636話 黒染めの塔9
「――っ」
俺は衝動的に走り出そうとする体を、意思の力で抑え込む。
天塔の石床に倒れ込んだクリスティーネは、起き上がってくる様子がない。身動ぎ一つしないその様子に不安が募る。
今すぐにでも駆け寄って無事を確かめたい。だが、瞬く間にクリスティーネとエアハルトを下した黒衣の三人を前に、そのような無防備な姿を晒すわけにはいかない。
俺は内心で歯噛みしながらも、打開策を探る。しかし、これといった有効だが思いつかない。
黒衣の少年が起こした爆発は一度きりだが、あの一撃を受ければ敗北は免れないだろう。予備動作のようなものもこれといってなく、両掌を打ち鳴らしただけだ。
爆発の範囲から考えても、避けることは困難だろう。あれだけの威力、そう何度も使えるものではないと思いたい。
黒衣の少女もまた問題だ。俺の放った魔術は悉くが無力化された。魔術による攻撃を繰り返していけば、その綻びも見えてくるかもしれないが、今は悠長に検証する時間もない。
かと言って無策に接近戦を挑めば、クリスティーネの二の舞だ。少女の放った茨のようなものが単純な攻撃でないことは、クリスティーネが起き上がってこないことからも明らかである。彼女に詳しい話を聞かなければ、対策も立てられないだろう。
それに加えて、真ん中の女は未だ動きを見せていない。奴の力はクリスティーネとシャルロットからの伝聞だが、易々と御せるような相手でないことは確かだ。
最早俺一人の手には余る状況だ。奴等に先手を取られたことが悔やまれる。
この場から動けない俺の様子を目に、魔族の女が笑みを作った。
「ふふふ、そう睨まずとも、先程も言ったようにそちらから何もしなければ、これ以上は何もしませんよ」
「何だよ、もう終わり? 帰る前にこいつもぶっ飛ばして行けばいいじゃん」
上品に笑う女の言葉に、少年はつまらなそうに頭の後ろで腕を組んだ。その言葉に、女は「目的は達しましたから」と窘めるように声を掛ける。
そうして、女は俺へと向き直る。
「それでは、またお会いしましょう。次はもう少しゆっくりと話が出来るといいですね。そう、お茶でも飲みながら」
「檻の中にでも入ってくれれば、面会くらいは行くんだがな」
「ふふふ、それはそれで面白そうですね。出来れば、の話ですが」
俺の言葉に、黒衣の女は笑みを溢しながら虚空へと手を翳す。三度現れた闇の回廊へと、足元に転がるヴォルフの亡骸を無造作に放り込んだ。
続いて、女に促された黒衣の少女が闇の中へと溶けていく。なんとか止めたいが、今の俺にはただ見ていることしかできない。せめて一人だけでも捕らえられないかと、隙を窺う。
「次は貴方ですよ」
女が促せば、黒衣の少年が闇色の穴へと足を向ける。彼が姿を消した瞬間、女が一人になったところが最期の機会だろうか。
その一瞬を逃すまいと集中する俺の視界の中、ふいに少年が足を止めた。くるりとこちらを振り返ると、大きく手を広げて見せる。
「やっぱさ、最後くらいは派手に行くべきだろ!」
「――っ、『虹龍鱗』!」
少年の動作を目に、俺は咄嗟に集めた魔力で龍鱗を構築した。あの爆発を躱すことが困難となれば、取れる手段は耐えきることだけだろう。
龍鱗を身に纏うと同時、少年が手を打ち鳴らす。
俺は吹き飛ばされないようにと、低い態勢を取った。
しかし、襲い掛かると思われた衝撃は、微風ほども感じない。
その代わりとでも言うように、遥か頭上に何か強大な魔力を感じ取った。
「ぶっははは! 何這いつくばってんだよ! 自分が攻撃されるとでも思ったか?」
身を低くする俺を指差し、少年が癇に障るような笑い声をあげる。
警戒を続ける中、ひとしきり笑った少年が天井を指差す。
「外を見て見ろよ。面白いものが見れるぞ?」
「また勝手なことを……」
少年はにやにやと嫌な笑みを浮かべている。その隣で魔族の女は、痛そうに頭を押さえて溜息を吐いた。
彼の提案に軽々に乗るわけにもいかないが、かと言って頭上に感じる驚異の正体を確かめずにはいられない。少し迷った末、俺は二人の姿を視界に収めたまま天塔の外周へと足を向ける。
視線を外してみれば、時間帯に似つかわしくないほどに外が明るいことがわかる。照らしているのは、空に出現した何かだろうか。
「俺からお前達へ、最高の贈り物を用意してやったよ! あれが落ちてきたら……どうなると思う?」
厭らしい笑みを浮かべたまま、少年が俺の反応を窺う。
あれ、と言われたところで俺はまだこの目で見ていないのだから何とも言えないが、この少年の言動からして碌なものでないのは確かだろう。
捕縛して聞き出すことが出来れば話は早いが、実力行使が難しいことは先のやり取りで思い知っている。
俺から反応が返らないことが分かったのか、少年はパッと手を広げて見せた。
「ドカンと派手な爆発を起こして、この町は跡形もなく――」
「はぁ、これで気は済んだでしょう? 帰りますよ」
女は話し続ける少年の襟首を掴むと、新たに生み出した闇色の穴へとその小さな体躯を放り込んだ。
女が一人になったと同時、俺は瞬時に駆け出した。龍鱗を身に纏った体は身体能力を大幅に底上げし、彼我の距離は瞬きの間に無となる。
「あらあら」
女は意外そうな声を挙げ、どこから取り出したのか、ヴォルフの手にしていた黒の大剣で俺の長剣を受け止めた。その場で耐えることは出来ないようで、女は二歩、三歩と後退る。
押していると言いたいところだが、龍鱗を纏った俺の一撃をその程度で凌いでいるというのが驚異的な話である。それも、女にはまだまだ余裕がありそうだ。
そのまま二度、三度と剣を振るうが、悉く女の黒剣により防がれる。退路を塞ぐべく壁際に追い詰めようとしても、軽々とその身を翻し捕らえることが出来ない。
「ふふふ、以前よりもずっと力を付けているようで何よりです」
「減らず口を……『炎の槍』!」
剣戟の合間を埋めるように、空けた片手で幾つもの魔術を放つ。
対する女は小さく笑いながら、人差し指でくるりと円を描いた。その動きに呼応するように小さな闇色の穴が現れ、俺の放った魔術は悉くがその中へと吸い込まれていく。
未だ一太刀としてその身には届かないものの、女を足止めすることには成功している。小さな穴は生み出せても、自身が通れるだけのものを生み出す暇はないのだろう。
後は、魔力量の勝負だろうか。この女の魔力量がどの程度のものかはわからないが、俺はそこそこ自信のある方だ。
「さてさて、困りましたね」
幾度目かの打ち合いの中、女が言葉を溢す。
女はチラリと横目で見ると、口元を吊り上げた。
「では、これならどうですか?」
そう言って、自身の左側へと掌を翳す。それと同時に、いくつもの小さな闇穴が姿を見せた。
わざわざその先へと目線を向けなくてもわかる。向かう先は床に倒れたまま動かないクリスティーネだ。
「ちぃっ! 『光の盾』!」
盾の魔術を使いながら、俺は両者の間へと強引に体を割り込ませる。
穴から放たれたのは、先程俺の放った魔術だった。咄嗟に放った光盾では強度が足りず、数本目で割り砕かれる。
俺は龍麟で構築した翼を盾のように広げ、魔術の雨を受け止めた。龍鱗の強度は十分なもので、魔力を削られながらもすべての魔術を防ぎ切った。
要したのは僅かな時間。
それでも、決定的な隙だった。
「ふふふ、貴方ならあれも何とか出来るでしょうね。それではまた、お会いしましょう」
眼前に広げた翼を畳んだ時には、女は自身が通れるだけの闇の穴を生み出していた。
なお追い縋らんと俺は剣を手に駆け寄るが、女の姿は穴の中へと消えていく。
一閃させた剣が、虚しく空を切った。




