206話 火兎の少女と洞窟暮らし4
「ジーク、起きて」
その小さな声と体に触れる柔らかな感触に、俺の意識が闇の底から浮上する。元より、野営には慣らされた身だ。俺の意識が完全に覚醒するまで、それほどの時間は要さなかった。
徐に瞼を持ち上げてみれば、横になった視界の中、こちらを覗き込むクリスティーネの瞳と目が合った。その瞬間、クリスティーネの口元が笑みを象る。
「あぁ、おはよう、クリス」
「えへへ、おはよう。と言っても、まだ夜中なんだけどね」
そう言って笑うクリスティーネの声音は、周囲で眠る皆を慮ってか小さなものだ。その声量を抑えた声色は、いつもの元気の良さが鳴りを潜め、少し大人びて聞こえた。
クリスティーネの声に耳をくすぐられるのを心地よく感じつつ、俺は自身の状況を確認する。こういう屋外での野宿の場合、高確率で俺は他者と密着している状況に置かれているのだ。
洞窟の入口から僅かに差し込む月明かりを頼りに視線を落とせば、案の定、俺の腕の中に納まる形でシャルロットの姿があった。シャルロットはその性格を反映するように、俺の服を小さな指先で少し遠慮がちに摘まんで眠っている。
さらに首を動かして後方を確認してみれば、後ろ側からはぴったりとフィリーネが抱き着いていた。
やはり、目を覚ましてすぐに動き出さなくて正解だった。俺がその場で身を起こしていれば、間違いなく二人を起こしていたことだろう。
俺は後ろ側から体の前へと回されたフィリーネの腕をゆっくりと外し、腕の中に抱え込んだシャルロットの体を解放する。それからシャルロットの水色の髪を一撫でして、その場にゆっくりと立ち上がった。
「見張りの交代だな?」
「うん、後はお願いするね?」
「あぁ、俺に任せて、しっかり休んでくれ」
俺がその場を退けば、入れ替わりにクリスティーネが俺のいた場所へと腰を下ろす。それから笑顔で手を振るクリスティーネへと片手を上げて応え、俺は少女達に背を向けて洞窟の入口へと向かった。
今宵の月明かりはなかなかに明るいが、さすがに光源とするには心許ない。俺は掌の上に光球を生み出すと、その手を上へと持ち上げて辺りを照らし出した。
当然、半円状に築かれた防壁の内側に魔物が入り込んでいるなんてことはなく、周囲は昼間に見たものと何の変わりもない。
その様子を確認した俺は、防壁の傍へと近寄っていく。そうして体に身体強化を掛け、一息で防壁の上へと飛び上がった。それから、防壁の上へと静かに腰を下ろす。
夜の森と言うのは静かなもので、冷たい空気の中、小さく虫の鳴く声が聞こえる。不意に流れた風が木々を揺らし、葉のざわめきが周囲を満たす。
俺の生み出した光球の光はそれほど強いものではないが、それでも目先に伸びる木々の姿までは視認できるほどだ。より安全性を増すためには、少し切り拓いた方がいいかもしれない。
そこでふと、右手前方へと目を向ければ、闇の中で光るものがあった。小さな一対の光は間違いなく生き物の瞳で、どうやら獣でもいるらしい。
俺は土魔術で手の中に拳大の石を生み出すと、軽い調子で光の方へと放り投げる。放物線を描いた石は闇の中へと溶けるように消え、小さな着地音を響かせる。
その音に驚いたのか、小さな光は少し明滅したかと思えばすぐに消えてなくなった。森の奥へと帰っていったのだろう。
より強力な魔術を使えば今の獣を仕留めることもできただろうが、その分大きな音が鳴る。特に危険なわけでもないのに騒音を立てては、寝ている皆が起きてしまうだろう。
そうして石を投げた腕をゆっくりと下ろせば、背後から小さな音が聞こえた。身を捩って後ろを振り向けば、腰に留めた剣が石壁に当たって硬質な音を立てる。
そうして向けた目線の先、二人の少女が佇んでいた。側頭部から斜め下へと伸びる獣の耳を持つ赤毛の少女、ベティーナとロジーナだ。ベティーナは挨拶でもするように、俺の方へと片手を上げて見せた。
「どうした、眠れないのか?」
「いんや、人の動く音がしてね、目が覚めちまった」
どうやら、俺とクリスティーネとのやり取りで目を覚ましてしまったらしい。傍にいたシャルロットやフィリーネが目を覚まさなかったというのに、まさか二人が起きてしまうとは。
やはり、火兎族と言うのは感覚が優れた種族なのだろう。もしくは、奴隷狩り達から隠れる日々を過ごしたことで、少し神経が研ぎ澄まされているのだろうか。
「隣、いいかい?」
「あぁ、構わない」
了承を返せば、二人は軽い跳躍で石壁の上へと飛び乗った。そうして壁の外へと足を投げ出し、その場に腰を下ろす。
しばらくの間は互いに無言で、並んで腰かけたまま闇夜を眺める。そうすることしばらく、不意にベティーナが口を開いた。
「悪いね、関係のないあんた達を巻き込んじまって。それに、昼間の事もそうだし、この場所の事もそうだ。感謝してるよ」
「別に、構わないさ。アメリアの関係者なんだしな」
俺は片膝を立てながらベティーナの言葉に応える。
確かに当初は不本意なことではあったが、今のところ金には困っていないし、北の地へ来るいい機会になった。オーガの群れと戦った際には少々命の危険もあったものの、結果的にはこうして助かっているし、良い教訓も得た。
こうしてアメリア達を助けられているのだから、俺達がこうして知り合えたのは良かったことだと思う。
そうした俺の言葉に、ベティーナは少し瞳を大きくして振り向いた。
「それにしても、まさかアミーが人族を連れてくるなんて思ってもいなかったよ。それも、結構いい仲だと来たもんだ」
「仲がいいか? とてもそうは思えないが……」
確かに出会った当初と比べれば、少なからず打ち解けた自覚はある。瞳の鋭さは確実に和らいでいるし、言葉を交わす機会だって増えている。
だが、さすがに仲がいいとまでは言えないのではないだろうか。未だに、アメリアは俺に対して素っ気ない態度を取っているように見えるのだが。
しかし、俺の言葉にベティーナはからからと笑って見せる。
「いやいや、あれでアミーはかなり気を許してるって! 幼馴染である私が保証するよ!」
「むしろ、あの態度は別の意味でジークハルトさんを意識していると思うのぉ」
ロジーナの捕捉に、俺は軽く首を捻る。
「別の意味で意識って言うのは、どういうことだ?」
「おいおい、それを言うのは野暮ってもんだろ!」
そう言って、ベティーナが俺の背をバシバシと叩いてくる。それほど強い力ではないが、随分と気安い態度である。
その事が、俺は少し気になった。
「昼間も聞いたが、二人はあんまり人族の事が嫌いじゃないのか?」
「いや、普通に嫌いだけど? なぁ、ロジー?」
「えぇ、そうねぇ。あまり関わりたくはないわぁ」
「いや、それにしては……」
俺に対する態度は、むしろアメリアよりも気安いものである。俺とアメリアはそれなりの日数をかけて今くらいの間柄になったというのに、この二人とは出会ってまだ一日と経っていないのだ。
俺の言葉に、二人は揃って顔を見合わせる。
「そりゃ、あのアミーが連れてきた人族だし?」
「あのアミーが大丈夫だって言うんならぁ、安全なんだろうなぁってぇ」
「なるほど……仲がいいんだな」
それほどまでに、互いを信頼しているということなのだろう。そういえば今日の昼間、アメリアの存在に気が付くまでは二人ともかなり攻撃的だったな。まぁ、あれは奴隷狩りを警戒してのこともあるのだろうが。
そんなことを思い出していると、ベティーナはそれに対して腕を組んで見せた。
「いや、もちろんそれもあるんだが、アミーの人族嫌いは筋金入りだからな」
「あぁ、それはわからないでもないな」
出会った頃のアメリアの様子を思い出す。あの頃のアメリアは、俺と口を利くのも嫌だという様子だった。というか、実際に無視をされたことは一度や二度ではない。
「やっぱり火兎族の里では、人族は敵だって教えられるのか?」
「それもあるけどな。私達の場合、実際人族に被害も受けてるわけだ」
「まぁ、奴隷狩りに襲われれば、人族も嫌いになるか」
納得と共に息を吐けば、ベティーナは否定するように首を横に振って見せた。
「いや、それとは別で……そうだな、少しだけ昔話でもするか」
そう言うと、ベティーナは少し体勢を整え、視線を空へと上げる。
「あれは四年前の冬の事だった……」
「ベティー、五年前の夏よぉ」
「あれ、そうだったっけ?」
首を傾げるベティーナに対し、ロジーナは呆れた様子で息を吐く。
その様子に苦笑を返し、ベティーナは咳ばらいを一つして再び口を開いた。
「えぇと、数年前のあたし達は、火兎族の里の外については大人たちの話でしか聞いてこなかったんだ。だから、人族の怖さって言うのも、いまいちよくわかってなくてな」
いくら大人達から言い聞かされたところで、実感を伴わなかったのだろう。言葉だけでは、伝わらないこともあるのだ。
そうして里の中で日々を過ごすうち、少女達は外の世界への憧れを強めていく。
「そんなある日、人のいる町……要はシュネーベルクだな。そこへ行ってみようって話になったんだ。私とロジーナとアメリアと……それからもう一人、エリーゼって子の四人でな」
四人は門に立つ見張りの目を盗み、火兎族の里を抜け出したという。そうしてこの洞窟を抜け、シュネーベルクの町へと向かったそうだ。
「詳細は省かせてもらうよ。あんまり面白い話じゃないからな。それでまぁ、やっぱり人族には目を付けられて、結果として私達は大怪我を負って……エリーゼは、帰ってこれなかった」
そう語るベティーナの瞳には、寂し気な色が見えた。
「……亡くなったのか?」
「さぁね、それもわかんないや。最後に見たのは、人族に連れていかれるあの子の姿だけ」
そう締めくくるベティーナの表情には、既に悲痛な色は見えなかった。今ではもう、すべて過去の話として受け入れているのだろう。そのいなくなった少女とも、二度と会うことはないだろうと諦めているようだ。
そうして沈黙が支配する中、あからさまに明かるげな声をベティーナが発する。
「とまぁ、そんなことがあったから、私達は人族を嫌いになったわけだ。特に、アメリアは人族を殊更嫌っていたんだが……あんたは結構あの子に気に入られてるみたいだね」
「別に、気に入られているわけではないと思うが……」
「まぁ、あの子は少しわかりにくいところがあるからね。あれで結構寂しがり屋なところとか、可愛いんだけど……おっと、今のは内緒だよ」
「なるほど……聞かなかったことにするよ」
「と、まぁそんなアメリアが心を許しているみたいだから、あんたの事も信用してるわけだ」
「それはありがたいな」
これから、火兎族達のためにも奴隷狩り達を何とかしようと考えているのだ。それなのに、助けるべき火兎族達から石を投げられてはたまったものではない。
今日のところは一切会話を出来なかったが、子供達とも少しは話してみるべきだろうか、などと考えていると、
「何の話をしているの?」
突然背後から聞こえた声に、俺は驚きと共に肩を跳ねさせる。
勢いよく振り返ってみれば、そこには声の主、アメリアが腕を組んでこちらを見ていた。
「私の名前が聞こえた気がするんだけど?」
「いや、それは……」
「ちょいと昔の話を、なっ!」
思わず口籠る俺の隣で、ベティーナが勢い良く防壁から飛び降りる。そうしてアメリアの肩を軽く叩くと、くるりと俺の方を振り返った。
「それじゃ、私達は寝させてもらうよ。また明日な!」
「おやすみなさぁい」
そうしてベティーナは、いつの間にか石壁の下へと降りていたロジーナと共に、洞窟の方へと歩いていく。
その様子を見送り、アメリアが俺を見上げてくる。その視線は、どこか訝しげなものだ。
「何の話をしていたの?」
「別に、大した話じゃないさ」
特に口止めをされたわけではないが、何となくアメリアに先程の話をするのは憚られた。それは、アメリアの過去が関係していたためだろう。
だが、俺の返答が気に食わなかったようで、アメリアは眉根を寄せて鼻を鳴らした。
「ふん、まぁいいけれど。しっかり見張っててよね」
そう言って、先を歩く二人の後を追いかける。
俺は後ろ手で頭を掻きつつ、再び石壁の外へと顔を向けた。
そうしてふと、アメリアはどうしてここに来たのだろうかと首を傾げる。もしかすると、俺に何か用があったのだろうか。
そう思って再度振り返ってみるが、既に赤毛の少女の姿は洞窟内へと消えていた。
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