637話 偽りの陽
黒い残滓を斬る手応えの無さに、思わず舌打ちが漏れる。そこには既に黒衣の女の姿はなく、取り逃がしたのだという事実を受け止めざるを得なかった。先程のように、ここへ戻ってくるということはないだろう。
たが、その事に肩を落としている暇もない。肌をチリチリと焼くような異様な圧力は、依然として上空よりその存在を主張していた。
「……クリス、すまない」
俺は床に倒れた少女へと一度目線を向けたが、すぐに天塔の外周へ向けて駆けだした。
彼女の容体が気にならないというわけではない。本心では、今すぐにでも駆け寄り、その無事を確かめたいところだ。
けれど、と俺は衝動を理性で抑え込む。
上空の脅威の正体は依然として不明だ。だが、あれを生み出したのは、幾度も悪意の籠った言葉を投げかけてきた黒衣の少年である。
彼は去り際、上空の何かが落ちてくると言っていた。そして、地上で爆発を起こすとも。
エアハルトを躊躇なく吹き飛ばしたことを思い返せば、それを単なる虚仮威しなどと切り捨てることは出来ない。なによりも、俺はその危険性を肌で感じ取っているのだ。
ならば、ここで俺がクリスティーネの元に駆け寄ったところで、何の解決にもならないのは明白だ。二人纏めて爆発の餌食になるだけだろう。
全力でクリスティーネを守ろうとすれば守り切れるかもしれないが、この町にはシャルロットを始めとした大切な者も、その他王都の住人も大勢いる。
彼女達を守ろうとするならば、ここでクリスティーネの元へ駆けつけるのではなく、驚異の排除に動くべきだ。
その結果、俺自身が助かるかはわからないが、少なくともクリスティーネ達の身は安全だ。待っていても爆発に巻き込まれるのであれば、少しでも被害を抑えるよう動くのが最善だろう。
転落防止の柵を乗り越え、塔から身を乗り出す。
頭上を仰ぎ見て、それを視界に収めた。
まるで、陽がそこに存在するかのようだ。
黄昏時などとうに過ぎたというのに、日中帯と錯覚するほどの輝きが天から降り注いでいる。偽りの陽からは厚さを感じないものの、身を焦がすような重圧を覚えた。
一目見ただけで理解する。
これが齎す結果が、凄惨なものとなることを。
「冗談じゃないぞ……!」
俺は腰に吊るした薬入れを手に取ると、空ける時間すら無駄だとばかりに蓋を剣で斬り飛ばした。そうして、一息に中身を呷る。
中見は強魔水の原液だ。
今まで使用したことのある、希釈されたものではない薬である。後日、体に強烈な反動が返ってくるのは百も承知である。
しかし、あれを何とかしようと思えば、俺が全力を尽くしても尚、届かない可能性が高いのだ。後々のことは、無事にこの場を乗り切ってから考えればいい。
俺は飲み干した筒を放り捨てると、躊躇なく塔の外へとこの身を躍らせた。
そして、背から広がる虹色の翼を大きく羽ばたかせる。
ここから上空のあれを迎撃するのは不可能だ。魔術というのは距離によって減衰するため、ここから全力で打ち込んでも威力が足りない。
あれが近付いて来れば威力も十分になるだろうが、それに比例して地上の被害も大きくなるだろう。出来るだけ抑えるためには、こちらから近寄り上空で迎撃するのが最善だ。
背の翼を動かす旅、俺の体はぐんぐんと天へと昇っていく。
軽々と天塔の高さを追い抜いた。
未だ、空を自由自在に飛び回れるわけではない。そもそも魔力の消費が大きいため、毎日長時間を龍鱗の訓練に充てることは出来ないのだ。
それでも、クリスティーネとフィリーネの指導の下、ある程度は宙に浮くことが出来るようになっている。強魔水を服用した今であれば、ただ真っ直ぐ上に飛ぶだけなら、そう難しいことではない。
飛翔独特の感覚を覚えながら、俺は長剣へと魔力を集めていく。薬の効力で扱える魔力は限界を超え、目線は上空を捉えながらも剣から溢れる虹色の輝きがはっきりとわかった。
偽りの陽に近づいてみても、その大きさにいまいち距離感がつかめない。それでも、目算では射程圏内へと捉えた。
この時ばかりは背の翼を止め、渾身の一撃を放つことに集中する。
自由軌道に乗ったからだが重力に引かれ、刹那、速度が零となる。
同時に俺は長剣を胸の前、偽りの陽へと向けて真っ直ぐに構えた。
「貫け! 『天象・虹龍一閃』!」
全魔力を凝縮させ、長剣を軸とし空へと放出する。傍から見れば、突如として中空から虹色の柱が立ち昇ったように見えることだろう。
破壊の力を宿したそれは、一直線に直上の脅威へと迫る。
その巨大さからその身を捉えることは容易く、両者が衝突した。
音はなく、ただ虹色の奔流が陽球を抉るように突き進む。
ついには大穴を穿ち、雲を切り裂いた。
そこまで至り、俺の魔力が限界を迎え、虹の柱はその姿を消す。
後に残ったのは、中心部を貫かれた朱色に光る巨大な球だけだ。
その球が不意に、身を捩るように震え――
――視界が白く染まった。




