631話 紅い茨
「ど、どうして?!」
私は決して自分の魔術に絶対の自信があるわけではないけれど、それでも多少は力を付けてきた自覚はあった。それこそ龍の一撃でもなければ、並の魔物には壊せないだけの氷壁を築き上げたつもりだ。
だというのに、私の生み出した巨大な氷壁は何の前触れもなく、一瞬のうちにその身を細かな破片へと転じていた。
砕かれた氷塊たちは陰り始めた陽光を反射し、それぞれ独自に回転しながら宙を舞い踊る。その向こうから、壁面に植物が根を張るが如く、血のように紅い茨が這い出してきた。
紅い茨が氷壁に触れる度、氷塊はひび割れ、砕け、その身を細雪へと変えていく。そうして氷壁にぽっかり空いた穴から、紅い茨に交じって黒い茨も姿を現した。
二色の茨は氷壁を侵食しながら、再び私達へとその身を伸ばしてくる。
「くっ、シャル!」
未だ微かに両足を震わせながら、アメリアが私を庇うように片手を水平に差し出した。その後ろから、私は迫る茨へと向けて両手を向ける。
「『連鎖する氷の槍《ライヒェン=アイス・ランツェ》』!」
生み出したのは無数の氷槍だ。一つ一つに込めた魔力はそれほどでもなく、威力は精々小型の魔物に傷を付ける程度、普段であれば牽制にしかならないものだ。
しかし、先の攻防で茨の強度は確認済みである。
デボラの攻撃を判断材料にするには些か威力が高すぎるが、あの茨達は先程私が生み出した氷壁に下から突き上げられ、軽々とその身を千切られていたのだ。それを思い返せば、迎撃にはこの魔術でも十分だろう。
今は一撃の重さよりも、数を重視するべきである。何せ、迫る茨は刻々とその数を増やしているのだから。
「やっ!」
腕を振ると同時に、周囲に浮かせた数重にも及ぶ氷の弾丸が茨へと向けて飛翔する。回転を加えた氷槍達は、空を切り裂き迫る二色の茨を捕らえた。
――けれど。
「そんな?!」
先程は私やデボラの手により崩れていった黒い茨とは異なり、紅い茨に触れた氷槍の悉くが、中空へと溶けるように霧散していった。
決して、全く効果がなかったわけではない。私の氷槍が命中した黒い方の茨は、先程までと同様に貫き、削れ、その数を減じている。
しかし、それに反して赤い方の茨は私の魔術を意にも介してはいない様子だ。その数を減らすどころか、こちらの魔術が消失する始末である。
そんな紅い茨が、黒い茨を守るように先行しているのだ。尚も私は追加の魔術を生み出し放つが、その勢いを押し止めることが出来ない。
「シャル、下がって! 『炎襲撃』!」
額に冷や汗を滲ませながら、アメリアが私を後方へと追いやる。そうしてアメリアは、炎を纏わせた足で襲い掛かる茨を迎え撃った。
「あ、あああぁぁ!」
「アメリアさん!」
燃え盛る炎に巻かれ、私達へと迫っていた黒い茨は残さず灰と化した。けれど、その折に足が茨に振れたのだろう、アメリアが苦悶の声を漏らしその身を折る。
崩れそうになるその体を、私は後ろから咄嗟に抱き留めた。
そうして伸ばした私の片手を、茨の残滓が僅かに掠めた。
その瞬間。
「――ひっ」
茨の振れた指先から全身へと、刺すような痛みが突き抜けた。
それはほんの一瞬のことで、ともすれば幻痛のようにも思える。けれど、私の体は芯まで響くような痛みの残滓を、確かに覚えていた。
ここでようやく、私はアメリアの言葉を理解した。確かに今の感覚は、痛みとしか形容のしようがないものだった。
私は己の片手、先程茨の触れた箇所へと目線を移す。
そこには特に変化もなく、見る限りでは何の外傷もない。一見、ただ痛みを感じるだけで傷を負わないのであれば、それほどの脅威ではないようにも思える。
しかし、と私は抱き留めたアメリアへと目を移し、次いで地に倒れてから動きを見せないデボラを見た。
二人とも、私なんかよりも遥かに強靭な体を持っている。そんな二人が、私が先程感じた程度の痛みで、その動きを止めるはずがない。デボラなんて、痛みのあまりに気を失っているのだ。
そのことを考えれば、感じる痛みにも強さがあるのだろう。私とアメリア、それにデボラの状態を比較すれば、自ずと条件は想像できる。
おそらく、茨に触れた時間か、もしくは面積が鍵だ。より濃く茨と繋がるほどに、痛みが増すのだろう。
どちらの条件かまでは特定できないが、対処方法としてはどちらも変わらない。即ち、あの黒い茨に触れなければ良いのだ。
などと、簡単に考えてはみるものの――
「『氷壁《アイス・ヴァント》』! 『氷の槍《アイス・ランツェ》』!」
迫る茨の進行を阻むよう、正面へと氷の壁を生み出し、さらに氷壁の左右に見える茨へと氷の弾丸を撃ち込む。そうして牽制をしながら、私はアメリアを抱えたまま後退する。
けれど、一人抱えながらの移動は私には難しい。アメリアは小柄な方ではあるが、私よりも体格は上なのだ。
私達が離れるよりも先に、氷壁を突破した茨が眼前へと迫る。いくらかの黒い茨は撃ち落としたものの、依然として紅い茨は魔術の影響を受けないらしい。その速度を落とすこともなく、一直線にこちらへとその身を伸ばした。
紅い茨が私に触れる寸前、私は来る痛みに思わず身を硬くする。
そうして、茨が私の体を撫でた。
「……あれ?」
けれど、想像していたような痛みは欠片も感じることはなかった。僅かに、茨が私の肌を掠めた感触を覚えただけだ。
もしや、紅い茨に触れたところで、何ともないのだろうか。思い返せば、私が痛みを感じたのも、アメリアやデボラが倒れたのも、何れも黒い茨に触れた時だ。
つまり、本命は黒い方の茨で、赤い方は魔術への対抗手段ということだろうか。赤い方の茨に触れても問題ないということなら、そちらは無視するという手も考えられる。
とは言え、現実的には無理な話だ。黒い方の茨を魔術で迎撃しなければならない以上は、紅い茨も意識をする必要がある。今もまた、撃ち漏らした黒い茨が私達へと迫っていた。
「くっ、このっ!」
腕の中のアメリアが、再び炎を宿した蹴撃を放つ。けれど、その脚が赤い茨に触れた途端、その炎は風に吹かれたように消えていった。
蹴りの勢いはそのまま止まらず、黒い茨の側面を打つ。
「あぁぁっ!」
「アメリアさん!」
アメリアの蹴りは迫る黒い茨を引きちぎったが、その引き換えに痛みに襲われる。その場に崩れ落ちそうになる体を、私は慌てて抱き寄せた。
そうして一瞬、私達の歩みが止まる。
その間に、私達の周囲を半球状に覆うように、二色の茨が埋め尽くした。
「あ――」
その光景を前に、私は既に退路を断たれていることを悟った。




