第26話。バイバイ、魔法少女イノセント
キャンバスはかろうじて現実世界への生還を果たした。
「ウ……ググ……あ……は、ウウ……う、うう……う」
しかしもう何をしても手遅れである。虫程度に僅かに残った本体は、細胞崩壊が始まっていた。増殖した影で足りない体を補おうとしても、手足の先から灰に変わっていく。これでは女性の形態を保つことさえままならない。残された運命は死、あるのみである。
「キャンバス……」
「イ、イノセント……か」
死にゆく竜の側に立つイノセント。
手を伸ばせば届く距離にいても、もはやキャンバスに戦う力は残されていない。胸から上だけの体で、死を待つ間に出来ることがあるとすれば、イノセントに呪いの言葉を吐きかけることだけである。
「よかったね……君のか、勝ちだよ。ずっと君をさ、支えてきた僕を、裏切って、よってたかって嬲り殺しにした気分は、どうかな……夢と正義の魔法少女さん……?」
せめてもの強がりにと、キャンバスは意地の悪い笑みを浮かべた。イノセントは哀しげな表情で、呪詛を吐くかつての相棒を見下ろす。
「ぼ、僕は死ぬ……。でも、僕を殺した君も、今日、死ぬんだ……か、可哀想に……君の時間は、今日……止まる」
イノセントは何も言わない。
「魔法少女の力を振るう、麻薬のような快感を……君はこの先、一生忘れられない……。子を産めず、普通の女性として生きられない君は、死ぬまでずっとずっと今日の勝利の余韻を追いかけて……何度も何度も思い出して、自分を慰めながら惨めに生きるんだ…… 。夢を見てしまったために、過去も未来も失くしてしまった、可哀想なイノセント……」
イノセントは何も言わない。
彼女を遠巻きに見守る仲間たちも口出しはしない。この中でイノセントだけが、これからは何の能力も持たない凡人となるのだ。彼らは超人ゆえに、その苦悩を窺い知ることだけは出来ない。
「それとも……そこの魔法少女に寄生して、媚びへつらいながら……未練たらしく魔法少女を続けるかい……? ははは……依存先が変わるだけだね……」
「ううん。魔法少女は、もうおしまい」
イノセントはそっと屈むと、キャンバスの隣に魔法クレヨンを置いた。すると魔法クレヨンもまた、キャンバスの体と同じようにボロボロと崩れて灰に変わっていく。
「ありがとう、キャンバス」
イノセントは深々と頭を下げた。
吊り上がっていたキャンバスの口角が徐々に下がる。
「どこにでもいる普通の女の子だった私に、あんなに鮮やかな夢を見せてくれて……ありがとう」
「…………」
キャンバスはしばらく何も言えなかった。
イノセントの言葉が、今日までの様々な記憶を呼び起こす。
孵化した時から囚われていた牢獄。待ち焦がれていた自由。イノセントとの出会い。契約。正義の魔法少女になりたいと願う彼女の夢を叶えてあげようとした努力。様々な悪の組織との戦い。正しくあろうとしたために自己矛盾に陥ったイノセントの苦悩。自分の片割れにも等しい彼女との決別。そして全力で戦った末の敗北。
「そっか」
キャンバスの表情は、穏やかなものになっていた。
「夢から醒める時が、来たんだね」
自分の庇護を去りゆく少女に向けて、竜は手を伸ばす。
もうドラグーンではない、魔法少女でもない、ただの普通の少女がその手を握った。灰に変わっていく竜の手は冷たく、手の中でサラサラと壊れていく。
「でも、現実は……辛いこと、ばかりだよ」
それでも少女は、最後までその手を握り続けていた。
キャンバスが微笑む。
「が……頑張ってね……イノ、セン……ト…………」
「キャンバス……」
竜は死んだ。
灰となったその体は風に吹かれ、天へと帰っていく。
「キャンバス……キャンバスッ……!」
少女は忘れない。
自分に似せた顔を作った竜が、最後の最後に見せてくれたあの微笑みを、少女は決して忘れない。
「う、うう、うわぁぁああああ! キャンバス、キャンバスゥううううううう……! うわあああああああああん!」
子供は生まれた時に泣き、大人たちから笑顔を与えられて育っていく。今は泣くばかりの少女も、やがて涙を拭って歩き出すだろう。今日が少女の新たな人生の始まりである。
そしていつか大人になった時、彼女があの時に見た笑顔と同じように笑えるようになるかどうかは……今はまだ、誰にも分からなかった。
「ファイラさん……ルミナさん……私に、罰をください」
イノセントはひとしきり泣き通したあとで、二人の魔法使いに頭を下げた。泣き腫らした真っ赤な目が痛々しい。
「って言われてもなぁ……」
「何かと思えば、今さら罰? さっき精算終わったでしょ」
思わぬ申し出に二人は顔を見合わせる。
イノセントは自暴自棄になっているわけではないようだが、二人はその真意を図りかねていた。ジークは遠巻きに一服しているだけで、助け舟を出そうとはしない。
「お願いします……。私、今まで、悪いことをたくさんしてきました……ごめんなさい……。多くの人が、私のせいで、死にました……。だから、私は、罰を与えられないといけないんです……どんなことでも、受け入れます……」
どんな理由があっても、人を殺した者はその命を持って償わなければならない。これはイノセント自身の言葉である。
(どうする?)(なんでルミナに聞くの?)(お前アタシより年上だろ)(じゃあ先輩命令。そっちが対処して)(アタシは頭悪いからろくなこと言えねえよ……!)(ルミナは頭良いけどめんどくさい)(前半の主張いるかぁ!?)
アイコンタクトで器用に揉める二人の魔法少女。
無言のやり取りがしばらく続いたが、やがてルミナが痺れを切らした。
「……わかった。じゃあルミナが殺す」
「殺してまでは言ってなくねぇか!?」
言うが早いか、ルミナは頭を下げ続けるイノセントの髪を掴んだ。「ンッ……」ビクリと体を震わせるイノセント。ルミナは右手を仄かに蒼く輝かせると「オイって!」ファイラの制止も聞かずにイノセントの長髪を肩付近からバッサリと焼き切った。
「……え?」
「ん?」
「髪は女の命だから……」
「……だから?」
「だからこれで、イノセントは死んだ……」
「……」
「……」
「これでお互い一回ずつ殺したから……イーブン」
微妙な空気に包まれる一同。
「うん、名案だと思うわよ。イノセントちゃんはいい子だから、罰を受けることで自分の罪を償いたいのよね」
老婦人の声が聞こえた。
驚き見てみれば、ファイラが再現した覚えのない老婦人の幻影がすぐそこに居た。
「アリシアさん!?」
「ふふふ、驚かせるちゃったかしら。でもオバケじゃないわよ? 最後の最後にギリギリでミレニアムさんが見せてくれた未来に合わせて精神干渉波を送ったの。本当は実現するかどうか不安もあるけれど、必ずこの未来が実現すると信じてお話をさせてもらうわね」
老婦人の幻影はいたずらっぽく笑った。そして手をパチンと叩く。
「今、私たち以外の人々に新しい記憶を植え付けたわ。『魔法少女イノセントは死んだ』って。命を取られること以上の罰なんてないんだから、イノセントちゃんへの罰はこれでおしまい」
「でも、私……おばあさんも、こ、殺し……」
触れはしないが、老婦人の幻はイノセントの唇に人差し指を当てた。
「いいのよ。私もダンテも近いうちに終わりの日が来るって知っていたもの。イノセントちゃんに看取ってもらうのが、たくさんあった私たちの終わりの中で一番良い結末だったと思うわ。それにイノセントちゃんはあんなに頑張ったんだから、きっと神さまだって許してくれるはずよ」
老婦人の幻はイノセントの頭を撫でる。
「ファイラちゃんもルミナちゃんも、よく頑張ってくれたわね。魔導管理機関は無くなっちゃったけど、あなたたちは私たちの誇りよ。あまり今日までのことに囚われず、これからは自由に生きてほしいわ。二人だけじゃなくて、もちろんイノセントちゃんも」
しかし老婦人に水を向けられても、イノセントはまだ申し訳なさそうに顔を伏せていた。
「で、でも、私……多くの人を、殺しました……。そんな私に、生きる資格なんて、あるんでしょうか……?」
「あるさ。お前はアタシを助けてくれたろ?」
ファイラはイノセントの肩に手を置いた。ファイラに向き直り、おずおずと顔を上げるイノセント。そんな彼女が見たものは、太陽のようなファイラの笑顔だった。
「ありがとう。お前が助けてくれて、本当に嬉しかったぜ」
「ファイラさん……」
「それと、見てろよ。お前が助けたアタシは、お前が殺した人数の何倍も、いいや、何十倍も何百倍もの数の人命を救ってやる。これは凄いことだぜ! これから先アタシが救う何万人もの人々は、全部お前が助けたことになるんだ!」
だから、さ。
ファイラはそう言って少女を抱きしめた。
「自分を責めるのはやめようぜ。ちょっと前に言ったけど、仕方のないことだってあるんだ。誰だって悪いことや、取り返しのつかないことをやってしまうことだってあるさ。それをいつまでも引きずるんじゃなくて……反省した先で何をするかが、償いなんじゃねえかな……」
ファイラの言葉は、少女だけに向けられたものではない。
彼女も魔導管理機関に入る前までは、思い上がった傲慢な魔法使いだった。その力でいくつもの国を荒らし、一方的な正義感で何百人もの人命を奪った。
「償いを抱えて生きることは、償いのために死ぬことより難しくて辛いけど……一緒に頑張ろうぜ、イノセント」
「うん……うん!」
そんな彼女の言葉だからこそ、少女には響く。
恥ずかしいからこれ以上泣きたくはなかったのに、暖かい涙がどんどん溢れて止まらなかった。
「ところで、イノセントって名前は、もう使わない方がいいと思う」
何となくハブられたような気分になったルミナが、ファイラの呼びかけに関して突っ込みを入れた。
「あー、そうだな。これからはイノセントじゃあマズイか。ええと……もう、本当の名前はわからねえんだよな?」
「うん……」
「じゃあ、新しい名前を考えなきゃいけねえか」
「ファイラが決めたら?」
「なんでアタシが?」
「私も、ファイラさんに決めてほしい……」
ファイラの豊満な胸の中で顔を赤らめる少女。
妹に甘えられているような気恥ずかしい気持ちを覚えつつ、ファイラはポリポリと頭を掻いた。
「勘弁してくれ。アタシはセンスないんだよ……」
「じゃあルミナが決める。プリ♡ティ「よーし! アタシが最高の名前を考えてやる! どんなのがいい!? 普通のか!? カッコいいのか!? やっぱ普通の名前がいいよな! な! な!」
人類最低のネーミングセンスを持つルミナに任せるわけにはいかない。ファイラは強引に命名権を奪い取った。「むー」ルミナは不服そうに口を尖らせる。
「うん。普通だけどカッコいいのがいい……」
意外と欲張りな注文をする少女。
ファイラは少し考え込むように空を仰いだ。
「普通だけどカッコいい名前か……」
いつの間にか、夜になっていた。
あれほど厚かった雲もいつしか晴れている。月と星々が照らす仄かな光が、今この瞬間から始まる少女の新たな旅立ちを祝福しているように思えた。
「よし……決めたぜ!」
そうして、過去も未来も失った子の現在が始まる。
「クレアだ。クレア・ディスモーメント。それが今日からお前の名前だ。どうだ、カッコいい名前だろ? へへへ」