第21話。私は悪くない
イノセントは自己の正当性を主張する。
「私は誰も殺してなんかいないわ! だってだってだって私がやっつけたのは人間じゃない! シャドウだったもの! それに、悪いことをする悪い敵をやっつけて何が悪いの!? 弱い人を虐める人や、たくさんのお金を独り占めして貧乏な人を馬鹿にする人をこらしめて何が悪かったの!? 悪いことをする人をみんなこらしめれば、愛と希望に溢れた平和な世界になるんだからぁーッ!」
イノセントは新たな武器を描き出した。
魔法クレヨンではない。それは巨大な木槌だった。彼女の頭身の倍はある、丸みを帯びた木製のハンマーだった。ガベルと呼ばれる儀礼槌に酷似したそれには、煌びやかな装飾は一切施されていない。
裁判官の持つこの槌こそが、彼女の想う正義の象徴だった。
「その通りだよ、イノセント。君は何も間違ってなんかいない。これはね、悪いことをした人をやっつけたら、他の人が別の悪いことを始めてしまっただけの話なんだ。だから今日からはそれを止めなくちゃいけない。どうすればいいかは、もう知っているよね?」
逆上するイノセントをさらに扇動するキャンバス。
その声色には、どこかこの状況を面白がっているような響きが含まれている。彼にとってこの展開は全くの予想外であったが、ドラグーンの更なる成長が期待できるとあらば、歓迎するのみであった。
「もちろんよキャンバス! ルールが無くなってしまったのなら、私がルールになればいいの! そうよ! 罰が! 必要だったの! もっと徹底的に! 誰もが恐れる罰が! どんな理由があったとしても、罪には必ず罰が与えられるって! 知らしめないといけないの!」
罪無き者は、醜く汚れた生き物が蠢く地上を見下ろした。
不幸にも彼女の目に留まるは、一人の青年。
彼は今しがた暴漢を返り討ちにしたばかりである。報復を恐れた彼は何度も何度も暴漢の頭に角材を振り下ろし、確実に敵の息の根を止めた。
一応のところ彼の殺人は正当防衛と呼べるのだが、当然ながらイノセントがその故を知る由もない。
涙を浮かべた少女の目に、激情の炎が燃える。
「罪状……殺人罪」
ゴォォオオオオン……ゴォォオオオオン……。
どこか遠くから鐘の音が聞こえる。
イノセントは[裁きのガベル]を両手で握ると、過剰とも言える身振りで大きく振りかぶった。
「殺人罪、は……」
イノセントの背後に巨大な人型の影が複数体出現した。
闇を切り抜いたようにドス黒い彼らの顔には、その面積の半分を占める赤く分厚い唇があった。これまでにイノセントが生み出した落書き生物のとは明らかに系統が異なる、異様な存在感である。
彼らは同時に出現した椅子に、規則正しく並んで座った。するとさらに彼らの目の前に机が出現する。彼らの胸には[陪審員][弁護士][検察官]といった札が付いていた。
人型たちが熟した果実のような唇を開くと、不自然に大きく不均衡な白い歯と紫色の舌が剥き出しになった。
「殺人罪は」「殺人罪は」「殺人罪は」「殺人罪は」
彼らは一様にイノセントに追従し、言葉を重ねる。
イノセントは巨大な木槌を振りかぶったままに、その動きをピタリと停止した。そして息を大きく吸う。
しばしの静寂。
「死ィィイイイイケェェエエエエエエエイ!」
判決は下された!
イノセントが振り下りし裁きのガベルが虚空を叩く! 落雷の如き轟音が天から下界に鳴り渡り、衝撃波は大気を震わせ地上を揺さぶる!
異変に気づいた一人の兵士が空を見上げた。重く暗い曇天の中で、太陽のように眩しく輝くは純白の少女。兵士の目が驚きに身開かれる。兵士はアレを知っていた。彼女が再びやって来た。この国を滅ぼした元凶が。少女の姿をした災厄が帰って来た!
「イノセントだ……」
絶望を呟いた彼の膝から力が抜け落ちた。
「死刑!」「死刑!」「死刑!」「死刑!」「死刑!」
陪審員も弁護士もなく死刑を叫ぶ影たちの口が、倍以上に膨れ上がった。そして嘔吐にも似た不快な音を立てて、処刑の材料を吐き出す。今回の素材は丸太と板と縄。血に濡れた処刑道具たちは見えない手によって一瞬で組み上げられ、イノセントの背後にそびえ立った。
さあさ万人が震え上がるその威容をご覧あれ。
壇上でゆらゆらと揺れる縄は、次なる罪人への手招きか。
今際の際にこびり付いた犠牲者の咎が、黒く立ち昇る。
その手にかかれば、命乞いも断末魔の絶叫も許されない。
これなるは人類史上最も多くの罪人を裁きし処刑器具。
絞首台ガロウズである。
断罪の縄が、唸りを上げて罪人へと迫る。
上空にて変貌した魔法少女イノセントを、ジークとファイラは物陰から息を潜めて観察していた。
「見えるか。ドラグーンは竜と同じく空を飛んで火を吐く。だが竜から与えられた能力はそれだけじゃない。竜が世界の理を書き換えるように、ドラグーンは周囲の環境を書き換える。魔法を拒絶する耐性を持つことも、意思を持って敵を攻撃する武器を生み出すことも出来る。あれは魔法使いとは似て異なる、創造の力。新しい世界を作る創生者の権能だ」
「なあ、ご主人様! 悠長に解説していて大丈夫ですか!」
「おう、待たせたな。もういいぜ!」
今にも飛び出そうとするファイラに振り返り、ジークは歯を向いてニッカリと笑った。すでに老人は温厚な紳士の仮面を捨て去り、本来のふてぶてしい顔付きに戻っている。
「だが条件がある。ひとつ、イノセントに絶対に攻撃をするな。ふたつ、イノセントの攻撃から人を守れ。以上だ」
「以上、って……」
ファイラに戸惑いが生まれた。
負けるつもりはない。負けるつもりはないが、彼女が過去にイノセントと戦って敗北していることは紛れもない事実である。今再び全力で戦ったとしても勝てるとは限らない。言われなくても人は守るつもりだが、攻撃を禁じられては何も出来ないではないか。
「おっと、早合点するんじゃねえ。これはハンデじゃねえぞ、立派な戦略だ。イノセントを止めるんだろ? あのクソ可愛くねえ竜をブッ倒したいんだろ? だったら俺の言う通りにやってみな。絶対に上手くいくぜ」
ジークがあまりにも自信満々に言い放つので、ファイラは不安を彼に預けることにした。
元々、あれこれと考えるより体を動かす方が好きな性格である。それがどれほど困難なことであれ、一度心を決めれば彼女はもうブレない。
「……わかった。あんたを信じるぜ、ジークさん」
「おっと、その台詞は二度目だな。今度は俺よりも、イノセントの方を信じてやりな。今日まで見てて、よくわかった。あの子には良識がある。今は自己矛盾に苦しんでいるが、粘り強く話せば最後には必ずわかってくれる子だ。あの時のお前さんみたいにな」
あの時とは? 最後の一言の意味を考えるよりも先に、ファイラの背中が勢い良く叩かれた。
「よし、行ってこい! 可愛い後輩に、お前の正義ってやつを見せてやれ! 負けるんじゃねえぞ、魔導管理機関!」
そしてファイラは翔んだ。
(熱い)
肩甲骨から炎を噴出し、爆発的な推進力を得る。
(叩かれた背中から、熱が広がっていく)
大蛇のようにうねり、青年の首を捉える裁きの縄が見える。ファイラはさらに加速した。間に合え。間に合うはずだ!
(そうだ)
青年は首と縄の合間に腕を挟んで必死に抵抗しているが、荒縄は万力のような力で締め上げる。彼の腕の血流が止まり、骨が軋みを上げ始めた。青年の足が浮く。もう悲鳴を出すことも出来ない。死神が青年の肩に手をかけていた。
(アタシは魔法使いだ)
その死の縄を、灼熱の籠手が掴んだ。
(あの魔導管理機関の、生き残りだ)
炎が走る。青年を締め上げていた裁きの縄が焼き切れる。
(災厄から人々を守らなくてはならない)
「逃げろ!」ファイラが告げると、解放された青年は何度か咽せながらも「あ、ありがとう……!」何とか礼を述べ、転がるように路地を逃げ去って行った。
(道を踏み外す者がいるなら、止めないといけない)
ファイラは空を見上げた。冷たく下界を見下ろすイノセントと目が合う。そしてその目は問いかけていた。
どうしてそんな人殺しを庇うの?
(この腐った世界を、少しでも善くするんだ)
炎は瞬く間に縄を駆け上がり、絞首台へと燃え広がった。
そして爆発。魔法少女のシルエットが逆光に浮かぶ。爆風に揺れる金色の髪。御使いの如き純白の翼。手にした裁きのガベルは、あらゆる悪を叩き潰す正義の鉄槌か。
敵は竜騎士。魔法を拒絶し、無尽蔵に手下を生み、天災にも匹敵する火を放つ。何人もの魔法使いを殺し、国家も武装組織も魔導管理機関も誰も勝てなかった世界最強の生物。
だからこそ、ファイラがやらなくてはならない。
(それがアタシの……魔導管理機関の役目だ!)
「勝負だ! 魔法少女イノセント! お前はアタシが止めてやる! アタシは魔導管理機関の意思を継ぐ最後の魔法使い! ファイラ・フレイア・ガルフレアだーッ!」