352話 安全確保と潜伏生活5
少女の言葉に、俺は一瞬息をするのも忘れ、その端正な顔を見返した。
クリスティーネの言葉が、理解できない。
いや、理解したくないと言った方が正しいだろう。
半龍の少女は、俺の事を知らないとでも言うような反応を示した。俺の知っているクリスティーネは、このような場面で冗談を言うような娘ではない。
だが彼女の表情は、慣れ親しんだ者に対する親愛のものではなく、初めて見る他者に対するものだ。そこに嘘はないように見える。彼女は本当に、俺のことがわからないのだろう。
「誰って、ジークハルトだよ。クリス……わかる、だろう?」
それでも、問い返さずにはいられなかった。
確かに、俺達は長い時間離れ離れになっていた。こうやって向かい合うのは久しぶりのことだが、それだけで忘れられるほど、俺達の絆は浅くはないはずだ。
俺の言葉に、クリスティーネは記憶を探るように、少し顔を俯かせる。それも少しの間で、すぐに顔を上げ、緩慢な動作で首を横に振って見せる。
「……ごめん、なさい。わからないの」
「っ――」
少女の言葉に、俺は言葉を失った。
何か言わなければならないと思うのだが、言葉が出てこない。ただ口を開け閉めすることしか出来なかった。
そこで、動きを止めた俺の隣へと、シャルロットが歩み寄ってきた。
「あの、クリスさん。私のことは、わかりますか?」
おずおずと言った様子で、シャルロットが問いかける。
これで、俺のことだけを忘れてしまっている方が、まだ問題としては小さいだろう。それはそれでものすごく悲しいことで、後で密かに泣くくらいはするかもしれないが、まだマシだ。
もしもシャルロットの事も忘れているようであれば、今のクリスティーネにある疑いが出てくることになる。
クリスティーネはシャルロットの言葉に、再び考え込むような仕草を見せたが、やはり首を緩やかに振って否定の動作を示した。
「……ごめんね、覚えてないの」
「そう……ですか」
シャルロットはクリスティーネの言葉を受け、明らかに落ち込んだ様子を見せた。
二人の付き合いは長い。以前からシャルロットは、クリスティーネのことを姉のように慕っていた。特に、二人して奴隷狩りに掴まっていた時は、随分と助けられたそうである。
そんなクリスティーネに忘れられたとなれば、内心では俺と同じくらいの衝撃を受けていることだろう。
続いて近寄ってきたのはアメリアだ。俺の背後に立ち、俺の両肩に両手を添え、軽く体重をかけながらクリスティーネの顔を覗き込む。
「ねぇクリス、ジークとシャルの事を覚えてないなら、私のことも覚えてないってことよね?」
「えぇと……はい、わかりません」
「……まぁ、そうよね」
アメリアは、少しため息交じりに言葉を溢した。俺とシャルロットへの反応を見て、ある程度予想はしていたのだろう。
クリスティーネとアメリアは、王都から火兎族の隠れ里まで一緒に旅をした仲だが、俺やシャルロットと比べれば時間は短いからな。俺達の事を覚えていないなら、アメリアの事も忘れていても不思議ではない。この分なら、フィリーネの事も忘れているのだろう。
「ねぇイルマ、これで私達のことは覚えているってことはないかな?」
「ないんじゃない? もし覚えていたとしたら、私達はどんな顔をすれば言いわけ?」
寝室の入口辺りで、エリーゼとイルムガルトが言葉を交わし合う。
二人がクリスティーネと一緒にいたのは、ダスターガラーの町でイリダールの屋敷にいた、ほんの数日のことである。普通に忘れられていたとしても、おかしくはないくらいだ。
未だ掛ける言葉を探す俺に、クリスティーネが遠慮がちに口を開いた。
「あの……クリスって言うのは、もしかして私のこと……ですか?」
そう言って、眉尻を下げた表情で小首を傾げて見せる。
「そうだが……そうか、自分の名前も覚えてないか」
何となく、その可能性はあると思っていたのだ。もしも、クリスティーネが記憶をなくしているのであれば、自身の名前を憶えていなくてもおかしくはない。
「ねぇジーク、これって……」
「あぁ……おそらく、記憶喪失というものだろうな」
俺達のことも、自分のことすらも覚えていないのであれば、かなりの記憶が無くなっているとみて、まず間違いないだろう。それはいつからなのだろうか。
少なくとも、奴隷狩りに囚われシャルロットと一緒にいた間は、クリスティーネに変わった様子はなかったはずだ。それならば、クリスティーネが記憶を失ったのは、つい最近のことだろう。
さて、クリスティーネが目覚めた暁には、再会を喜び合おうと思っていたのだが、それどころではなくなってしまった。
まず何から考えればいいのかと、少女が記憶をなくした衝撃を残したまま頭を悩ませる俺に、少し眠たそうな様子でクリスティーネが口を開く。
「あの……ここはどこで、皆さんは……どなた、ですか?」
そう言って、ぼんやりとした様子で周囲へと目を向けた。
クリスティーネにとっては、何も覚えていない状況で、見知らぬ場所で目を覚ましたのだ。周囲を土壁に覆われたこの空間は、一目で普通の家屋の中ではないことがわかる。困惑するのも無理はない。
自分に対して、親し気に話しかける俺達のことも気になるのだろう。
全てを語って聞かせるには長くなるが、一つ一つ説明するほかにないだろう。
「ここはとある洞窟の中だな。あー、いろいろと事情があって、ここに身を隠してるんだ」
帝都から見て南西の山、と言ったところで、どこまで通じるかわからない。今俺達のいる場所に関しては、追々説明をすればよいだろう。
身を隠している事情についても、今は伏せることにした。レオニードの元から助け出したことを説明しようとすれば、情報が多すぎる。
「それから、俺達はクリスの冒険者仲間だな。クリスも、俺達と一緒に冒険者をやっているんだぞ?」
「私が、冒険者、ですか……?」
俺の言葉に、クリスティーネは不思議そうに首を傾げて見せた。あまり実感が湧かないのだろう。
このまま、まずはクリスティーネ自身のことと、俺達のことを説明するのが良さそうだ。それに、クリスティーネの記憶がどの程度なくなっているのかも、確認する必要がある。
まずは広間に場所を移すのが良いだろうかと考えたところで、虫の鳴き声のような音が聞こえた。何だろうかと思うと同時、クリスティーネがお腹に手を当て、少し頬を染めて見せた。
どうやら、今のはクリスティーネの腹の音らしい。そう言えば、彼女は少なくとも昨夜から、何も口にしていないのだった。
「何はともあれ、食事が先だな。少し待ってくれ、すぐに用意する」
俺は小さく苦笑を漏らしながら、その場で腰を上げた。
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