3話
しくみが小さかった頃、家のふもとにある電柱の下で、浮浪者の女の死体が発見された。付近の通りは封鎖されて誰も入れないようになっていたのだけれど、豊原の家からは現場検証をしているその様が見下ろせた。
殺人事件か、はたまた自殺か。どんな事件が起きたのかと好奇心に胸を膨らませながら警察の検証を眺めていたしくみを、今は亡き祖母が「見るんじゃないよ。もう、うちとは関係ないんだから」と強く叱り付けた。
「もう」とはどういうことだろうかと漠然と気にはなったが、その頃のしくみにその疑問を言葉にする知性は備わっていなかった。「過去にあの浮浪者は、うちとなにか関係があった人間なのか?」と疑問を具体的な質問として、言葉にすることができるようになった頃には、祖母は質問を受け付けられないくらい呆けてしまっていたし、その後すぐに死んでしまった。
専門学校時代、好きだと告白したときに、困ったように笑った女の子の顔。何故だか、土曜日の家庭科の授業だけ優しくなった小学校の友達。しくみの人生の中で発生した、いくつかの解けない謎のひとつとして、死んだ浮浪者の女と祖母の思い出は、今も強くしくみの心に残っていた。
あれからしくみも一応、大人になったし、母親以外はみんな死んでしまった。思い出にあったものの中で、昔も今も変わらないものは崖上に建つ、豊原の家だけだった。
「土台が腐ってる可能性がありますね。本来なら建て替えをお勧めしたい所ですが……」
日曜の午後、突然振り出した雨の中をしくみが息を切らして帰ってくると、リビングに見知らぬスーツ姿の中年の男がいて、和恵にファイリングされた資料を見せながら、深刻な面持ちで何やら語り聞かせていた。
「誰?」
タオルでずぶ濡れになった頭を拭きながら、ぶしつけにしくみは母に尋ねた。
「リフォーム会社の人。お風呂の水漏れ、見てくれるっていうから見てもらってたの」
「はじめまして、よろしくお願いします」
「どうも」
ぶっきらぼうな調子で挨拶を返してから和恵の隣に座って、雨水が染み渡ったシャツやジーパンも着替えず、ぎろりと男を睨み付ける。
清潔なダークグレーのスーツを着た大柄な男は、そんなしくみの敵意も意に介さず、経緯を説明する。
「今、この辺りのお宅で、格安でリフォームをお勧めしていまして。それでお風呂が水漏れをしているということで見させていただいたのですが……」
男は、クリアファイルをパラパラと捲って、粉砕した風呂場の下、黒ずみ腐った木造の土台が、土の中から顔を出している写真を見せた。
「ちゃんと調べてみなければ確かなことは分かりませんが、浴槽から流れ込んだ水を受けて、家の土台が腐ってしまっている可能性が非常に高いんです」
クリアファイルを捲ると、完全に全ての柱が腐り落ちている土台の写真と並んで、大きく地面に埋まり込むように沈み、倒壊してしまった家の写真が顔を出す。それは豊原の家よりも、ずっと新しくて立派な家だった。
「これは地震で倒壊してしまった家の土台なんですが……床下を調べてみたら、台所からの水漏れが原因で、土台が全て腐ってしまっていたことが分かったんです」
不安げな表情を浮かべた和恵が、じっと写真を凝視している。
「つまりそういう恐怖心が、あなた方の商品を売るための販促材料というわけですよね。それでいくらくらいかかるんですか?」
敵意剥き出しのしくみの言葉に、苦笑いを浮かべて別の書類を取り出す。
「建て替えとなると、見積もりを出さなきゃなりませんが。とりあえず水漏れしている浴槽の修理費用で二百二十万。ただし今ならサービス期間中で……」
しくみは、身を乗り出して男の話を遮った。
「でも風呂直したって、この家は直らないんですよね? この家を直すには、どれくらいかかるんですか。大体でいいから、教えてください」
「調べてみなければ正しいことは分かりませんが。土台から修復するとなると……」
男は手持ちの書類に目を通しながら、取り出した電卓に次々と数値を入力していく。
「最低でも千五百万は見たほうがいいかもしれません」
「帰ってください」
その途方もない額を聞いて、険しい表情から一転、思わず泣き出しそうな情けない面持ちになったしくみは、頼み込むようにして男を帰した。
犬の爪跡だらけのフローリング。ところどころ剥がれたままになっている壁紙。雨はさざめき、その響きをリビングに残す。ところどころから隙間風が入ってくるような古びた家ではあるが、一応、雨からしくみたちを守るという面では機能し続けている。
「この家、倒れちゃうんだ……」
しんとしたリビングで、和恵がこぼす。ひび割れた家の壁に、よく見ると家の中心から崖に突き出た向こうへと傾いている床。
しくみは、徐に財布の中から五円玉を取り出して、サインペンで一本真ん中にラインを書き入れた。
「母さん、紐と釘ない? 後、トンカチ」
「えっと……」
和恵は、リビング脇の引き戸の中にあるタンスから、ビニール紐を取り出してしくみに渡す。しくみはそれを中心線にそって五円玉の輪の中に通し、ちょうど傾き始めている側にある大黒柱に釘を打ちつけ、紐の尻尾を括りつけた。
「後、ナイフない?」
「キッチンナイフでいい?」
中心に黒いラインが入った五円玉は、若干斜めに傾いた大黒柱に添わないで、真っ直ぐと地面に垂れ下がり、この家が確かに傾いているのだと証明してみせる。母がナイフを持ってくると、しくみはちょうど五円玉の黒い線の真下、焦げ茶色の柱にぴっと傷をつけた。
「これで家が傾いたら、どれくらい傾いたか分かるから」
ふぅんと釈然としない様子で、しくみの言葉を聞く。
「分かる?」
「もっと傾いたら、五円玉が今、傷つけた所より左に移動する」
「それが、分かったから?」
「いや、分かるだけだけど……」
釈然としないまま、とりあえず「うん」と頷いて和恵は、席に戻った。
柱に比例せず、垂れ下がる五円玉をしくみはじっと睨み付ける。倒壊と言われてもいまいち現実感が湧かないが、確かにこの簡易水平器は豊原の家の終わりを示している。抗うことはできないまでも、この家の傾きをきちんと認識することは、何よりも大切なことのようにしくみには思えたのだ。
日暮れ時。豊原家の下隣にある駐車場で、男が二人、三脚を伸ばした測量器を傍らに置き、話し込んでいた。
灰色の作業着を着た白髪がかった初老の男と、コートの下にブリオーニのスーツを覗かせる中年の男。どうやら白髪の男はスーツの男に雇われているらしく、敬語でスーツの男と話していた。
「で、結局のところどうなの?」
対するスーツの男は、目上に人間に対して気を遣う素振りひとつもなしに問いかける。右腕には、銀色に輝くロレックス。茶色に染めた髪はオールバックで後ろに流していて、柄の悪い、威圧感を与える風体をしている。
「やっぱり五十センチはオーバーしてますね」
そんなことを作業着を着た男が口にしていると、ちょうどペスを連れた和恵がやってきて「こんにちわ」と挨拶をした。
「こんにちわ。もしかして、豊原さん?」
「はい」
スーツの男の一方的な話し振りを、特に気にする様子もなく和恵はこくんと頷く。
「こんな奥まった所に家があっちゃあ、車も簡単に入ってこれない。階段の途中に玄関があるから、毎日毎日階段を上り下りしなくちゃならない。築五十年以上だって言うし、この家、住みにくいでしょ」
「まぁ、そうですねぇ。自転車だって出入りする度に、庭から階段の上に持って行かなきゃならないし」
「そりゃ重労働だ」
同情心なんてまるで篭っていないような話し振りで男は言って、豊原の家を見上げる。元々は筋肉質だったろう大柄な骨格に、歳を重ねてついた脂肪が垂れ下がっている男の顔には、妙な迫力があった。
「それでも人は、一度定めた住まいからはそう簡単に逃れることはできない、か。家っていうのは、ある意味で一度刻み込まれたら離れられない、呪いみたいなものなのかもしれないな」
和恵も男に習って、夕闇の中にひっそりとそそり立つ我が家を見上げた。リフォーム業者に家の土台が腐っているかもしれないという話を聞いた後、こうして改めてじいっと見ると、今にもこちら側に倒れてきてしまいそうな圧迫感を覚える。
「呪い……」
呪いという言葉を耳にして、なにやら神妙な顔で考え込んでいた和恵を、ペスが一鳴き現実に引き戻した。そして早く家へと帰りたい、と手綱を引くので和恵は男に曖昧に笑って会釈をして、階段を上っていく。
「ま、近いうちに伺わせてもらいますよ」
「はぁ……」
男は、最後にそんな風に和恵に言って、作業着の男を引き連れて去っていった。
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