489話 影の侵入者
扉が吹き飛ぶと同時、俺は椅子を倒しながら立ち上がり身構えた。思わず腰に手を伸ばし、空を切る感触に、今は帯剣していないことを思い出す。
そうして、目に飛び込んできた光景に、思わず眉根を寄せた。
そこにいたのは、形ある影だった。
人の形をしたものが、人のように二足で立っている。それだけを聞けば人のようにも思えるかもしれないが、人でないことは一目見てわかった。
それは、頭も胴も手も足も、全てが一様に黒かった。顔に当たるであろう部分も黒一色で塗りつぶされ、前を向いているのか後ろを向いているのかもわからない。
直立しているにもかかわらず、立体感が感じられない。関節がないはずの箇所が不自然にカーブを描いており、輪郭は僅かにぼやけて見えた。
それはまさしく、影としか言えなかった。
「ジーくん、あれ……なぁに?」
テーブルに手をつき、少し腰を浮かせたフィリーネが言葉を溢す。だが、俺はその言葉に答えを返せなかった。俺にも、そこに立つそれが何なのか、説明できなかったのだ。
先程、扉を吹き飛ばしたのはこの影に間違いはないのだろう。しかし、それほどの力があるようには見えなかった。
影はその場から動きを見せず、敵意のようなものも一切感じない。言葉が通じるようには見えないが、会話は可能なのだろうか。
下手に近寄るのも憚られ、俺はただ遠巻きにその様子を観察した。
人型の影は何を考えているのかわからない様子で、広間の入口に立っている。そもそも、あれに思考という概念は存在するのだろうか。
得体の知れない存在なのは間違いない。魔術でも放って様子を見るべきか。そう考えたが、俺が動くよりも先に状況が変化した。
影法師が、その腕をこちら側へと伸ばしたのだ。
音もなく忍び寄るそれは、真っ直ぐにフィリーネへと迫る。
その様子をただ眺めていた俺は、はっと我に返り影と少女との間に割り込んだ。
「フィナ!」
「……えっ?」
背中へとフィリーネを庇う。影の腕は、俺の動きに関わりなくこちらへと迫っていた。
距離が詰まっているというのに、不自然なほどに危険を感じない。このまま影の腕に触れれば、一体どうなるのだろうか。
だがそれよりも先に、氷龍の少女が軽く腕を振った。
「むん」
軽い声と共に、少女の動作で俺の眼前に巨大な氷壁が立ち上がる。かと思えば、現れたばかりの氷壁が轟音と共にひび割れた。
蜘蛛の巣状に走った亀裂が見る見るうちに広がり、壁は音を立てて崩れ落ちる。
そうして腰の高さまでに低くなった氷壁の向こう、影の伸ばした腕が見えた。どうやら、氷壁を砕いたのはあの腕らしい。広間の扉も、そうして壊したものなのだろう。
あれに触れれば、無傷とはいかないようだ。だが、影の腕は既に動きを止めていた。
見れば、広間の入口に立つ影の体に、無数の氷槍が突き刺さっていた。あの槍も先程の氷壁も、レイの魔術によるものだろう。
例え魔物であっても生き物である以上は傷口からは血が流れ出るものだが、その影からは一切そう言った類のものが見受けられない。
効いていないのか。あれが何なのかはわからないが、危険なものには違いない。俺は追撃を加えようと、魔力を練り上げる。
しかし、俺が魔術を放つよりも先に、影の体が徐々に透け始めた。黒い体はあっという間に透明度を増していき、やがて溶けるように空気へと消えていった。その体に突き刺さっていた氷槍が、音を立てて床に落ちる。
その様子を呆然と眺めていた俺は、たっぷりと時間をおいてから、肩の力を抜いて息を吐きだした。
「……死んだ、のか?」
「どうやら、そのようじゃのう」
「はぁ……ありがとうな、レイ。助かったよ」
「なに、この程度は造作もないわ」
少女の姿となったレイの身体能力は、身体強化をしなければ見た目通りのものだが、その強大な魔力は健在である。先程、影の一撃を防いだ氷壁も、影に突き立てた氷槍も、レイにとっては呼吸に等しいものである。
「ごめんなさい、ジーくん。咄嗟のことで動けなかったの……庇ってくれて、ありがとう」
「これくらい構わないさ。俺も少し遅れたからな」
これが、通常の魔物が相手であれば、普段通り即座に動けたことだろう。だが、俺の出足は遅れてしまった。
それは何も、相手の姿が異形のものだったことが理由ではない。原因は、危機感の有無である。
相手が魔物であれば、普通は多かれ少なかれ敵意と言うものを感じるのだ。当然である、魔物だって生きているのだから意思はある。その敵意を読み取り、俺達は戦闘に臨むのだ。
だが、先程の影からは敵意と言うものを一切感じなかった。まるで生き物ではなかったかのようだ。
だからこそ、俺も初動が遅れてしまった。フィリーネだって、普通の魔物が相手であれば、即座に動けていただろう。
「おい、今の黒いのは何なのだ?」
「俺が知るか。魔物……だとは思うんだが……」
レオニードの言葉に、素っ気ない調子で返す。
先程の影も、魔物の類には間違いないのだろう。だが、はっきりとそうだとは断定できなかった。少なくとも、俺が見たことも聞いたこともない存在なのは間違いない。
死体も残さず、霞のように消えてしまったので、それ以上調べることもできない。生物であれば大きさはともかく必ず魔石が残るものなのだが、それすらないのだ。
そこに破壊された扉以外に無いことを確認し、俺は、金髪の少女へと振り返った。
「なぁ、エルザ。さっきの影のようなものは、以前にもここに現れたことがあるのか?」
もしや、この城ではたびたび目撃されているものなのだろうか。考え辛いが、こうして目の前に現れたのだ、これが初めてではない可能性もある。
だが、俺の言葉にエリザヴェータは首を横にふるふると振ってみせた。
「いえ、初めて見ました。城にあのようなものが出たという話も、聞いたことはありません」
「そうか……」
エリザヴェータも知らないようだが、ひとまず脅威は排除したのだ。後のことは、エリザヴェータから報告をすることだろう。俺達からも証言する必要があるかもしれないな。
そう考えた時、俺は顔を先程壊された扉ではなく、広間の左手へと向けた。そちらの扉の方から、バタバタとこちらへ向かう複数の足音が聞こえてきたのだ。
やがて扉が開かれ、騎士達を引き連れたイヴァンが現れた。走ってきたのか、息を乱した様子のイヴァンは、エリザヴェータを見て安堵の息を吐きだした。
そうして、早足で彼女へと近寄っていく。
「姫様、御無事で何よりです」
そう言って、軽く頭を下げた。どうやら彼らは、先程の影のようなものを追いかけてきたようだ。
「大丈夫だ、さっきの影みたいなやつは倒した」
そう言って、俺は壊れた扉の方を指差した。何も残っていないのでわかりにくいが、壊れた扉を見れば何かあったことはわかるだろう。
「そうですか、皆様が……姫様を守って頂き、ありがとうございます」
そう言って、イヴァンは俺達へと頭を下げて見せる。それから身を起こした男は、「ただ」と言葉を続けた。
「まだ終わったわけではありません。影のような者達は、城の本棟から溢れているのです」
「何?! あれだけじゃなかったのか?」
どうやら先程の一体以外にもまだいるようだ。
そう考えた時、先程壊された扉の奥の通路から、黒い影が溢れ出した。
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