第28話。レゾンデートル
私が奴隷として売りに出されていたころ。多くの方が目の前で殺処分されていきました。
同じく売れ残りの私たちは殺処分の最中、見せしめとして殺される奴隷仲間に罵声を浴びせることを強要されて実行していた時のことは、忘れようとしても忘れられません。
苦痛。悲しみ。絶望。恐怖。誰もがそういったもので人生最後の時を塗り潰され、悪意と嘲笑の中で泣いて死んでいきました。
そうやって私たちは否応にも理解させられるのです。死とはとても残酷で苦しいもので、その順番を少しでも先延ばしにするためだけに私たちの人生はあると。
でも、ユカリさんの最期は違いました。
普通の人なら一生に一度で終わる死の苦痛を、ユカリさんは何度も何度も与えられ続けたはずです。
さらにはその先にようやく掴んだ小さな幸せさえ踏み躙られたというのに、それでもユカリさんは満足そうな顔のままで亡くなられました。
自分は生まれてくるべきではなかったと言っていたユカリさんは、最期にいったい何を見たのでしょうか。
私には、まだわかりそうにもありません。
夢は終わりました。
今日は風が強い夜です。空では薄い雲が風に吹かれて流れていきます。そこから透ける月の明かりが、雲の形に合わせて変化する濃淡の影を地上に描いていました。
廃墟と化した町には、世界樹の残骸だけが残されています。怪物となった住民の方々も、勇敢に戦った騎士の方々も、幻のように消えてしまいました。
全てが滅んだ町の真ん中で、首の無い騎士が泣いていました。頭が無いので涙は流さず声も出しませんでしたが、彼は確かに泣いていました。
彼の胸にぽっかりと空いた穴を風が通り抜ける度に、悲しげな音色が鳴りました。
彼の腕の中には最愛の恋人の亡骸があります。世界樹に利用されるためだけに生まれ、地獄の苦しみを与えられ続けた果てに、世界樹としての生を拒絶して人としての死を選ばれた女性の結末が。
私もハスキさんも私の周りに集まってきた人狼の方々も、その光景を見つめたまま誰も口を開こうとしませんでした。
私はまだそこに夢の余韻を見ていたのだと思います。儚くても強かった一人の女性が見た夢の残響を。
「……ゴホッ」
「クレア様、大丈夫ですか?」
クレア様が私の膝枕の上で目を覚まされました。何度か咽せたあとに口の中に溜まった血を吐きました。
「まだだ」
「もう休まれても大丈夫ですよ。だってもう……」
「まだ終わっていない!」
鼻血を拭い、クレア様が上体を起こされました。クレア様の未だ萎えない闘志にソル卿様が反応し、ユカリさんを抱いたまま振り向きました。
「ユカリの感情の揺れ幅に、違和感があった。世界樹になった瞬間に、私に向けられた殺意と憎悪は、いくらなんでも唐突すぎる。私には彼女も何者かに精神干渉を受けているように見えた……」
「えっ」
「あれだけの事になったのに、ユカリが住民達の苦痛を吸い上げている様子はなかったし……ユカリの衰弱速度も急激過ぎた……。まるでユカリは誰かに養分を奪われているようだった」
「いったいどこの誰にだ! そいつが本物の世界樹アノニマスか!? そいつはどこにいる!」
「地下か、別の空間か、遠い星のどれかか……親株の隠れている場所は私には分からない。だが、正確な座標を知らずとも……お前はお前の望みを叶える場所へ扉を開く力をユカリから授けられたはずだ……! そうだろう、ソル・ラインバルト!」
「……」
ユカリさんを抱いたままソル卿様が立ち上がりました。その意図を推し量るようにクレア様は無言でソル卿様を眺めていましたが、やがて無言で頷きました。
「……離れよう。ハスキ、悪いが私を背負ってくれ。もう今日は歩けそうにない」
「おう。でもオレたちは手伝わなくていいのか?」
「ああ、脇役の役割は終わりだ。恋人の仇打ちは任せよう」
「承知しました。では帰りましょうか、皆さん」
レトリバさんを先頭に町を後にする私たちの足に合わせるように、ソル卿様は自分を中心として星空をゆっくりと広げ始めました。少しずつ大きくなっていく円形の宇宙は、この町をじりじりと飲み込んでいきます。
「ん? なんだこれ?」
すると何かを察したように、地面から無数の結晶体が次々と浮かび上がってきました。けれどもユカリさんの世界で見た物と比べると形は歪で、複数の結晶体を融合させたようにゴテゴテとしていました。
そして、その全ての面にはユカリさんの姿が映っています。
「下手に触るなよ、ハスキ。どんな記憶を植えつけられるか分からないぞ」
「ふーむ、世界樹が集めた記憶を使って命乞いをしているようですね。危険らしき危険はなさそうですが、あまり気持ちのいいものではないですね」
「レトリバさん、触っちゃったんですか?」
「いやはや体が大きいものでして」
「世界樹の命乞いか、気になるな……。ハスキ、悪いがあと二歩右に寄ってくれ」
「おう」
クレア様が手を伸ばして結晶体に触れたので、私も近くにあった結晶体に触れてみました。
目の前にチェス盤がありますユカリさんが頭を下げました「降参です」ユカリさんが微笑みました「ソル」ユカリさんが跪いて両手を合わせていました「ユカリ」ユカリさんが暗い顔をしていました「元に」ユカリさんが泣いていました「戻して」ユカリさんが胸の中にいました「あげたい」ユカリさんが微笑みました「ソル」ユカリさんが跪いて両手を合わせていました「ユカリ」ユカリさんが窓の外を指していました「住民たちが襲って」ユカリさんが鬼に捕まっていました「来ないで!」ユカリさんが胸の中にいました「あげたい」ユカリさんが手を握ってくれました「二人」ユカリさんが泣いていました「ずっと」砂浜でずぶ濡れになったユカリさんが笑っていました「この町で」教会の中で純白のドレスを着たユカリさんが涙目で微笑んでいました「幸せ」ユカリさんが胸の中にいました「あげたい」
「こいつ!」
クレア様の驚きの声で、私は自分の視点に引き戻されました。世界樹は他の誰でもなくソル卿様の記憶を継ぎ接ぎして、ユカリさんの言葉を使ってメッセージを作っているようです。
「まさか懐柔するつもりでしょうか……」
世界樹からのメッセージは続きます。
ユカリさんが暗い顔をしていました「永遠」教会の中で純白のドレスを着たユカリさんが涙目で微笑んでいました「幸せ」ユカリさんが泣いていました「ほしい」ユカリさんが首をかしげていました「ですか」ユカリさんが悔しがっていました「普通の人生」ユカリさんが泣いていました「ほしい」ユカリさんが首をかしげていました「ですか」ユカリさんと小指を繋ぎました「約束」ユカリさんが頷きました「します」教会の中で純白のドレスを着たユカリさんが涙目で微笑んでいました「幸せ」ユカリさんが唇を離しました「足りないです」ユカリさんが首をかしげていました「ですか」ユカリさんが顔を真っ赤にして照れていました「恋人……」ユカリさんが両耳を押さえて泣いていました「もうたくさん!」ユカリさんが緊迫した顔で包丁と大根を持っていました「作ってみます」ユカリさんが難しい顔で何かを書いていました「何人」ユカリさんが首をかしげていました「ですか」
「成熟した世界樹である私なら地獄だけでなく天国の創造も出来ますと言いたいわけか。偽りの天国と現実の地獄。人はどちらを選ぶべきなのか、暇人が時々議論している命題を思い出す取引内容だな」
「でも、こんなの間違っていると思います……」
「間違っていても正しくても、幸せを選ぶ権利は誰にだってある。世界樹と和解するかどうかはソル卿だけが決めていい事だ。とはいえ、だ」
当然ソル卿様にもこの結晶体は接触していました。けれどもソル卿様は世界樹に対して何も反応を返そうとしません。
そのうち、広がった宇宙に星が流れ始めました。全ての星が一斉に尾を引き、何百本もの光の線が暗闇を埋めていきます。
「こんなもの、答えはもう決まっているけどな」
ユカリさんが微笑みました「ソル」ユカリさんが拗ねました「怒ってます」ユカリさんが泣いてました「どうして」ユカリさんが唇を離しました「足りないです」ユカリさんが「ですか」ユカリさんが「仲間」ユカリさんが「戻します」ユカリさんが「あなたの」ユカリさんが「記憶にある」ユカリさんが「人」ユカリさんが「再生」ユカリさんが「します」ユカリさんが「何人」ユカリさんが「ですか」ユカリさんが「私と」ユカリさんが「ソル」ユカリさんが「お互い」ユカリさんが「幸せ」ユカリさんが「なりましょう」ユカリさんが「だって」ユカリさんが「私は」ユカリさんが「まだ」ユカリさんが「生きたい」ユカリさんが「まだ」ユカリさんが
「死にたくない!」
ユカリさんが泣いていました。
「世界樹アノニマス。神の如く人の生死を弄んできたお前でも、やはり死は恐ろしいか」
哀れみを含んだクレア様の声に、世界樹が反応しました。「怖い」と。ユカリさんの声で。
「不老不死。死者の蘇生。永遠の天国。どれも魅力的な提案で、誰もが一度は夢見る奇跡だろうな。意外だったけれど、お前はよく人間を研究しているよ」
でもな、とクレア様は呟きました。
「お前は学ぶべきだった。人は快楽や幸福の為だけに生きているんじゃない。目の前の生活に忙しくて気付きにくいだけで、実は誰もがそれより優先しているものがあるんだ。その為になら人は生よりも死を選び、幸福を捨てて苦痛や不幸の中にさえ喜んで飛び込んでいく」
ユカリさんとの思い出が次々と断片的につなぎ合わされ、言葉が紡がれます。「なんでも」「あげます」「それは」「何」「ですか」
「レゾンデートル。人が生まれ、生きている意味。人生の意義、生の目的、到達すべき場所。人はそれが無いと、どれだけ恵まれた環境でも決して満たされない。無意味に生きている事に耐えられない」
世界樹は言いました。「わかりません」「生きる意味」「の、ために」「死ぬ」「選ぶ」「わかりません」
「ユカリは懸命に生きて、もがいて、抗って、それでも人並みの幸福を手に入れられずに死んだ。無念だっただろうな。不幸だっただろうな。けれど、あいつはそれでもそんな自分の人生に折り合いをつけて、納得して、受け入れて死んでいったんだ。そうでない人間が、最期にあんな顔をするものか」
なんだ。クレア様、ちゃんと起きていたんですね。
「あいつはきっと見つけたぞ、自分が生きた意味を」
「ソル」「止めて」「ください」「ソル」「支配」「ききません」「なぜですか」「助けて」「助けて」「生きる意味」「あげます」
「それは他人から与えられるものじゃない。世界中に地獄をばら撒く為に産まれた子が、生まれてくるべきではなかった子が、ようやく最期に見つけた人生の意義だ。それを奪う事は誰にも許されない」
「助けて!」「ください」「悪いこと」「反省しています」「お腹」「すく」「我慢します」「私」「そこ」「連れて」「やめて」「やめて」
「だからお前の命乞いには、私が代わりに答えてやる」
地上は真昼よりも眩い光に包まれていました。あまりの明るさにはっきりとは見えませんが、更に別の場所から現れた巨大な黒い球体が、無数に蠢く触手ごと光に飲み込まれていく影が見えます。
私たちが触れている結晶体も、パキパキと音を立てて割れ始めました。
「あ」「あ」「あ」「これ」「宇宙」「始まり」「光」「私」「死ぬ」「あ」「あ」「嫌です」「あ」「あ」「再生」「できないです」「助けて!」「助けて!」「助けて!」「死ぬ」「嫌です」「死にたくない!」「死にたくない!」「怖い」「生まれてきた意味」「どこですか」「生きる理由」「見つかりません」「教えてください」「どこですか」「わかりません」「わかりません」「わかりません」「わか」「ら」「ない」「よ」「お」「お」「お」「お」「お」「おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!」
「さらばだ、世界樹アノニマス。出生不明の名も無き何処かの誰か。お前もまた、生まれてくるべきではない子だった」
そして、全てが光の彼方へと消えていきました。