第5話。クレア教官の戦闘訓練
「槍は優れた武器だ。剣や弓と違って素人でも扱え、敵との間に障害物を挟むことで一方的に攻撃も出来る。ゾンビは肉が腐って脆くなるので、この程度の武器でも十分だ」
僕たちは一階に集められ、クレアさんが作った槍を持たされている。包丁の刃物部分を柄から外し、ホウキやモップの先端に固定した武器だ。
「な、なぁ、本当にやるのかよ」
「無理、マヂ無理だし……」
「のうクレアさん、ワシらは歳が歳なんじゃが……」
僕たちは封鎖した窓に向かい合う形で、横二列に並ばされていた。僕は全列で両隣りには冒険者とキャバ嬢。後列には店長と奥さんと老夫婦。クレアさんが作った槍を持ち、口々に不安を漏らしていた。
「言われた通りにやれ。役に立たない者は殺す」
僕らを監視するクレアさんの一言が、全員を容赦なく黙らせた。もしこの場で逃げ出そうものなら、彼女は宣言通りに殺すに違いない。
彼女はゾンビより強くて恐ろしい。反抗するくらいなら、まだゾンビと戦った方が勝ち目がある。僕だってそう思う。
「クレア様、近くにいるゾンビは一体のままです」
「よし、ミサキはそのまま二階から見張りを続けてくれ。ゾンビが集まってくるようならすぐ連絡しろ」
「はい!」
少しだけ顔を出したミサキさんが二階に戻っていく。この窓の前に積み上げられたバリケードはすでに崩されている。外の地獄と僕らを隔たてている物は、薄っぺらい木窓一枚になってしまった。
その窓の鍵にクレアさんは手をかけた。
皆が一様に息を呑む。やめてくれ! 声に出せないまま誰もがそう叫んだ。カチン。鍵が外される。
「私に甘い期待を持つ奴がいるかもしれないので、先に断言しておく。私はお前らを守ってやるつもりなど無い。この町をさっさと抜け出して次の仕事に向かう予定だ。生き延びたければ自分達で戦え」
そして、驚くほどあっさりと地獄に繋がる窓を開けた。
死人が歩いている。
窓の向こう、すぐそば、距離にして10mあるかないか。
獲物を探し、血と悪臭を撒き散らして、唸り声を上げている!
「さあ構えろ! これは選別だ! 役立たずが一人死ねば、水と食料がその分だけ浮く! お前達が本気で生きたいのならば、戦って証明して見せろ! 自分は役に立つ! 敵を殺して味方を守れるとな!」
クレアさんが大声を張り上げると、ゾンビがこちらを向いた。生者を妬む死人の目。飢えと苦痛を腐敗で煮込んだ目が僕たちを見つけた。
絶叫にも似た声を上げて死人が走り出す。人間の、体の中身が、あんなに撒き散らされて、血が、肉が、ああ、ああ。
「奴らは必ず窓枠で足が止まる! そこを槍で喉を狙って突き刺すだけだ! 子供でも出来る事が出来ないような奴は、私が後ろから刺し殺す!」
クレアさんが僕らの後ろに回り込んだ。
「そもっそも! どうしてウチらが戦わされるのよーっ! アンタ強いんでしょ!? だったらアンタが戦って、弱いウチらを守ってよーっ!」
「断る。正義の味方か白馬の王子様にでも頼め」
「ざっけんなしーっ!」
クレアさんの容赦ない言葉にキャバ嬢が泣いた。
窓の向こうからは、伸びきった舌を振り回す死人が迫る。その顔、その傷、その怨念が、僕らに死を叫んでいる。
「無理だ! 無理無理無理無理だよおおおお! 俺は本当は冒険者でも何でもねえ、ただのドカタなんだ! 戦うなんて無理なんだあああああ!」
「お前が冒険者ではないことくらい、とっくの昔に知っている。本物の冒険者ならまず身分を明かすからな。だがそれが何だ。お前は戦わずに噛まれて死ね。そしてゾンビになってもう一度殺されて死ぬといい」
「なんでなんなんだよもぉおおお!」
偽冒険者も泣いた。
死人が窓枠にぶつかって足が止まった。こちらに向けて伸ばされた手の先から、腐った血液が悪臭と共に滴り落ちる。
悲鳴と絶叫が僕の周りを包み込む。足が震える手から力が抜けていく。死人が吠える。手作りの槍があまりにも頼りない。こんな付け焼き刃の武器で戦うなんて無理だ。
死人が窓枠に手をかけて、乗り越えようとしている。
うわ、うわあああああああああああああ……。
「よし、作戦開始だ」
クレアさんが僕の背中を叩いた。
「任せたぞ、ヨハン」
腹の底から何かが込み上がり、喉から飛び出していく。
それはやる気とか使命感とかなんてものじゃない。
理性も良心も無視する、とても強くて恐ろしい感情。
狂気だ。
僕は狂気を槍に乗せて、力の限りに突き出した。
「うわあああああああああああああ!」
槍の先端が死人の胸に触れた瞬間。
奇妙な感覚に陥った。
時間の流れが狂ったように、全てがゆっくりに見えるのに。
槍は自分の体の一部のように。
あまりにも鮮烈な感触を伝えてくる。
最初に感じた感触は、弾力。
肌が刃を押し返そうとする、ほんのわずかな抵抗。
ブチュッ。
不快な音と共に、その反発を突き抜けた。
泥の中に棒を突っ込んだ感触に似てる。
突く、なんてものじゃない。沈む、だ。
切っ先がズブズブと肉に埋まっていく。
埋まった先に、カツンと硬い手応えがあった。
多分、骨だ。
槍を伝わる血の、人の温もりを持たない死の冷たさまで。
僕は確かに感じていた。
ああ。
僕は本当に、人を、刺してしまった……。
「見事だ、ヨハン!」
クレアさんの称賛の声が、僕の感覚を現実に引き戻した。
「今日からお前は、この町を守るために真っ先に戦った勇敢な男だ! そのまま奴を押さえつけておけ!」
言われて気が付いた。
胸に突き刺さった僕の槍がつっかえ棒になって、ゾンビは窓枠を乗り越えられない。それほど力を入れているわけではないのに、こんなに簡単でいいのだろうか。
どくんどくんと心臓が高鳴る。今まで感じたことのない達成感と高揚感が湧き上がり、罪悪感を塗り潰していく。そうか。僕は自分の役目を果たせたんだ。
「次はお前だ! ヨハンに続け!」
クレアさんがキャバ嬢の背中を叩いた。
「無理、無理だし! ウチにそんなん無理!」
キャバ嬢は首をブンブンと左右に振って拒絶する。「そうか」クレアさんのぞっとするほど冷たい声。
「なら役立たずは決まったな。三秒後にお前は死ぬ。いーち、にーい」
「やればいいんでじょお! やればああああああ!」
キャバ嬢の槍が死人の腹に勢いよく突き刺さった。僕の槍よりも深くズブズブと沈み込んでいく。これは貫通しているのではないだろうか。
「よくやった! これで今日からお前はこの町で最強の女だ! もう男に媚びる必要も無い! 自分の身は自分で守る力がお前にはある!」
「ふっ、ふぐううううう〜……!」
クレアさんに褒められて、キャバ嬢は涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった顔を歪めた。悲しみに泣いているにも見えるし、怒っているようにも、嬉しがっているようにも見える。きっと彼女の中では様々な感情が渦を巻いているのだろう。
僕と同じように。
「よし次! 偽冒険者のお前だ! まさか女と若造に出来る事が出来ないとは言わないだろうな!」
「もう何でもやっでやるああああああ!」
偽冒険者の槍が死人の胸に突き刺さった。僕の槍のすぐ隣に刺さったその槍の先から尋常じゃない量の血が溢れ出る。
「見事だ! 一発で心臓を貫いたな! お前は今日からジェルジェの世界樹を伐採した冒険者などではなく、ウィダーソンの惨劇を戦い抜いた男だと堂々と名乗るがいい!」
クレアさんの称賛を受けて、偽冒険者は泣きながらも頬を釣り上げるような笑いを浮かべた。彼もまた、僕と同じ高ぶりを味わっているに違いない。
「さあ! 前列が敵の動きを止めたぞ! 次は後列の店長夫妻と老夫婦! お前達が首を刺して敵を仕留めろ!」
「い、いや、その……そんな、その」
「ワシらみたいな年寄りは、もう体も動かんし……」
しかしクレアさんの号令を受けても、後ろの人たちは動こうとしないようだ。この後に及んでも、まごまごと言い訳をしている。僕だって出来たのに、何をしてるんだ。
「よし、生い先短いジジイとババアは殺処分だ! そしてお前らが敵を殺さなかったから、お前らの孫は生きたまま食われて死ぬ! 何もしなかったお前らは、あの世で孫と再会して永遠に責め続けられるといい!」
「そ、それは……それだけは……!」
「店長夫妻も今から処分だ! お前らを助けたアントニオの犠牲は無駄だったな! この店の財産は私が骨の髄までしゃぶりつくしてやるから安心して死ね!」
「ううううう、うわあああああああ!」
「あああああああああ!」
「孫に責められるのは嫌じゃああああ!」
四本の槍が次々と死人に突き立てられた。しかし喉に刺さった物は一本も無い。胸と腹に刺さったのが二本で、残りは肩と頬を掠めて切り傷を作った程度だ。やはり僕らのような素人では、狙った場所を突き刺すなんて芸当は難しいようだ。
「素晴らしい! 後列は年にも関わらず、敵と戦う気概を見せた! この店も孫も、お前達なら必ず守れる! 後は場数を踏み、腕を鍛えるだけだ!」
僕のすぐ頭の後ろからクレアさんの声が聞こえた。
「だから恐れるな! 頭を使えば敵は簡単に倒せる!」
クレアさんが背後から僕に覆い被さるように体を重ねてきた。背中に伝わる女性の胸の柔らかな……あれ……?
あっ。
……それでも女性特有の体の柔らかさは、僕の心臓を更に昂らせた。クレアさんの手が僕の手の上に重なり、痛みを覚えるほどに強く僕の手の上から槍が握られた。
「腕から力を抜いて私に合わせろ」
クレアさんに従って腕の力を緩めると、死人に突き刺さっていた槍が引き抜かれた。傷口からドロリと赤黒い血が漏れる。
「せえのっ!」
僕の槍は、寸分の狂いもなく死人の喉を貫いた。滑り込むように肉を裂き叩き割るように骨を砕く手応えに、僕は薪を斧で上手く割れた時の感覚を思い出した。得体の知れない快感がジワジワと腕から頭に染みていく。
僕らに伸ばしていた死人の両腕が、ぶらんと垂れ下がった。その瞼が激しく痙攣する。クレアさんが槍を引き抜くと、同じく突き刺さっていた槍も一本二本と引き抜かれた。支えを失った死人は前のめりに倒れて窓枠にもたれかかった。
死んだのだろうか。……いや、殺してしまったのだろうか。死人を? 殺した? 僕が? 死人を、殺した……。
「よくやった。私の想像以上の働きだったぞ」
クレアさんが僕の肩を叩く。「あ……」僕は何かを言おうとしたけれど、何を言いたいのかわからず硬直してしまった。
クレアさんはそんな僕と目を合わせて頷くと、ほんのわずかに唇の端を綻ばせる。そしてまだ呆然と死人に槍を構えている他の人たちの肩を叩きながら、ねぎらいの言葉をかけて回った。
「お前は才能がある。本物の冒険者に転職しても上手くやっているかもしれないな」
「勇気を出してよく敵の足止めをしてくれた。お前は本当に立派だ」
「店長がいるならこの店は安泰だ。アントニオも必ず助かるから心配するな」
「孫はこの町にいるなら、後で家を教えてくれ。私が様子を見てこよう」
奇妙な高揚感と連帯感が場を包みつつあった。手の先がじんじんと熱を発し、この季節にも関わらず後から後から汗が滲み出てくる。
酷い顔で泣いていたはずの僕たちは、熱気に火照る体を持て余しながら互いに顔を見合わせた。顔中の穴から垂れ流した液体で誰も彼もがベタベタになった酷い顔だった。
「……やれた」
偽冒険者が漏らしたその一言が、勝利の実感をもたらした。頬が自然と緩む。僕だけではなく、皆も。
そうだ、やれたんだ。人を食う恐ろしい怪物と僕は戦って、勝ったんだ。
「クレア様! ゾンビがそっちの窓に近づいてきます! 数は二体!」
「二体だな! 分かった!」
二階から聞こえた警告に、クレアさんが返答する。
二体、二体か、二体だな。僕は槍をぎゅっと握った。今まで感じたことがないほどに強烈な気力が体を巡っている。士気、あるいは闘志と呼ばれる感情だろうか。こんなの初めてだ。
僕は皆を見渡した。誰も何も言わなかったが、僕らの目は確かに言っていた。やれる。戦えると。
そして、クレアさんは頷きを持って皆の意思に応えた。