第6話。豚小屋の宝石
川で泥を洗い流した人形の姿は、言葉にできなかった。
美しい、なんて一言じゃあとても言い表せねえ。
艶やかに水滴を滴らせ、細い肩に絡みつくあの髪が。
西日を浴びてキラキラと輝くあの濡れた肌が。
優雅に丁寧に自分の肌を撫でるあの仕草が。
生物では実現し得ない曲線を描く鉄の体が。
俺を見つめるどこまでも澄んだ瞳が。
それまでの俺の全てを壊した。
この感動を。鳥肌が立ち、胸が焦げるほど熱くなり、目頭が熱く潤むこの感覚を、どう言葉にすればいい。美しい? 素晴らしい? それとも神々しいか? どれも違う。チクショウ、学がねえから言葉が見つからねえ。
「ダグラス様、鍋が吹きこぼれています」
「お、あ、ああ、あ? な、鍋? 鍋か、ああ、鍋?」
人形に声をかけられて、ようやく俺は鍋をカマドにかけていたことを思い出した。……こりゃダメだ。人形に見惚れすぎて、それ以外のことがぜんっぜん頭に入ってこねえ。川から魚を獲って家に戻ってきた時も、晩飯の準備をしていた時も、ひたすら人形に目を奪われてた。気付けばすっかり日暮れ前だ。
「お前、人間と同じ飯は食うのか?」
「不可能です。また、当機には半永久機関に限りなく近い動力炉が搭載されているため、外部からのエネルギー補給は不要です。そのため、通常の人間と同じ食事は必要ありません」
「よく分からねえが、いらねえんだな」
ブブブブブブブブ……。
俺は鍋にたかろうとするハエを手で追い払い、何年も洗ってない汚れた二つの皿に魚の頭の浮いたスープを注いだ。俺の分とジョーの分だ。もう少し冷ます必要があるな。
「前方に産業廃棄物を確認」
「さん……何だって?」
「つまりゴミです」
「ふざけんな! これは俺が作った飯だ!」
「警告。食品衛生法違反の疑いがあります。深刻な健康被害を引き起こす可能性があるため、誤って体内へ摂取した場合、可及的速やかに医療機関へ相談してください」
「どっからどう見ても美味そうな魚のスープだろうが!」
「失礼しました。こちらの地方では煮沸消毒が不十分な川水に、内臓を除去していない不衛生な魚を浸して沸騰させる、血や体液の入り混じった濁り汁を、スープと呼ぶのですね。蛮族の料理文化に理解が足りず、申し訳ございません」
「その口の悪さは何なんだお前! もしかしてお前、自分の分の飯が無いことを怒ってんのか?」
「否定します。当機には感情が存在しません」
「だったら人形らしく黙ってろ。お前が言ってることは何も分からねえ」
ブブブブブブブブ……。
俺はスープに群がるハエどもを手で追払って、スープを一口すすった。
「熱っちぃ!」
クソ。吹きこぼれるほどグツグツに煮てしまったことを忘れていた。もう少し時間を置かねえと食えたもんじゃねえ。人形はもう何も言わねえようだが、今のみっともねえ姿が責められているような気がして、いたたまれねえ。
ブブブブブブブブ……。
俺のスープ。ドロッドロで、血生臭くて、骨だらけで、目玉やら内臓やらが浮いていて、底には少し砂が混ざっていて、家中のハエが集まってくるいつものスープだ。
……さっきは見栄を張って美味そうなスープとか言っちまったが、たしかにこんなのを料理なんて呼べねえ。他人から見たら残飯に見えてもおかしくはねえか。
ブブブブブブブブ……。
「チッ、うっとおしいな」
「申し訳ありません。マナーモードに設定を変更いたしますか?」
「お前じゃねえよ」
いつもは気にもならねえハエどもが、今日はやけに邪魔に感じる。人形はハエにたかられても瞬き一つしねえが、俺はなぜだか無性にハエどもが腹立たしい。
いや、家中を飛び回るハエだけじゃねえ。縮れ毛やホコリや乾いた土だらけの汚れた床も、部屋の隅をガサゴソ這い回る虫も、親父が暴れて傷付け壊した家具や壁の穴も、今日はやけに気になる。
「悪いな。せっかく泥を落としたのに」
俺は今日まで家がどれだけ汚れても気にしたことはなかった。それが自然で当たり前のことだったからだ。虫と死臭にまみれて死体を運ぶ墓守りに相応しい家だったからだ。
「こんな所じゃ、また汚れちまうな」
だがこいつは違う。俺とは違って、汚れていいものじゃない。例えるなら、豚小屋に宝石を放り込むようなもんだ。美しいものが俺のせいで汚れちまうのは……なんつうか……こう……ざわざわする。落ち着かねえ。
「ご要望でしたら、お部屋の清掃をご命令ください」
掃除か。それはいい考えかもしれねえ。
「名案だ。ただし今日はもう遅いから、明日やろう。俺もやるが、お前も暇なら手伝え。たまにはジョーも洗ってやらねえとな」
「ダグラス様は体を洗われないのですか?」
「俺が風呂なんて入る必要は……」
頭をボリボリと掻くと、溜まりに溜まったフケがブワッと広がった。掻いた爪を見るとドロドロになった垢が詰まっていて、指先からノミだかシラミだかが逃げていった。俺を見つめる人形の視線が妙に気になる。
「……ある、か」
汚いものを人形の隣に置きたくねえなら、俺自身も掃除しなきゃなんねえ、か。
……神に誓って、今さら身だしなみがどうとか見てくれがどうとかを気にし始めたわけじゃねえ。絶対に違う。
「ん? ところで掃除といえば、俺の布団はどうした。どこかに干してあんのか?」
「当該物品の衛生状況には深刻な問題があり、汚泥の除去だけでは、清掃は不十分だと判断しました。よって当機は清掃の命令を完遂するため、加熱による滅菌処置を行いました。なお、火災の発生を懸念して、当該処置は屋外で行っております」
「…………つまり?」
「外で燃やしました」
山の日没は早い。
美味くも不味くもねえ夕食が終わった後、もう怒る気力も消えた俺は真っ暗な家の中で横になった。ジョーがノソノソと俺の側に来て、ゴロンと横になる。俺はその頭を軽く撫でてやりながら、今日の出来事を振り返った。
疲れた。
今日はただただ疲れた。
朝は土砂崩れを見に行っておかしな人形を拾って、昼は殺された子供の遺体を埋葬して、夕食後はあのバカ人形に常識を叩き込む勉強会だ。まさか俺が誰かに何かを教える立場になるなんて、神さまでも思わなかっただろうよ。
そして明日はもっと忙しい。家を掃除して、虫どもを駆除して、川でジョーを洗って、俺も体を洗って……ついでに髪も切るか、邪魔くせえ。
しかし、いったい何から手をつけりゃいいんだ? 煙で家をいぶして虫を追い出すか? それとも家中のゴミを外に埋めることからか? それと明日の飯はどうするかな。次は山に罠を仕掛けてみるか? ああくそ、いろんなことを考えちまう。今日はマジで疲れた、疲れた、疲れた……が……何だろうな、妙に新鮮な気分だ。
人形を掘り出した時の事を何度も振り返る。あの細い手を俺が握り、あの美しい頬を俺が撫でた。まだこの手に感触が残っている。
泥が落ちて顔がはっきり見えた時のあの衝撃。こんな美しい女がこの世に居たのかと震えた感動。それが死によって永遠に失われてしまった事への失望。かと思えばいきなり動き出して……。
「ダグラス様、眠れないのですか」
暗闇の中、高い位置から声が飛んできた。
「……おう。人がウトウトしてきた時に、話しかける奴がいるからな」
ウトウトしていたというのは嘘だ。布団も無しで、人形に見られたままじゃあ眠気もやって来ねえ。
「お声がけしてしまい、申し訳ありませんでした」
今日は月が出ていない。
真っ暗で何も見えねえが、人形は部屋の片隅に突っ立っている。眠る必要はないから、こうして一晩中立ちっぱなしで朝まで待機するそうだ。人形だから当たり前のことなんだが……どうにも監視されてるようで、落ち着かねえ。
まさか俺が眠ったあとに悪さをするつもりじゃねえだろうな。
ふとそんなことを考えたが「ヘッ、バカバカしい」すぐに鼻で笑い飛ばした。
「バカバカしいとは、何がでしょうか」
「ん? ああ、お前が何かを企んで俺に近づいてきたんじゃねえかと思ってよ。例えば俺の命とか金とかな」
「否定します」
「だろうよ。どっかの貴族サマならいざ知らず、こんなド田舎の墓守りなんかを狙う強盗がいるわきゃねえ。ゴミクズみたいな俺の命でも金でも、持っていきたけりゃいくらでもくれてやるってんだ」
「当機はどちらも必要としておりません。当機の行動目的はダグラス様のお役に立つことのみです」
「ヘッ、それにしちゃあ酷えザマだったじゃねえか。飯は作れない、掃除もダメ、常識も無し。お前に何ができるんだ?」
「お役に立てず、申し訳ありません。サーバーとの応答が途絶しており、戦闘用に最適化したプログラムからの切り替えが、困難な状況となっております。この不具合を報告しますか?」
「何言ってんのか全然分からねえよ。とにかくだ、そうやって突っ立ってられると落ち着かねえ。朝まで起きてるつもりなら、眠るまででいいから撫でてくれや」
俺はジョーの頭を撫でていた手を引っ込めた。
「了解いたしました」
一面の暗闇の中、人形の足音が枕元に近づいてきた。床がギギギとひときわ大きく軋む音がする。どうやら人形が屈んだようだ。こいつ、さては俺より重いな?
「こうでしょうか」
そして俺の頭に冷たい手が置かれ……っておい!
「俺じゃねえよ! ジョーだ! ジョー!」
「ジョー様はすでにお休みになられています。深夜に大声を上げることはお止めください。非常識です」
「お前に常識を叱られてんの俺!? 嘘だろ!?」
「体温及び心拍数の急速な上昇を確認しました。ダグラス様は興奮状態にあります」
「うるせえ! これはアレだ! ビックリしただけだ!」
「お望みなら膝枕もいたします。頭を上げてください」
ゴスッ。
人形の膝が俺の頭のてっぺんにブッ刺さった。
「痛ってぇ!」
油断していた分、目から火花と涙が出るくらい痛え!
「ダグラス様の反応速度の遅さに懸念を表明します」
「お前が言ってから行動するまでが早すぎんだよ!」
文句を言いつつも、人形の差し出した膝に頭を乗せてみる。
「そして硬ってぇ……」
人形の太ももはとにかく硬くて冷たかった。
人間そっくりなのは表面の皮膚だけで、その下には筋肉や脂肪の代わりに鉄の体があるから当たり前なんだが、枕としての使い心地は最悪だった。
人形が俺の頭を撫で回す。その指に俺の髪が絡んでも遠慮なく動かすもんだから、ブチブチと髪が引き抜かれた。
「痛ででででで! 撫でるならせめてもう少し弱くやれ! 俺は石鹸じゃねえんだぞ!」
正直に言うと、俺は人形に割と期待していた。
もしかしたら女としては役に立つんじゃないかという、卑しい下心があった。
だがそんな醜い打算も、実際にその体に触れてみるとあっさりと崩れ去った。こりゃダメだ。分かっちゃいたが、女の体じゃねえ。最高なのは見た目だけだ……。
「分かった分かった、もう十分だ。そうやって俺に媚びなくても、お前に悪意が無いのは分かった」
「バカでもご理解いただけましたでしょうか」
「悪意はなくても悪気はあるよなテメェは!」
「否定します。当機に搭載されているA.Iには、生物と同様の意思や感情は実装されていません」
エーアイ、か。こいつの言うことは大半が分からねえが、その響きだけは何となくこいつに似合っている気がした。
「あー……ジョーはな、俺が名前をつけたんだ。今から十年以上前に、親父がどっかの村から貰ってきた。親父もお袋も世話をしようとしねえから、俺がずっと面倒を見てたんだ」
「そうですか」
「嘘でも少しは興味ありそうに相づちを打てってんだ」
「申し訳ございません」
「だからその、何だ、もう一人くらい居候が増えたところで迷惑でも何でもねえ。他に行く所が無えってんなら……お前の持ち主が探しに来るまでは置いてやる」
「当機の所有者はダグラス様です」
「俺はただ拾っただけだろうが。とにかくだ、しばらく家に居るってんなら、その間はお前の名前が必要だ。何とかかんとかいう長い名前は覚えられねえし理解できねえ」
「当機の正式名称は、戦闘用自律人形兵器・TYPE-A・通常版です。製造番号までご確認なされますか?」
「いちいちそんな名前で呼べるかっての。だから俺が名前を決めてやる。お前は今日からアイだ。少なくともここにいる間はそう呼ぶ。いいな?」
「アイ。了解いたしました。単純かつ安直なネーミングに感謝いたします」
「文句ありそうな態度だなおい。……まあいいか。俺はもう寝る。お前も楽にしろ」
「了解いたしました。おやすみなさいませ、ダグラス様」
おやすみなさい、か。
誰かにそう言われるのは初めてだ。膝枕も頭を撫でられるのも、親にさえやってもらった記憶は無え。ヘッタクソで硬くて痛いが、案外そんなに悪い気分じゃねえ。
これからも一生変わり映えの無い日々だとばかり思っていたが、どうやら神さまは新しい刺激を俺に与えてくれたらしい。これが生身の女だったらもっと嬉しかったんだが、贅沢は言えねえ。
明日はもっと忙しくなる。
これから始まる新しい生活に、面倒くささと少しばかりの期待を膨らませつつ、俺は睡魔に身を委ねた……。




