第25話。最後の騎士
皆、優秀な騎士であった。
ソル卿。ビステル卿。キュリオ卿。ウルグン卿。クレア卿。彼らは経験豊富で頭の回転が早く専門知識にも長けており、剣の腕も私とは比べ物にならない。一人一人が特殊な技能を持つ精鋭揃いである。彼らのうち誰か一人でも生き残れたならば、この先も多くの人々を救う希望の光となっていたはずである。
だが神は誰も選ばなかった。
私は手のひらに食い込むほど強く十字架を握る。
なぜです、神よ。この光景をご覧になっておられぬのですか? なぜただの一人も救われぬのです。
聞こえませぬか、 死に切れぬ亡者たちの怨嗟の声が。見えませぬか、あなたの子が今まさに蹂躙され命の花を散らそうとしている様子が。なぜ御使いを早くこの地に送られないのですか……。
クレア卿が掴み上げられ、投げ飛ばされた。
「くっ、うぅ……!」
ああ……駄目だ。どれだけ祈っても御使いは間に合わない。クレア卿はなす術なく殺されるであろう……。
逃げ込んだ民家の窓から様子を伺っている私の目の前にクレア卿が転がる。散々傷めつけられ、もう立てないようだ。従者の少女たちが彼女に寄り添った。
ああ、ああ、誰か止めてくれ。
「……」
デュラハンと化したソル卿が腕を前に伸ばした。私の視線は、かつての面影など微塵も残っていないソル卿の肌を這うようにその先を追う。
そしてその指先はクレア卿を指してはいなかった。
指先は私に突き付けられていた。
「あっ。あああ、あああっ……!」
私は今頃ようやく理解した。あの指はクレア卿ではなく、ずっと私に向けられていたのだ。
声無き声が聞こえる。
ーーお前はそれでいいのか。
ーー女子供を見捨てて隠れているつもりか。
ーー聖骸騎士団十ヶ条、第一条を思い出せ。
ああ、ああ、駄目だ。私は行かなくてはならない。この身が何の役に立たなくとも、一抹の勝算が無くても私は今ここで戦わなくてはならない。
そうだ、思い出した。私は今まで無能を免罪符にして、あまりにも、あまりにも逃げ過ぎていた。
私は今ここで少しでも罪を清算しなくてはならない。
気づけば私は初めて剣を抜いていた。
「来てくれると、信じてました……坊ちゃん」
背中からクレア卿の声が聞こえる。
「も、申し訳ない」
私は剣を構えつつも顔を地に向けていた。恐怖心もあるが、敵にも味方にも合わす顔が無い故に。
「何を謝るのですか……」
「さ、最後に残った者がこんな私で申し訳ない。わ、私は貴兄を助けることはできぬのだ。む、無能の私ではせ、精々が数秒かそこら、貴兄の死を先延ばしにすることが、げ、限界であろう。だ、だから、も、申し訳ない。わ、私は献身という自己満足のためだけに、む、無駄と知りつつも貴兄を庇う振りをしておるのだ……」
体が震えている。何とも情けない騎士がいたものだ。死の無い町で死を恐れるとは。
責められるであろうか。呆れられるだろうか。失望は免れないであろうな。私はクレア卿の叱責を待った。
「いいえ、貴方は強い」
思いがけぬ言葉に体の震えが止まった。
「貴方は自分の弱さを自覚しながらも、遥か格上の相手に立ち向かおうとしている。そんな貴方が弱いはずがない」
「し、しかし、わ、私は」
「だから顔を上げて胸を張ってください。今の貴方は騎士でしょう」
……ああ、そうであった。今の私は貴族ではなく騎士であった。騎士は自分より強い相手から逃げてはならぬのだ。同じ散るにしても、せめて胸を張らねば。
顔を上げれば、遥か遠くに輝くはずの星々が今や手の届きそうな距離にあった。人には見上げることしか許されぬ神々の領域が。
その中心に悪魔の騎士が君臨している。勇猛果敢で思慮深く、如何なる時も笑顔を絶やすことのなかった理想の騎士、ソル卿の成れの果て。その処刑人が如き威容を前にしては、万夫不当の豪傑も形無しであろう。
だが私はすでに罰を受ける覚悟を決めてここにいる。思えばソル卿は無能な私を今まで一度も責めなかった。彼が私の代わりに戦い受けた苦痛を思えば、どのような責め苦でも安いものであろう。
「ありえない。どうしてそこにいるの」
だが裁きはすぐには下されなかった。世界樹と化したユカリさんの非難の声が聞こえる。ソル卿の星空に隠れてその姿は見えないが、侮蔑の表情で私を見ているに違いあるまい。
「わ、私とて場違いとは、じ、自覚しておる。む、虫ケラのような私が、このような……」
「ソル、気をつけて。いるはずのない者がいる」
いるはずのない者とは私のことであろうか。確かに今まで逃げ続けてきた私が、剣を手に立ち上がるなどあり得ないことなのであろうな。
「あなたは警戒されています。分かりませんか」
警戒? クレア卿は何を言っているのであろうか。取るに足らない存在である私が警戒される理由など皆目見当がつかぬ。クレア卿にはわかるのであろうか。
「ならば剣を上段に構えるのです。答えが向こうから来ましたよ!」
上段とは、こうか? 事態を飲み込めぬままに私は剣を振り上げた。
しかしながら私の動作は緩慢に過ぎたようだ。ソル卿はすでに必殺の間合いへと踏み込んできていた。闇色の刃が私の喉元に迫る。
「あっ」
そして私の◾️はいとも簡単に切り離された。
宙を舞い緩やかに回転する視界の中で私は自分の体を見た。振り上げた◾️◾️と◾️を失い、後方にゆっくりと倒れゆく自分の体を。そしてクレア卿も見た。申し訳ない。やはり私は役に立たなかった。
だがクレア卿の目には未だ強い輝きが灯っている。あの目は住民たちが博打に興じていた時に見せた目だ。それもたしか勝利を確信した時に。
彼女は何に賭けたのであろうか……。
目の前にソル卿がいた。真横に剣を振り抜いた姿勢のまま硬直していた。事態が飲み込めない。クレア卿の歓声が聞こえる。
「今です! 全力で振り下ろしなさい!」
言われるがまま、私は咄嗟に剣を振り下ろす。
「う、おおおおおおおおおおおお!」
喉から獣の如き声が噴き出した。
私の渾身の一撃はソル卿の首無き首を打ちすえた。手応えと呼ぶには余りある衝撃が私の手先から骨を伝い、背筋と頭蓋の頂点まで駆け抜けていく。
「あっ……」
私の前にソル卿が膝をついていた。あのソル卿が。騎士の中の騎士が。怪物化した騎士を鎧袖一触に蹴散らした無敵の処刑人が。
「あっ!」
だが余韻に浸る時間は無かった。ソル卿は押し当てられていた私の剣を跳ね除け、すぐに反撃に転じた。ソル卿の剣は速すぎて、私の目には尾を引く黒い斬撃としか映らない。
私の◾️が切り飛ばされた。◾️◾️が付け根から切断された。◾️◾️が三つに切り分けられ、◾️◾️は縦に両断された。◾️が真一文字に割かれ、◾️◾️が勢いよく飛び出した。◾️◾️◾️が◾️◾️◾️ごと断たれて一切の光を失った。気も狂わんばかりの痛みが全身から噴出している。
それでも私は再び剣を振り上げ、力の限りソル卿に叩きつけた。
「……!」
鍔迫り合い。だがそれも一瞬。
ソル卿は私の剣を受け止め切れずに押し込まれ、自ら後方へ跳んだ。単純な膂力では私に分があるようだ。しかし問題はそんなことではない。
「な、何が起こっているのだ? なぜ、私は、傷一つ負っていないのだ……?」
私は四肢を確認する。私の身体どころか、共に破壊されたはずの甲冑まで元に戻っている。あり得ない。たった今ソル卿に切り刻まれたではないか。それが傷一つ無いとは、一体何がどうなっているのか。
混乱しているのは私だけではなかった。あまりにも不可解な現象に誰もが言葉を失い押し黙っている。
そしてクレア卿だけが口を開いた。
「貴方には記憶障害が起こっている。薄れ行く記憶の中で自分の特性を忘れてしまっていたのですね。それでも助けに来てくれた貴方は本当に立派です」
「ク、クレア卿? わ、私に何が起こっているのだ?」
「分かりません。ですが貴方には、有り得ない事が最初から起こっていました」
「あ、あり得ないこととは?」
「貴方が植物人間のまま目覚めないはずがないのです」
私はソル卿を前にして危うく振り返りそうになった。だが今ここでソル卿から目を離すわけにはいかぬ。
「私もミサキもソル卿も、ジェルジェ内での6日間が終われば現実の体に意識が戻りました。しかし貴方だけが違う。目覚めてもいいはずなのに、何故か貴方は狂気の世界に留まり続けた。まるで」
まるで?
「まるで果たすべき使命があるかのように」
どぐぅん、と。
私の胸は一度だけ鳴らしたその鼓動で、世界から全ての音を消した。
恐怖も。痛みも。私は私を苛む全てを忘れた。
静寂なる世界の中でクレア卿の声だけが聞こえる。
「強制中断された複製作業が今も続いているからなのか、ここにいる貴方は魂が分断された精神体だから元の形に戻ろうとする力が働き続けているのか、あるいは何か他に原因があるのか、確固たる理由は分かりません。……しかし断言します。これは神の奇跡や都合の良い偶然などではありません。この地獄の終わりは貴方から始まった」
私から、始まった……。
「貴方はラインバルト隊に入った。世界樹に捕らえられたが、大貴族を理由にゴート卿に優先的に助けられた。逃げられるはずの地獄に残って、収集した情報を外部に伝え続けた。貴方の血族が大金を使って援軍を送り込んだ。そして今や世界樹は追い詰められている。……分かりますか、全ては繋がっているのです。悪魔の花の滅びは貴方から始まった。神ではなく、貴方が呼び寄せたのです!」
神ではなく、私が、呼び、寄せた。
「そして今も、仲間を守る為に最悪の敵の前に立っている! そんな貴方が決して弱いはずがない! 役立たずのはずがない! だって貴方は地獄からずっと逃げなかった!」
私が、逃げなかった……。
「後はその心のままに剣を振るうだけでいい! 胸の剣が折れない限り、貴方は決して負けない! 貴方は強い、誰よりも!」
思えば、誰かに褒められるのはこれが初めてであった。目頭が熱くなり肌が泡立つ。私は今、猛烈な感動を覚えていた。
ーあなたにはあなたにしかできない役目があります。誰しもその時が来て初めて自分の人生の意義がわかるものです。
いつかどこかでソル卿が私にかけてくれた言葉が、今頃になってようやく届いた。
「ずっと隠していたの? だから今までバリス卿を世界樹対策から遠ざけて話題にも出さず、私の意識が回らないようにしていたの? これも全て計算?」
ユカリさんの冷たい声に、クレア卿は若干の間を置いて答えた。
「……こう答えればお前が悔しがるなら言ってやる。『ああその通り、全て私の作戦通りだ』」
ユカリさんは不機嫌そうに顔をしかめた。
「もういい。どうせソルが負けるはずがないから」
ユカリさんの声に呼応するように、ソル卿がまとう星屑の彼方に輝きがポツポツと生まれ始めた。それらの光はじわりじわりと大きさを増しながら増える……増える!
ソル卿は全力を出すつもりだ。私は自分の握る剣とソル卿を交互に見比べた。私の武器はたったこれだけで、あのソル卿と戦うにはあまりにも頼りない。
「……」
ソル卿が無言で私に剣先を突き付けた。言葉は無いが、私はその剣先にソル卿の意思を確かに聞いた。
ー甘えるな、スポーツでもやっているつもりか。同じ土俵で正々堂々と勝負してくれる敵がいるものか。
……ああ、そうであった。私は何と頭が鈍いのであろう。聖骸騎士とはこのような超常の存在と戦わなければならぬのだ。戦場において卑怯などという言葉は敗者の言い訳に過ぎぬのだ。
だが私はこの身と剣のみで正々堂々と戦おう。もとよりそれ以外の戦い方など持ち合わせてはおらぬ。
「坊ちゃん、いえ、バリス様! ここは任せました! ご武運を!」
クレア卿が少女二人に肩を借りながら私の横を抜けていった。世界樹と決着を着けるつもりなのだ。
殺そうと思えば殺せたはずだが、ソル卿は彼女らを素通りさせた。どのように姿形が変わろうとも、やはりソル卿は騎士の中の騎士なのだ。女子供を殺すはずがない。
それにしても、何たる清々しさであろうか。仲間に信頼され背中を任されるとは。あのソル卿に全力を出し尽くすに値する敵として扱われるということは。
そうか、私は期待されているのだな。
うむ、うむ。ならば期待された以上は気を張らねば。
かつてない力が四肢に漲り、血液が沸騰したかのように心身が熱く煮えたぎっていく。
「聖骸騎士団、ラインバルト隊! 不死身のソルの部下にして不肖の新入り、バリス・グランバッハ! 義によって今ここで我が隊長に弓引かん! さぁさ、いざや尋常に勝負勝負!」
私は今、ようやく騎士になれたのだ。