旅行(クルーズ)
はじめに
私は山川美沙子と言います。38年務めた学校を昨年定年退職しました。1年講師として勤め終え、やっと自由の身になりました。在職中、お好み焼きを食べに入った店で見た世界一周の広告にひかれて、どうしても世界一周に出たいと思っていたのです。早速、申し込もうと思い、嘉男(主人)に軽く「世界一周のクルーズに行きたいのだけれど、貴方も行く?」と聞いたらこれが何と「行く」と言ったのです。嘉男は、うつ病で少し認知症もあるので「行かない」と言うと思っていました。私の本音は、一人で行きたかったのです。一人で行って、ゆっくりした時間を持ちたかったのです。仕方がないので、二人で申し込みました。
申し込んで出発までの時間がとても待ちどおしかったのです。リオのカーニバルを見るのが私のメインなので12月に出発です。(私はダンスを始めた時からリオのカーニバルに行きたいという夢を持っていました)出発するまでに、必要なものは、気が付いたものから段ボールの中に入れておきます。106日という長いクルーズなので忘れ物のないようにするのが大変です。
私は犬を3匹飼っています。犬は浅太郎の調教師に預かってもらうようにお願いします。ラブラドール、ダルメシアン(エレン)、ヨーキー(ヨースケ)と3匹いるので、かなりのお金がかかります。クルーズの一人分に近いお金がかかります。これもしかたがありません、必要経費です。
乗船して
あれこれしている間に出発の日がやってきました。出発は2015年12月18日神戸からです。横浜から出発の人は、1日前の17日に乗っています。私達は神戸からなので1日遅れます。
楽団に迎えられて乗船しました。私の心はとても昂揚していました。クルーの人に荷物を持ってもらい部屋に入ると郵送した段ボールが3個置いてありました。
クルーに持ってもらった赤い大きなスーツケースが届いていません。私はすぐに、舷門のところにいるクルーの人に連絡を取りました。「どこか間違えていっているのだろうから探してみます。少し待ってください。」と言われたので待つことにしました。
大きな段ボールから開けると、服のダンボールだったのです。それを引き出しと洋服掛けとに、分けながら片付けていると、赤いスーツケースが帰ってきました。その中にはすぐ必要なものがあるので、次にそのスーツケースを片付けました。残りの段ボールを片付け終わるのに30分程度かかったのです。
夕食までにはかなりの時間があるので(早く乗船したので2時位には片付いたのです)船の中を見て回っていたら、まだ乗船している人がいました。そんな人を見ながら、海風に吹かれて船内を見て回りました。とても気持ちが良かったのです。
ちょっとくたびれたので船室で休んでいたら避難訓練の放送が入りました。
指定された場所に行くとみんな集まって並んでいました。私も並んで待っていると、救命胴衣の付け方の講習があって、点呼を取りお開きになりました。
私は部屋に帰りベッドに転がって乗船時に配布された明日の予定を書いてある新聞を見ていました。船内では、新聞はその日の夜に配布され、次の予定が書かれています。私達はそれを見て好きな講座に参加します。私は、明日は何に参加しようかと思い、希望の講座に、マーカーをで印をつけました。午前は、太極拳、社交ダンスに参加し、午後からは自主企画説明会(乗船者が他の乗船者に何かを教えたり、話し合いを企画したり、自分の意見を述べたりする企画です)に出ようと思いました。
次の日は、マーカーで印をつけた通り早朝、太極拳に参加し、モーニングコーヒーを飲んで、嘉男を起こして朝食を食べ、少しゆっくりして社交ダンススクールに参加しました。
社交ダンスではまあ本当に初心者が多いのです。先生は笹本先生と言ってとても理論的に説明されるのでわかりやすいのです。初めに男女が組むところ(ホールドと言います)から教えてくださいました。次々人が変わるので、いろんな人に合わせなければいけません。これがまたとても大変でした。また人が多いのと、女性が多いので、相手を見つけるのが一苦労です。先生はまだ踊っていない人が踊りなさいと言われるのですが、なかなかうまくいきません。もう少し日が経つと人がだんだん少なくなるので、少しの辛抱だなあと思います。この日は二人で組んで歩くだけでした。多分ブルース(スタンダードではビギナーに教えるダンスです)の導入でしょう。
次は、自主企画の説明会に参加します。係の人は「自主企画の申請は、ほとんど毎日昼頃行うから希望者は参加して欲しい。集合場所時間についてはその都度、新聞で知らせる」と言い、用紙に書くこととか、場所の割り振りの仕方など細かく説明がありました。とても若い人が私達の世話(乗船者は、私くらいの年齢の人がほとんどです)をしているので、理解が悪いとか、とろいとか、ダサいと思うことが多いいのでしょう、それでも頑張って企画しいてくれているのだなあと思い、頭が下がりました。仕事と言っても大変な仕事です。場所の割り振り、音響の準備、照明などなど決めることはたくさんです。それを若いボランティアの人達がしているのです。
船内の生活
今日はウエルカムディナーがあり、その後ウエルカムパ―ティーがあり、その後ダンスパーティーがあります。私はドレスを着てディナー、パーティーに出て、その後ダンスのドレスに着換えてダンスパーティーに行こうと考えています。嘉男にはアロハを着せ、私がダンスパーティーに行く時にカラオケ会場(カラオケは嘉男の唯一の趣味です)に連れて行こうと思っています。
ウエルカムディナーに参加すると、みんなそれぞれおしゃれをしてきていました。やはりこうやって、非日常的な生活をすると、ちょっと緊張してとても良い刺激になるなあと思いました。その後ウエルカムパ―ティーに出席すると、船長以下クルーの人、私達の世話をする人などなどを紹介していました。私はシャンペンの乾杯が終わったところで、嘉男をカラオケ会場のところに連れて行き、私はダンスパーティーの会場に移動しました。
ダンスパーティーをする会場はとても狭くて(参加人数が多いいので狭いと感じたのかもしれません)ラテン(社交ダンスで、二人が離れて踊るタイプ)なら何とか踊れそうでしたがスタンダード(二人が組んで踊るタイプ)はなかなか踊れそうにありません。私は座って見ていたのですが先生のような人は、それでもとても上手く、皆の周りを大きく踊っておられました。そのほかの人は、全く見られたものではありませんでした。私は何人かに誘われたのですが、それなりに適当に合わせておきました。これはこれで、楽しかったのです。
部屋に帰ると、嘉男はもう寝ていました。私は配布された新聞を見て、明日の行動を思い浮かべながら予定表にマーカーを付けました。ベッドに入ると、心地よい疲労と船の微妙な揺れに身を任せて深い眠りに落ちていったのです。
3日目は少しずつ船での日常生活が始まりつつありました。私も船での行動が身についてきています。昨日と変わったところは、サンバ・エクササイズが始まったことです。先生はカーク智子さんと言われ、浅草サンバの踊り手として日本で生活している人です。日系ブラジル人です。多分リオのカーニバルに行くので、そのための動機付けなのでしょう。エクササイズは、まずストレッチから始まり、次にアフタービートになれることをしました。日本人はアフタービートの曲に慣れていないので乗りにくいのです。でもこれをクリヤーしなければ、サンバは踊れません。私はブラジルサンバのステップを、リオのカーニバルまでに絶対にマスターしようと思っています。
今日は社交ダンス、サンバ・エクササイズに、午前午後と出席しました。
一人で、アフタヌーンティーを飲みに行ったのですが、とても寂しかったのです。誰か友達を見つけなければと思います。これこそ本当に茶飲み友達ですね。部屋にいる嘉男にはクッキーをたくさん持って帰りました。
ディナーを食べて、嘉男をカラオケに連れて行って部屋に帰りました。
新聞を見ると、明日は沖縄に着き、終日自由行動です。
沖縄・ダナン・紅白歌合戦
4日目は、沖縄に入港しました。沖縄では自由行動なので、私は沖縄で買い物をしようと思いました。沖縄で下船して、ドン・キホーテに買い物に行こうと思ったのです。1人で行きたかったのですが、嘉男も行くと言うので、少し困ったのですが連れて行くことにします。私が買い物をしている時にどうしようかと思ったのですが、まあ何とかなるでしょう。ドン・キホーテの最上階にコーヒーショップがありました。買い物が終わるまでそこで待っていてもらうように言い、私は足りない物がたくさんあるので、いろいろ買い物をして迎えに行くと、嘉男の前には、4枚もお皿が置いてあるのです。私は4皿もケーキを食べたのかと思い、びっくりしたり、おかしいやらで笑いました。嘉男に聞くと、私の帰りが、あまりにも遅いのでケーキを4皿も食べたそうです。やっぱり4皿もケーキを食べていたのです。ウエイトレスさんと笑いながらお金を払いました。嘉男はこんな優しく気を使う面もあるのです。
こんな感じでクルーズの生活は始まりました。私はダンスダンスの毎日です。そのうちに自主企画(乗客が自分の教室を持つのです)のヒロさんの教えるアルゼンチンタンゴの教室ができました。その自主企画に参加してみたのですが、社交ダンスと少し違っていてとても面白いから続けることにしました。社交ダンスのホールドは、上体は離し、ボディでリードを受けるのですがアルゼンチンタンゴは上半身を付けてそこでリードを受けます。こんなことをしながら毎日過ぎていきました。
12月24日はクリスマスイブなのでクリスマスダンスパーティーが開かれました。少しダンスを習っているので少しだけ踊れる人がいましたが、みんなまだまだです。私は、それなりに上手な人に踊ってもらえました。その人は南さんと言って、とても上手でした。何回も踊っていただき、とても楽しかったです。これからも踊っていただくようになると思うからから丁寧にお礼を言いました。南さんもとてもきちんとされたいい人でした。奥さんも見に来られていたので、奥さんにもお礼を言いました。南さんご夫婦はとても感じのいいご夫婦でした。これからも仲良く付き合っていきたいものです。
25日はダナンに着きました。私と嘉男は、「ホイアン観光」のツアーに出ました。街を見て歩いている時に、嘉男は、「まだ歩くのか」とか「暑い」とか不平不満を何回も言うのです。私は困っていたのですが、ツアーリーダーにも言うので彼も困っていました。
自由行動になったので私は陰に座って集合時間が来るまで休もうと思っていましたが、嘉男はトイレに行きたいと言い出しました。ベトナム語ができないので、ツアーリーダーに聞いたのですが、わからなかったので、別のグループのリーダーに聞きました。やっとトイレの場所が分かり、そこに連れて行きました。嘉男を連れて歩くといろいろアクシデントがあり困ることが多いのです。
30日は、翌日おこなわれる紅白歌合戦のリハーサルがあります。嘉男が出場するので、バックダンサーズを組織しています。親しい女性に声をかけて、集まってもらいました。私が簡単な振り付けをして、覚えてもらったのです。その12名いる女性の振り付けの最終確認をし、嘉男が歌を歌っている時にバックで踊ってもらいました。結構上手くいったのでとても嬉しかったです。
今日は、嘉男の出る紅白歌合戦があります。でも日中は今まで通りにカルチャスクールがあります。私は、太極拳、サンバ、社交ダンスと参加して夕食を食べて、バックダンサーに集合時間と集合場所を伝え、衣装は赤い服にして欲しいとお願いしました。8時半から始まるのですが、みんな7時半には来てくれました。ありがたいことです。嘉男はとても喜んでいるようです。嘉男の番になり、彼は大きな声で、堂々と、身ぶり手ぶりを付けて歌ったのです。歌、バックダンサーとも、とても良かったです。嘉男も大喜びです。居酒屋で簡単な打ち上げをし、みんなにお礼を言って、お開きにしました。楽しい大晦日でした。こうしていろんなイベントに積極的に参加すると、とても楽しいのです。
2016年になって
2016年1月1日は暑くて白い(赤道に近いので日が照って白いのです)正月です。私は母の夏の着物を持って来ていたので、友達に着せてもらいました。それを着て暑い中に出て、餅つきを見ました。皆、汗だくだくです。それでも一生懸命に楽しんでついているのです。お餅ができたのでもらって食べ、とてもおいしいので感動しました。鏡開きのお酒ももらいこれも美味しいのです。今年は船の上の一風変わった楽しい正月になりました。いいことがある一年になるかもしれない・・・・。
正月のイベントが終わり次の日からまたいつもの通りの生活が始まりました。私は、10時に寝るので4時に目が覚めます。嘉男はまだ寝ているので、そっと起きてデッキに出て海風に吹かれて幽玄の世界を見ます。暗い海を見ていると空と海の間が分からなくなります。さすがに4時にはまだ人はいません。それでも一人二人歩いている人がいるのです。私は起きているのか、寝ているのかわからないような感じで椅子に座っています。
新しいダンス友達
そうしたある朝、私は水が欲しくなり、水を汲みに行きました。その時、社交ダンスで良く会う男性が水を汲みに来ていました。彼はそのまま、いつも練習するホールに入って行きました。私は何をしているのかと思い覗いてみました。なんとダンスの練習をしているではないですか。彼とは、あまり踊ったことがないのですが、思わず「ご一緒してもいいですか」と声をかけました。なぜ声をかけたのか、その時の心境は、いまだに分かりません。その時は、黙って今習っていることを黙々と1時間くらい練習しました。私は「毎朝、練習しているのですか」と聞き、彼は「そうです」と言ったので、「これから毎日ご一緒していいですか」と聞いたら「いいですよ」と答えたので、私は心がざわつきました。どうしてだろうかと考えたのですが分かりません。
それから毎朝5時から二人で一生懸命練習しました。社交ダンス歴は、私の方が長いので上手なのですが、アルゼンチンタンゴは同じくらいでした。別に言葉は交わさないのですが、彼といると何となく心が落ち着くのを感じるのです。その時は深く考えなかったのですが。
それから私の毎朝の行動に彼が入ってきました。ずいぶん後で聞いたのですが、船では尚ちゃんと言い、本名は「浅井尚己」と言います。彼とは、毎朝5時から6時まで練習をしてそれから7時までモーニングコーヒーを飲みます。私は軽いお菓子を持って行き、知っている人がいると一緒に食べながら、コーヒーを飲みます。この時はとても落ちつく時間です。
7時になると尚ちゃんは、同室の男性3人と仲良し女性たち3人と7人で朝食に行きます。(仲良し女性は、尚ちゃんの同室の男性と、隣の部屋の女性が仲良しになったのです。)私は嘉男を起こして食事に行きます。私達はパン系の軽食のある食堂で食べます。尚ちゃん達はしっかりした朝食を食べます。
ランチは嘉男と一緒に9階の麺類を食べていたのに、嘉男が麵は嫌だと言うので私一人になりました。多分嘉男は9階まで歩くのが嫌だったのでしょう。私は、嘉男が少しでも歩いて足を鍛えなければいけないと思ったのですが、なかなかうまくいきません。きちんとした食堂は4階で、私達の部屋のすぐ傍です。そこでは、ウエイトレスに取ってもらって、座席まで持っていってもらえるので、とても楽でいいから、麺は嫌だと言ったのでしょう。
ある日、ランチの時に、尚ちゃんに会いました。お互いに一人で食べていることが分かり、今度から一緒に食べようということになりました。この頃になるとだいぶ話ができるようになっていました。これでランチがとても楽しくなったのです。大袈裟なようですが、私の人生の中で何かが変わろうとしている予感がしました。
モーリシャス・レユニオン島
船はモーリシャスに着きました。私は嘉男を連れて下船しました。歩いている途中、仲良しグループ(ダンスで一緒の人達)に会ったのです。私はどこに行くあてもないので、彼らに付いて行こうと思って、一緒に歩いたのですが、途中で嘉男が歩けなくなりました。私は船に連れて帰るからと言って別れようとしたら、待ってくれると言われたので急いで船に戻り、すぐに引き返しました。
それから8人でバスに乗り、教会を見に行きました。ローカルのバスに乗ったので私はとても嬉しかったのです。バスの中には、黒人の大きな女の人が多くいました。私などは彼女たちの3分の1くらいの大きさです。日本人はまるで子供のような感じでした。バスを降りると教会がありました。教会の前に、市場のような、いろいろなものを売っているところがありました。店は縦に長く伸びており、その一番前に、フラワーショップがあり、名前はわからないのだけれど、きれいな花がたくさん飾ってありました。花を買っている人とか、野菜ものを買っている人など、をたくさん見ました。私はこのように現地の生活を見るのが大好きなので、じっとその人達を見ていました。なんだか自分が現地の人になったような気がして、とても楽しかったのです。帰りのバスも混んでいたのですが、生活の匂いがプンプンして私の心はときめきました。その時帰りが遅くなったので、嘉男はレセプションに行き「妻の帰りが遅いのだがどうしたのか」と聞いたり、あちこちを歩き回ったり、ちょっとしたパニック状態だったそうです。私達より少し早く帰った友達が「もうすぐ帰ってくるから部屋で待っていたら」と言ってくれたので、その場は何とかよかったそうです。私はそれを聞いて皆におわびやら、お礼やらを言って回りました。嘉男と一緒だったらいろんな気を使わなければいけません。それだから私はボケないのかもしれません。
次の寄港地レユニオン島では、嘉男を連れて出ました。街を歩いていると疲れたと言って休みます。私は仕方ないので、嘉男にアイスクリームを食べさせて、一人で街を見て回りました。私はみんなでがやがや言っている方が好きなので、一人は寂しいです。ここは昼間の休みがありほとんどの店は閉まっていました。町並みはとても綺麗でした。隣のモーリシャスとは大違いです。スーパーストアによって嘉男のお菓子を買って帰りました。嘉男は夕食をあまり食べないのですが、そのかわりお菓子をよく食べます。幼児帰りをしているのかもしれないのです。
エホアラ(ムルンダヴァ・バオバブ街道)
14日はマダガスカルのエホアラに入港しました。マダガスカルは今まで見た景色と全く違い私の想像していた、アフリカです。町の中の家は、今まで見る普通の家なのですが、町から少し離れると、カヤのような草で作った家なのです。草で壁も屋根もできているなんて、信じられません。市場に行くと、さまざまなもの(野菜・果物・魚など)がむき出しで路上に置かれた布とか、紙とかの上に、無造作に並んでいるのです。ハエも多く飛んでおり、子供もその周りを走り回り、雑然として、全く信じられないような光景です。でもここの人達はこういう状態になれていて、平気なのでしょう。私達は、とてもこの環境には耐えられないです。情けないことです。バスで現地ちょう達のお弁当を食べた人が下痢をしたり、ランチの時にレストランで食事をした人が下痢をしたり、いろいろトラブルがありました。文化の違いは、身体の強弱の違いにも関係があるのですね
私達は1泊のツアーに出ました。ムルンダヴァに飛行機で移動して、バオバブ街道にはマイクロバスで移動しました。初めは広い道路だったのですが奥に進むにつれて車に街路樹(道の横に自生している木と言った方がいいでしょう)の枝が車の窓に当たるようになったのです。よく見ると両横はジャングルのような感じなのです。嘉男は、腹を立て「ここの政府は何をしているのだ。木の枝くらい切ればいいのに」と言います。私はあまりにも可笑しいので「政府は、まだまだいろんなことを、しなければいけないので、ここまで手が回らないのでしょう」と答えました。電気も来ていないようなところなので、なかなか大変なのでしょう。途中にトイレもないので、男性は森の中で用を達していました。
それからまた車で移動です。どのくらい走ったかわからないのですが、テレビの宣伝でよく見る木が見えてきました。バオバブの木です。テレビで見るのと一緒です。ここには電信柱も何もありません。ただあちこちにバオバブの木があるだけです。
私はトイレに行ったのですが、これがトイレかと思うくらい変でした。用を足して水を汲み(トイレの中にカメのようなものがありその中に水が入っていてひしゃくのようなものがついているのです)流したのですが、それが皆外に流れ出ているのです。まあ郷に入れば郷に従えということで、気にしないことにしました。
回りをよく見ると、家のようなものが(カヤのような草でできた家なのです)グラウンドの周りを取り囲むように丸く並んで立っているのです。そのグラウンドのようなところで子供たちが遊んでいるのです。ほとんどの男の子は上半身裸です。私はとても楽しそうだなあと、遊んでいる子供達に見とれていました。
夕日がだんだん落ちると、あちらこちらの家で食事の用意らしきものをしているのが見えました。用意と言っても一つの鍋を火にかけているだけです。もちろんガスなどないです。あるのは木切れのようなものです。それに火をつけるのです。火はどうやって起こすのか、そこまでしっかり見せてもらえばよかったなあと、今、少し残念に思っています。電気も来ていないので、日の出とともに起きて、日の入りとともに寝るのでしょう。こんな生活もいいなあと思いましたが、今の私にはできないです。あまりにも文明に毒されているのです。情けないことです。
そうこうしている間に夕日に照らされたバオバブの木を見ることができました。それは夕日の中に毅然として、まっすぐ空に向かって立ち、かなり上に枝、葉っぱがあります。幹はまっすぐ空に向かっているので神々しさを感じます。こうやって文章を書いている今でもその神々しい光景が思い出されます。青い暮れかかった空に、あちこちに神様が下りてきたような光景です。皆、その光景を写真に収めていました。
皆がゆっくり写真を撮ったところで名残惜しかったのですが、帰りのバスに乗りました。
私は、広い平原に夕日が落ちるのを見ながら、なぜか山崎豊子の「沈まぬ太陽」を思い浮かべていました。アフリカまで来たのなら、ナイロビにも行きたかったのですが。
ホテルに着くと電気は自家発電です。ホテルと言っても、一戸建ての山小屋のようなものが点在しています。バラックの建物で、私はこんなのが好きなので結構面白かったのです。
嘉男はいろいろ部屋の中を見て回り不備をたくさん見つけ、文句を言っていました。私は、「自家発電なので電気がつくだけでもいいし、エアコンまであるので上出来なのよ」と、こんこんと言って聞かせたのですが、嘉男はこうなったら誰の言うことも耳に入りません。ツアーリーダーに文句を言っていたようです。でもどうしようもありません。嘉男は、ぶつぶつ言いながら寝てしまいました。
朝起きてみるとすぐ前は海でした。私は早速外に出てみました。もう売人がいるではありませんか。すごい商魂です。私は腰にまく布(パオと言います)を買いました。
食事の時に耳に入ったのですが、エアコンが切れた部屋があったそうです。自家発電なので多くの人が泊まるとオーバーヒートするのでしょう。ここの人達は、エアコンなど使わないのでしょう。私達はエアコンがなければ寝られないのです。私達は文明に毒されているのだなあとまたまた反省しました。このツアーは反省しきりのツアーでした。いろいろ文化の違うところに行くのは、とても勉強になります。たくさん学んで日本に帰って私の生活が変わればいいのですが、なかなかそうはいかないでしょう。
船上の生活・ファッションショー
また船の上の生活が戻ってきました。ダンスダンスの毎日です。尚ちゃんと朝から晩までダンスの練習をします。少しは話をするようになったのですが、まだまだ遠慮があります。
私の自主企画「布草履を作ろう」は3回目を実施しています。今度は、1回目、2回目の参加者で時間があり教えることができる人に、先生になってもらっています。私は少し楽になったのです。そうやってこの自主企画は継続しています。家にあった不要の布を、役に立てたいという思いから思いついた企画なのです。布が足りないと思い、船に乗る前、太極拳の仲間達にTシャツの寄付を募ったらたくさん出して頂きました。次に乗る時も、このような企画をしようと思っています。捨てるより、何かに役立てる方がよほどいいのです。
以前申し込んでいた、ファッションショー参加者の集合がかかり、係の人から、リハーサルの日時、場所、方法を説明されました。私は船に乗ってすぐ仲良しになった、元教員の秋山香里さんと一緒に申し込んでおきました。ダンスの発表会用ドレスを、2枚持ってきているので、彼女と一緒に出ようと思ったのです。香里さんに頼むと、香里さんは、すぐ快く同意してくれました。リハーサルの前に、入場の仕方、舞台上でのダンス、退場の仕方までを私が創作し、香里さんに教え、彼女が困ったらいけないので、「分からなくなったら私を見て、とてもスローに動くから差しさわりはないよ」と言っておいたのです。
ファッションショー当日は香里さんにつけまつげを付けてメイクをしました。目のぱっちりした人なので、化粧がとてもはえます。香里さんも度胸があり結構きちんとダンスをしていたようです。ファッションショーはとても楽しかったです。やっぱり見るより出る方が楽しいです。香里さんも楽しんだようです。私はこうやってパフォーマンスをすることでとても心が高揚します。
クルーガー国立公園・ケープタウン
クルーガー国立公園の自然動物園のオプショナルツアーを取っていました。嘉男はその前のホイアンのツアーでトイレ、トイレと言い、ツアーリーダーの人に迷惑をかけたのでキャンセルしました。その後、嘉男を、もう一度参加させて欲しい、と何度もお願いしたのですが満員だからダメと断られました。だから私は一人で参加したのです。でもバスの中では私の隣の席は空席だし、私の部屋は一人でした。多分嘉男は、ツアーコンダクター達のブラックリストに載ったのでしょう。
昼過ぎに到着してすぐ車に乗って、動物の見学に出ました。歩くことはまるでないので嘉男を連れて来ると良かったなあと再び思いながら動物を見ました。象がぞろぞろと歩いているところとか、キリンが首を伸ばして歩いているところとか、シマウマが群れているところとか、たくさん見ました。
宿舎に帰ると一軒ずつのバラックの小屋でとても牧歌的です。バオバブの時と同じような感じでした。シャワーは水の出る穴が一つだけありたくさん出すと痛いので少しずつ水を出しました。
蚊取り線香のようなものがあるのでそれを付けて怖いので早く寝ました。
朝は早く起きて、日の出を見ようと外に出てみると、結構多くの人がいたのです。皆に挨拶をして話しをしながら日の出を見ました。部屋に帰り化粧と、髪のセットをして朝食に行きました。
朝食の時になんとあの尚ちゃんと会ったのです。私はすぐに尚ちゃんのところに行き「ご一緒していいですか」と頼みました。尚ちゃんは同室の人と一緒でした。その同室の人とも以前船で、お抹茶を御馳走になりその時に、お話をしたことがあり、楽しい時を一緒に持ったことがありました。食事は一人でとるより、何人かの人でとる方が美味しいです。ゆっくりたわいもない話をしながら食べました。朝食はとても楽しかったのです。
クルーガーでは象、麒麟などをしっかり見たのですが、ヒョウ、ライオンなどは見ることができませんでした。それでも動物園とは違い、どの動物も、自由なのです。とてものんびりしていました。自由はやっぱり、動物も、人もいいのですね。
観光中、車に乗っているのだから、嘉男も連れて来ると良かったのにと、またまた思いました。嘉男は、動物が大好きなのに・・・と思うと可哀想そうだと思う気持ちが、わいてきたのです。
今朝、三人で一緒に食べた朝食は美味しかったのです。今でもその時の胸のときめきを、思い出します。その時に夕食も一緒に、とお願いしておけばよかったのですが、なかなかうまくいきません。その夜は、知らない人と一緒にもくもくと食べ、とても寂しかったのです。
クルーガーに行くときも思ったのですが、このあたりでは国境と言っても日本で考えるようなものではないのですね。部屋に入りパスポートのチェックをし、長い廊下のようなものを通って次の部屋に入るとまたパスポートのチェックをします。これで国境は越えたのです。まったく信じられません。こんなだから簡単に戦争になるのでしょうね。簡単に国境を越えて、また私達はバスに乗り船へと帰りました。
このようにして楽しかった、クルーガーツアーも終わりました。
ケープタウンにて
次に、ケープタウンに入港しました。私は嘉男と一緒に、喜望峰とペンギンコロニーのツアーを取っていたので一日ツアーに出かけました。喜望峰に行く道中は、紺碧の海が見え。海岸線にはしゃれた家が見え、空はこれまた真っ青で、とてもきれいなところをバスは登っていきました。
喜望峰ではバスコ・ダ・ガマの航海の時代に思いをはせ岩に登り、しばしバスコ・ダ・ガマの感激を想像しました。
次にペンギンコロニーに行ったのですが、よちよち歩くペンギンが可愛かったのです。そこからバスに帰る途中で買った、アイスクリームも暑かったのでとても美味しいと思いました。
船に帰るとなんとテーブルマウンテンに雲がかかりテーブルマウンテンから雲が下りてくるのです。それをテーブルクロスと言います。それを私達は見たのです。ラッキーでした。
次の日は嘉男と一緒に船のすぐそばのショッピングモールに買い物に行きました。少し歩かないといけないのですが、嘉男は、まだかまだかと文句を言います。私は嘉男を連れてこなければよかったと反省しきりです。
やっとたどり着くと、とても大きなショッピングモールでその門をくぐると、いろいろな店があり、食堂も沢山あり、広場もあり、とても大きなスーパーマーケットもありました。ちょっとした安全な街です。その中の広場では歌を歌っている者もおり(やっぱりアフリカです、アフリカ系のリズミカルな歌を歌っていました)、ジャグリングをしている者もおり、その広場は1日いても飽きないくらい、いろいろ楽しませてくれるものがありました。嘉男はそこのベンチに座らせ、私一人で見て回りました。最後にスーパーマーケットで嘉男のお菓子を買い、その時クレジットカードを使いました。その後嘉男を連れて帰ったのです。
数日後ダンスで知り合いの男性が、私に話しかけてきました。彼は、私がケープタウンで買い物をし、レジでクレジットカードを使ったスーパーマーケットで、クレジットカードのスキミングをされたと言って嘆いていました。それが分かったのは限度額を超えて使用があったので、カード会社から連絡を受けたとのことです。使われたお金は保険で帰ってくるのだけれど、彼がそのためにカード会社に船から電話をかけた費用とか、日本の家族に船から電話をかけた費用などが返ってこない、と言って嘆いていました。それを聞いて、私も危なかったのだろうと思い、今度はデビットカードを使おうと思ったのです。やっぱり外国旅行はとても注意が必要なのだ、ということを学んだ出来事です。
ウオルビスベイ(ナミブ砂漠)・スワコブムンド
船はウオルビスベイに停泊し、嘉男と私はナミブ砂漠を見に行くツアーを取っています。バスでかなり走ると、ナミブ砂漠に到着しました。一面砂だらけです。もちろんですよね。砂漠だから砂だらけは当たり前なのですが、私はとても感動したのです。平地かと思っていたら地面がうねっているのです。これも砂嵐などがあるから当然のことなのですが、またまた私は感動したのです。私は裸足になりそのうねったところを上りました。すながどんどんくずれてしっかり踏みしめないと登れません。あまり高くないのにとても労力を使い、くたびれました。おまけに砂がとてもきめ細かく、足から離れてくれません。このやろう!とか言いながら格闘して取ろうと思ったのですが、どうしても足にくっ付いた砂はとれません。仕方ないので、ある程度取れたからソックスをはきました。後で、わかるのですがこの砂は船室の部屋でも、カーペットにくっ付いて、なかなかなくなりませんでした。
昼食はスワコブムンドと言う町でとりました。この町は以前ドイツの植民地だったらしく町並みがとても整然として綺麗でした。そこのスーパーストアーで買い物をしようと思ったのですが、クレジットカードが使えなかったのでやめました。街をプラプラ歩いていると、嘉男がくたびれたと言うので、すぐ近くにあるホテルに入りました。ドルが使えたので良かったのです。アイスクリームを食べたのですが、とても美味しかったのです。ウエイターさんに片言の英語で「It is very good」と言ったら通じて喜んでもらえたので嬉しかったのです。
その後バスのところに行ったら、ネイティブの人達が手作りの物を売りに来ていました。奥地の集落の人達でしょうか、乳飲み子もいました。私は商品を見ようかと思ったのですが、女性も男性も上半身が裸でした。私は女性が上半身裸だということにびっくりして、彼らの持ってきたものを、見ることができなかったのです。私は自分自身をしっかりした人間だと思っていたのですが、全く駄目な人間だということを痛感しました。こんなのは文化の違いだと、思えば済むことなのに・・・・ダメですね。品物をよく見て、いくらか、みやげに買えばよかったなあと、反省しています。
バスに乗るから、サングラスをしまおうとバックを見たら、どこを探しても眼鏡ケースがないのです。荷物を全部出してもないのです。よく考えたら、アイスクリームを食べたホテルで、ケースを出して置いたことを思い出しました。ツアーリーダーに訳を言って取りに行こうと思っていたら、ツアーリーダーが届けてくれていると言って、見せてくれました。まさに私の眼鏡ケースです。ホテルのボーイさんが届けてくれたそうです。とてもありがたかったです。お礼を言いたかったのですが、帰る時間が来ているのでそのまま船に帰りました。今から思えば住所を聞いてお礼の手紙を書けばよかったなあと思います。今度行った時にはそこに行ってお礼を言おうと思うのですが、行くかどうかわかりません。心の中で感謝してお礼を言います。この感謝の気持ちを、忘れないようにして、他の人に返そうと思っています。
洋上での生活・サンバカーニバル
次の日からリオまで少し船上の生活が続きます。その間にカルチャースクール、自主企画の「真ん中発表会」があります。私は社交ダンス、アルゼンチンタンゴに出ます。私はどれもこれも、まだまだきちんとできていないので、どうなるか心配です。
発表会がありましたが、社交ダンスは、組んだ人たちが柔道をしているような感じになり、何をしているかわかりません。尚ちゃんと私も、ほかの人が邪魔になり動けないのです。予想にたがわず散々の出来でした。まだしっかり練習できていないので仕方ないと言えば仕方ありません。アルゼンチンタンゴは、サリダだけしたので、同じことを繰り返し踊っているだけなので、見ている人は面白くなかったと思います。
洋上サンバカーニバルはまだ後なので、その練習をしなければいけません。とても忙しい毎日になりました。その中で早朝、尚ちゃんとの自主練習、空き時間は、空いている場所を見つけて、尚ちゃんとダンス練習をします。この時期尚ちゃんと良くダンスをしました。一人の時はひたすらブラジルサンバの練習をしています。そのおかげで、ブラジルサンバのステップはマスターできました。
いよいよ洋上サンバカーニバルの日がやってきました。プールの回りをそれぞれのチームが簡単な動きを作りサンバのリズムに合わせて練りあるくのです。サンバの演奏も乗船者が演奏して歌も作って歌います。心の踊るようなリズムで、そのリズムに乗って踊るのだから盛り上がらないわけがありません。私は以前阿波踊りに出て踊ったことがあるのですが、その時のことを思いだし、心が高揚しました。又参加チームが10チームいたのには驚きました。でもサンバカーニバルの雰囲気が出てとても楽しかったのです。私は自分のチームの振り付けを一生懸命に踊りました。そうすることでますます心は昂揚するのです。皆もそうです。そうやって昂揚してダンスをするのです。これが、みんなでするダンスの醍醐味です。この時は、ダンスが終わってもその高揚感は、なかなか治まりませんでした。
次の日から、今までの日常が始まりました。私は「布草履作成」の自主企画をしていたので、その指導をしていました。ある時、上手くいかない人の指導をしていると、時間の経つのも忘れ、ひたすら指導をしていました。その時、アルゼンチンタンゴのレッスンがあるのを、忘れていたのです。そのことを思い出して、「あ!アルゼンチンタンゴのレッスンを忘れていた!」と言ったら、布草履の参加者が「今行ったら」と言ってくれたのですが、もう終わる時間なので行かなかったのです。
そのすぐ後に、尚ちゃんが、様子を見に来てくれたのがとても嬉しかったのです。みんなが「謝れ、謝れ」言うので謝りに行きました。尚ちゃんはあまり感情を表に出さないで「どうしたの」とだけ聞きました。私は「布草履を教えていたら時間の経つのを忘れていたの」と答え「ごめんなさい」と言ったら「そんなに気にしなくていいよ」と言ってくれました。尚ちゃんは何事にもあまり感情を表しません。怒っているのかどうかわかりません。なんとも思っていないのかもわからないのです。皆は「どうだった?」と聞くので何ともなかったよと答えておきました。何歳になってもみんなこんなことに興味があるのでしょうね。
リオデジャネイロ
リオデジャネイロには3日間停泊します。2月6日午前に船がリオの港に入港したのです。私は朝食を食べて嘉男と、秋山香里(ファッションショーに一緒に出た人)と3人でタクシーでリオの市内を観光しました。
コルコバードのキリスト像を見に行く時に、リオの町を通りました。びっくりして言葉も出ないくらいでした。何かと言えば町の汚さです。どこを見てもスプレーで落書きをしているのです。店の窓などはきれいなのですがその横を見たらもう落書きです。初めは驚いて見ていたのですがしばらくすると慣れました。でもどうして、こんなに落書きをするのでしょうか。なぜ、皆消さないのでしょうか。消しても追いつかないくらい落書きをするのでしょうか。一目で街が荒れていることが分かりました。この落書きが無くなればリオの町はもっときれいな落ち着いた街になるのに、と思うと少し残念でした。
コルコバードの丘に行き、ケーブルカーで上までのぼり町を見ました。そこから見る景色はリオデジャネイロが一望に見えとても綺麗でした。あのスプレーの落書きは見えません。
それからコカパバーナの海岸に行きました。さすが色々な映画のロケーションの場になっただけあって海は紺碧で穏やかで、海岸線は緩やかにカーブしています。紺碧の海の色と、白い砂の色がいいハーモニーを作っています。誰かが描いた絵をどこかで見たような光景です。車から降りて少し歩いたのですが海から来る風は柔らかく私のほほを撫でて通り過ぎ、とても気持ちがよかったのです。
次にイパネマビーチにも行きました。ここも海の色がとても青かったです。そこで柴犬に会い、連れていた人は日本人だったのです。なんと日本から連れてきた犬だそうです。その犬は、人懐こくて、なでるととても喜んで私に寄ってきて、すりすりしてくれました。これだけで私は大満足で、とてもよい観光になりました。
船に帰ってランチを食べて、私は買い物があるので、嘉男に訳を言って、尚ちゃんに保護者になってもらいました。リオはちょっと危険で一人歩きはいけない、特に港付近は危ないと、言われていたので、男性に頼みました。尚ちゃんは背が高く、眼の光が強く、スキンヘッドなのでとても強そうに見えます。
船から降りたら何もなかったので駅の方に向かって歩きました。しばらく行くと、市場のような商店街があり、結構いろんなものを売っていました。私は下着が欲しかったので、見て回りましたが、あまり納得のいくものがなかったので、次の停泊地で買ってもいいなと、思っていたのです。
来た道と、違う道を通って帰っていたら、雑貨屋さんのような店があったので入ってみると、結構いろんなものがあったのです。私は私にちょうどよさそうなサイズの下着を、見つけたのでそれを買いました。これで本日の目的は達成です。
私達の船が近くに見えるところに、オープン喫茶のようなものがあったので、尚ちゃんにお礼をしなければいけないので、「好きなものを買って」と言ったら炭酸飲料水を買いました。もっと高いものを買えばいいのにと思ったのですが、炭酸水が一番好きなのだろうと思って、だまっていました。結局、私もそれにしました。お金を払う時に日本でよくやるように、財布を大きく開けてお金を取り出していたら、尚ちゃんが私のすぐ傍にきました。後で注意をされたのですが、数人の男性が私を見ていたそうです。俗にいう目を付けられたということでしょう。それで尚ちゃんが私をガードしてくれたのです。とても危ないムードだったそうです。尚ちゃんに感謝と同時に、尚ちゃんが神様に見えました。それとやっぱり外国は油断をしてはいけないということですね。肝に銘じておかないといけません。
ディナーを食べたら私は、バスで移動して、本物のサンバのチームの中に入って踊らないといけないのです。ずいぶん以前、サンバチームに入りたい人は申し込むようにという知らせが入っていたのです。私はすぐ申し込みました。参加料は少し高かったのですが、カーニバルに出場できるのなら、参加料が少しくらい高くても私には問題ありませんでした。カーニバルに参加できると思うと足が地に着かないくらい、飛び跳ねたいくらい、大声で叫びたいくらいうれしかったのです。その本番が今日の夜です。指示されたように、Tシャツ、ズボンスニーカーを履き、虫除けのスプレーを持ち、ペットボトルを持ってバスに乗りました。18時30分出発です。その時、心はもうあのサンバ会場に飛んでいました。
サンバカーニバル
19時過ぎころには会場の裏手につきました。私達の人数は20人くらいいたのでしょう。リーダーについてぞろぞろとごった返す中を歩きました。みんな離れないようにするのが精一杯です。パレードをする裏手に行きました。そこにはいろんなサンバ隊がいて誰が誰だかわかりません。
少し待っていると、私達が着る衣装が来ました。カニをイメージして作られたということで、青いワンピースに、赤いすけるマントを付け、両肩には金色で作られた十字架がついています。
私達は、12時過ぎに出でます。それまで5時間弱そこで待たなければいけません。回りをよく見ると、パレードで一番上に上っている人は、長いクレーンで乗せられます。よくよく見ると、なんだか男の人が多いように見えました。男の人が胸を入れ、お尻を大きくしているのです。とても大きな胸ととても大きなお尻です。又よく見てみると、だしの上で踊る人は、若い人だと思っていたのですが、年配の人が多く、なんと、なんと衣装の中に、胸のお肉を入れ、お尻のお肉を入れているのです。これを見ているとても面白かったのですが、踊っているダンスは半端ではなくすごくかっこよかったのです。音の取り方、曲の乗り方などとても私達には、真似は出きません。
ここでカーニバルについて書きます。もともとは「謝肉祭」の意味を持つ宗教的行事です。カトリック教徒たちは、キリストの復活を記念するイースターまでの40日間を禁欲生活としましたが、その前の4日間をお祭りにしたのが始まりだそうです。大衆による街を騒ぎながら行進するブロッコが現在のカーニバルの原形と言われ、それに奴隷で連れてこられた黒人たちの宗教音楽が、この地に溶け合ったことで生まれたこの国独自の祭典だそうです。だからよく見ると、生活の匂いが見え、宗教的な臭いもします。
もう少しパレードについて書きます。パレードには2500人から4000人ほどが参加します。パレードの先頭に10人から15人くらいの集団がダンスをします。この人たちが、とても綺麗な、スタイルのいい若い男女でダンスも上手です。次に、その中でも、もっときれいなダンスが上手な一組の男女がダンスをします。女性はリカちゃん人形そっくりのスタイルです。顔が小さく手足が長くとても美しいのです。その次に、70人くらいの人が続きます。これがその集団のサンバルーツを象徴するものです。次にバッテリアと言って打楽器隊が続きます。アレゴリーアと言って山車が5~7台続きます。高さは10メートルくらいになるものもあるそうです。山車と山車の間にたくさんの踊り手がつながります。私達はその山車と山車の間で踊ります。
リオのカーニバルはコンテスト形式で、出場するのは多くの「エスコーラ・ヂ・サンバ」という、主にファヴェーラ(リオの郊外の貧困地区)に根ざしたサンバチームです。一年間かけて準備されます。
そんなことを頭に入れてみるとサンバの踊りが違ったものに見えます。そのパレードに私達は参加させてもらいます。しっかり踊らなければいけません。衣装を着るとさすがに心が高揚してきます。
次に私達の出番が回ってきました。実際はとても長い待ち時間だったのですが私達にはそんなに長い時間だったとは感じませんでした。貴重品を付添いの人に渡し決められた位置に行きました。パレードの音楽と、歌と、歓声が聞こえてきます。私は顔がほてり、心臓がどきどきしてきました。このもう少しで出番と言う時が、一番興奮する時です。
私達の前に居る外人(何処の国の人かわからない)は酔っ払っているのかどうかは、分からないのですが、まあ列もとれないくらいバラバラです。訳の分からないことをがなり立てているし、全くバラバラです。もっとまじめにしなさいと怒鳴りたいくらいでした。この人たちが前を歩くのだから、とても邪魔になるのではないかと思いまた一層腹が立ちました。まあ邪魔になったらどけて踊ればいいのだと、自分をなだめるのが大変です。
いよいよ私達のチームの出番が来ました。私達の曲とバッテリアの音がすぐそこに大きく聞こえます。それを聞いただけで私の心は踊っています。私は12人くらい横に並んだ一番左側に居ました。だからしっかり踊らないととても目立ちます。
私達は列の真ん中くらいなのだから、まだまだです。でも山車が何台か出たあと私達の番が来ました。私は先生に教えてもらったサンバステップを踏んだのですが、これはとても激しく動くので長く踊れません。私はそれから適当に、社交ダンスのサンバステップを踏みながら行進しました。これならとても早く進めるし、そんなにエネルギーは使いません。観客が、パレードのすぐそばまで降りて来て投げキッスをするので、私が投げキッスを返したら、とても喜んでいました。そんなことをしていると私の心はハイテンションになり、投げキッスをされたところでは、本場のサンバステップを踊りました。そうすると、観客は、私を指さしてまたまた拍手の連続です。それで、私はますます乗って、サンバステップを踏んだのです。この観客とのやり取りが、とても楽しかったし、気持ちを高揚させます。
余りにもくたびれたので、少し楽なステップに変えました。私のすぐ前を踊っていたブラジル人の年配の男性が私の方を向いて、掛け合いをしようと踊ってきました。私はすぐ彼の踊りに合う、掛け合いのダンスをしたのです。それがまたとても楽しいのです。彼と掛け合いをしながら、拍手があるとすぐ投げキッスをしたのです。そうすると観客も又投げキッスをするのです。私はまたサンバステップをします。そうすると、掛け合いの男性は、男性のサンバステップを踏むのです。そうしながら私達はどんどん進みました。あ!と言う間に長い行進は終わりました。私は終わったことが信じられないくらい心が高揚していました。疲れなど何も感じなかったのです。掛け合いをした男性とは握手をして別れました。行進が終了したすぐ後に、次にチャンスがあればまた出たいなあと思ったのです。
この昂揚感は今まで得た物とはまるで違います。この年までいろいろあったけれど、頑張って生きてきたから、夢にまで見たリオのカーニバルに来て、パレードに参加できたのだという思いが、根底にあります。この経験は、私の一生のメインイベントです。神様が頑張った私にくれた、ご褒美かもしれません。パレードが終わった後も思ったのですが、今も、もう一度機会があれば挑戦したいと思っています。恋焦がれたサンバパレードに、自分が参加できたなんてとても信じられません。この文章を書いている今でも信じられないです。
行進が終わり、残る人がいたかどうかは分かりませんが、私はすぐ帰りました。
次の日は、スペシャルクラスのサンバを見ます。「マンゲーラ」と言うチームが一番の評判です。「マンゲーラ」はパレードの最後に出てきます。全部が終了するのは、翌日の6時位だということです。でも私はイグアスの滝に行くから最後まで見ることができません。イグアスに行く人は次の朝7時に出発です。だから私は6チームある中で3チームまで見て帰ろうと思っていました。残念ながら「マンゲーラ」は見ることができません。とてもとても残念です。
夕食を食べたらバスに乗って出発しました。7時頃会場に着きました。昨日はその中で踊ったのが夢のように感じたのです。パレードのコースを取り囲むように両方に観覧席があります。パレードのコースに入るととても興奮したのですが、見るのはまた違った興奮があります。でも見るより踊る方がとても楽しいのです。そんなことを感じながら、パレードに参加してよかったなあと思いました。
なかなかパレードが始まらないので私達は待っていました。嘉男はもうその時から退屈しているようでした。9時頃にやっと始まりました。初めのダンサーはとても上手でその団体の実力が見えるようです。そのダンスを見ただけでリオのカーニバルのすごさが分かります。初めのチームでしかも初めのダンスでわかります。次に美男美女が出て来てすばらしいダンスをします。
それから一代目の山車が出てきました。その上で、あの太った胸とか、お尻の、お肉をドレスに詰めていたような人が踊っているのです。これがなんと、とても上手なのです。太っているかどうかは、全く問題はないのです。あんなに太っていてもリズムの取り方、のり、身体全体での表現、などなど完璧なのです。前で踊っているきれいな人が、年を取って山車に乗ったということなのでしょうね。
私はびっくりして見入っていたのですが、嘉男がとても退屈そうなので、「退屈なのか」と聞くと「そうだ」と言ったのです。私はまだまだ座って見たかったのですが、仕方ないのでアイスクリームを買いに行きました。何とかアイスクリームを買えました。それを買って帰ると嘉男は美味しそうに食べているのを見てやれやれです。これでゆっくり見られると思っていたのですが、またまた嘉男がぐずぐず言い出しました。まだ初めのパレードは続いており、盛り上がっている最中なのに、仕方ないのでまた食べ物を買いに行きました。今度はポテトとビールを買いました。これでゆっくり見られると思っていました。しかしよく考えると、嘉男はビールを飲むと眠くなるのです。
全く考えのないことをしてしまいました。やっぱり、嘉男は、船に帰りたいと言い出したのです。困ったものです。なだめすかして、初めのチームが終わるまでは我慢してくれとお願いして待ってもらいました。1チームが終わるのに1時間以上かかったように思いました。
バスの待合場所に行った時には私達以外に誰もいません。バスには私達だけでした。みんな始まったばかりで帰る人などいないのです。1チームしか見られなくてとても残念です。又絶対にこよう。スパシャルチームは絶対に最後まで絶対に見ようと思いました。
イグアスの滝
サンバパレードを1チームしか見られなかった私は、船に帰り、シャワーを浴びてすぐ寝ました。嘉男にとってイグアスの滝は、歩くことの多いいツアーなので、船に居るいろんな人にお願いして船に残すことにしているのです。
このツアーは、マメちゃんという若いと言っても30歳くらいの女性と常に一緒に行動しました。彼女とは、早朝練習の時に良く会い、親しくなっていたのです。それで何となく一緒に行動するようになったのです。一人は寂しいので、連れがいた方が絶対に楽しいのです。バスも彼女といつも一緒に乗りました。
バスで空港まで行って、飛行機で移動です。飛行機移動は、そんなに長い時間かからなかったような気がします。飛行機から降りると、またバスで移動です。移動している間、民家など見えませんでした。かなり長い時間バスに揺られたように思います。
木造の建物の前でバスは止まり、荷物はバスの中に置いたまま下りました。水とかタオルなど必要なものだけリュックに入れて建物の中を通り抜け、下に向かって降りたのです。途中、日本で見かけるトカゲの3倍くらいのトカゲを見ました。私達を見るとすぐ逃げたから写真には写せません。残念に思いながら降りていきました。そこから船に乗って移動です。着いたところには、ジュラルミン製のような橋があります。その橋の下には、ごうごうと大きな音を立てながら、水が流れていきます。だんだん滝に近づいていきます。上を見ると、たくさんの水が流れ落ちて私達に激しく水滴がかかるようになったのです。近づくにつれて、話も聞こえなくなったのです。そのため話すこともできないのです。橋から下を見ると、さっき見た時よりもっと早く、水も泡のようになっているのです。ここに落ちたらどうなるのだろうかと思いながら、どんどん歩いて行くと、滝のすぐ下にきました。しぶきは嵐の時のように舞いながら飛んでくるし、サングラスは水滴だらけになるし、ウインドブレーカーは水浸しになるし、髪の毛は水にぬれるし大変です。そこを見ながら歩くのです。少し行くとなだらかな湖のようなところに出て、それから少し登坂を歩きました。今度は一つの滝の上に出ました。水が落ちるすぐ横から下が見えるのです。水を机から沢山落としているような感じです。でもそれが長く高いので落ちる水がカーテンのように見えます。とても綺麗でした。しかし眺めていると吸い込まれそうになりとても怖かったです。このようにしていろんな角度から様々な滝を見るのです。
途中で私達は横道に出て、昼食になりました。そこは昔、西部劇で見たような、バラックでできたカントリー風の建物です。中に入ると広々として気持がよかったのです。バイキング形式なので私は、野菜、ライス類、フルーツを取り、お肉を焼いているところに行き、一番小さいお肉をたのみました。マメちゃんはとても大きなお肉を取っていました。やっぱり若いのですね。回りを見ると、私くらいの年の女の人が、大きなお肉を食べていました。腕を見るととても大きく私の3倍くらいあったのです。すごいなあと思って見ていたのです。その彼女はとても豪快に食べています。南米の女性は力持ちなのだと変なところで感心しました。今でもあの光景は目に焼き付いて離れません。そこで1時間くらい休憩があったので、私とマメちゃんは外の日陰で休んでいたのです。日陰は結構風があり涼しかったのです。
その後また滝に移動しました。また橋を渡り滝の水しぶきを浴びながら歩きました。次はエレベーターに乗り、イグアスの滝の一番上に上がりました。一番上から流れる滝を見たのです。これはまたとても長いのです。見ているすぐ横から滝の水が落ちていくのです。すごく下まで行くので何メートルあるかわからなかったのです。下を見るとまた目がくらくらするではありませんか。私は少し高所恐怖症なのかもしれません。そうそう「大山」登山で縦走をしている時、私は目がくらみ落ちそうになったことを思い出しました。それ以来高いところは行きたくなくなったのです。だからここでも、めまいがしたような感じがしたのでしょう。
そんなことを考えている間も、水しぶきは飛んできます。私のウインドブレーカーは水浸しです。でも暑かったのでそれはとても気持ちよかったのです。
その流れを見ながら私達は少しずつ降りていきました。その途中でわき道にそれて、平坦な道を歩きだしました。その道は森の中に入り、小鳥のさえずりを聞きながら、木漏れ日に身体を照らされながら、だんだん遠くなる水の音を、聞きながら話した中身はたいして覚えていないのですが、結構楽しかったのです。
マメちゃんの友達が単独行動でバスを利用して、かなり安い料金でイグアスに来たそうです。その友達はネットで、イグアスにくる方法を調べたのだそうです。若い人は賢くそうやって動くのですね。私達は自分たちが知らない場所を、しかも言葉の分からない外国で動くのはとても怖いので、やっぱりお金を使わなければいけないのです。
そんなことを話しているうちに、きれいなしゃれた建物が見えてきました。どんどん歩いて近づくと、私達の乗ってきたバスが見えました。今までのツアーでは、バラック小屋のようなところに泊まったのに、今度はしゃれたホテルです。なんという違いなのでしょうか。やっぱりお金の力なのですね。以前の費用と今回の費用を比べると、雲泥の差で今回の方が高いのです。ヤッパリお金の力はすごいです。
ホテルの中に入りましたが、広々としてとても綺麗なホテルです。ロビーでは係の人がいて、私達に部屋の案内とキーを渡し、夕食の時間と場所を教えてくれました。部屋に行くととても広くて、バスルームもきれいで、またまた驚きました。このツアーから帰るとすぐ南極に行くという女性と同室です。気さくな人のようで助かりました。
夕食まで、まだまだ時間があるので、プールで泳ぐことにしたのです。同室の人と一緒にプールに行きました。平泳ぎで、のんびり泳ぐととても気持ちがよいです。浮いたり沈んだりしながら30分くらいでしょうか水につかっていました。
シャワーを浴びて、洗濯をしてその洗濯物を南極に行く人が外に干すというので、いけないなあと思いながら私も干しました。
食事に行くと、知り合いの人から洗濯物を外に干してはいけないと、注意を受けたのです。とても恥ずかしかったのです。やっぱり、いけないと思うことはしてはいけません。
翌日のことなのですが、その注意してくれた友人は、朝食のパン(パンはレーズンが入りほんのり甘くてとても美味しかったのです)をホテルのナプキンに包み持ち出して、おやつとして食べているではありませんか。私はもう開いた口がふさがりませんでした。人のことはよく見え、自分のことは気が付かないということなのでしょうか。私は黙って見ているだけで、注意はしませんでした。悪いことと知って、しているのですから。
夕食は、今までで一番よかったです。バイキングなのですが、飲み物は、アルコールも含めて、飲み放題、野菜、パン類、肉類、魚類などなど沢山あり、色んな趣向を凝らして料理してあります。私は、どれを食べようかと迷ったのですが、とりあえず手前にあるものを少しずつ取りました。それでもお皿は一杯になったのです。とても美味しかったので二皿目を取りに行きました。それを食べると、もうお腹はギブアップをしています。「もうこのぐらいにしたらどうですか」とお腹は言っています。それでも、デザートを見に行ったのです。またデザートも豪勢で、たくさんの果物、ケーキ類、コーヒー、紅茶などなどありました。ここでも私は意地汚く、少しずつたくさん皿に入れたので、食べ終わった時は、お腹の皮がパンパンで破れそうでした。食事の終わりに、翌日の日程を聞き部屋に戻ったのです。
部屋で同室の人と、食事がおいしかったと何回も言い合いました。それからすぐベッドに入り、すぐ眠りにつきました。
昨日早く寝たので私は、5時に目が覚めました。ごそごそすると同室の人に悪いので、顔を洗い歯を磨いて、散歩に出ました。外に出て空を見ると、朝焼けの赤と空のブルーが溶け合いとても綺麗でした。空気も良いし、大満足です。早起きは三文の得と言いますが、まさにその通りです。
あちこちを歩いていると、バスの運転手さんが来たので、「バスに帽子を乗せていいですか」と聞くと「いいですよ」との返事をいただいたので、帽子を一番前の席に置きました。このツアーでは、いつも一番前の席を確保しています。何となく前の席を確保したくなったのです。今考えれば、どうして前の席が良かったのか、わからないのです。
朝食もとても美味しかったのです。昼食の分までお腹に入れたかったのですが、そういう訳にいかないのですね。
私達はバスに乗り昨日の場所まで移動しました。私達はバスの中で水着に着換えます。私は水着の上に合羽を着ました。今から舟に乗って滝の下に行くのです。
舟着き場に着きました。私は運の強い人間なのでしょう、舟の一番前の席になりました。この舟で滝つぼの中に入るのです。舟はどんどん滝に近づいていきます。水の流れはだんだんクルクル回るようになってきました。近くなるにつれてみんな悲鳴をあげます。もちろん私もです。どんどん水が頭の上から降り注いできます。最初は上を向いてそれを見ていたのですが、落ちてくる水の量が多くなり、水中眼鏡をかけていても、目が開けられなくなりついには目をつむってしまいました。上からどたどたと顔だけでなく、身体にもたくさん水が落ちてくるのです。しばらくすると、少しずつ落ちてくる水が少なくなりました。目をあけてみると、舟は滝より少し離れています。
私達は元の場所に戻り、舟を下りてバスに戻ったのです。男性は外の茂みで服を着換えていたのですが、女性は、バスの中で交代で服を着替えます。私の番になり服を着替えたのですが下着までずぶぬれなので、全部着替えました。皆も下着まで濡れていたと言っていました。それから、またバスで移動したのです。
今度は、ヘリコプターで空からイグアスの滝を見るのです。ヘリコプターの乗り場に行きました。そこはとてもきれいで、おみやげなども置いてあるのです。ヘリコプターに乗る順番が来るまで、装飾品を見ていました。
私は現地から取れた石がついているピアスを買ったのです。本当に現地から取れた石かどうかは分かりませんが、信じることにします。それを付けてヘリコプターに乗ったのです。
ここでも幸運で、ヘリコプターの一番前に乗れたのです。とてもラッキーです。前の席は足元から下が見えるのです。初めてヘリコプターに乗ったので私の心は大興奮です。上から見るイグアスもとても雄大ですごいです。イグアスの滝の上部はこの字型になっていて、そこから水が落下しているのです。その落下する距離もかなりあるのです。イグアスの上部のこの字もとても広くそこから下に向かって流れているのです。広い平面から落差のある下に向かって流れているから轟音が鳴り響き、水しぶきが上がるのです。だから落下する下の方は霧のようになって何も見えないのです。
でも私は舟で見た(いや、感じたと言った方がいいでしょう)イグアスが一番、心に残りました。そのすごいと思った舟での滝つぼの中に入ったと思っていたのですが、上から見ると、滝のほんのさわりしか行っていなかったのが分かりました。それでも私の心は今でもその感動で揺れているのです。
私達はまたバスで空港に移動です。空港に行くとそこにはなんと寿司屋さんがあったのです。商品を見ると、日本の寿司とは少し違います。アボガドをサーモンと合わせて巻き寿司にしたもの、アボガドとか、見慣れない物が多く巻き寿司にしてありました。とても美味しそうだったのですがお腹が一杯なので食べられません。それから、かなりの時間待ってやっと飛行機に乗りました。
私達は、ウルグアイのモンテビデオという町で1泊して船を待ちます。着いたのは夕方なのでそのままホテルで夕食を取ります。昨日のホテルほど豪華ではなかったのですが、それでもとても美味しい夕食です。私は夕食後すぐ寝ました。多分かなり疲れていたのでしょう。
翌日、バスで街の見学です。マメちゃんはお腹の調子がとても悪くてホテルに残り、船が着き次第乗船するそうです。モンテビデオの町はとてもこじんまりした綺麗な街です。「ラ・クンパルシータ」という曲は、この町で行進曲として作られたそうです。ランチを食べて私達は船に帰りました。
ヴェノスアイレス(アルゼンチンタンゴ)
翌日はブエノスアイレスに着きます。私達は市内見学と夜アルゼンチンタンゴ見学のツアーを取りました。
翌日私と嘉男は、ツアーバスに乗り市内観光及びアルゼンチンタンゴ観賞のツアーに、出かけました。町をバスで見学し水路の近くのレストランでランチを取ります。そこはバイキング形式で結構いろんなものがあります。みんなお肉を焼いているところに行って、焼けるのを待っています。とても沢山の人です。私は、お肉はあまり好きでないので、ほかの料理を取りました。料理の名前はわからないのですが、どれを食べてもとても美味しかったのです。ここでも私は満腹になり、下を向けないくらいです。南米で食べるものはどれも美味しいのです。美味しい店に行くからでしょうか。嘉男はお肉が好きなので、人が少なくなった頃お肉を取りました。お肉の前にたくさん食べているのですが、それでもお肉が好きなのでパクパク食べていました。
その後商店街に行き、バスを降りて自由行動になったのです。嘉男を連れて少し歩いたのですが、嘉男は歩けないというのです。すぐ近くにオープンカフェがあったので、そこでコーヒーを飲むように言って、私は一人で歩きました。色々見て歩いていると面白いTシャツを見つけました。私のと、お嫁さんのにしたらどうかと思うものとで2枚買いました。色々着て見て決めるのですから、買い物はとても時間がかかります。ちょっと時間がかかったと思い、嘉男の待っているところに急いで行きました。嘉男はいません。私はどうなったのか、私があまりにも遅いのでバスのところに帰っているのではないかと思い、バスの待っているところに行き確かめたのですが、嘉男はいません。バスに帰って来る人に聞いても分かりません。私は再び、嘉男の待っているであろうオープンカフェ行ってみようと思い、走ったのですが、心は急ぐのですが、足は速く動きません。情けなく思ったのですが、それでも自分では、最大に急いで、再びオープンカフェまで行きました。そこに嘉男はいるではありませんか。私はほっとして足の力が抜け、しばらくボーとしていたのです。しばらくして、「どうしていなかったの」と聞くと「トイレに行っていた」と言いました。私は少し同じ場所で、待っていたらよかったのだなあと、自分の取った行動を反省したのです。こんなことが以前にもあったような気がします。何回も同じようなことをする私も馬鹿だなあと、自分自身が情けなくなりました。
嘉男を連れて歩くと何となく気を使ってしんどいことが多いいです。仕方がないことなのでしょうが、一人でいる時より倍くらいくたびれます。
私達はまたバスに乗ってアルゼンチンタンゴを見る場所に移動するのです。5時頃そこに着きました。夕食が出てきたのです、何が出てきたのか覚えていないのです。私の頭の中は、アルゼンチンタンゴで一杯だったのです。隣の人と話しをしている間に、開演の時間になったようです。初めに歌手の人がタンゴの曲を歌います。1曲歌った後アルゼンチンタンゴが始まりました。私は舞台にかなり近かったので足の動きがよく見えたのです。男性も女性もとても綺麗な足をしています。女性はつま先まで伸びてバレーの基礎がしっかり身についているのだなあと感心しました。
アルゼンチンタンゴは上体はあまり動かないのですがウエストから下をとても自由自在に動かします。オーチョーという動きがあります。これは足の裏でターンをしてウエストを絞ります。初めのうちは割とゆっくりしていたのでよく見えたのですが、だんだんテンポが上がり早く動くようになったのです。とても綺麗な女性の足が男性のリードに従ってつま先が伸びて床に突き刺すように早く動きます。よく見ると足の内側の親指側に重心を置き、動いているのです。それだから男性のリードを受けやすいのだなあと思います。男性は、頭を動かさず下半身を使ってステップを踏んでいるのです。だんだん早くなり、女性を持ち上げたり、女性を持ち上げ後ろ側におろしたり、とても考えられないようなアクロバットのような動きになってきました。こんな動きがアルゼンチンタンゴの中に在るのだろうかと考えたのですがよく分かりません。ショーだから変化を持たせて面白くしているのかもしれません。
6組くらいの集団で踊ったり3組になったり、1組だけになったりいろいろ変化をもたしていました。1組だけで踊った組は、ステップの綺麗さは他の組とは比べ物になりません。身体の軸はとてもしっかりしていて、どんなに早く動いてもびくともしません。つま先の素早さ、動きのメリハリ(特に緩急)など舞台下で見ていても分かります。素晴らしいスピードと、安定感です。
終わった時はアルゼンチンタンゴのとりこになっていました。私は自分が踊ったくらいくたびれました。
帰りのバスの中では私は眠りころげそうになったのです。楽しい一夜でした。
バレンタインディナー
翌日は、2月15日にバレンタインディナーとパーティーがあります。本当は14日にバレンタインだからそこでするところだったのでしょうが、アルゼンチンに入港したために、15日に変更したのでしょう。私はおしゃれをしてディナーに行き、それから嘉男をカラオケパーティーに連れて行き、その後ダンスのドレスに着換えダンスに行きました。
尚ちゃんはすでに来て、ほかの人と踊っているので私は、椅子に座り彼が終わるのを待っていました。ほかの人が誘ってくれればそれでもいいな、という気持ちでした。尚ちゃんはその曲が終わるとすぐ来てくれたので、ほっとしたのです。尚ちゃんのダンスはまだまだですが彼とダンスをすると心が安らぎます。どうしてかなあといつも考えるのですが、まだ答えは見つかりません。
ミキシングになった時(男性と女性が分かれて列になり、順番に出あった人と踊るのです。アトランダムに踊ったことのない人と踊るのだから、とても面白いのです)尚ちゃんは「外に出よう」と私を誘ったのです。尚ちゃんはミキシングが好きでないようです。尚ちゃんは私がいたら私としか踊りません。私がいない時は私の親友と踊っています。私はミキシングがとても好きです。上手な人と合ったらとても楽しいのです。でも心の悪い女性は、順番を数えて自分の踊りたい人のところに行けるようにしているのです。こんな人を、時折見ることがありますが、私はそんなことをしたくありません。
尚ちゃんと私は外に出て星を眺めました。海から吹く風は私達の顔を優しくなでるのです。ほてっていた顔が少しずつ涼しさを感じるようになり、とても心地よいのです。このままここで風に吹かれていたい気持ちがしました。私達は、無言で水を飲み、ゆっくり空を眺めていたのです。
風の音を聞いている私は、ついさっきまでの喧騒は嘘だったような気がします。静かな、静かなひと時です。この時間が一生続くといいなあと思いながら、尚ちゃんと一緒に黙って空を見ていました。
またダンス場の喧騒の中に戻り、尚ちゃんと楽しいダンスをしてしめくくり。今日はとてもよい日だったと心が満足します。
あの静かな時間は、私の心の中に一生残るのでしょう。こうやって一生のうちに宝石のような大切な時が心の底にたまっていくのでしょう。
ベッドの中で、人生はなんと素晴らしいのだろうと思いながら船の揺れに身を任せて心地よい眠りにつきました。
翌日からまたダンス三昧の忙しい日々が始まりました。私はいつもの通り早朝ダンス練習、サンバエクササイズ、社交ダンス、アルゼンチンタンゴ、空いている時間は空いている場所を探して、尚ちゃんと練習をし、どこもない時は麻雀をしています。私には暇な時間はないのです。こうやって暇な時間がない方が楽しいのです。
明日は、ウシュウアイアに着きます。尚ちゃんが、「ダンスのお礼をしたいのでウシュウアイアで昼食を取りましょう」と言ったので「わあ~嬉しい!おごって頂いていいのですか?」と言いました。彼は「同室の人と朝、汽車で観光に出るので早く帰ってきます。12時に船の前で待ち合わせるのはどうですか」と言ったので私は「はい」と言ったのです。こころウキウキ、足取りは軽く顔は自然にほころんだのです。心の中でもう一人の私は、なんと単純人間なのだろうかとあきれています。
ウシュアイアにて
船が、岸に着きました。私は嘉男を連れて、外に出てタクシーと交渉し、100ドルで市内観光を請け負ってもらいました。少し年配の秋ちゃんを誘ったら快く承知してくれました。3人でウシュアイアの街をドライブしたのですが、あまり見るものがありません。山の上からウシュウアイアの街を眺めて帰ったのです。何となく100ドルは高いなあと思いました。
ランチは外で食べるので、船で食べる必要はないのですが、尚ちゃんと一緒の時に沢山食べると悪いと思い、少しお腹に入れました。
約束の場所で待っていると、少し遅れて尚ちゃんがやってきました。いつもそうなのですが、尚ちゃんの顔を見ると心が安定するのです。その時も、とても心が安らぎました。どうしてなのでしょうか。彼には人の心を休めるものがあるのでしょうか。それとも私がそう感じるだけなのでしょうか。彼はいつも、どんな時も穏やかな顔をしているのです。あまり表情に変化はありません。怒った顔など見たことがないのです。私の知っている人の中には、彼のような人はいません。悟りを開いたような人です。
尚ちゃんと一緒にウシュウアイアの街を歩いたのです。町には平地はあまりなく、坂の町です。尚ちゃんは初めに(多分ネットで調べた店でしょう)入った店はとても人が多かったので、ほかの店を探しました。人の少ない店は、さびれた感じで食べる気がしなかったのです。何軒か見て回ったのですが、みんなそんな感じです。初めの店に再び行ったら席が空いていたのでそこで食べることにしたのです。
私はよく分からないので、尚ちゃんに頼みました。尚ちゃんはカニ1匹と何だかわからないものをたのんでいます。食事の用意ができるのを待っている間に、尚ちゃんと一緒に汽車旅行に行った人達が入ってきました。尚ちゃんは珍しく表情が動きましたが、すぐ元のひょうひょうとした表情に戻ったのです。彼らは女性一人と男性二人です。女性はダンスで何度か会って少し知っていたので結構話ができました。彼らは私達のすぐそばが空いていたのでそこに座り、私達といろいろ話をして盛り上がったのです。
私は昼ご飯を少し船で食べていたのであまり食欲がありません。尚ちゃんに申し訳ないことをしたなあと反省していました。カニの足を一つ食べて、その後、名前が分からない野菜料理を少しずつ食べていたのです。尚ちゃんはとてもよく食べています。彼が食べる様子を見ると、とてもたくさん食べる人だなあと思い、とても豪快で気持ちがよかったのです。
1時間くらいして、私達は食べ終わったので店を出ました。すぐ帰るのはもったいないので、街をゆっくり歩いたのです。尚ちゃんと一緒にたわいもない話をしながら歩くと心が踊るのです。こんなにゆっくり歩き、こんなに沢山話をするのは初めてなのです。尚ちゃんは自分のことをあまり話さないことに気が付きました。沢山話しているのは、私だけのような気がします。多分私が一人でべらべらしゃべっているのでしょう。尚ちゃんは聞き上手なのかもしれないのです。よくしゃべる人は、一人で自分だけがしゃべり楽しかったと思うのです。今日はその人が私だったのでしょう。でも尚ちゃんは結構楽しそうだったから、それでよかったのでしょう。私は結構一人で楽しみ、それでほかの人も楽しかったのだろうと一人合点をして、喜ぶのです。ほかの人にとっては迷惑な話ですよね。でも友達はいるから、みんな私と一緒に居ることは、そんなにいやでもないのだろうと思っているのです。
スパーストアーに寄り嘉男のお菓子を買って帰りました。
パタゴニアフヨルド
ウシュウアイアを出港して船はパタゴニアフヨルドに向かって進んでいます。甲板に出るとだんだん寒くなっており、ダウンなどのコートを羽織らなければ歩けなくなりました。
私はフヨルドに着いたというアナウンスがあるまで、いつもの通りの行動をします。船旅の良いところは、目的地に着くまで待たなくていいところです。いつもの通りの行動を、していていいのです。
朝食を取りゆっくりしていると、ピオ11世氷河に着いたというアナウンスがありました。嘉男に「氷河を見に行きますか」と聞くと、「寒いから行かない」と言ったので、私は一人ですぐ甲板に出て8階後方デッキに行ったのです。そこには尚ちゃんも来ていました。すぐ彼の横に行き話をしながら氷河を見たのです。以前、アラスカで大きな氷河を見たのですが、ピオ11世氷河の方がとても大きかったのです。小舟が下りたので、どうするのかなあと思って、一生懸命見ていると、ちょっと小さい氷が浮いているのを、取ろうとしていたのです。取れそうなのですが、取ろうと思うと氷はくるっと、ひっくり返りなかなか取れません。取る人も体を乗り出すと船は揺れるし、落ちては大変だし、見ている方も面白いやら、ひやひやするやらで、みんな大変です。
氷と格闘している様子を見ていると面白くて、ずいぶん長く見ていたのでしょう、尚ちゃんが、ダンスのレッスンが始まったと、呼びに来てくれました。氷を取るまで見たかったのですが、心を残しながら立ち去りました。
ダンスレッスンはもう始まっています。つい先ほどまで笹本先生も私達と一緒に見ておられたのですが、さすがプロです、自分の責任はきちんと守られます。尚ちゃんも、私の傍からいついなくなったか、私はわからなかったのです。
最近は、アルゼンチンタンゴを教えて頂きます。自主企画のマキさんのアルゼンチンタンゴと少し違います。もっともマキさんはヴェノスアイレスで下船しています。笹本先生も少しやりやすくなったでしょう。マキさんがいなくなった後、のアルゼンチンタンゴの先生は、もう少し若い人になりました。以前は、マキさんと笹本先生は張り合っていたような感じだったのです。これは私の思い過ごしだったのかもしれません。ダンスのカルチャーは尚ちゃんと一緒に習います。私にはリーダーがいるのでレッスンに参加した時に、誰と踊ろうかと困ることはないのです。もしリーダーがいなかったら、毎回誰と練習したらよいかと、とても迷います。それに見つけるのが大変です。この社交ダンスカルチャーを楽しくするためのコツは、できるだけ早く、良いリーダーを見つけることだと思います。私は早く良いリーダーが見つかったので、とても楽しく参加できます。おまけに、レッスンが始まっていると知らせに来てくれるリーダーなんて最高です。私は今まで人の面倒を見ることをたくさんしてきましたが、(職業もそうです)面倒を見てもらうことは、子供の時以来のような気がします。だから、尚ちゃんに面倒を見てもらうと、とても心地よいのです。私は人の面倒を見るより、面倒を見てもらう方が、好きなのかもしれません。
アルゼンチンタンゴは少し進んで、男性が軸になって女性を回す動きが出てきました。お互いにしっかり引っ張り合わなければとてもできるステップではありません。それに軸がしっかりして結構筋力がないとできない動きなので、この動きのできる人は数人しかいなかったのです。
先生は、それをやめてすぐ基本のサリダの練習になりました。これも簡単なステップなのにきちんとするのは大変です。アルゼンチンタンゴにとってサリダは基本中の基本です。これをしっかりマスターすると良いのですが、簡単なようでなかなか難しいのです。
最近の早朝練習の時もサリダを何回も練習しています。一足ごとに体重を乗せて動くのですが、なかなかうまくいきません。何をするにも基本が大切です。基本をしっか身体に入れると、応用もある程度簡単にできます。
夜、少し飲んで踊れるところに行ったら、なんとオンザロックの氷があの氷河で拾った氷を使っているということです。見てみるとやっぱり氷でした。(氷河の氷でも、作った氷でも、氷は氷です)太古に作られた氷河の氷を入れてお酒を飲むなんて、氷と太古の時代を共有したみたいな気持ちになり、なんとロマンティックなのだろうと感動しました。
今日は朝から感動の一日でした。
数日船内の生活をしました。好きなダンスを朝から寝るまでできるし、ダンスのできない時は麻雀をしたり、尚ちゃんと話しをしたりで、とても楽しい平和な日々です。
そんなことをしている間に、船はバルパライソに着きました。ここでは嘉男と一緒に、ワイナリーとアルパカ牧場に行くツアーを、取っています。朝食後、ツアーのバスに乗りワイナリーに移動です。
バルパライソ
初めにワイナリーに行ったのです。まずワインを作る地下室に入ると、とてもひんやりして、壁が土でできているのでしょうか土色をしているのです。きちんと片付けられ、ごみ一つ落ちていないような、とても清潔感のある場所です。私は鼻が利かないので、臭いは全く分からないのです。匂いが分かったらとてもよいにおいがしたのでしょう。とても残念でした。
それからランチです。ワイナリー内の感じのいいレストランでランチを取ります。ワイナリーも観光化されレストランも営んでいるのですね。レストランで食べた食事は、サーモンをハーブで焼いたもので、ワインと一緒に取ると口の中でとろけてとても美味しかったのです。パンも自家製の物で少しかたいのですが、よく噛むととても甘いのです。特にデザートワインは以前飲んだアイスワインとよく似て食後のワインとしては甘くて最高でした。私が探していたワインと同じです。探していたものが見つかり、それだけでここの印象は最高に良くなったのです。絶対にそのワインは買って帰ります。
8本買って袋に入れて持ってバスまで歩くのが大変です。その時いつもヘルメットをかぶっている(船の中で、しかもそのヘルメットには中核と書いてあるのです。学生時代の学友会の活動団体と同じ組織名です)年配の女性が、(愛称はなかちゃんと言います)話しかけてきたのです。船の中では何かと目立つことをする女性なので、私はあまり好きでなかったのです。でもその時、私が重そうにワインを持っていたのでしょう。ワインを8本と言ってもハーフワインだからたいしたことはないのですが、それでも私には重かったのです。だからその女性は私のことを可愛そうに思ったのでしょう。「ワインを買うところで段ボールをもらうといいよ」と教えてくれたのです。私はありがたかったです。今度ワインを買う時は段ボールをもらおうと思いました。それと同時に人は見かけとか、風評とかで、その人のことをあまり知らないのに、好きだとか嫌いだとかを判断しないようにしようと、心に決めました。また一つ学びました。
次にアルパカ牧場に行きました。そこには沢山のアルパカがいたのです。初めはどれも同じアルパカだと思っていたのですが、よく見てみるとみな同じではないのです。犬も犬種が一緒だったら同じに見えるのですが、よく見るとそれぞれ個性があります。でもアルパカはそれよりもっと顔が違うのです。オスのアルパカはオスらしくきりりとしており、メスのアルパカはとても可愛い顔をしているのです。目がとても可愛いのです。顔も小さいのです。身体も小ぶりです。まだまだよく見ると、オスの中で強そうなものは、目もいくらか吊り上がり切れ長で、きりりと首も伸びて、体も大きくどことなく風格がありました。
私は可愛くて仕方がないので、「アルパカちゃん、アルカパちゃん」と言って囲いの中でアルパカを追いかけました。なかなか捕まえさせてくれません。早く逃げるのはメスです。オスは捕まえられるところまで行くのですが、どうしても捕まえられません。追いかけっこをしているのはとても楽しかったのですが、アルパカにとってはくたびれるだけで大変なのだろうと思って止めました。
子供の囲いを見ました。その中に一匹病気のような子がいました。布に寝かせてあったのですがとても可愛そうで私は見ることができなかったのです。足早にそこを通り過ぎました。
アルパカは毛の色もいろいろあります。白い色、黒色、ラクダ色、アイボリーなどなど様々
です。
建物の2階に上がりました。そこには今見たアルパカの毛が毛糸になっていました。その毛糸は、今見たアルパカの毛の色そっくりです。もちろんそうですよね。生なりだもの。(毛糸に色を付けていないもの)私はとても柔らかい毛糸なので、どれかを買ってセーターを作ろうと思い、いろいろ毛糸を見たのです。その中でアイボリーの少し細い毛糸を選びました。とても良いセーターができそうでとても嬉しかったのです。私は普通の毛糸のセーターは最近アレルギーを起こすようになっているのです。だから毛糸のセーターは着られないのです。アルパカとかカシミヤはいいのですが。年を取ってだんだん贅沢な身体になっているのかしら。そんなことを考えながらその糸を選んで買ったのです。セーター1着ができるアルパカが僅か20ドルで買えたので、私は飛び上がるほど嬉しかったのです。このツアーは最後がとても楽しかったので私の頭の中には楽しい記憶として残ったのです。
船に帰り嘉男を部屋に連れて行き、嘉男に「ソックスを買いに行くから、尚ちゃんにボデイーガドを頼もうと思うのだけどいい」と聞くと嘉男は「いいよ」と言ったので、尚ちゃんに電話をしたのです。それから尚ちゃんと一緒に下船しました。
船のすぐそばで、私達の船の人達とバルパライソの人達と交流会をしています。私達が立ち寄った時は日本側が太鼓を打っていました。太鼓はとても派手でお腹に響くので交流会には適しているのでしょう。次はゆかたを着た若い人が数人、盆踊りを踊っていました。これも外国ではいいものです。
私はソックスを買いたいので、外出から帰ってきた人にスーパーストアの場所を聞いたら、すぐ近くにあるということなので、聞いた道を歩きました。5分くらい歩いたところに、中くらいのスーパーストアがありました。私は店内を見て回ったのです。スーパーストアはその地方の様子がよく分かるのでとても楽しいのです。ここの商品は、あまりきちんとは並べられていません。野菜、果物、冷凍食品、お肉、魚、乾物、お菓子、日用雑貨、衣料品と広くない店内に沢山ありました。そのため通路が狭く、カートを上手に持って行かないと混雑の原因になるのです。カートも少し小ぶりでした。今まで行ったところで買ったお菓子は少し味が濃く甘すぎるように思います。ここのお菓子も、多分味が濃いいのでしょう。
そんなことを考えながら見て回ります。やっとソックスのあるところに行きました。沢山ありました。一足目はブルーの地にトナカイの絵の付いたものにしました。二足目は白、グレー、黄色の幾何学模様の物を買いました。それから嘉男のお菓子を買って、支払い場所に行ったのです。なんか丸いものを渡されどうしようかと困っている時に、尚ちゃんが来てくれました。尚ちゃんは係の人と、話をしていたのです。ちょっと分かりにくかったのでしょう。時間がかかりました。やっと尚ちゃんがやって来て、多分輪を穴の中に入れたらいいのだろうと、言ってくれたので、言う通りにしたら金額が出てきました。そのお金を入れると、商品が出てきたのです。
それから尚ちゃんは私の買った物を持ってくれて、街歩きをしたのです。どうも尚ちゃんは以前ここに来たことがあるみたいで、道順をとてもよく知っていたのです。私が「教会に行ってみたい」と言うとどんどん歩いて行きます。私は遅れてはいけないので必死で付いて行きました。途中で同じ船の人に会ってスーパーストアを聞かれたので場所と商品の買い方を教えてあげたのです。
教会に着いたのですが門が締まっていて中には入れませんでした。せっかく来たのに入れないなんてとても残念でした。仕方ないので町をブラブラ歩いて船に帰ったのです。
夕食までまだ少し時間があったので、いつもの場所で練習しました。くたびれているので、とてもバランスが悪いです。でもなんとか練習ができました。夜の約束をして尚ちゃんとは別れたのです。
翌日から社交ダンス、サンバエクササイズ、サルサに参加し、ラパヌイダンスワークショップという講座ができたので参加してみることにしたのです。
その新しいワークショップにはたくさんの人達が集まっていたのです。指導者は若い女性です。指導者のダンスを見せてもらったのですが、ハワイアンに似ているようでもあり、そうでもないようであり、はっきりしません。多分ハワイアンはかなり以前から知られており、踊り次いでいくうちにきちんとした踊りに、進化したのだろうと思うのですが、ラパヌイダンスはそんなにメジャーでないので、土着のダンスが進化しないまま受け継がれたのでしょう。(これは私だけが感じたことです)ラパヌイダンスはフラダンスほどしっかり腰を振らなくて、とてもあいまいに踊ります。指導者のダンスを見てもよく分からないのです。腰をどこに持っていっているのか、とてもあいまいなのです。あまり面白くないので次回からは参加しないことにしました。多分イースター島にもう少ししたら到着するから、この船でワークショップを企画する人が、入れたのだと思います。(後でわかったのですが、ラパヌイとはイースター島のことを言うのです)
社交ダンスのアマルガメーションもだんだん複雑になってきました。尚ちゃんはビギナーなのでワルツのスピンターンなどとてもできません。私もそんなに上手でないので上手く教えられないのです。第一男性のステップはしたことがないからとても駄目です。尚ちゃんは、この時にきちんとスピンターンを教えてもらっていたら後になって困らなかったのでしょう。なんでも初めが肝心です。初めからきちんと習った人は後になって楽をします。そんなことを100まで知っている私なのですが、船上ではどうにもなりません。それで私も変な癖がつきました。尚ちゃんが回れないので、私が外から足を出して尚ちゃんを回すような変な形になりました。この動き見ている人にとっては耐えられなく変な踊りだったと思います。でも尚ちゃんはとてもよくついてきます。他の人が2~3年かかるようなことを数日でやってくるのですから。陰でかなり練習をしているのでしょう。下船してしっかりした指導者に習うともっともっと上達すると思います。とてもダンスの能力が高いと思うのです。
船内で
船内はもうすぐ行われる洋上運動会で盛り上がっています。私は膝がすこし悪いので、あまり無理をしないように、大縄跳びと障害物競走に出ることにしました。出ると言ってもそんなに練習はしません。他にも洋上ミニテニスとか、将棋大会とか、英会話コース(船の中で語学を教えている)のスピーチフェスティバルなどなど盛りだくさんの催しがあります。次の寄港地まで少し長く航海をするからみんなが退屈しないようにいろいろ考えているのです。クルーズのスタッフの人達は、このプランの流れができるまで大変だったことでしょう。
私の毎日の行動は、いつも大体同じ流れになって来ています。少し違うことは、尚ちゃんが将棋大会に出たので応援に行ったことです。彼はいい所まで進んだのですが残念ながら優勝戦には出られなかったのです。また、尚ちゃんの同室の秀ちゃんが英会話コースを取っており、スピーチをするのでそれを聞きに行ったこともいつもと違ったことでした。
英会話スピーチ
秀ちゃんのスピーチを尚ちゃんと一緒に聞きました。彼はとても面白い性格なのでスピーチも面白いだろうと思って聞いていました。彼は奥さんをなくし一人で生活しています。だから料理についてのスピーチでした。オクラを茹でて、そうめんのだしを薄めて、それで混ぜて食べたら美味しかったという内容です。文章はきちんとまとめてあり、美味しそうなオクラの料理の感じがよく出ていて面白かったのです。私は、男性一人で生活していると、外食が多いいとばかりと思っていたのですが、このスピーチで認識を新たにしました。男性、女性の違いでなく、食事を作るかどうかは個人差なのですね。男性、女性と、まとめて見る見方は良くないことをまた学んだのです。そういえば、息子達の家も、息子が食事を作っているのを忘れていました。
イースター島
こんなことをしている間に、船はイースター島に着いたのです。イースター島では歩くところばかりなので、嘉男は船に残すことにしました。私だけ小さい船に乗ってイースター島に行きました。
イースター島では船着き場にマイクロバスが数台迎えに来ていました。バスに乗るとクルーガーで朝食を一緒に食べた男性が乗っていたので、その横に行き「隣に座ってもいいです」か、と尋ね許可を得て隣に座りました。バスでは少し話をしたのですが、バスを降りたらそのまま別れたので、ちょっと残念だったのです。その男性と一緒だったら話し相手ができてよかったのですが。結局、イースター島は一人で回りました。いつも尚ちゃんか、嘉男かがいたのですが、一人はやっぱり寂しいのです。私は話し相手が欲しいのです。寂しがり屋の、おしゃべり好きの人間だなあといつも思っています。
ガイドの人は入り口にみんなを集めて、イースター島の歴史について話をしました。
イースター島は南米大陸から3700㎞、タヒチから4000km離れた絶海の孤島です。現地は現在「ラパ・ヌイ」と呼ばれ、「世界で一番遠い国」の異名を持つこの島には独自の文明が栄え、世界的に有名な石造建造物「モアイ」をはじめ、未だに解読されていない文字「ロンゴ・ロンゴ」、無数の岩絵を残した「鳥人儀式」等、他では見られない、不思議であふれています。18世紀にヨーロッパ人に発見されるまで、島の記録が存在しないため、ミステリアスな謎に包まれています。周囲が60km弱ととても小さな島ですが、その中にモアイが約900体もあります。その半数近くの約400体が集まるラノ・ララクにはモアイの切り出し場として、彫っているモアイや、完成して運び始めたもの等、今もそのまま残されています。島を囲む海は世界一澄んでいるといわれています。イースター島という名前は1722年オランダのヤコブ・ロッフェーンがこの島に上陸した日がキリスト教の「復活祭」だったので名づけられました。
19世紀に入ると捕鯨船、真珠採取船などが多数上陸するようになりました。1862年にペルーで盛んにおこなわれていたリン鉱石の採掘人夫として、このイースター島の島民が奴隷狩りの対象となったのです。その数1000人と言われています。
各国から非難を受けてその1年後には奴隷解放したのですが過酷な重労働で、すでに900人が死に、残りの100人は帰還する船の中で天然痘にかかり大半が死亡しました。最終的にはわずか15人が帰還したと言われています。奴隷として連れ去られた人の中には、王やその身内、神官なども含まれており、島の貴重なロンゴ・ロンゴを読める人はその後いなくなったといわれています。
その後1966年に島の自治が認められ、1995年に世界遺産に登録されたのです。
とガイドの人はこんな話をされました。昔のスペイン、ポルトガルは強かったので、いろんなところを見つけてはその文化を壊して、住民を奴隷にし、領土は植民地にしていったのでしょう。無知と欲はとんでもないことをするものですね。私達も歴史からいろんなものを学んでおかないと、無知から大切なものを失うかもしれません。
こんなことを考えながら、説明の人から話を聞いていると、心が引き締まりました。
私達は初めに、ラノ・ララクを見て回りました。たくさんのモアイ像はみんな同じ方を向いています。顔も格好も様々です。切りだし場というところに行くと、横にして引きずり出している像、途中まで彫られた像などがありました。それを見ているとその時の様子が目に浮かんできました。ちょうどその時に奴隷狩りにあい、そのままつながれて船に乗せられたのでしょう。
そんな像をたくさん見ながら私達は上に上がっていきました。島の方向が変わったとたんに海が見えたのです。水平線のかなたに見える海の色が(ある一点なのですが)なす紺と言うのか、なんと表現したらいいのでしょうか、紺碧ではないのです。紺碧の中に一点青紫と言った方がいいのでしょうか、表現できないような美しく見える点があったのです。そこを見ていると、それは夢の中にいるような、自分の身体がふわふわ浮いたような、感動の一シーンが感じられたのです。私は思わず「わあ!天国に行ったみたい」と叫んだのです。そしたら傍に居た年配の男性が「あんたは天国に行ったことがあるのかね?」と言われ、私は「いえ、行ったことはありません」と答え、大笑いしました。
それから資料館に入りいろいろ見たのですが、さっきの興奮から抜けない私は、何を見ても目に映るだけで、頭に入っていきませんでした。
それから下におりて、海の方に行きました。そこにはイースター島の宣伝のポスターでよく見る横一列に並んだ15体のモアイ像がありました。みんな同じ方向を見ています。どこを見ているのでしょうか。どの顔もみな違う顔をしています。当時の人は何を考え何を祈ってこの像を作ったのでしょうか。おそらく宗教的な何かがあったのでしょう。でもどの像を見ても女性はいないのです。全部男性の像です。もしモアイ像に女性がいれば、モアイ像の意味が分かり、ロンゴ・ロンゴを読め、鳥人儀式の絵の解析もできる人が残っており、そのなぞは解明できたのでしょうが、女性はそんなことはできなかったのでイースター島の歴史は闇の中なのでしょう。こんなことを考えながら見ているとどの国も、どんなへき地の国でも、やっぱり女性はアダムの一本の骨から作られたという感覚なのでしょう。過去に文化が破壊された国に、女性を重用した国があったら、今その文化はみんなに知られているのでしょう。こんなことを考えながらモアイ像を見ていました。
集合時間になったので私はもと来た道を通って、集合場所に行きました。まだ数名が集まっているだけです。私は、いつも10分くらいは余裕を持って集合場所に行きます。
またマイクロバスに乗り、舟に乗って帰りました。
洋上大運動会
船内は運動会の準備で大変です。このような企画は、できるだけ参加して実行委員になる方が楽しいのですが、私は社交ダンスとか、アルゼンチンタンゴを大切にしなければいけないので、その中には入らなかったのです。ここでは、自分の好きなことは恥ずかしがらないで、どんどん積極的に参加することで、楽しみが倍増します。下船しても残り少ない人生楽しく生きることが大切なので、人に迷惑がかからない限り、自分のしたいことはどんどんするつもりです。もともとそのような性格なのですが、この船に乗って自由に生きようという気持ちが、ますます強くなりました。
運動会の当日、私は以前、障害物競技に申し込んだのですが、足の調子が悪くなったので綱引きと、大縄跳びに参加しました。大縄跳びでは、初めのうちは調子が良く元来のおせっかいで人には飛び方の要領を教えていたのですが、途中からくたびれて体が言うことを聞かなくなり引っ掛かる羽目になりとても恥ずかしい思いをしたのです。このことは今思い出しても恥ずかしいのです。年を考えて、おせっかいもいいかげんにしないといけないのですね。
綱引きは、私のような非力なものが出ているので全く我チームはダメでした。この運動会は反省の連続でした。私は瞬発力を出すものはいいのですが、持久力の必要なもの、力の必要なものは全く駄目なので、今後気を付けようと大反省です。いくら余興と言っても、しっかり真面目に取り組みたいのです。みんなに迷惑をかけるなんて私にとっては、罪悪なのです。この大運動会は大反省の思い出として、私の心に残りました。
尚ちゃんが運動会の順番待ちをしている時に、ボーとしてとても空虚な目をしていたのです。私は彼の目を見ていて、どうしてこの人はあんな空虚な目をするのだろうかと思って、彼の顔を結構長い間見つめていました。それから私は縄跳びに出たりしていました。その後、彼がいつもいた場所を見てみると彼はそこに居なかったのです。どこに行ったのだろうかと思い、いろいろ探したのですがいないのです。さっきの顔が気になって、とても心配になりあちこちを探したのです。すると尚ちゃんはもう一つ上の階に移動していたのです。その時はどうして移動したのだろうかと考えていたのですが、どうも変だなあと思って、尚ちゃんに聞いてみたのです。尚ちゃんはお母さんのことを思っていたと答えたのです。その時はああそうかと思っていたのですが、何かがしこりになって残ったのです。その時の私は、尚チャンのことを何も知らかったのだけれど、この人はなにか大変なものを抱えているのだなあと思いました。
私達はまた船上の日常が戻りました。ダンスダンスの毎日です。
パペーテにて
パペーテに着きました。ここは沢山歩かなければいけないようなので、嘉男は船に残して、私は尚ちゃんと一緒に下船しました。船のついたところは何もなくて少し歩いたところにスーパーストアのような雑貨屋のような店がありました。島を少し散策して、後で必要なものを買おうと思ったのです。尚ちゃんと島を少し歩いていると、あちこちでバーべーキューをしていました。面白かったのは、彼らは魚を釣ってそれを食べているのです。鮮度がよくておいしいでしょう。それを見ながら尚ちゃんと、足だけ海につかりながら歩きました。とても穏やかなひと時です。
それから大きな木がある広場のようなところに行きました。その木をカメラに収めようとしている女性がいたのです。尚ちゃんはその女性に近づき、目隠しをしたのです。私はびっくりしたのですが、尚ちゃんが手を離すと彼女は笑っていました。尚ちゃんは「ご主人は?」と聞いたらその女性は「あそこにいます」と答えたのです。見たら男性が笑って立っていました。
この夫婦は、尚ちゃん達と朝食を一緒に食べている人達です。尚ちゃんはびっくりするようなことを、こともなげにする人だなあと、尚ちゃんの新しい一面を見たような気がしました。この奥さんが何となく尚ちゃんの事を快く思っているのは、こんなことをするからなのでしょう。
そんなことをしながら元のところに戻りました。私は嘉男に果物とかお菓子を買って船に戻りました。
ボラボラ島にて
翌日は、ボラボラ島に着きました。ここはボートに乗って上陸するのですが、そのボートがとても気持ちよかったのです。
上陸したところは少し店などがあり南国ムードが漂っていました。そこから出てみるととてもこぎれいな家が斜面に点在していたのです。何となく結構貧富の差が激しいのだろうと肌で感じました。少し歩いていると真珠工場があり、また少し歩くと広い敷地の家がありそこにむく犬のような毛のふさふさした犬が5匹もいたのです。それが芝生の上に点在していました。私は金網に近寄り日本語で話しかけたのですが、通じるはずはありません。一匹の犬は私を見て近寄って来て一生懸命に吠えています。それでもしつこく話しかけました。さすがに犬が疲れたみたいなので可哀想に思いやめてそこを離れたのです。
少し歩くと教会がありました。礼拝(ここはおそらくカトリックなのでミサというのでしょうか)をしているようなので見に入ったのです。神父さんとか聖歌隊とか関係者の人はみんな白い服を着ていました。ちょうど賛美歌を歌っていたので少し聞いているとそれはグレゴリオ聖歌でもなく、私の知っている賛美歌でもなく、どっちかというとゴスペルに近い(ゴスペルのようなしっかりしたものでなく、もっと土のにおいのする賛美歌でした)少しリズミカルな明るい賛美歌でした。その時遠藤周作の「沈黙」を思い出しました。その中に(これは私のうろ覚えなので違っているかわかりませんが)宗教はその土地に同化して変わっていく、というような意味のことを書いてあったのを思い出しました。賛美歌を聞いてそんなことを考えていたのです。参加している人達はそれぞれ身ぎれいな服をきており前にいる人はしっかり参加しているようでした。後ろにいる若い人、数人は出たり入ったりしているので、何をしているのかと疑問になりました。
そこを離れてバナナの木を見たり、パパイヤが木になっているのを見たりしながら、元来た道を戻りました。ボートに乗って帰りました。
船にて
船に帰り少し休んで、いつものレッスン場が空いていたので二人でしっかり練習しました。船が停泊している時は、揺れないので練習もうまくいきます。でもくたびれるのでそんなに長くは練習できません。せいぜい一時間くらいでしょうか。
部屋に帰りシャワーを浴びるとすぐ夕食の時間になります。夕食を食べたらすぐ嘉男をカラオケに連れて行きます。1時間くらい歌を歌ったら、今度は楽団が入りダンスタイムになります。嘉男を連れで部屋に帰り、私はダンスの服に着換えダンスシューズを持って踊りに行きます。
今日はよく歩き、よく踊っているのでダンスは少し控えて楽団の歌を聞いています。フィリピンの女性シンガーが歌っているのですが、とても声量があり、リズム感もとてもいいのです。まだ若いので体もピチピチして見るからに躍動感があります。私達年配の者にとっては心地よく、見ているだけで若返ります。歌は声が一番ですが、見た目も大切なのですね。
彼女は船の中の男性にとても好かれているようです。毎日同じ顔の男性が何人も彼女の歌を聞いています。彼女のフアンなのでしょう。彼女のファンクラブを作ったらいいのにと思うのですが、そこまでやる気のある人がいないのか、みんなそんなことはしたくないのか、最近の男性は、しっかりしない人の方が多いいような気がするのは、私だけなのでしょうか。そのくせ陰でこっそりプレゼントをしているのですよ。なんだか可笑しいですねえ。
南でみんなの発表会
いよいよクルーズは最終のクルーズになりました。まずカルチャースクールの発表会があります。私は、社交ダンス・アルゼンチンタンゴ・イングリッシュサンバに出ます。
社交ダンスは少し技術がいるので、参加者は朝と午後の教室に参加するのですが、それでもステップは覚えられないし、見るに足りる動きなどとてもできません。それで有志が自主企画で場所を抑え補習をしています。私も、尚ちゃんもそれに参加して、ダンス三昧の日々になりました。それになんと笹本先生が参加して指導してくださるので感謝でした。皆はより燃えて頑張っています。こうやって私たちのダンスは少しずつですが何とか形になって行っているように思います。
アルゼンチンタンゴもまだまだなので、これは自主企画で場所を取るのではなく朝早くステージの上で練習することにしました。有志だけかと思っていたら、なんと皆参加するではありませんか。私はびっくりです。皆年配の人なのですが、パワーを出してそれなりに頑張るのですね。年を取っていると言っても、個人差があることを肌で感じました。このクルーズに乗っている人はみんなそれなりに若いのです。すごい熟年パワーの持ち主が多いいのです。
こうやって私達はしっかり練習してその日を迎えました。発表場所はいつも練習している場所です。割と広いので全員が一緒に踊れるのです。笹本先生が、社交ダンスのステップを基本にしてラインダンスを作って私達に教えてくださったものが3種目あり、それを最後に全員で踊ったのはすごい迫力でした。沢山の人が見に来てくれました。私達はとても充実感・達成感を感じました。後半のクルーズでは毎日カルチャー2回と自主企画と、日に3時間は社交ダンスの練習をしていたのです。本当に私達は良く練習しました。みんながやる気があるので、笹本先生もとても楽しかったのでしょう。ほぼ毎日自主企画に付き合ってくださいました。これこそ本当に良い師弟関係なのです。この関係は最後まで続きます。
一応社交ダンスの発表会は大成功に終了したので、打ち上げをしようということになり。翌日の4時に練習場所でということになり別れたのです。
翌日4時集合なので私は3時半に行きました。お願いしている人達が会場つくりをしていました。まだ打ち上げの参加者は私しかいなかったのです。その後パラパラと人が集まってきました。7グループあり私は7グループでリーダーは尚ちゃん、私は副リーダーです。みんながどうしようかと戸惑っているので、私は適当に振り分けて座っていました。
15分くらいして他のグループリーダーが来ました。その男性は怒ったような口調で「この場所は誰が決めたのか」と言ったので私は「みんなが困っていたので、私が適当に決めたのです。だから貴方がきちんと決めたらいいのではないですか」と私もぶぜんと答えました。この集団の中で統括的なリーダーはいないのです。私は心の中で、なんであんたに私が怒られなくてはいけないのかしらと、とても腹が立っていました。
早くできることをしていた方がいいので、今来ている人の(私のグループの人達)飲み物の希望を取りました。その間にやっと尚ちゃんが来たのです。今私に文句を言った人のところはどうなっているか見てみると、かなり混雑して、飲み物の注文どころではないようでした。私達はすでに飲み物をもらっているのです。私はそれを見て内心とても喜んでいました。私ってなんて意地の悪い性格なのでしょう。でもそれを治す気はありません。
尚ちゃんに少し今までのいきさつを話し、さっきの男性の大悪口を言ったのです。私の気持ちはそれで一段落しました。
打ち上げはみんなとてもいい気持ちで終了しました。こうやって私は、自分の人生の一ページに楽しい思い出を重ねていくのです。
マジュロ
ここはこのクルーズ最後の寄港地です。これでこのクルーズもエンディングになると思うと感慨ひとしおです。
マジュロはマーシャル諸島に属します。
暑いので嘉男は船に残るといったので、いつものように尚ちゃんと一緒に外出ししました。またまた二人で外出です。
タクシーで街まで行ったのですが暑くてほこりっぽくて、歩く気になりません。又タクシーで引き返して船の近くの市場に行きました。そこには地元でとれた果物とか野菜とか魚などが地面一杯に並んでいました。私は、マンゴーを買いました。色々見ている時に、カカオオイルを見つけたのです。それは私がとても重宝しているオイルです。湯上りにつけると初めは脂っぽいのですが、そのうち肌になじんで、肌がつるつるするのです。私は、沢山買いたかったのですが重たいので2ダース買いました。リュックサックにマンゴーとカカオオイルを入れると重くて、帰るまで身体の中を汗が滝のようにだらだら流れ水びたしです。下着はべちゃべちゃです。こんなことは、学生時代以来のことです。船に帰り水を、お腹がボゴボゴいうくらい飲みました。
私がまだカカオオイルに未練がありそうなので、尚ちゃんが「また行く」と聞いたのですが「行きたいのだけれど歩くのが大変なので、もう行かない」と答えました。カカオオイルのペットボトルは一本が300グラムあるのでとても重いのです。それを抱えて何百メートルも歩けません。とても残念でした。日本に帰れば、カカオオイルを喜ぶ人が沢山いるのですが、私にはもう行く元気がありません。その時もう一度ここに来てカカオオイルを買おうと決心したのです。(でも何時になるか、また再びここに来れるかどうか分かりません)
船の中は最後の発表会に向けて、あちらでもこちらでも練習しています。ある人は、オカリナを吹き、ある人はウクレレを弾き、ある人は歌を歌い、ある人はダンスをし、等々大変です。でも私はこんなムードが大好きです。みんなが一生懸命になるなんてとてもすてきです。私はいつもの通り早朝、尚ちゃんと社交ダンス、アルゼンチンタンゴの練習をしています。昼間にあいている場所を見つけようと思うのですが、みんなが練習を始めたのでなかなか見つかりません。とうとう日の当たる甲板を利用したりしました。甲板はダンスシューズを履けないのでスニーカーで練習しました。日に焼けないようにタオルを顔に巻き帽子をかぶり長袖の服を着て軍手をはめて練習しました。尚ちゃんも帽子をかぶり、長袖軍手で練習しました。ほかの人が見ると、とても変な格好でよく練習するなあと思ったでしょう。その時の私達は、何も考えなかったのです。ただ上手に踊りたかっただけです。この船ではほかの人の目など何も気にならないのです。このような生き方が、心が解放されるので、私は大好きなのです。
私達は最終発表に向けてひたすら練習しました。なんだか学生時代に逆戻りしたような感じで、自分の年齢も忘れひたすら前に向かって頑張るのです。ここでは、いろんなことを考えずに、ひたすら発表会に向けてダンスのことだけ考えることができるのです。それがとても楽しいのです。でも今度は社交ダンス、アルゼンチンタンゴ、サンバといろいろあり大変です。それに私には、布草履の展示ということがあります。これは他の先生に頼んでいるのですが、最終的には私が目を通さないといけないので、このことも頭に入れておかなければいけないのです。布草履もみんな結構楽しんで取り組んでいたようです。次回もまた布草履の自主企画をしようかなあと思っています。まあこれはどうなるか分かりませんが。
発表会が数日後に迫ってきたので、リハーサルが行われました。社交ダンスはイングリッシュサンバをします。3つのグループに分かれ、2つのグループは会場の2つの入場口から分かれて入りました。なかなかうまくいかないから何回もやり直しです。残りのグループは舞台のそでに待機します。入り口から入るグループはサンバステップの前に進むステップで入りました。中に入ると舞台に上がるグループと舞台の下で踊るグループに分かれ、私は舞台の上に上がり舞台の後ろの台の上で踊りました。入場した2グループが自分の位置に着いた時に舞台のそでに待機しているチームが踊りながら舞台に入場して円になりぐるぐる回りながら踊りました。その場で踊る人、舞台で円になりまわりながら踊るチーム、結構盛り上がる構成です。笹本先生はみんなやる気もあるし、参加人数も多いのでとてもやる気が出たのでしょう。私達は初めて全体像を頭に入れました。とてもすてきで盛り上がる構成なので私はますますやる気が出たのです。
ブラジルサンバは、先生のカーク智子さんが7グループ作りそのグループごとに舞台を立てに踊ります。後半はカーク智子さんがソロダンスをして私達はそれを囲むように踊って、最後にカーク智子さんがメインになる様に手でキラキラをして終わります。これもカーク智子さんが素敵なので本番は盛り上がると思います。
アルゼンチンタンゴは、前座の私達がサリダを中心に、ガウチョとかオウチョとかをしながら円になって舞台の上を回ります。それが終わった後、メインの二人がこれぞアルゼンチンタンゴというダンスをします。なんだか創作ダンスのようで、ストーリーがあるのです。男と女の出会いと別れです。男性は先生なので上手なのはわかるのですが、女性はこのクルーズで初めてアルゼンチンタンゴに出会ったのです。100日くらいの練習なのによくできたなあと、びっくりです。かなり能力の高い人だなあと思います。もともとバレエの基礎があったのかもしれません。つま先、手の先に意識が行くような動きはバレエの基礎がなければできません。彼女は、手の先、足の先などとても綺麗に伸びているのです。また動きの表情が顔だけでなく、手の動きとか、足の動きなどで伝わってくるからすごいのです。本番はいろんなもの(照明・音響・化粧・服装・観客のムードなどなど)が加わるのでもっともっと良くなるでしょう。発表会が楽しみです。
このようにしてリハーサルは終わりました。後は本番を待つのみです。私の心はだんだん燃えてきました。
いよいよ発表会です。私は1部の1番、10番2部の27番に出ます。一応大した失敗もなくどれも私なりに成功して終わりました。発表はどれも大成功でみんなの顔はとても良い顔になっていました。みんなの目がキラキラしているのです。みんなやり終えて良かったのです。こういうものは参加するか、見るだけにするかとでは、喜びの種類が違うのです。みんなの達成感、充実感、満足感などなどを与えた発表会もおわり、楽しかったクルーズも締めの段階になりました。
残りの日々はカルチャースクールに名残を惜しみながら参加しました。100日以上一緒に生活をともにし、一緒に練習した仲間です。やっぱり名残惜しいのです。
帰港まで後3日になりフェアウェルパーティーがありダンスパーティーもあります。私はフェアウェルパーティーに出てその後ダンスパーティーに出ました。
尚ちゃんはもうダンスパーティーに来ておりほかの人と踊っていました。私は誰か来てくれればそれでもいい、という気持ちで座っていたのですが、その曲が終わるとすぐ私のところに来てくれました。とても嬉しかったのです。ミキシングダンスの時は、外に出て休み、それが終わるとすぐ二人で踊りました。その夜はしっかり尚ちゃんと踊りました。船から降りるともう踊れなくなるかもしれないから、今を大切にしなければいけないのです。ダンスパーティーが終わった時、ここでのダンスは終わり、尚ちゃんとのダンスも終わるのかと思うと感無量です。この楽しい感覚を心の中に埋め込んでおこうと思い、それが心の中で熱い塊のようなものになりました。
次の日はパッキングデーで荷物を段ボールの箱に詰めました。私は大体1時間くらいで終わったのです。下船するまで必要なものはひとまとまりにしておいたのです。それらは手荷物で持って帰るボストンバックとか、リュックに入れるつもりです。
暇ができたので外に出て、麻雀をする場所に行ってみたら、誰も来ていないので、プラプラ歩きました。いつもの練習場所があいているので、尚ちゃんに電話をして、彼が暇かどうか聞き、尚ちゃんはパッキングが終わり退屈しているとのことなので、呼び出しました。彼が来る間に、私は部屋に帰りダンスシューズを持ってきて、そこで1時間くらい練習をしたのです。下船しても彼とダンスをして競技に出たかったので、思い切って「下船したら広島に来ない?あなたと競技に出たいのだけど」と、とても言いたかったことを思い切って言いました。私の心の中は早鐘が打つくらいどきどきしています。心臓が破れるのではないかと思ったくらいです。今思えばよく言ったものだと感心します。尚ちゃんは「下船して少し考えて連絡するよ、1週間くらい待ってね。」と言ったのです。私は声にこそ出さなかったのですが、いい返事を聞きたいのですということを、すがるような眼で精一杯表現しました。
翌日はいよいよ横浜から乗った人は下船です。尚ちゃんも下船します。何時頃になるか聞いてその時間のだいぶ前から見送りの場所におり、尚ちゃんも早く来て私とたわいもない話をして下船を待っていました。尚ちゃんの荷物は持って降りるものだけで、送るものはないようです。2時間くらいでしょうか彼の番が来たのでそこでお別れをしました。
それから私はどうしたのかあまり記憶にないのです。夜は嘉男を連れてカラオケに行き、部屋に帰り次の朝を迎えた様な気がします。
次の朝は、早く起きたのですが、尚ちゃんはいません。船内も人がとても少なくなり寂しい限りです。尚ちゃんと一緒に毎日踊った練習場に行き、ボーと時間を過ごし、モーニングコーヒーを一人で飲み、嘉男を起こして朝食を食べました。その時は抜け殻のようになっていたと思います。ランチを食べて、持って帰るものをボストンバック、リュックサックにつめて、船が着くのを待っていました。船は1時頃神戸に着きました。指示されるまで船内で待っていたのですが、長くかかるのであっちこっちを見ていろんな人と別れを惜しみました。下船できたのは3時頃だったと思います。
タクシーで新神戸に行って新幹線で帰りました。
このクルーズでは、とてもよいダンス友達に恵まれ、私の人生で一番輝いた時かもしれません。また、いろんな自分の欠点と出会ったのも一番多かったように思います。たくさんの経験をすると学ぶことも多いということなのでしょう。楽しい思い出、苦い思い出、などいろいろあるけれどそれを、心の中に入れて残りの人生を生きていこうと思っています。