パレット
セレスト・ブルーに向かって溶けるように延びる、パール・グレイの上り道。
道路沿いにはスプリング・グリーンたちが優しく揺らめき、風はシェル・ピンクの瞬きを運ぶ。
春の陽射しに照らされた街並みは、淡く溶け合うような、パステル・ワールド――。
中学二年生になる春の朝、私が幻に見た世界は、いつものように綺麗で、だけどやっぱり物足りない。
――この世界をどう描けば、私は“見つけることが出来る”のだろう?
そんな、いつまで経っても漠然としたままの想いは、進級したからといって劇的に変わることは、やっぱり無い――そんな、諦めにも似た感情が浮かび上がってきて、溜息を吐きたいような気持ちになる。
だけど。
次の瞬間、その世界に“緋”が現れた。
それは、陽の光の下で、とても、とても鮮やかに映えるスカーレット。
そのヴィヴィッドな色合いは、淡く滲む世界にくっきりと輪郭を浮かび上がらせるほどに、鮮烈で。
私はただ立ち尽くして、呼吸も忘れて、それに見惚れていた。
いつの間にか見ている世界が現実の色合いを取り戻した事にも気付かないまま、私はただ、その女の子を見ていた。
年の頃は私と同じくらいか、少し上だと思う。
白のブレザーに、濃淡ブルー系チェックのスカートという服装は、制服のようだけれど、この辺りでは今まで見たことの無いものだ。
風になびく、腰まで伸びた真っ直ぐな髪は射干玉に艶めいて、ブレザーの純白が、その漆黒を際立たせている。
白と黒のモノクローム・トーン。スカートは寒色系、臙脂のリボンだって鮮やかとはほど遠い落ち着いた色合い。一つ一つを見ていけば、どうして私がそこに明るい緋色を見たのか、不思議に思うのに。
だけどきっと、その地味に見られがちな色合いを纏ってもなお、そうとは見せない彼女の存在感のようなもの、それに私は目を惹かれた。
それを私は緋色に見て、そして同時に、何か、予感のようなものを感じた。
――あの彼女の“色”は、私が探している“何か”に繋がる。
そんな予感に。その、ようやく見つけたヒントに。気付けば私の胸は、ドキドキと高鳴っていた。
――と、その時は、そう思っていた。
昇降口正面の大階段を上り、ステンドグラスが落とすモザイクに染まる踊り場で折り返して二階へ。そこから右へ向かうと一年生、左へ向かうと二年生の教室が並ぶ廊下がある。
今まで踏み入る機会がほとんど無かった方向へ向かう時には、ちょっとだけの緊張感を感じたけれど、廊下は今までと変わらない慣れた色で、その中を、たった二つ奥の教室までの短い距離を歩くだけで、すっかり普段通りの自分だった。
一歩踏み入れた新しい教室の色も、今までとあまり変わり映えしない。
まだ人影まばらな教室内を見回せば、一年生の時に同じクラスだった子がいて、初めて見る子がいる。だけどやっぱり、誰にも、今朝の女の子のような特別な色は無い。
そのせいかは分からないけど、新しい学年というものに対して、思っていたような高揚感はなく、ちょっと拍子抜けしたような気持ちになる。
でもそれは、朝に受けた印象が強すぎたせいなのかも知れない、と、そんな風にも思った。
二年生最初の始業式は、さほど特別な事もなく、相変わらず退屈で。途中、二年生は明日の入学式に参加しない代わりに、この後に椅子などの設営を行うと言われて、少しだけ憂鬱になる。
――そして更に、私にとって、もっと憂鬱なことが。
『二年二組、藤野葵さん』
名前を呼ばれて、壇上へ向かう。
私が“描いたもの”が、春休みの絵画コンクールで銀賞を受賞した、その表彰だった。
久しぶりの受賞に、だけどやっぱり、嬉しい気持ちは湧いてこない。それが、金賞じゃないから、という理由ではないことは、もう分かっている。
昔はこうじゃなかったはずなのに。
――こうなったのは、いつからだっただろう?
私は、物心ついた頃にはもう、時折、世界を現実とは少し違う曖昧な、抽象的な色彩に見る事があった。
最初にそれを絵に描こうとしたのは、きっと、幼い私の、拙い説明の言葉に首を傾げる両親に“伝えたい”という気持ちだったのだろうと思う。
映像として覚えているのは、全然思っていたようには描けなかった絵と、両親の笑顔。多分それは、伝えられない悔しさと、喜んでもらえた嬉しさの記憶だ。そして、その気持ちが、幼い私がそれからも絵を描き続けた原動力になっていたのだと思う。
でも、小学校に入った頃には、私だけが見ている景色が“特別”なのだと何となく理解していて、同時に私は、その特別な景色を、とても綺麗で大切なもの、と感じるようになっていた。
それを見る時に自然と生まれる、いま言葉にするなら「世界をこの美しいままに描きたい」という気持ち、だけどそんなはっきりしたものではない、もっとぼんやりして、でも大きな、衝動のようなもの。いつからか、それに突き動かされるようにして、私は絵を描き続けてきた気がする。
そんな私が、初めて受賞したのは、小学二年生の時。
その時の気持ちは、はっきりと思い出せないけれど、体育館の舞台の上から振り返って見た光景は覚えている。
たくさんの人たちの拍手の音が白い光になって舞い上がって、暗いチョコレートの世界が、明るく淡く変わっていく――そんな光景。
その光景を、私は“良い光景”と感じる。だからきっと、その時の私はまだ、純粋に嬉しかったのだと思っている。
――何かが、足りない。
自分の絵に対して、それをはっきり自覚したのは――そう、あれは、小学五年生の時だった。
それまでも、モヤモヤとしたものが、心の中で少しずつ積み重なるように大きくなるのは、何となく感じていた。
でも、小学五年生の、淡いトパーズの秋。
「おめでとう」
誰からの言葉だっただろう? だけどその言葉に、私は嬉しいよりも先に、違う、と思った。そして、私はその満たされない思いを自覚した。
それ以降、私はその“何か”を探して、迷走した。道具を変えるたび、描き方を変えるたび、塗り方を変えるたび、正解が遠のいてしまうような、焦りのような気持ちを抱えながら。
その間は賞からも遠のいて、一度、原点に立ち返ってみようと思って描いたもの、それが今回の作品だった。
始業式の明後日。校門の前に着いたところで、がっかりしている自分に気付く。
そこでようやく、無意識に“緋の彼女”を探していた事に気付いた。思い返せば、今日は景色がまるで印象にない。
そんな、いつもとは違う自分を他人事のように不思議に思いながら、上履きに履き替えて廊下へ踏み出した。
――その瞬間。
視界の右の端に、ちらり、“赤”が映った。
弾かれたようにそっちを向くと、そこに居たのは、一人の女の子。
私と同じ、地味な濃紺の制服に身を包んでいるけれど、その髪は、その目元は、その鼻筋は、その唇は。何よりその、ヴィヴィッドな存在感は。
私は引き寄せられるように、そちらへ歩いた。
職員室などのある方へ向かう廊下の途中、そこで、彼女は少し見上げるように、壁の方を見ている。近づく私の方を振り向く事もなく、じっと。
何を見ているのだろう? そう思って彼女が見ているものへ目を向けた。
そこにあったのは――私の絵だった。
「あっ、おはよう」
絵の方を向いている瞬間にそう話し掛けられて、ドキッとした。
「あ、うん、おはよう……」
「藤野葵さん、だよね。私は深田茜。同じクラスみたいだし、これからよろしくね」
でも一昨日はクラスにいなかった、一瞬そう思ったけれど、すぐにその名前に聞き覚えがある事に思い当たった。
始業式の日、教室に戻ってからのホームルーム。そこで行われた、自己紹介。
――どうでもいい話だけど、この時だけで他人の名前をたくさん覚えられる人は、凄いと思う。少なくとも私には出来ない事だ。よほどのインパクトのある自己紹介なら話は別だろうけど、一昨日は特に笑いを取りに行くような人もいなくて(一年の時にそれをしてスベった、同じクラスだった男子にちょっと期待したけれど、一年の時に懲りていたらしい)、その時に新しく顔と名前を覚えたのは、私に話し掛けてくれた右隣の中川さんくらいだった。
それはともかく。
「今日欠席の深田茜さんですが、事情があって今はここにいないだけで、明後日には登校できるそうです。彼女は転校生なので分からない事も多いでしょうから、出来るだけ親切にしてあげて下さいね」
自己紹介が終わった後、一年から引き続き担任になった“みなこ先生”(苗字は『湊』だけど、一年の時からみんなそう呼ぶ)がそう言った。
空いていたのは、私の前の席。
そんなわけで、その名前は珍しく私の印象に残っていたのだろう。
「深田さん……転校生の?」
「そうそう!」
「私の事、知ってるの?」
「うん、実は一昨日、私も体育館には居たんだ。表彰されたの、この絵がそうなんでしょ?」
「ああ……、そう、うん」
人前で表彰される事は、とりわけ恥ずかしいとは思わないけれど、彼女に見られていたと思うと、何故か今更、気恥ずかしいような気がしてしまう。
「私、好きだな……この絵」
「…………あ、ありがとう」
「あれ? もしかして、そう言われるの好きじゃない?」
「……ううん。今は、嬉しかった……と思う」
「思う、なんだ。ふふっ。でもそれなら良かった」
彼女に「好き」と言われた瞬間、周りの世界が、今まで見た事が無いほど多彩に色づいた。
そう、それは一瞬。まるで、彩りの風が、私の周りをあっという間に駆け抜けていったような。
そのせいで、驚き? 感動? 動揺? ――とにかく、頭も心もよく分からない感じになって、すぐに言葉が出てこなかった。
でも、そう、確かに私は、嬉しい、とも感じた。彼女の言葉を嬉しいと思って、その嬉しいと思えた事自体も嬉しいような、そんな気持ち。
――そしてその後は、二人で一緒に教室へ向かった。彼女と何か話をしたような気もするけれど、あまり覚えていない。
その時の私は、あっという間にその輪郭を溶かして消えゆく夢の名残を必死に掴み取ろうとするかのように、さっき一瞬だけ垣間見た綺麗な世界が消えないように頭の中に何度も思い描こうとしていたから。
その日の放課後。
「それじゃあ、藤野さん、よろしくね」
「ん? ……えっ?」
掃除を終えたところで深田さんに話し掛けられて、間抜けな返事をしてしまった。
「……やっぱりちゃんと聞いてなかったんだね……」
「えっと、ごめん、何だっけ?」
「一応また聞くけど、藤野さんって、美術部だよね?」
「うん、そうだよ」
「そう、朝にもそれ聞いて、私も入るから放課後に案内してね、って話をしたんだけど、なんか藤野さん、生返事って感じだったから」
「う……、ごめん」
「うん、謝らなくても良いよ。で、これから大丈夫?」
「あ、もちろん」
そうして、新入生勧誘を前にして、美術部員は七人になった。
結局、新入生の入部は二人だけ。美術部は前年度の十一人よりも少ない九人で活動することになった。
うちの美術部は、コンクールへの出品や受賞を目標として活動しているわけではなくて、それぞれがやりたい事をやる、というスタンスだ(その上で、完成した作品を先生が勝手に応募してしまう。一応そういう実績も必要らしい)。
活動内容も立体や絵画に限らず、先生が少しでも“美術的”と認めれば何でも良くて、以前には、写真や映像やコンピュータグラフィックス、更には漫画なんかも認められたりしたらしい。何と言うか、とてもおおらかな部活だった。
とは言え、CGはともかく、写真部も映研も漫研もある中で、美術部にそれを求める生徒は全然いない。だから不人気なんだろうと思う。
もっとも、私にとっては、人が少ない方が気楽だし、それは悪い事じゃないけれど。
――でも、そんな、人付き合いが得意とは言えない私でも、深田さんが一緒という事を考えると、面倒とか億劫とかそういう気持ちはびっくりするくらい無くて、何となくワクワクするような、上手く言えないけれど、何となく前向きな気持ちになったりしていた。
教室で、部室で、一緒にいる時間が多かった私と彼女は、自然と仲良くなっていった。
学校以外でも、遊んだり、絵を描いたり、(一応)勉強したり、もっと仲良くなって。
そして五月に入る前にはもう、お互いを下の名前で呼び合う仲になっていた。
今まで私は、それほどまでに仲良くなった子はいなかった。
茜が、私が絵を描きたい時間を大切にしてくれる、というのは大きな理由だと思うけど、それだけじゃないような気もする。
じゃあ何故だろう? と考えてみてもよく分からないけど、分からないという事を不快に思うわけでもなくて。
だから私は、自分の気持ちを深く考えようともしないで、その幸せな日々を幸せと自覚もせずに過ごしていた。
そんな私の意識が変化させられたのは、五月も終わりが近づいた、ある日。
その日の空は、マウスやトープ、ガーゴイルが群れ集ったような、そんな、近づく梅雨を思わせる色たちだったのを覚えている。
昼休み、私がトイレから戻った時、教室の前は何人かの生徒が誰かを遠巻きに見ているような状況で、その注目されていた誰かは、一人の男子生徒と、茜だった。そして――。
――スキデス、ボクト、ツキアッテクダサイ――。
その時に私が見た色を、どう表現したら良いのか。
敢えて言葉で表現するなら、それは、“どどめ色”。
それが、その男子から、周りへ、ぐねぐねと、じわじわと、広がった。
迫ってくるそれに、私も染められてしまいそうな不快感、恐怖。
地面がぐにゃっと歪んで、世界がぐらぐら揺らいで、私は膝から崩れ落ちそうになる。
「……ごめんなさい。その、あなたがどうこうじゃなくて、男の人と、そういうのは……」
遠く、茜の声が聞こえて、いつの間にか俯いていた私の目に、リノリウムが反射するLEDの白が映った。
何故か「ありがとうございましたーっ!!」と叫びながら走って行った男子は無視して、茜を見る。
その顔は青ざめて見えて、それを見た瞬間、私はついさっきまでの嫌な感じなんて忘れて、すぐ茜の側に向かった。
「茜、大丈夫?」
「葵……。って、葵、顔色悪いよ。どうしたの? 大丈夫?」
「え?」
「いやいや、二人とも顔色やばいって。マジ真っ青じゃん。ちょっとー! 保健委員いるー?」
自覚は無かったけど、教室の入り口にいた中川さんが本気で心配するくらいには、私も青ざめているらしかった。
言われてみれば、まだ足元がふらついているように感じる。
さっき何かに気付いたような気がして、だから何かを考えないといけないような気がして、でも、上手く頭が働いてくれなくて、何を考えれば良いのか分からない。
「わ。大丈夫? 保健室行こう?」
「あ、男子はいいや。私も佐野さんと付き添うから」
そうして、私と茜は、佐野さんと中川さんに支えられるようにして保健室へ向かった。
「ああ、なるほど。……深田さん、大丈夫そう?」
「……はい、友達が、クラスメイトとかも、周りにいてくれたので」
「そっか……」
茜が男子に告白されたと聞いて、養護の先生は茜とそんな会話を交わした。
何か事情があるようなのは分かるけど、そんな、二人だけが何か解り合っているような雰囲気に、何となくモヤモヤする。
その後は私も色々聞かれたけれど、特に問題点は思い当たらないということで、ひとまず五限目だけベッドで休んで様子を見るという事になった。
「気分が悪くなったりしたらすぐに言ってね」
そう言って、養護の先生はカーテンを引いた。
茜は横になって少ししたら眠ってしまったようで、規則正しい寝息が聞こえてくる。
私はもう気分の悪さは感じなくて、カーテンレールの上からこちらへ入り込もうとする白をぼんやり見ながら、落ち着いた頭で、さっきの事を考えていた。
何かに気付いた。それは、そう、私があの“どどめ色”に染められそうだと感じたとき。
あのとき私がそう感じたのは、きっと、私が、無色透明だからだ。
そんな色の無い私が、自分の絵の中にずっと探していた“何か”は、“自分の色”だったんじゃないだろうか。
そうやって言葉にしたら、それは間違っていないような気がする。
ずっと探していた“答え”に大きく近づいた。なのに、そこに嬉しさは無くて、今の私の胸の中には別の何かがぐるぐると渦巻いている。
それは何だろう?
そう考えてすぐに、さっきのモヤモヤが思い出された。
そして、あの“どどめ色”。
それらは少し似ている気がする。
視線を横に向けて、隣のベッドで眠る茜を見た。
顔は少しこちらに傾いていて、その、今まで見たことがない寝顔は、無防備なのに少し大人びて、綺麗だと思う。
その瞬間。――タァン。と、胸を叩かれた気がした。
突然の刺激に、心臓が慌てふためいている。
初めて茜を見たときのことを思い出す。
あのときのように、ドキドキと高鳴る胸。
――あ、これ、“好き”だ。
ふと、そう思い付いて。思ってみたら、もの凄く腑に落ちた。
ライクじゃなくて、ラヴってやつだ。
私も茜も女の子で、だからそれが良いとか悪いとかじゃなくて、最初から考えてもみなかった。
同性愛というものは聞いたことはあったけど、それがどういうことかなんて考える事もしないうちに、それは“自分とは関係ないもの”だった。
そもそも恋なんて知らないんだから、こんなの想像しようも無かった。
でも今、一気に色々な事がぱあっと解ったような気がして、なんていうか、テンションが上がる。
ワクワクして、うずうずして、このままじっと寝てなんていられない。
――描きたい!
今までで一番、そう強く思った。
私は茜に恋してる、そう理解すると、無色透明でしかなかった私が、何色にでもなれる気がした。
今なら、その色で、ようやく納得できるものが描ける。そう思った。
そう思いながら、もう身体はベッドから抜け出していて、そして、カーテンを勢いよく開けた。
「きゃっ!? って、藤野さん……どうしたの?」
「絵を描きたいです!」
「えっ……。ああ、うん、そう……。取りあえず元気そうで良かったわ。でもね――」
そう言いながら椅子から立ち上がった先生は、私の肩に手を置いて。
「まだ六時間目があるでしょう? 元気なら、授業をサボるのは良くないと思うわ」
「……はい」
全くもってその通りだと思った。
翌日の放課後。
私は学校裏手の丘の上に、茜と二人、画材一式を持ってやって来た。
本当は昨日の内に、沸き上がる情熱をキャンバスにぶつけたかったけれど、それでも諦めるくらい、天気が悪すぎた。
でも、今日の空は、春のサファイアに輝いている。夜の内に降った雨が昨日の暗い色を全部洗い流してくれたみたいだった。
一晩、間を置いて、少し冷静になった。
冷静になって先の事を考えると、不安も生まれてくる。
不安は、“黒”だった。
同じ黒でも、茜の髪と違って美しくない、どこまでも暗く深い、黒。
どんな色も、その中に飲み込んでしまいそうなほどの、黒。
――だけど、私が納得いく絵が描けたら。
きっと、その黒さえも自分の中に取り込んで、何色にでも変えてしまえる気がした。
女の子が女の子を好きになるなんて、多分“普通”じゃない、“特別”だ。
でも私にとって、“特別”なんて、慣れっこだった。
だから、大丈夫。
「葵、何かいつもと違うね。やる気満々っていうか」
「うん、大切な事が解ったから。良いものが描ける気がしてるの」
「大切な事って?」
「……これが上手く描けた時に、茜にちゃんと伝えたいな。待っててくれる?」
「……うん、分かった。楽しみにしてる」
私は恋を知った。
でも、茜の気持ちは判らないから、これはまだ、片想い。
この想いが、どんな結果に辿り着くのかは、分からないけど。
今はただ、今までで一番美しく見えるこの景色を、丁寧に描き上げよう。
想いを伝えた先に何があっても、今のこの、かけがえのない想いの色が、決して色褪せないように。
――最初に使う色は、もう、決まっていた。
私は、筆の先にパレットから大切にすくい上げた、その、初恋の色を、そっとキャンバスに乗せた。