610話 紛れ込んだ魔物2
俺は小さく息を吐きだし、肩の力を抜く。それから、周囲へぐるりと目を向けた。
魔物は目の前の一匹だけだったらしい。他に動く者と言えば、後方でへたり込んでいる宿屋の店主だけだ。
俺は周囲の安全を確認すると、店主の方へと歩み寄る。そうして、彼の目の前で軽く腰を落とし目線を合わせた。
「大丈夫か?」
「え、えぇ……助けていただき、ありがとうございます」
俺の言葉に、店主は頭を下げて見せる。その側頭部から流れ出る血は既に止まっているようだが、治療をしてやった方がいいだろう。命に別状はなさそうだが、先程の岩獣に襲われて他にも怪我しているだろうしな。
そう考え、俺は店主に肩を貸し立たせてやる。そのまま傍にある椅子の方へと誘導し、男を座らせてやった。
「治療するから、動かないでくれ」
「そんな、助けて頂いただけで十分です」
「いいから、動かないでくれ」
遠慮する店主を押し止め、俺は治癒術を行使した。受け答えも出来ているし、見た目ほど重症ではないだろう。
それからほどなくして、治療が完了する。
「よし、これで大丈夫だろう」
「ありがとうございます。このお礼は必ず……」
「気にするな、非常時だからな。それより、顔を洗ってきた方がいいぞ」
店主の顔は、流れ出た血によってべっとりと赤く染まっている。治癒術では、血の跡まで綺麗になることはないからな。あくまで、傷を癒すだけだ。
俺の言葉に、店主はしきりに頭を下げながら、店の奥へと姿を消した。
それを見送り、俺は先程倒した岩獣へと目を向ける。この魔物は、一体どこから侵入したのだろうか。
ひとまずは魔物をよく調べようと、一歩踏み出した時だった。
「ジーク、大丈夫だった?」
声に振り向けば、階段からひょっこりと顔を見せるクリスティーネとフィリーネの姿があった。どうやら俺の様子が気になって、降りてきたようだ。
何が起こっても動けるようにだろう、二人は部屋で着替えてきたようで、お出掛け用の洒落た服装から普段の旅装へと変わっていた。
二人は階段を降り、俺の方へと近寄ってくる。その途中、倒れた魔物の姿を視界に収め、驚いたように両手を口元に当てた。
「魔物がいるの! あっ、でももう死んでるの」
倒れた岩獣を目にしたフィリーネが一瞬身構え、すぐに肩の力を抜いた。
「……この魔物、どこから来たの?」
「さて、な」
クリスティーネの問いに軽く肩を竦め、俺は岩獣の傍へと歩み寄る。そうして軽く腰を落とし、その姿を注視する。そんな俺の後ろから、少女達は興味深そうに魔物を覗き込んだ。
俺も岩獣についてはそこまで詳しいわけではないので、確かなことは言えない。しかし、見る限りでは普通の魔物のように見えた。
軽く岩獣の体に触れてみれば、岩と同じ硬い感触が手に返る。ざらざらとした手触りは、普通の岩と遜色ないものだ。切り落とした腕を持ち上げてみれば、確かな重量を感じる。
「ジーク、何か変なところとかある?」
「いや、ただの魔物……に見えるな」
特に変哲はない、普通の岩獣だろう。考え難いが、どこからか町中に迷い込んだというのが自然だろうか。
しかし、王都付近に岩獣の生息域はなかったはずだ。一体、どこからやって来たというのか。
「お空の変化と、何か関係があるの?」
「どうだろうな」
宿の天井を指差すフィリーネへと、俺は肩を竦めて見せる。
空が黒い幕のようなもので覆われてから、まだ間もない。そんな時に、普段見ないような魔物が王都に姿を見せたのだ。関連性があったとしても、可笑しくはない。
とは言え、一体どう関係してくるというのか。
目の前の岩獣には、見る限りでは奇妙なところなどは見当たらない。わかりやすい文章が体に刻まれていることなんかを期待していたわけではないが、少なくとも空の変化との関連性は見られなかった。
ひとまず、現状ではこれ以上手掛かりのようなものは見つからなさそうだ。そう考えた俺は、少女達へとひとまず部屋に戻ろうと告げた。
本当なら倒した岩獣の死骸を処理すべきなのだが、今は何が起こるのかわからない状況だ。出来るだけ、他の娘達から離れたくはない。
何事もないことが確認でき、まだ岩獣の死骸が残っていれば処理させてもらうとしよう。店主からすると迷惑かもしれないが、別に俺が魔物を招き入れたわけでもないしな。命を救ったことだし、これくらいは多めに見てもらうとしよう。
それから俺はクリスティーネとフィリーネと共に、借り受けている部屋へと戻ってきた。扉を開けて中へと入ってみれば、二人と同じようにシャルロット達も既に旅装へと着替えていた。
俺達が室内へと足を踏み入れると同時、シャルロットが一瞬びくりと体を跳ねさせたが、入ってきたのが俺達だとわかるとすぐに肩の力を抜いた。
「皆さん、おかえりなさい。あの、何かありましたか?」
「あぁ、魔物が出たんだ」
「魔物が、ですか?」
「ここ、町中じゃない。どうして魔物なんて出るのよ?」
「それはわからないな。幸い、大した魔物じゃなかったから良かったが」
首を傾げる少女達に対し、俺は軽く肩を竦めて見せる。
これで、町中に現れたのがヴァルヴェルヴィルクのような凶悪な魔物だったら、被害が大変なことになっていただろう。
それに比べれば、先程倒した岩獣程度は可愛いものだ。
あれは適切な武器なり魔術なりが使えれば、Dランク程度の魔物に過ぎないからな。もっとも、鋼の剣のような獲物ではかなり苦戦するだろうが。
「ん~、やっぱり空の様子と関係あるのかなぁ?」
「タイミングからすると関係はありそうだが……まだ何とも言えないな」
クリスティーネの問いに言葉を返しながら、部屋の窓の外へと目を向ける。王都の空は、未だ半透明な漆黒の膜に覆われた状態だ。薄暗さを増した町が、どこか不気味にも見える。
あれの原因も影響も、まだわかってはいない。だが少なくとも、良いものだとは思えなかった。
いっそのこと、王都の外に出るべきだろうか。見る限りでは、王都の外壁に沿って黒い膜に覆われているようだった。それなら、王都の外に出れば少なくとも俺達に影響はないだろう。
野宿には慣れているし、元々イルムガルトの故郷に向けて旅立つ予定だったのだ。少し予定を繰り上げて、王都を離れるのが安全だろう。
そんな風に考えた時だった。
「ジークハルト、外を見て!」
窓際に腰を下ろしていたイルムガルトが、鋭い声を上げた。




