嬢とその取り巻きだ。先ほども絡まれていたが、ヴィオラがあっさり勝利していた。
そんなわけで、自分の援護射撃は必要ないと判断したツェリオは、堂々と好意を伝えることにしたのだ。
「そんなことないよ、ヴィオラ。だってあの兄上が認めたのだから」
「あら、嬉しいですわ。やはり思ってはいても、こうして口にしていただけるとよろしいものですわね」
ヴィオラがそう言って微笑むものだから、思わずツェリオも微笑んでしまう。だが、心のどこかで何かが違うと思うのだった。




