第10話。壊滅! 魔導管理機関!
天空島にイノセントが出現してから28分後。
魔導管理機関は壊滅していた。
イノセントにはあらゆる魔法が通用しなかった。
イノセントの攻撃を防げる魔法も存在しなかった。
炎に包まれた予言の樹の根本には、緊急事態に駆けつけた魔法使いたちの亡骸が死屍累々と横たわっている。プライドも仲間の巻き添えも度外視して、なり振り構わず彼らは戦ったが、ただの一人もイノセントを傷付けられる者はいなかった。
クロック・ハウスは空を見上げる。
白い翼を広げた少女が、魔法クレヨンの先端をこちらに向けていた。眩いばかりの光が十字状に収束していく。
(ああ、これはもう、助からないな)
クロック・ハウスは己の最期を悟った。
彼の右足は膝から下が焼失している。もはや抵抗も逃走も不可能と察し、彼は運命を受け入れることにした。
「……最後に一つだけ、頼みがあるんだ」
あまり期待はしていなかったが、クロック・ハウスは一縷の望みを懸けてイノセントに話しかけた。
「何かしら?」
イノセントは反応を返した。
クロック・ハウスは彼女を見上げながら言葉を続ける。
「3分……いや、1分だけでいい。恋人と話をする時間を貰えないだろうか」
クロック・ハウスの背後には、仰向けに倒れる老婦人がいた。彼女は手で自分のお腹を押さえているが、その手の合間からは夥しい量の血が流れ出ている。
「……いいわ」
そんな彼女を見て、イノセントは要望を飲んだ。
「ありがとう……優しい子だ」
クロック・ハウスはイノセントに礼を告げた。
そして痛む体を引きずって老婦人の隣へと這う。彼が老婦人の隣にたどり着くまでに1分は使い切ってしまったが、イノセントは手出ししようとはしなかった。
「やあ……。約束を果たしに来たよ、アリシア」
名前を呼ばれた老婦人は、閉じかけていた目を開いた。首を緩やかに横に向けて、霞む視界の中に白い紳士の姿を見た。
「約束? 約束、って、何かしら……」
僅かに動いた彼女の左手を、紳士が握った。
「約束しただろう? 死ぬ時は一緒だって」
「ふふ……もちろん、覚えて、いるわよ……」
老婦人が優しく微笑む。
紳士は彼女の手の平を自分の頬にそっと当てた。
「その時が来たよ、アリシア」
紳士が急速に老いていく。皮膚が乾き、深い皺が刻まれた。伸びた髭が口元を覆い隠し、根本から先端まで白く染まった。同様に伸びた白髪が彼の額から垂れる。
その白髪をかき分けて、老婦人はクロック・ハウスの顔を撫でて微笑んだ。
「おじいちゃんになっても、やっぱりいい男ね……ダンテ」
「君の美しさの前には霞むさ。アリシア」
「相変わらず、口が上手いんだから……もう」
恋人たちは互いに本名を呼び合った。
その様子をイノセントは上空から見下ろしていたが、彼女が構える魔法クレヨンの輝きが少しずつ小さくなり始めた。それを目ざとくキャンバスが見つけ、イノセントの耳元に近づく。
「もう3分だよ、イノセント」
「ねえ、キャンバス。どうしてもやらないとダメかしら?」
少なくない迷いを見せるイノセント。
そんな彼女の頭の後ろに浮かぶキャンバスは、どこまでも優しく彼女に話しかける。
「君の気持ちはわかるよ、イノセント。たしかに彼らはシャドウを悪用して世界征服を企んでいたとはいえ、間違いなく人間だ。可能ならなるべく彼らを殺したくない、そうだろう?」
「うん……」
イノセントはしおらしく頷いた。
その背後でキャンバスの両眼が怪しい輝きを帯びる。
「君は優しいからね。でも、優しさは時に弱さから生まれ、悲劇を育む結果になる。彼らの力を見ただろう? とても危険で、恐ろしい破壊の力だったね。君が彼らを止めなければ、彼らはあの力を使って更なる悲劇を生んでいたよ。君が彼らを一人見逃してしまうと、罪なき人々が千人は殺されてしまうだろうね」
「うん……わかってる。だから、ちゃんと、やらないと、いけないのよね……」
ギュイイイイイイイイイイイイイイ!
失われかけた純白の光が輝きを取り戻していく。
アリシアとダンテは頭上に輝く破壊の星を見上げた。
「私たちは天国へ行けるかしら……ダンテ」
「行けるさ、アリシア。たしかに多くの犠牲も出したけど、僕たちは世界の為にこんなに頑張ったんだ」
「そうよね……私たち、頑張ったものね……この日までにやるべきことは、全部やったものね……この後のことだって……」
アリシアの瞳から涙が溢れた。ダンテは彼女の手をより強く握る。
それを合図にアリシアはテレパシーを使った。テレパシーを受け取ったダンテは体感時間を引き延ばし、少しでも二人でいられる時間を作った。
そして彼らは二人で同じイメージを共有した。
星空を背景に浮かぶ巨大なスクリーン。
若き彼と彼女は手を繋いでそれを眺めている。
彼等が最後に見たのは、そんな世界だった。
スクリーンには様々な光景が映し出される。若き彼と彼女が画面狭しと活躍する、ただただ鮮烈で、いつまでも色褪せない大切な記憶。
場面が変わる度に、あの頃の情熱や胸の痛みといった感情が、記憶と共に二人の胸を駆け抜けていく。
映像が過去から現代に近づくにつれて、手を繋ぐ彼と彼女も同じように歳を取っていった。青年から壮年へ、壮年から中年へ、中年から初老、初老から老年へ。
信じる大義の為に、一緒に老けることが許されなかった彼と彼女は、ようやく同じ時の流れを共有することができた。それが現実世界での一瞬にすぎなくても、彼らにとっては永遠だった。
「プリンセス! シャイン! バスタァーッ!」
輝くばかりの光が、新たな時代の黎明を告げる。
世の支配者層を一掃したイノセントが、これからどのような世界を作るつもりなのか。
クロック・ハウスは、それだけが気がかりだった。
こうして、魔導管理機関の時代は終わった。
天空島から300km離れた上空に、巨大なカラスが飛んでいた。そのクチバシには満身創痍の少女が咥えられている。
ファイラとカーくん。この二名だけが、天空島から辛うじて逃げ延びた生存者だった。
指一本動かす力も残っていないファイラの頰を流れる涙は、向かい風にかき消されて霧散していく。彼女は悔恨の念に囚われていた。
何も出来なかった。イノセントにかすり傷一つ負わせることもできずに真っ先に負けて、あまつさえ自分を逃がすために、逃げられたはずの人が大勢死んだ。
もう老婦人からのテレパシーも届かない。
彼女も殺されたのだ。
あの凄まじい力を持つ魔法少女イノセントに。
このままで終わってたまるか。
動かなかったはずの指を動かし、ファイラは拳を強く握り締めた。怒り。怒りだ。嘆きも無力感も全てを塗り潰す、マグマのような怒りがファイラの拳に力を取り戻させた。
ファイラがイノセントに敗れて意識を失う直前に、老婦人がファイラに向けて残した言葉が、彼女の頭の中で何度も繰り返される。
(もしもファイラちゃんがまだ戦うつもりなら、マキヤの町にいる殺し屋ジークを頼りなさい。そしてあの子を止めてあげて)
その言葉を信じる生き残った少女と運び屋の怪鳥は、見知らぬ町の見知らぬ人物を目指して飛ぶのであった。