7話
日がな家に引きこもって暮らしていたしくみは、宗教の勧誘に訪問販売、豊原の家に訪れた人々を一々激しい剣幕で追い払った。選挙前に和恵の従兄弟が家に来て、なにやら和恵に特定の政党に投票するように薦めているのを聞きつけた時も、しくみは「家で二度と政治の話をしないでもらえますか?」と言って追い出した。
「すいませーん」
と、その日も何者かが豊原家の門を叩いたので、しくみはリビングでぼーっと携帯ゲーム機でテトリスをやり続けている和恵に、「自分が出るから」と言って表に出て行った。
初夏の日差しを受け、額に汗を滲ませた郵便配達員が封筒を差し出す。
「どうも。こちらサイン貰えますか?」
パジャマ姿のしくみは、炎天下、労働に従事するその人に対して引け目を感じながらも、封筒を受け取った。差出人は条ヶ崎仁。茶封筒には『内容証明書在中』というスタンプが押されていて、しくみは、怪訝な顔でそれを睨みつけてから、ゲームに興じている和恵の前に置く。
「また地主から。なんて書いてあるの?」
封筒の中から出てきた二枚の紙切れ。びっしりと書かれた文面の中には、『権利』という言葉が繰り返し繰り返し念を押すように書かれている。
「えっと。土地のお金、値上げした金額を認めないなら買い取れって。そうじゃないなら、もう家賃は受け取らないって」
「買うって……幾らくらいでって言ってきてんの?」
「確か、前に送られてきたものに……」
和恵は、リビングの後ろに置かれた棚から、一枚の紙を取り出す。
「二千万。なんでこんな、不便な所を……」
吐き捨てるように和恵が言う。
この家に対する母の素直な感情を垣間見て、しくみは表情を曇らせた。
「ちょっと待って。調べてくる」
しくみは、自分の部屋に戻ってパソコンで、地主の受取拒否といった事例を検索してみる。幾つも同様の事例を説明したホームページがあったので、ざっと流し読んでから和恵にあらましを説明し始めた。
「供託金って言うのを法務局に渡せば、そこから地主にお金を送ってもらえるって書いてあった」
「そうしないとどうなるの?」
「支払いをしなかったって言いがかりを付けられて、追い出されるってさ。この家を」
その言葉を聞いた和恵はしばらく考え込んでから、大きく息を吐いて辺りを見る。黒ずみ傷ついた柱に、ひび割れた壁。じっと部屋を見渡すと、やはり奥へと沈み込んでいるように見える。
「しくみは、この家にいたい?」
「当たり前だろ」
苛立ちを滲ませ、しくみが言う。
「俺には、ここしかないんだ」
「そう。それなら今度、ちょっと借地人組合の人に相談してみる」
言って和恵は、携帯ゲーム機の電源を入れて、再びテトリスを遊び始めた。
しくみは、何やらやる気になったのか、部屋に戻って先ほど起動したパソコンで就職情報を調べだしたのだけれど、一時間もすると疲れ果て、お気に入りの映画を見始める。
しくみの部屋に置かれたテレビに映し出されているのは、有名な映画賞を受賞したイラク戦争の映画で、物語も佳境に入り死線を潜り抜けてきた人々の葛藤や狂気が巧みに表現されていくと、それを見たしくみは「これが本質だよ」と呟きながら、一人部屋で号泣し始めた。
「豊原さん、302号室の相川さん。来て欲しいって」
清掃業務が一段落したところ、休む間もなくそう呼び掛けられて、和恵は三階へと続く長い階段を上っていく。額に滲み出た汗が、ゆっくりと頬を伝って落ちていった。このところずっと息苦しさを感じていて体調が悪く、今日など昼食も喉を通らず持ってきたお弁当をほとんど残してしまった。
十年前、製紙工場の跡地に建てられた和恵の勤める老人ホームは、三階が個室、二階が相部屋の居室が設けられていて、三階には富裕層の老人が多く住んでいた。
302号室に入ると、肥え太った老婆がベッドに横たわっていて、高そうな指輪を幾つも嵌めた手を振って、和恵を呼び寄せた。
「遅い遅い!」
「すいません……」
「お天気がいいうちにお散歩行きたいのよ。連れていって」
早口でまくし立てる老婆の脇に腕を通して、持ち上げようと力を込めたその時だった。心臓に尋常ではない刺すような痛みが走り、和恵は思わずよろけてしまう。
「危ないじゃない!?」
どすんとベッドに腰を落とし、老婆が声を荒げるが、和恵はすぐに応じることもできずに心臓を押さえて、息を整え痛みを鎮めようとしていた。
老婆は、呻く和恵をしばらく不思議そうに眺めていたが、窓の外の青空にいくらか雲がかかってきたのを見ると、
「早く散歩に行きましょう!」
と、大声で急かした。
和恵は、苦しげな表情で老婆の巨体を再度持ち上げて、横に置かれた車椅子に乗せる。それから老婆が満足するまで一時間、老人ホームの周りを車椅子を押して歩き回ったのだけれど、その間ずっと突き刺すような嫌な痛みが胸に残っていた。
しくみと同じ年の頃の青年が、繁華街で包丁を振り回し殺人を犯したというニュースを見て、しくみは満面の笑みで声をあげる。
「この犯罪者、失うものがないんだろうなぁ。だからこんな無意味な、メリットとデメリットがつりあわない行動に出る。かー! 惨め、惨めすぎる! そしてそんな惨めな人間を、安全圏から上から罵れるってのは最高に楽しすぎるな。被害者でも加害者でもない。傍観者ってなんて楽しいんだろう。この家から出なければ俺は被害者になることはない。そう絶対的な安全圏から、常に傍観者として世界を解釈できる。ああ、なんていう安上がりな万能感だろうか! はいはいコメンテーターさん、傍観者を無責任だなんだと批判しちゃったりします? でもそれ無意味だから。意味があるのは、この安全と幸福。その現実だけだから」
テレビに向かって吠え続けてるしくみの言葉を無視して、デザートのプリンを黙々と食べている和恵。しばらくして興奮が収まったのを見計らって、「しくみ」とその名を呼んだ。
「お母さん、手術することになったから」
意気揚々と世の人々を上から目線で馬鹿にし続けていたしくみが、虚を衝かれて間抜けな高い声をあげる。
「手術ってなんの?」
「心臓。不整脈の手術で、一週間くらい入院するみたい」
「大丈夫なの!?」
前のめりになって問うしくみに、和恵はプリンを食べながら淡々と応答する。
「難しい手術じゃないみたいだから。あっ、ゴミを捨てる日とかそういうのまとめて紙に書いておいたから、これ」
和恵から受け取った用紙には、箇条書きで『ゴミは火曜日に家の前に置いておくこと』『カンや瓶は、通りに出た所にあるゴミ捨て場の箱に入れること』などと言ったことが書かれていた。
「えっと、ペスはどうするの?」
和恵が、足元で丸くなっているペスの頭を撫でる。
「ペットホテル頼んだから大丈夫」
「洗濯機って、服入れて洗剤入れてボタン押せばいいの?」
「うん。朝方干したら、夕方前には取り込まなきゃダメよ」
一息ついてしくみは、プリンを食べる母の姿を眺め見る。女にしては身長が高く、大柄だった和恵は、背が低いしくみからすると子供の頃、とても大きな人というイメージがあった。だけど改めて見ると、痩せ細り、どうも一回り小さくなったように感じる。
「お母さん、縮んだ?」
「あんたがおっきくなったんじゃない?」
「俺、高校の時からずっと160。ちびっこだよ」
「じゃあ、縮んだのかな」
和恵は不愉快そうにそう言って、カップにこびりついたプリンをかき集めて口にする。
「本当に大丈夫なの?」
「大丈夫よ。病院の先生は、98%成功するって言ってたし。それよりあんたも、ちゃんと病院で診てもらったほうがいいわよ、お腹」
「でも、大きな病気が見つかっても、直す金もないし。そういえば手術代はあるの?」
「保険が降りるから」
「保険、入ってたんだ」
「あんたも入っておきなさい。お腹の調子、ずっと悪いんでしょ」
それだけ言うと和恵は席を立ち、台所で食器を洗い始めた。
しくみは、そっと自分の腹に触れてから、リビングを見やる。そこには古めかしい食器棚や、油がこびりついたガスレンジに並んで、小さく頼りなげな母の背中があった。
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