第20話。なにこれ……
皇帝都市セルブランカは、混乱の泥沼に沈んでいた。
治安の悪化に伴い、身の危険を感じた大多数の人々は家を捨てて難民となったが、この環境に適応しようとする者も決して少なくはなかった。
この混乱に乗じて政権を握ろうと上京した地方貴族たちと、その子飼いの軍。イノセントの生み出した落書き兵士を排除した残存兵士たちによる旧体制一派。この都市に残ることを決めた市民たちの自治会連合。一斉蜂起した奴隷たちの運命共同体。火事場泥棒や市場の独占を目的とする反社会的組織。どの組織にも属さず、息を潜めて隠れる者たち。
彼らの多くは国のため、人々のため、自衛のため、治安回復のため、物資補給のため、生活のため、自由のため、正義のためと、それぞれが好き勝手な大義を掲げて略奪と抗争を繰り返していた。
何百年にも渡って皇帝都市を守り続けてきた巨大防壁も、今では血に飢えた獣を囲う檻に見える。
歴史ある重厚な建築物が建ち並ぶ都市の景観は、とうの昔に最悪を通り越していた。ゴミの山を片付ける公務員もいない。糞尿を回収する業者もいない。死骸を埋葬しようとする者さえもいない。通りという通りに投げ捨てられたそれらは腐敗して虫の苗床となり、悪臭と伝染病を都市中に蔓延させていた。
イノセントが襲撃してから約2ヶ月の間に荒み切ってしまっていたセルブランカの様子を、一行は上空から見下ろしている。イノセントとキャンバスは自前の翼で空を飛び、ジークとファイラはカーくんの背中の上で、荒廃した都市の様相に眉をひそめていた。
「うそ……こんなの、うそよ……ありえないわ……」
ジークによる一連の解説もそこそこに、当のイノセント本人が誰よりもセルブランカの惨状にショックを受けていた。
「だって私、この国のシャドウは全部やっつけたのよ? 悪い皇帝もお金持ちもこらしめて、人々に化けていたシャドウもやっつけて……この近くの地域で貴族に化けていたシャドウだって、悪は全部全部やっつけたわ……。それなのにどうし、ンッ……!」
酷い悪臭を伴う黒煙が、風の流れでイノセントの目と喉を痛めつけた。それは一息吸っただけで、胸の奥に汚物の塊がこびりつくような強烈な不快感を与えてくる。
耐えきれずにイノセントはケホッケホッと咽せた。
いったい何の煙だろうかとイノセントが涙目で出元を探れば、通りの一角で真っ昼間から行われている焚き火が見えた。それを囲む半裸の男女の手足には、断たれた鎖が伸びる鉄の枷が嵌められている。元奴隷たちだろうか。それにしても、何を燃やせばこんな悪臭が出るのだろう。
「どうして、こんなことになっているの……?」
彼女の認識では、悪は倒したはずだった。
悪の皇帝セントガリウスも、人々に化けていたシャドウも、お金を独り占めしていた悪いお金持ちも、悪の研究をしていた悪い魔術師も全員やっつけた。
正義は勝った。この国の悪は一掃され、これから平和な国になるはずだった。人々がお互いを思いやり、足りないものを分け合う優しい国になるはずだった。
しかし実際はこの有り様である。
「大変だよイノセ「何故この国がこうなってしまったのか、お答えしましょう」
キャンバスが何らかの助言をしようとしたが、腹の底に響くようなジークの重く低い声がそれを潰す。
「統治機能の崩壊は、人間社会の崩壊なのです。統治機能と共に人の世のルールを守らせる抑止力が消えてしまえば、誰も罰を恐れなくなるのです。食べ物の代金を払わなくなり、ゴミを隣家の庭に捨て、恨みのある相手は殺してしまうでしょう。ルールがなければ、人は容易く悪に傾くのです。シャドウなる存在が、いてもいなくても」
ジークはもう、偽りの微笑みを浮かべてはいなかった。年老いたその声色には尋常ならざる迫力が込められており、彼の言葉以外の音を遥か彼方へと追いやる。
「シャドウが……いても、いなくても……?」
イノセントだけではない。隣にいるファイラも、今までイノセントを都合の良い方に誘導してきたキャンバスでさえも、その圧力の前には口を挟むことを躊躇った。
「しかし彼らを一方的に責めることは出来ません。現在のセルブランカは、そうしなければ生きていけない環境なのです。食料を奪われた者は自分より弱い者から奪う。敵対組織がいつ自分たちを襲うかわからないから先に襲う。弱肉強食の世界、獣の環境です。それを悪と呼ぶのならば、悪は環境によって作られるものなのです」
「でっ、でも! 逃げればいいじゃない!」
ジークの迫力に押されていたイノセントが反論を試みる。
「そうよ! 盗んだり殺したりして罪を犯すくらいなら、みんなで逃げればいいんだわ! 国は一つだけじゃないんだし! きっと人間らしく生きていける場所だってあるはずよ!」
「そう考えた者たちが、あの難民たちなのです」
その稚拙な反論を、老人が潰す。
「本日までイノセント様は、生活に貧窮した多くの難民の姿を私共と見てきましたね。そして私共は人助けとして、彼らに住居や食料を提供してきました。……しかし、私たちに出来ることはそれで終わりです。彼らの未来まで保証はできません。国を捨てた彼らも遅かれ早かれ、ここに残った者と同じ末路を辿るでしょう」
ジークは決して大声を張り上げてはいない。しかし彼の言葉は二重三重の響きを持って、聞く者の頭の中でぐわんぐわんと鳴り響く。
「奪い、奪われ、餓死し、捕まり、売られ、娼婦となり、奴隷となり、犯罪者となり、殺し、殺される。そうしなければ生きていけないのは、この国の民だけではありません。今や多くの国や地域が、そうしなくては生きていけない環境になってしまっているのです。全ては、統治者が殺されたがために」
「あっ……」
イノセントの手から魔法クレヨンが落ちた。腐り切った地上に落ちていく魔法少女の象徴を気にかける余裕など、すでに彼女には残されていない。
彼女は両手で顔を覆った。しかし死と暴力の光景は、その細い指の隙間から彼女の視界に容赦なく滑り込んでくる。
「悪い魔法使いがどこかにいる、でしたね」
ビクンとイノセントの体が跳ねた。
血の気の引いた顔は気の毒なほどに青ざめ、ガタガタと小刻みに全身を震わせている。
彼女は気付いてしまった。
「実に素晴らしい考察力です。なるほど、たしかにこの災害は人災と呼べるかもしれません。環境が悪を作るのならば、人為的にその環境を作り出した人物こそが真なる悪、諸悪の根源と呼べるでしょう」
「やめて……」
蚊の鳴くような声で懇願するイノセント。
キャンバスは動けないイノセントの代わりに実力行使でジークを排除しようと決めたが、それも遅きに失した。すぐ隣にいたはずの彼らはすでに瞬間移動によって姿を隠していた。
その代わり、炎の壁が空中に浮かんでいた。
炎の壁には、かつてファイラがジークの隠れ家で見せたように、ファイラがこれまで見てきた各国の惨状が音声付きで映写される。
「では秩序を破壊し、難民を作り、直接的にあるいは間接的に何千何万もの人々の人生を壊し命を奪い去り、多くの悪を生み出した全ての黒幕とは誰か? ……聡明なイノセント様ならば、もうお分かりでしょう」
ジークの声が何処から聞こえる。
「お願いです……やめて……ください……」
イノセントには夢があった。
それは真っ白い画用紙に、色とりどりのクレヨンで描かれていた。銀色のお城に、ピンクの花畑。人懐っこい動物たちと、いくら食べても無くならないお菓子の山。笑顔で手と手を繋ぐ人々に貧富の差はなく誰もが慈愛の心を持っている。
その世界の中心には青空を駆ける純白の魔法少女がいて、今日も平和を脅かす悪い敵をやっつけて人々に感謝されるのだ。
その夢は今、血で塗り潰された。
キラキラと輝く夢の上に、現実の光景が炎で描かれていく。
それは積み重なる死体。それは自分の子供と一切れのパンを交換する母親。「やめて……」それは死骸から銀歯を抜く老婆。それは捕虜を嬲り殺すことで人殺しの訓練をさせられる少年兵。「やめてよ……」それは奴隷に反逆されて人糞を口に詰め込まれる商人。それは火炙りにされる貴族。それは支配権を巡って殺し合う騎士と元正規兵。「やめて……!」それは虫の沸いた親の側を離れようとしない子供。それは口々にイノセントへの感謝を述べながら非道極まりない蛮行を振るう暴徒達。
それは全て、イノセントが生み出したものだった。
「やめてやめてやめてやめてやめて! 私から夢と正義を奪わないでえエエエエエエエエエエエエッ!」
荒廃した都市の空に、絶叫が響き渡った。