第3話。敵戦力分析
一階の出入り口の封鎖があらかた終わり、不安を持て余し始めた頃。僕たちはクレアさんによって二階に集められた。二階は壁や仕切りの無いワンフロアで、柔らかそうなソファーと、高級そうなテーブルがたくさん並べられていた。壁にはムーディな紫色のカーテンが一面に取り付けられ、フロアの中心には何種類もの熱帯魚が泳ぐ大きな水槽まであった。
そのフロアの隅には、椅子に座るアントニオさんの姿があった。しかしその右腕は肩の付け根から切断されており、血の滲む包帯がまかれていた。その状態で、彼は手足の先までロープで椅子にガッチガチに縛り付けられている。意識を失っているのか深く項垂れており、足元には床に広がる血の染みと共に、空になった酒瓶が転がっていた。
そして店長とオバさんは、そんなアントニオさんの側でグスグスと嗚咽を漏らして泣いている。
「そちらは今は気にするな。こっちの窓に集まれ。ミサキとハスキはそっちの窓から外を見ろ」
クレアさんの指示に従い、僕らは一箇所ににぞろぞろと集まった。僕にキャバ嬢に老夫婦に冒険者の男性。隣の窓には二人の女の子が並んだ。
「我々が現在置かれている状況を、これから説明する」
クレアさんがカーテンをめくり、通りに面した木窓を開け放した。暗い室内にオレンジ色の光が差し込む。
身の毛もよだつ唸り声と悲鳴を連れて。
「外を見ろ。ただし大声は絶対に出すな」
通りは血塗れの人たちで溢れかえっていた。
ズル剥けになった顔の皮をアゴから垂らしている人。グチャグチャに飛び出したハラワタを気にもせず、引きずりながらフラフラと彷徨っている人。太った男の人に押し倒され、胸を齧られて泣いている女性。母親の死体を齧る乳児。突然起き上がって、その乳児を抱えて歩き出す母親。
見慣れた街並み、毎日歩いた通りは、今や血と肉で溢れかえる地獄絵図になってしまっていた。
メチャクチャだ。あまりにも酷すぎて現実感がまるで無い。これはもしかしたら夢なんじゃないだろうか?
「こっ、これはいったい……」
僕の周りの人たちも目の前の光景が信じられないようだ。一様にポカンと口を開けて、変わり果てた街並みを眺めている。
「もし誰かに助けを求められても、絶対に中に入れるな」
クレアさんが指さした先。通りを挟んだ向かいの家の窓が開いていた。玄関ドアは閉められていたけれど、全開になった窓からは、血塗れの人たちが上半身を押し込むようにして次々と乗り込んでいく。家の中からは、来るなとか、殺すぞとか、切羽詰まった怒鳴り声が聞こえていた。
「窓は破られたのではなく、外側に開いているだろう。逃げてきた奴が窓から家の中に入り込んだんだ。追ってきた連中を引き連れてな」
ほどなくして怒鳴り声は絶叫に変わった。苦痛と恐怖を訴える痛々しい声を聞いていられなくて、僕は耳を押さえる。
絶叫を聞きつけた死人たちが、どんどん向かいの家に集まっていく。もう十人ほどが入っていっただろうか。家の中は目を覆いたくなるほどに酷い惨状になっているに違いない。
「あの、あの、なん、なんですか、これ、これ」
「……わ、わかりません」
僕の前にいたお婆さんが振り返って僕に聞いてきた。僕は自分でもどんな顔をしているのかわからないまま、首を横に振る。僕だって何が起こっているのか理解できない。人が人を襲って殺すなんて、明らかに異常だ。今日の昼までは平和だったのに。どうして、なんで、なんでこんなことに。
「ああああぁ……終わりだぁぁぁ……」
僕の隣にいた冒険者の男が膝から崩れ落ちた。「俺たちはみんなここで死ぬんだぁぁぁ……!」目からボロボロと涙を溢し、頭を抱えて塞ぎ込む。彼の悲痛な声につられて、僕も泣きそうになってしまう。
「終わり? これのどこが終わりなんだ」
クレアさんが彼の腕を掴んだ。「よく見ろ。この程度に絶望する必要など全く無い」そして無理やり立たせて彼の後頭部を掴み、力づくで彼に窓の外の景色を見せた。
僕たちは自然と後ろずさり、彼女たちに場所を開ける。
「この程度、ジェルジェに比べれば子供騙しだ。お前も冒険者なんだろう。こんなものはどこにでも湧く、普通の敵だ。死にたくないのならば、泣く前に敵を観察しろ。私達のようにな」
クレアさんの目線を追って横を見れば、隣の窓からは黒髪と銀髪の子が並んで外を眺めていた。「ミサキ、ハスキ、あいつらを見て分かった事を言え」クレアさんが命令すると、二人は同時に頷いた。
「素手で人を襲って食べるようです」「犬や猫には見向きもしないぞ」「近くにいる人よりも、走って逃げる人や大声を出す人を優先的に狙っているようです」「クレアの槍の動きにも反応してなかったぞ」「目は悪いのかもしれませんね」「あいつら、ドアの開け方も知らないみたいだぞ。力任せに押してるだけだ」「武器も使わないようですね」「ドアでもない壁を押してる奴がいる。頭は悪そうだな」「身体能力は人間とあまり変わらないようです」「腐った酷い匂いがする。急に腐るのか?」「同士討ちはしないようなので、仲間を見分ける能力がありそうです」「捕まえた人間を食って、そいつが死んだら食うのを止めてるぞ」「襲っている人は全員、酷い怪我をしています」「あそこの死体、動き出したぞ。奴らの仲間入りだな」「あの怪我で死なないというよりも、死んだ後に仲間になるのでしょうか」
少女たちは先を争うようにして矢継ぎ早に情報を並べていく。その様子に、クレアさんは満足そうに頷いた。
「あいつらは雑魚だ。頭が悪く、統率も取れず、武器も矢も火も使えない。身体能力は人間の域を出ず、体がすぐ腐るので壊しやすい。せいぜい厄介な伝染病を持った野良犬が大量にうろついている程度の脅威だ。見た目が恐ろしいだけで、生きた人間の軍隊には手も足も出ない」
一方でクレアさんは説明しながらも、冒険者の頭から手を離さない。一緒に外を見下ろしつつ窓の外に落とさんばかりの勢いで、グイグイと彼の頭を押しつけている。
「もっと教えてやる。あれはゾンビと呼ばれる奇病だ。これまで発生源は謎だったが、10年前に【古き叡智の国】という迷惑な研究機関がゾンビの作り方をばら撒いたせいで、時々こうやって大量発生する事件が起こる」
ゾンビ。
「ゾンビに噛まれた者は、死んでゾンビになる。死んでいるので肺や心臓をいくら破壊しても動き回るが、脳みそを破壊されれば体が動かせなくなる。体に指令を出す神経が通っている首を破壊するのも有効だ。そして一度ゾンビになった者を治す方法は無い」
僕はチラリとアントニオさんを盗み見た。彼はまだ深く項垂れたままで、動く気配は無い。まさかもう死んでいて、今からゾンビになるのだろうか。
「ゾンビにも強弱がある。走るタイプがいれば、ノロノロと歩くだけの奴もいる。胸を刺せば死ぬ脆弱なタイプもいるし、首だけで噛み付いてくる場合もある。だがどれもこれも総じて頭部の破壊が弱点だ。以上」
クレアさんはそこでようやく冒険者の頭を離した。窓に手を突っ張って抵抗していた彼は、勢い余って後ろにひっくり返って転んでしまった。「チクショウ……チクショウ……」グスグスと泣いている。彼の心はもう折れてしまったに違いない。
「敵の分析も終わったところで、作戦会議をする。店長、奥の席を借りるぞ。ミサキ、ハスキ……それと」
クレアさんが言葉を切った。窓から差し込む逆光の中で彼女は振り向く。死人を蹴散らし他人の腕を切り落とす、あまりにも暴力的すぎる彼女に睨まれて、老夫婦もキャバ嬢も冒険者も怯えて下を向いた。
でも僕は、彼女から目を離せなかった。
彼女の目が、昼食時に見かけた時とは比べ物にならないほど強烈な熱を放っている。
この目は何だろう。知らない目だ。
僕は今日まで今まで一度もこんな目をする人を見たことはない。
酒ばかり飲んで僕と母さんに八つ当たりをしていた父さんも。父さんの奴隷のように尽くし続けて病死した母さんも。弱い者虐めが好きな職場の人たちも。何をされても無抵抗を続け、死んだように生き続けてきた僕も。
誰一人としてこんな目をしてはいなかった。
素直に羨ましいと思った。
何が彼女の中で燃えているのだろう。
自信だろうか。信念だろうか。
僕とは違う世界を生きてきたその目が、どうしようもなく羨ましかった。
「それと、お前も来い」
「えっ?」
思わぬ言葉に耳を疑った。
しかしたしかにクレアさんは、指先で僕を指し示している。
「名前は?」
「ヨ、ヨハンです。ヨハン・ブリックハントです。えっと、その、あの、この近くで倉庫の積み込みを、してます」
しどろもどろの自己紹介だった。「ヨハンか。いい名前だ」クレアさんが頷く。人に褒められるのはいつ以来だろう。
「使えるのか? そいつ」
ハスキさんが怪訝な顔でクレアさんに尋ねた。
無理もない。今さら人に言われるまでもなく、僕だって自分自身のことを使えない人間だと思ってる。だって、ずっとそう言われて育ってきた。家でも外でも。
「勿論だ。この状況で心が折れていない。恐怖よりも絶望よりも遥かに強い何か……憧れのようなものを感じているな。そうだろう」
あの目は僕の心の中を見抜いていた。
心臓が飛び跳ねるように激しく鼓動する。
「そういう奴は必ず化ける。そして苛烈な環境を生き延びて、優れたリーダーになる。私はそういう奴を何人も見てきた」
そして、クレアさんは断言した。
「お前にはその素質があるぞ、ヨハン」