第23話。私は正義の魔法少女じゃありませんでした
魔法少女たちを取り囲む不気味な影が四体、直立したままの姿勢で滑るように歩いた。そしてイノセントが投げ捨てた木槌を協力して重そうに持ち上げると、宝物のように掲げて彼女の元に戻り、腰を曲げてうやうやしく差し出す。
しかしイノセントはそれを受け取らなかった。首を振って立ち上がり、何度か深呼吸をしながら言葉を探す。
「聞いて、キャンバス……。お話があるの」
キャンバスが首をかしげる。
「話? 話って何かな、イノセント」
「あのね、私……やっとわかったの」
イノセントはドレスの袖で涙を拭うと、かつて見せたことのない真剣な眼差しでキャンバスを見上げた。
「ファイラさんが教えてくれたの。正義の魔法少女になりたいからって、敵と戦う必要なんかないって」
「ふーん? 敵と戦わないのなら、どうするの?」
「これからは、困っている人を助けるためだけにこの力を使おうと思うの。ファイラさんみたいに上手にはできないかもしれないけど、それでも……そうしたいの」
「どうやら君は騙されているみたいだね、イノセント」
魔法少女を取り囲む無数の影たちが、その肥大化した唇から大小様々な刃物をいくつも吐き出した。剣、刀、肉切り包丁、ナイフ、ノコギリ、青龍刀。
そしてそれらの武器の刃の側面には、人体の部分を表す文字が彫られている。右目、鼻、下唇、左耳、左乳首、右手親指半分、肉100グラム、皮膚10センチ、舌2センチ。
「凌遅刑って知ってるかな? 罪人を磔にして、処刑人がこの中の武器からランダムで一本ずつ選ぶんだ。そして引き当てた武器に書かれている人体の部分を削るんだよ。罪人がなるべく長い時間苦しむように、少しずつ、少しずつ身体を削ぎ落とすんだ」
「な……何を言ってるの、キャンバス……?」
「君は優しいからね。弱いその子に同情してしまったんだよね。でも大丈夫、君がトドメを刺せなくても、君の生み出した彼らがやってくれるよ」
「静粛ニ! 静粛ニ! コレヨリ判決ヲ読ミ上ゲル!」
ガァンガァンガァンガァン!
木槌が打ち鳴らされる音が玉座の間に響いた。イノセントが視線を空中のキャンバスからやや下げると、打ち捨てられた玉座に座る影があった。
そしてその影は、イノセントが手にしなかった裁きのガベルを、いとも軽々と振りかざしている。血のように赤い文字で[裁判長]と書かれた名札を持つその影は他の個体と異なり、赤いマントと金の冠を身に付けていた。唇は無く、三角型の大きな歯を互い違いに噛み合わせた笑みを浮かべている。
「被告! 魔法少女ファイラ! 罪状! 公務執行妨害及ビ魔法少女洗脳罪! ソノ邪悪サ、残虐性に更生ノ余地ハ無ク、看過スルニ余リアル大罪デアル! ヨッテコレヲ死刑トスル!」
「死刑!」「死刑!」「死刑!」「死刑!」
「やめなさい、あなたたち!」
「死刑!」「死刑!」「死刑!」「死刑!」
「やめてって言ってるでしょう! どうして私の命令を聞けないの!?」
「死刑!」「死刑!」「死刑!」「死刑!」
影たちはイノセントの制止も聞かず、両手に持った武器をガチャガチャと打ち鳴らしながら包囲網を縮めてくる。
イノセントは彼らを見て、裁判官を見て、キャンバスを見て、息も絶え絶えなファイラを見た。「イノセント……」ファイラは竜でも影でもなく、イノセントだけを見ていた。
まだ迷いはあったが、考えるよりも先にイノセントの体は動いた。
「トリック・バイ・トリート!」
二人の少女を守るように、四方に落書き扉が展開した。扉はけたたましい音を立てて勢いよく開き、「ヒメサマノタメニ!」「ヒメサマノタメニ!」落書き兵士の排出を始める。
「おや? どうして君は敵の味方をするのかな?」
「だってファイラさんは敵じゃないもの! 本当の正義を教えてくれた……恩人よ!」
「正義には色々な形があるよ。どれが正しくてどれが間違っているかなんて、時と場合と立場によって変わるものなんじゃないかな。それに君が生み出した彼らは、君がこれまで掲げてきた正義が正しいと信じて、君の為に頑張ろうとしているんだよ?」
「正義!」「正義!」「正義!」「正義!」
「う……」
「そんな彼らを殺すのかい? たしかに彼らは普通の生き物じゃないけど、君によって作り出された存在だよ? それなのにちょっと都合が悪くなったからって、また殺すの? それが正義の魔法少女がやることなのかなあ」
「それは……」
「ねえ、頭を少し冷やそうよイノセント。今日まで僕たちは上手くやってきたじゃないか。少し冷静になってしっかり話し合えば、また「ヒメサマヲマモレー!」「ヒメサマノテキヲタオセー!」「シャドウヲタオセー!」
イノセントを再び懐柔しようとしたキャンバスの言葉を遮り、落書き兵士たちは武装した影に問答無用で切り込んだ。たちまちのうちに乱戦となり、謁見の間は落書きと影が入り乱れ殺し合う狂乱の場へと変わっていく。
「えっ? シャドウ?」
「あっ」
イノセントが新たに何かを命令したわけではない。最初期にイノセントによって設計された彼らは、与えられた原初の命令に盲目的に従っただけである。
一つ、イノセントを守れ。
二つ、シャドウを倒せ。
このたった二つの命令を彼らが守ろうとしている事実が何を意味するか、イノセントは理解してしまった。
「ホントだ……これ、これ……シャドウ……シャドウだわ……」
イノセントは自分が先程生み出した影たちを呆然と眺めた。その姿も、その特異性も、その所業も、彼女がこれまで悪と信じ、人に取り憑き操る異形の生物と吹き込まれてきた敵そのものであった。
「……あーあ。自分で出して自分で気付いちゃった。残念だけど、これはもう無理かな」
キャンバスは残念そうにため息を吐いた。
「キャンバス! これはいったいどういうこと!?」
イノセントは胸を押さえる。心臓が早鐘のように鳴り、額からは冷や汗が流れた。彼女はその性格上、考えてしまった。そしてすぐに辿り着いてしまった。考えられる限りの最悪の展開に。
「愚かで可哀想なイノセント。気付かなければ気持ち良く夢を見続けられたのにね。正義の魔法少女のままでいられたのにね」
落書き兵士と影の戦いは、影が優勢だった。落書き兵士たちは次々と惨殺され、影の包囲網はやがてイノセントの扉にも迫ろうとしている。
「何を言ってるの!? そんなのいいから答えて! 答えてよ! どうして私からシャドウが生まれたの!?」
「どうして? どうしてだって? そんなの当たり前じゃないか。影は光から生まれるものだろう? シャドウという影は、イノセントという光から生まれたんだよ」
シャドウと戦った今日までの記憶がイノセントの脳裏を駆け巡る。あの国で、あの城で、あの町で、多くのシャドウを殺した。殺して、殺して、殺しまくった。
「ずっと……ずっと、私を騙してたの?」
「うーん、演出と言ってほしいなあ。君を正義の魔法少女にするためには、戦って負けてくれる分かりやすい悪の存在が必要だったんだ。君に気付かれないように、こっそりシャドウを発生させて人々に寄生させるのは苦労したよ」
この玉座の間でも多くのシャドウを殺した。
だが彼らは人間だった。イノセントが正義の味方になるために捧げられた生贄だった。
「じゃ、じゃあ、私、本当に、ずっと、人を、こ、殺……」
「うん、そうだね。君は最初から最後まで人を殺し続けていただけだよ。大前提であるシャドウの存在が崩れちゃってるからね。正義だの人類を守るためだの、どんな大義名分も言い訳にならないよ。君はただの大量殺人犯だ」
「それをやらせたのはテメェだろうがぁあああ!」
イノセントの後ろから放たれた大火球がキャンバスを直撃した。炎は敵を捉えると空中で停滞し「硬くなれ! 握り潰せ!」拳状へと形態を変化させて凄まじい圧力をかけた。
「無駄だよ。イノセントと同じように、僕に炎は効かない。とっくの昔に耐性を作ってあるからね」
炎の拳が割れた。空中で霧散する炎の中から、無傷の幼竜が姿を現す。
「ただし、痛くなくても殴られるのは気分が悪いよね。軽くお返しをさせてもらうよ」
かろうじて立ち上がっていたファイラの背中を、鞭のように伸びた影の腕が打ち据える。
「ぐううう……!」
ファイラの目に涙が浮かび、激痛にその体が硬直した。
「あれれ? そんなに痛かったかい? それほど強く叩かせたつもりはないんだけどなぁ。イノセントに殴られた時に骨の数本でも折れたのかな? 可哀想にね」
影たちが落書き扉に取り付いた。イノセントの描いた作品を、影は浸透するように黒く黒く塗り潰していく。
「このくらい……ぜんっぜん痛くねぇ!」
ファイラは放射状に炎を放った。扉に取り付いていた影がまとめて焼き払われたが、扉の色は元には戻らない。黒く塗り潰されたままで、沈黙を保っている。
「おいコラ! いつまでボケっとしてやがる! 手伝いやがれ!」
ファイラがイノセントの背中を強く叩いた。放心していたイノセントは、その一発に驚き慌ててファイラを見上げる。
「で、でも私、人を殺した、のよ? 多くの、人を……」
「その元凶が目の前にいるだろうが! 後悔する時間が欲しけりゃあ、まずはアイツをブッ殺せ!」
イノセントが迷う間にも、影は分裂し増殖していく。後詰めを失った落書き兵士たちはその圧倒的な数になすすべなく次々と殺されていく。
「ブッ殺すなんて野蛮だなぁ。僕はこんなにも人間が大好きだし、直接的にはただの一人だって殺していないのに」
「ああん!? どの口で人間が好きとかほざきやがる!」
「本心だよ? 僕は人間が大好きなんだ。可愛いし、賢いし、褒めてあげると喜ぶからね。見てて飽きないよ。僕たちが人間の願いしか叶えられないように作られた理由も、何となく分かるなぁ」
「ペット感覚かよクソ野郎が!」
ファイラは全方位に無数の炎の矢を並べて一斉に射出した。さらに第二波、第三波と連続して放ち、影を次々と射抜いて焼き尽くしていく。さらに炎は消えることなく、その場に残って延焼し続けることで影の出現を阻止していた。
当然キャンバスにも命中しているが、ダメージは無い。
「うーん、君の魔法はちょっとワンパターンだよね。多少の違いはあるけど、結局どれもこれも熱を持った武器を飛ばすだけだよね。それじゃあ少し強い火矢と変わらないんじゃないかな。もっと工夫したほうがいいと思うよ。こんなふうにね」
「ぐあああっ!?」
突如、ファイラの足の甲が漆黒のトゲに突き破られた。足の裏からの影による奇襲である。「ファイラさん!」イノセントの悲痛な声。影の槍からさらに無数の細かいトゲが生え、ファイラの足を完全に床に縫い止めた。
「はい、これでもう逃げられないね。殺すのは簡単だけど、イノセントの再教育を手伝ってくれるなら、命だけは助けてあげてもいいよ」
「何が教育だ! おととい来やがれ!」
ファイラは足の楔を強引に焼き切った。さらに傷付き満足に動かせない体を炎で包み、その炎を操ることによって擬似的に身体能力を取り戻す。
そして背中から炎を噴出し彼女は跳んだ。轟音と爆風が大広間を震わせる。
「火が効かねえなら、こいつはどうだ!」
ファイラの拳がキャンバスの腹に突き刺さった。傷んだ骨に響く確かな手応え。「くっ……」しかしファイラの表情は晴れない。
「うん、悪くないね。自分の体にまとわせた炎を操り強化することで、防御力と機動力を両立させている。イノセントと共通している部分もあるかな。素直に話を聞いてくれる子は好きだよ」
キャンバスはくるりと縦に一回転すると、その尻尾でファイラを叩き落とした。炎の鎧の防御力など、竜の耐性の前では紙屑同然である。ファイラは猛烈な速度で床に叩きつけられた。
「でもただのパンチじゃ弱すぎるし、まだまだ攻撃パターンが単調だね。もっと想像力を働かせなくちゃダメだよ。相手が予想出来ない攻撃をしなくちゃ。こんなふうにね」
玉座の間に居並ぶ神々の像を、黒い影が侵蝕していく。
「この野郎……!」
痛みを堪えて立ち上がったファイラが見たものは、押し寄せる黒き神々の像だった。天秤を持つ女神。怪物殺しの剣を持つ勇者。二羽の鳥を従えた老人。美男美女の双子。獅子の頭を持つ戦士。狼に乗る少女。
「クソが……クソが!」
炎で迎撃を試みるファイラ。しかし黒き神々は次々と業火を抜けて迫り来る。石像と一体化することでその硬さと質量を手に入れた影を、簡単には焼き尽くすことが出来ないのだ。
「くっ……!」
なすすべなく、偽りの神々の群れに飲み込まれるファイラ。殴られ、噛まれ、打たれ、頭と手足を押さえ付けられて地べたに這いつくばる。そして突き付けられる剣、槍、矢。
彼女の生殺与奪権は完全にキャンバスに握られた。
「ま、子供にしては頑張った方かな」
ファイラが身動き出来なくなったことを確認すると、キャンバスはあえて止めを刺さずにイノセントへと向き直った。イノセントの体がビクリと震え、その足が一歩後ずさる。
「怖がる必要はないんだよ、イノセント。君は僕にとって大事なパートナーなんだから」
キャンバスは笑顔を浮かべながらゆっくりとイノセントに近寄る。イノセントは涙目で首を横に振った。
すると彼女の周りで複数の人影が立ち上がった。彼らはよろめきながらも、イノセントとキャンバスの間に割って入る。
姫様が怖がっている。姫様の危機である。敵が近づいている。戦わなくてはならない。守らなくてはならない。
彼らはその為だけに生み出された存在である。
「ヒ、ヒメサマヲマモレー」「ヒメサマヲ、マモレー」「ヒメサマノテキダー」「アツイヨー」「ヒメサマヲマモレー」
イノセントを守るべくキャンバスに剣を向ける者らは、満身創痍となった落書き兵士の生き残りたちだった。彼らの手や足は欠け、胴体には無数の刃が突き立てられている。ファイラの広範囲攻撃の巻き添えを受けて炎上している者もいたが、彼らはファイラではなくキャンバスこそを主人の敵として認識していた。
「しつこいなあ。もう君たちの役目は終わったんだよ」
落書き兵士たち一人一人の頭上と足元に、黒く扁平な長方形の板が出現した。
「はい、さよなら」
グシャシャシャシャシャッ!
二対の黒い板は落書き兵士たちを一斉に挟み、潰した。厚さ数センチに圧縮された兵士たちの残骸から、ペンキのような赤い体液が溢れる。はみ出した腕がピクピクと痙攣していたが、それもすぐに動かなくなった。
粘り気を帯びた彼らの血が、イノセントの靴を濡らす。
「あ……」
これでイノセントを守る者は誰もいない。
キャンバスはあくまでも優しく微笑みながらイノセントへと近づく。
「大丈夫だよ、イノセント。正義の味方ごっこは破綻しちゃったけど、他にも面白い遊びはまだまだたくさんあるからね。次は大魔王ごっことかどうかな? またまだ僕と一緒に遊ぼうよ。これからも、どんな夢でも叶えてあげるからね」
「わ、私……私、は、私は!」
イノセントの体がわなわなと震えた。歯を食いしばり、その小さな体を強張らせてキャンバスを睨む。今の彼女を満たしているものは、恐怖の対極にある灼熱の感情だった。
その熱は彼女だけから生まれたものではない。
ファイラから、あるいは最後までイノセントを守ろうとした落書き兵士から燃え移ったものだった。
「私は、あなたの手の中で遊ばれるお人形じゃない!」
イノセントの手に裁きのガベルが顕現した。
彼女はそれを振るい、その先端をキャンバスの鼻先に突きつける。キャンバスの進行が止まった。
「危ないよ、イノセント。武器を下ろして話し合おうよ」
「話し合うことなんて、無い!」
「そんなことないよ。きちんとお話をすれば、僕たちはきっとわかりあえるはずだよ。君は魔法少女ファイラと和解したんだろう? じゃあ次は僕とも仲直りできるはずだよ」
「もう私は騙されないから!」
「あ、もしかして僕に捨てられることを心配しているのかな? うーん、君がせっかく作った作品を僕が壊すべきじゃなかったかなぁ。でも大丈夫、君は特別だよイノセント。ずっとずっと大事にしてあげるからね」
「私はお人形じゃないって言ってるでしょう! 捨てるとか! 壊すとか! 大事にするとか! そんなことを決める権利はあなたになんか、無い!」
「今まで散々作品を生み出して消費してきた自分を棚に上げて、そんなことは言わない方がいいよ。もしかして君はまだ正義の味方ごっこを続けるつもりなのかな? 悪との戦いの次は弱者の味方をすることで、必然的に正義の側に立てると思い込んでいるのかな? もうそんなのやめた方がいいよ。だって今さら君が正義の味方になることなんて出来ないんだから」
「正義とか悪とかじゃなくて! 私はあなたが許せないの!」
キィィイイイイン……!
裁きのガベルが十字の輝きを放ち始めた。無数の光の粒子が立ち昇り、彼女を囲む。これは、かつて魔導管理機関を壊滅させたイノセントの必殺技の前兆である。
「うーん、甘やかし過ぎたかなぁ。ここまでワガママになるとは思わなかったよ。どうしても僕を殺すつもりなのかい?」
「ええ、そうよ! あなたを殺して、私も罰を受けるわ!」
「はぁ……自分に酔うのもいい加減にしたらどうかな。正義の味方になれなかったら、次は罪滅ぼしの自己犠牲かい? もう何を言っても無駄みたいだね。教育失敗かなぁ」
やれやれとキャンバスはかぶりを振った。
その間にもイノセントの切り札は発動準備を終える。後は全力で解き放つだけである。イノセントに躊躇いは無かった。
「プリンセス! シャ「それは契約違反だよ、イノセント」
輝きは失われた。
裁きのガベルは砂のように崩れ、イノセントの背中の羽も色褪せ枯れ落ちた。胸に輝いていた魔法ブローチも砕けて壊れ、今日まで全身に満ちていた奇跡の力がイノセントから抜け落ちていく。
「えっ……」
「残念だったね。君の力は君の中に眠っていたものじゃなくて、僕が貸していただけなんだよ。君に育ててもらった力を返してもらった今、君は正真正銘ただの凡人さ。服くらいはサービスしてあげるけど、もう二度と魔法は使えないよ。あーあ、可哀想にね」
「トリック・バイ・トリート……トリック・バイ・トリート……トリック・バイ・トリート……」
もう何の効果も無い無意味な呪文を繰り返すイノセント。
キャンバスはわざわざ彼女の顔面に近づき、彼女の固まった表情を近距離でじろじろと眺め回した。
「うーん、まだ現実を受け止め切れてないって顔だね。でも正義の味方じゃなくなった時より、魔法少女じゃなくなった今の方がショックを受けてるみたいだ。口ではなんやかんや言っていたけど、やっぱり君は子供だったね。正義の味方がお腹を空かせた人にパンを分けている姿じゃなくて、正義の名の下に悪を叩き潰す圧倒的な力に憧れていたんだよね」
「あ、あ……」
もはやまともに返す言葉すら出てこないイノセントに対し、キャンバスは一方的な話を続ける。
「可哀想なイノセント。名前を捨てて、人としての生を捨てて、過去も未来も犠牲にして、そして手元には何も残らない。まさに真っ白だ。可哀想だね。可哀想だね」
可哀想と言いながらも、キャンバスの声色は弾んでいた。そこには、自分を裏切った元ドラグーンに対する制裁の喜びがあった。
「私、もう……魔法、使えないの……?」
あまりのショックに、その場にペタンとへたりこむイノセント。強く重い喪失感が彼女にのしかかる。
「ツカエナイ!」「ツカエナイ!」「ツカエナイ!」
「モウオマエハ、マホウショウジョジャナイ!」
床、柱、天井、あらゆる場所から影が滲み出してきた。彼らは歯と舌を剥き出しにして笑いながら体を伸ばし、集団でイノセントを見下ろして取り囲み嘲笑う。
「カワイソウ!」「カワイソウ!」「カワイソウ!」
「ギャハハハハハハハハハハハハハハハハハ!」
広間にまだ残っていたファイラの炎もいとも容易く漆黒に飲み込まれ、闇がイノセントの世界を覆い尽くした。
イノセントはもう泣くことも怒ることも出来ず、ただただ口を開けて、痴呆のように呆然と座り込むだけである。
「でもこれは罰なんだよ。自分勝手な理由をつけて人殺しをしていた君には相応しい罰なんだ。そして僕が君にしてあげられる最後の教育だよ。殺してあげない方が君は苦しむかな? 僕に生かしてもらっていたことに気づかず、全てを失った君はこれガヒュッ」
キャンバスが床に叩き付けられた。衝撃が床を走り、闇も影もキャンバスを中心として円形に弾け飛んだ。露出した大理石には蜘蛛の巣状の亀裂が広がっている。
「子供がよぉ。ようやく一人で立ち上がって、一生懸命に自分の足で歩き出そうとしてるんじゃねえか」
しわがれた老人の声。
キャンバスの脳天は、赤く錆びた一振りの剣で串刺しにされていた。その変形した歪な刀身には、腐蝕してなお鮮明に浮かぶ断末魔の形相が何人分も彫られている。耳を澄ませば、この剣に囚われた魂の絶叫がまだ僅かに聞こえていた。
白く滑らかだったキャンバスの身体が、傷口から徐々に赤錆に浸食されて醜く腐り錆び始めた。見ればファイラを捕らえていた像もまた、手足をバラバラに切り落とされて床に倒れ伏していく。
「それを見守るどころか潰しやがって、何が教育だぁ?」
魂の抜けかけたイノセントの瞳に、一人の老人が映った。
それは一見、あの厳粛な老紳士に見えた。だがその体格、顔つき、漂う強者の風格はどうだ。彼の前に立つ者は、巨大な虎の前に丸裸で立たされた錯覚すら覚えるだろう。
数多の難敵を怯ませてきたその眼光がイノセントを捉える。死と絶望を受け入れていた少女の体が僅かに竦んだ。
「それに比べて、お前さんは立派だぜ」
そして老人は微笑んだ。厳しさとふてぶてしさの奥に光る、確かな優しさが感じ取れる笑みだった。
「ありがとよ。お前さんがこのクソトカゲと縁を切ってくれたおかげで、心置きなくこいつをブッ殺せらぁ」
彼こそは殺し屋ジーク。
その生涯で誰よりも多くの超常生物を仕留めた、殺しの達人である。