第24話。セカンド・バースディ
目を、覚ましてしまった。
目に付くものは死骸ばかり。人の死骸。家畜の死骸。建物の死骸。船の死骸。町の死骸。私を産んだ世界樹の枯れ果てた死骸。
世界は亡骸で埋め尽くされていた。
その全ての命を啜りあげて、世界樹は成熟していた。
数多の亡骸をしゃぶりまわすように絡みつく根。数え切れないほどの痛みを貪ってきた、血と臓物の色を持つ葉。人々の願いをあざ笑うかのような、住民の祈る姿を模した幹。その上で勝ち誇るように咲く一輪だけの花と、人間の女性を模した何か。
それが私だった。
現実の世界でもソルは側にいた。けれどもう人間じゃない。甲冑と一体化した頭の無い怪物になっていた。顔も肌も臓器も人間としての部分は何一つ残っていない。
その内に守るべきだったものを失った伽藍堂の鎧。
それが今のソルの姿だった。
ソルが記憶を保っていたのは物理的に接続して私が無意識にソルの身体機能を書き換えていたから。死なないで。もっと側にいて。私を守って。あの時願った私の要求が叶えられるようにソルの体を改造して世界樹の眷属にしてしまったからだった。私の願いは歪められて届いてしまった。私はソルから人としての人生を奪ってしまっていた。
私はソルに幸せを与えたかったはずなのに。
「クソッ、寝過ぎで体が重い……!」
町の入り口付近に停まった幌馬車の中からクレア卿が出てきた。よろよろとした足取りで顔色は悪い。
けれどもその目にはまだ強烈な意思の炎が燃えていて、私はそれがなぜか無性に気に入らなかった。
「ふぅん。思っていたより元気そう」
「ユカリか。待っていろ、今殺してやるからな」
「そんなことを頼んだ覚えはないのだけれど」
私は花の上から彼女を見下ろしていた。それほど大きな声を出してはおらず距離も離れていたけれど、私の声はどうやら向こうにも聞こえるらしい。
「そうだな。私に頼んだのは他の奴だ」
「……どうでもいい。ソルさえ元に戻れば」
私は赤い霧を気孔から噴出させた。霧はドーナツ状に広がって世界を飲み込み万物の構成情報を読み取っていく。
そして霧が通り過ぎた後に構築されているのはあの異空間だ。食事もクレア卿も何もかも後回しでいい。何よりも優先させるべきソルのために、ソルが元に戻るように1日目から世界の全てを再現し直す。
簡単な事だ。クレア卿に殺された世界樹から引き継いで保存されている記録を読み込んで現実世界に上書きするだけでいい。ここは今から現実世界であり花の世界だ。さあ、これで街並みも住民たちも元に戻った。
「クレア卿! いったい何が起こったのですかな!? 突如として天地に亀裂が走ったかと思えば、自分の体も割れ意識を奪われたように思えましたが!?」
「むう、あれが世界樹か! ユカリ・クレマチスは取り込まれておるのか!?」
「キュリオ卿にビステル卿!? 私を覚えているのか!?」
あれ? おかしいな。私は1日目に戻したはずなのに、どうして騎士たちに記憶が残っているんだろう。それに時間帯も朝ではなく日没前のままだ。町並みは全て元に戻ったのに。
「ソル卿はどちらに!?」
「世界樹の根元にいる首の無い騎士を見ろ。あれがソル卿だ」
「何だと!? いったいあの時に何が起こったのだ!? なぜソル卿がデュラハンになっておる!?」
「さあな、私達に会わせる顔でも失くしたんだろ」
「ちょっと上手いことを言っておる場合か!」
「どうして? 1日目に戻したはずなのに……」
ソルが元に戻っていない。私は1日目に戻したはずなのに、戻っていない。ソルは首無しの怪物のままで、体も現実世界のものだ。クレア卿も私も複製した素体ではなく現実の体を持ってこの場にいる。住民たちは金銀宝石で着飾っているし、騎士の記憶も残っているようだ。おかしい。異空間の構築が不完全なのだろうか。これでは1日目じゃなくて6日目の続きだ。
あれ? ということは……?
「おそらくこれがお前が花になってからの1日目だからだ。発芽して世界樹としての能力を開花させる前の事を、お前は再現できないんだろう」
「じゃあ、ソルは……」
「そうだ。二度と人としての姿に戻る事はない」
「……ウソ」
「嘘かどうかはお前が知っているはずだ」
「ウソ! ウソウソウソ! じゃあもうソルの肌に触れられないというの!? ソルの声を聞くことも、ソルの顔を見ることも!? なんで!? 戻してよ!」
「お前に出来ないのなら私に出来るはずないだろ。それに1日目に戻っても、牧場主になってしまったお前は今までのように人の体で活動する事は出来ないんじゃないのか。今だってそうだろう」
言われてみればそうだ。仮にソルだけ元に戻れたところで私は人の形に戻れない。こうして異空間を作っても、私はおぞましい化け物の姿のままだ。
私は花になった。私は世界樹に成った。もう動けない。何処へも行けない。この小さな世界に地獄を作り人を苦しめて、ただ自分が生きて種を撒き散らすことだけが私の生きる理由になった。
「お前はいずれ人としての人格も失い、ソル卿との記憶も消える。そしてお前を苦しめてきた世界樹に成り果て新たな地獄の種を撒くだろう。だからその前に私がお前の悪夢をここで終わらせてやる」
「終わらせて、やる?」
「お前に人の心が残っているうちに、殺してやると言ってい///隱ー縺ョ縺帙>縺ァ縺薙s縺ェ縺薙→縺ォ縺ェ縺」縺溘?縺玖??∴縺ヲ縺ソ縺ヲ?
誰のせいかって?
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たしかにその通りだ。世界樹を殺さなければ私とソルの暮らしはずっとずっと続いていたに違いない。あの疫病神さえ来なければ。
縺昴l縺ッ隱ー?
クレア卿だ。彼女さえ来なければ私はまだ甘い夢を見ていられた。地獄の中でも幸福でいられた。
繧ゅ▲縺ィ螟「繧定ヲ九◆縺九▲縺滂シ
そうだ。私はもっともっと夢を見ていたかった。
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憎い。クレア卿が憎い。クレア卿さえいなければ。
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殺す。殺す殺す殺す。クレア卿、お前だけは苦しめて無残に殺してやる。
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そんなこと、言われなくてもわかってる。彼女は危険だ、この世界に残すわけにはいかない。彼女を生かしておけば、いつか必ず私の死に辿り着く。だから殺すしかない。
鬆大シオ縺」縺ヲ縲らァ√?蜿ッ諢帙>蟄///た。それとも、もう自我が消えかけているのか」
「許さない」
「……何?」
私はありったけの憎悪を込めてクレア卿を睨みつけた。クレア卿は訝しむような表情で私を見上げている。あれは自分が何をしたのかをわかってない顔だ。それが何よりも許せない。
「許さない許さない許さない! 何もかも全部、許さない! 私がどれだけ苦労したと思っているの!? どれだけ痛くて悩んで傷ついて、耐えて耐えて耐えて耐えて耐え続けた結果がこれ……? 辛いことや苦しいことを我慢すればいつかは幸せになれるんじゃなかったの? ふざけないで! こんなの絶対に許さない、許さないからっ!」
体の末端が枯れていく。十分な養分が蓄えられていないのに世界樹の力を使う代償だ。だから何だというのか。枯れろ。枯れろ。枯れ果てて死んでしまえ。どうせ私には未来なんて無い。
クレア卿は眉をしかめて私を見ている。気に入らない。気に入らない。なんだその目は。気に入らない。
私は真っ向から睨み返してやった。
「クレア卿。私、あなたが嫌い」
「そうか」
「後から来たくせに。頑張ったのは私とソルなのに。自分は何も痛い思いをしなかったくせに。後出しで解決策を持ってきて、それで世界樹も私も殺してハッピーエンドだなんて許さない。私はあなたが嫌い!」
住民たちが頭を抱えて悶え始めた。ちょっと精神状態を書き換えただけなのに苦しそう。でも私の苦しみはこんなものじゃなかったのだから、もっと我慢すればいいでしょう。
「あなたはきっと今まで満たされた人生だったんでしょう? 頭が良くて、強くて、美人で、貴族の騎士になれるくらいだから家柄も良くて。何一つ不自由の無い環境で育ってきたんでしょう?」
「私もそれなりに苦労はした」
「じゃあ私よりも酷い目に会ったことがあると言うの!? 嘘つき! 嘘つき! 当たり前以上の環境で生きてきたくせに! 私がその当たり前をどんなに欲しかったかも知らないくせにいいいいっ!」
私が直接クレア卿に手を加えることはできない。クレア卿の体は複製体ではないからだ。なので代わりに住民たちの理性を壊す。
「だから教えてあげる! 私がどんなに辛い思いをしてきたか! 全く同じ目に遭わせてあげる! 私が受けた痛みの百分の一でも思い知らせてやる!」
「うあああああああああああああ!!」
「ひぎぃいいいいいいいいいいい!!」
「おおおおお、おおおおおおおお!!」
住民たちが次々と狂った。なりふり構わず隣の者に襲い掛かり殴り噛み付き爪を立て髪を引っ張り◾️◾️を◾️◾️◾️◾️始めたので、私は慌てて彼らに命令して指向性を持たせる。
「同士討ちはしないで。クレア卿を狙って」
「くっ、むう、むむむむっ!」
「ぬうううう! 頭の中で声が響きおる!」
騎士たちを含めた何名かは私の命令に抵抗しているみたいだけど関係ない。総勢約800名の突進で踏み潰してあげる。
一人一人適当に暴れていた今までの暴徒とは違う。統率の取れた私の兵だ。騎士がどれだけ強くても、たった三人でこの質量を止められるはずがない。
圧倒的な物量で飲み込んだ後は捕まえて、クレア卿の上に兵たちを一人ずつ乗せて何人目で潰れるか試してやる。
「ウウゥゥアアアアアァアアアアアアアア!!!」
バラバラだった兵たちが一斉に同じ方角を向き、次々と走り始めた。白眼を向きヨダレを撒き散らして叫ぶ。アゴが外れる程に口を大きく開き、あらん限りの力をもって泣き叫ぶ。
彼らは私の一部。私の手足。私の端末だ。その声量で空気が震え、その進撃で地面が揺れる。
人々をこうして操る側になってみると、案外壮観で気分がいい。まるでチェスの盤面を見下ろしている気分だ。私にはこんなにも駒がいる。好き勝手に動かせる。どう、クレア卿。私だってあなたより上手に人を動かすことができる。さぁ行って。クレア卿を叩きのめして潰ッ。 ………?
急に信号が途絶えた。兵たちが方向性を失い、再びバラバラに暴れ始める。
風が強い。息を吸おうとして肺が無いことに気がついた。顔面が勢いよく自分の根に当たり、歯と鼻の骨が折れる。別に今更この程度の痛みなんて気にしない。立ち上がろうしたけれど体のどこも動かない。体との接続が途切れている。
ここでようやく私は自分の頭が切り落とされたことに気がついた。実行したのは一人しかいない。ウルグン卿だ。今の私の目で探せないなんて、素直に凄い。達人の域だ。ここまでくると相手への意識介入に近いかも。
でも残念。確かにこの頭は死ぬけど、その程「度じゃ今の私は殺せない」
途中から声が出るようになったので普通に話す。切り離された頭を捨てて、内部に保存されている情報から新しい頭を復元しただけだ。このくらいの治癒能力なんて世界樹なら当たり前に持っている。
そもそもユカリ・クレマチスとしての身体部分は、世界樹が土着生物の生態を解析して養分にするために土着生物に似せて作られた端末に過ぎない。土着生物が理解できる信号を発信する役割を持っただけの器官であり、クレア卿の言葉を借りるならただのアバターでしかない。アバターをいくら破壊したところで本体を殺さなくては意味がない。とはいえ花や幹だけではなく、この空間そのものも世界樹の本体なのでそんなことは不可能なのだけれど。
ソルが私の側に駆け登る頃にはウルグン卿は再び姿を消していた。こういう戦い方は何て呼ばれているのだっただろうか。精神干渉も殆ど効かない面倒な敵だ。ただの人間のくせに。私に作られた複製体のくせに。私に逆らうなんて。
ふと気づくとソルは剣を持っていなかった。変貌した時に失ってしまったのだろうか? それ以外にも私はソルからいろんなものを奪ってしまった。人としての生も、人としての死すらも、世界樹が、私が、奪ってしまった。
「ソル。私を、恨んでいますか……?」
恐る恐る問いかける。でも今のソルには感覚器官が無いから私が何を話しかけても聞こえないかもしれない。怒られても恨まれてもいいからもう一度ソルの声が聞きたかった。
「あっ……」
うなだれた私の手をソルがそっと握ってくれた。大丈夫、恨んでなんかいません。私はあなたの味方です。そんなソルの優しい気持ちが伝わってくる。言葉が交わせなくても怪物になってしまっても、ソルはソルのままだった。
「私は、今から酷いことをします。それでも、許してくれますか……?」
ソルは私の肩を優しく抱いてくれた。あなたの罪を私も一緒に背負います。そう言ってくれている気がした。
ありがとう。あなたが隣にいてくれるなら、私は何だって出来る。誰にも負けやしない。私たちの敵を一人残らずメチャクチャに壊してみせる。
そうだ、クレア卿のことを忘れていた。兵たちへの命令は中断されてしまったけれど、どうなっただろうか。……はぁ、やっぱり。
案の定、兵たちは同士討ちしていた。見境なく近くの者に襲い掛かってお互いで勝手に潰し合いをしている。手足がダメになった個体も多く、満足に動ける兵は少ない。
本当に使えない。ああ、私が理性を奪ったんだっけ。理性が無かったらこうなるか。私の言うことを聞いてくれた25体も騎士たちに簡単に斬り伏せられたようだ。まあこの数なら仕方がないか。
「ウヒッ、ウヒヒヒヒヒヒヒィ!」
「おい! しっかりしろ! 狂気に飲まれるな! しっかりしろって! この! このヒゲ! ヒゲが!」
当然ながらクレア卿は無事だった。キュリオ卿の頬を叩いて何やら激励している。キュリオ卿は自分が切り捨てた相手を見てゲラゲラ笑っていた。
贅沢を言えばクレア卿の理性も壊してみたかったけれど、彼女は複製体じゃないから影響を与えられないことが本当に残念。
じゃあ次はこうしよう。
「全員咲きなさい。その醜く汚い業を咲かせなさい」
思い出すといい。あなたたちは人間じゃない。私と同じ化け物だ。化け物には化け物に相応しい姿がある。自分の心の形を曝け出すといい。
「ウ……ッボオアアアアアアアアアアアア!」
兵たちの叫び声が響き渡る。人としての形が壊れ、異形の姿へと開花する痛みが彼らを苛む。でも私はもっと痛かった。もっともっと痛かった。
全ての複製体は私の子。世界樹の子。その内々に世界樹の因子を孕んでいる。人間性が薄くなれば自然と発芽するけれど、世界樹の力を使って無理やり発芽させてやる。多少の傷くらい変身した時に治るから問題はない。
「ぐうう、ううううううう!」
キュリオ卿は自分の爪を短剣で剥がし始めた。痛みに歯を食いしばりながら泣いている。その程度の痛みで私の信号を誤魔化せると思っているのだろうか。でもその無力な抵抗が可愛いから、特別に彼らへの信号を少し緩めてあげよう。こっちの仲間にはしてあげない。そのまま嬲られて食い散らかされるといい。
体がどんどん枯れていく。幹が弱り、直立できなくなって地面に倒れてしまった。ビシリ、バキリ、と音がしてあちこちの空間に亀裂が走る。
だけどそんなことが何だというのか。そんなことより彼女らの苦しむ姿を見る方が先だ。
「これが例の怪物化か……」
「ぬ、ぬううううっ! 見ると聞くとでは大違いよ! 何たるおぞましさか!」
「ううううう! ごめんよ、ごめんよソフィー! ソフィーッ……!」
キュリオ卿は完全に錯乱し、ビステル卿も怖気付いていた。もう盤面上にクレア卿の手駒は無い。彼女が打てる手は残っていないだろう。
「クレア卿! どうするのだ!? あの大群が襲ってくればひとたまりもないぞ!」
「逃げ切るのは無理だ! 持久戦しかない! 何とか持ちこたえてくれ!」
「簡単に言うな! キュリオ卿もこの有様で、ソル卿もおらぬのにあの数を私だけで止められるものか! 瞬く間に飲み込まれるわ! そもそも持久戦で勝機はあるのか!?」
「ある! あれを見ろ! 世界樹が枯れてきている! ユカリの部分と違って再生もできていないだろう! 奴は未熟児なんだ! 長くは生きられない! だから奴が自壊するまで何とか……!」
持久戦? 呆れた。私が自壊しているのは私自身の意思なのに、そんな見当違いの可能性に賭けるなんて。クレア卿を少し買い被っていたかな。子供たちに蹂躙されるまでのあと数分の間に私が枯れ果てると思っているのだろうか。
「何とか持ちこたえてくれ! ハスキ!」
え、 誰?
「まっかせろおおおおー!」
幌馬車の中から誰かが飛び出してきた。銀色の髪を持つ小柄な少女。お尻から生えているのは尻尾だろうか? 耳も普通の人間とは違って頭の上から生えている。
そうか、この子はゴート卿と同じ方法で世界樹の意識探知をすり抜けて、現実世界のクレア卿の体の介護をしていたんだ。
「ウゥゥゥオオオオオオオォォォオオオオォォーー!!」
空間の亀裂に口を近づけたかと思うと、とてつもない声量で少女は吠えた。人間の肺活量と声帯では不可能な声だ。特殊な身体能力を持つクレア卿の部下だろうか。きっとこの子がクレア卿の言っていた切り札なのだろう。
だから何だというのか。この子が普通の人間より多少強かったところで「ウゥゥゥウウウウゥオオオオオオオォォォオオオオォォオオオオオオオー!!」今度は何……?
獣のような声と共に外部から赤い霧に侵入してきた者たちがいる。
けれど彼らは当然ながらすぐに全員意識を失って生体接続器官に捕らわれた。そして複製された素体への意識転送が始まる。その数17体。
「馬鹿馬鹿しい。外部から増援を呼び寄せたところで、私の手駒が増えるだけでしょう。他の子たちと同じように人間性を奪いとって世界樹の因子を咲かせてあげる」
意識の転送はすぐに終わった。これで新しい手駒が誕生する。さあ、咲いて。咲きなさい。人の殻なんて壊してしまって、その心のままに醜い化け物の姿になりなさい。
「……あれ」
世界樹の因子が咲かない。何。何なのこれ。土壌になる人間の因子がほとんど存在しないじゃない。
それだけじゃない。私の信号も完全に拒絶されている。彼らは複製体だけど私の子じゃない。私の仲間じゃない。世界樹よりも強い因子が彼らの中にある!
「やはりな。スレイの言っていた通りだ。あのゼノファビアでさえ彼らを従える事は出来なかった」
猛々しい叫び声が赤い霧の向こうから聞こえ続けている。 スレイ? 彼ら? ゼノファビア? いったい何の話? 何を連れてきたっていうの。
「誇り高き狼の神の血は本物だ。異種への変貌も隷属も許しはしない」
「ウゥオオオオォォオオオオオオオォオオォ!」
赤い霧を突き抜けて巨大な金色の狼が姿を現した。大きいだけでなく筋肉がパンパンに発達していて、体付きは犬よりも人間に近い。そんな体のあちこちに残る古い傷痕が潜り抜けた修羅場の数を主張していた。
金狼だ。凶悪な人狼の群れを率いる古く賢い獣だ。ソルが教えてくれた外の世界の話ではもうほぼ絶滅したと聞いていたのに!
金狼に続き、赤い霧を潜り抜けて次々と人狼たちが飛び出してきた。金狼を先頭にクレア卿を守るように隊列を組み、獰猛な唸り声を上げて私たちを牽制している。
何これ、本当に人間ではないじゃない!
「うおおおおおっ!? 今度は人狼かっ!?」
「味方だ! 心配するな!」
「何だと!? 人狼が味方などと、ふざけるな! 本物の危険生物ではないか! こんな野蛮なケダモノどもが信用できるか!」
「野蛮でごめんね、おじちゃん」
「ぬううっ!? この人狼、子供の頃に飼っていたラッキーに似ておる! 何と愛くるしい顔付きか! 少し撫でさせてくれ!」
「怪物どもを頼んだぞ! レトリバ!」
「お任せください。 受けた恩は必ず返します」
「ぬう! 何と紳士的な声よ!」
「とっつげきだああああああああー!」
「ウゥオオオオオオォォオオオオオオオー!」
「おお、実に頼もしい!」
状況が掴めず私が呆然としている間に、人狼たちは雄叫びを上げながら目を見張る速度で私の子供たちに突っ込んできた。
先頭の金狼の体当たりだけで、津波のようだった私の子供たちの進撃が止まった。木の葉のように吹き飛ばされて空中を跳ね躍る。
その後ろに続く人狼たちは、金狼が痛めつけた子の手足を噛みちぎって効率的に動きを封じ始めた。野蛮な獣かと思いきや、明らかに統率が取れている。
私の子供たちの進軍は、金狼が率いるたったあれだけの数の人狼に勢いを殺されて大通りに渋滞してしまった。
「何、これ……」
怒りが湧き出てきた。ずるい。卑怯だ。こんな伏兵を隠していたなんて。偽の怪物に本物の怪物をぶつけたつもり!? なんだその目は! 私を哀れんでいるのか!? 人間のくせに! 気に入らない!
「……殺して。殺して! 殺して! 殺して!あの生意気な女騎士を殺して! 私と同じ目に遭わせてよおおっ!」
自分の体を絞って養分を抽出する。町中に広がる生体接続器官が枯れ果てた。もう新しい複製体に意識を転送することはできない。痛い。痛い。養分を吸収する器官も枯れた。痛い。これで何も食べられない。もっとだ、もっと壊れろ。生殖器官が壊れた。すごく痛い。でもこれで私はもう何も産めない。
あはは、ざまあみろ。今までと何が違う。痛い。痛い。
そうやって捻出した養分を使って更に子供たちを強化させる。単純に筋肉力を増やしただけで、人狼たちの進撃速度が低下した。
どう? 私の子だって強いでしょう。あの金狼を倒すにはまだ力不足だけど。
それに私の手駒はまだある。自分だけが伏兵を隠していたつもりなら大間違いだ。私だってあなたの側に最悪の伏兵を隠している。
さあ今度は容赦しない。ビステル卿、キュリオ卿、ウルグン卿、あなた方もみんな怪物にしてやる。クレア卿を狙え。
「嫌だぁぁぁああ! ソフィー! ソフィィィー!」
「ぐ、うああああああああっ!」
キュリオ卿は口が大きくめくりあがって自分の体を飲み込み、体の内側から反転していく。外部に晒された◾️◾️が脈打ちながら肥大化して筋肉へと変わっていく。やがて肉塊に目が生え牙が生え、鬼の顔が形成されてきた。
ビステル卿は激しく燃え上がった。髪が縮れ血が沸騰して皮膚の下で泡立つ。甲冑も溶けて彼の皮膚に貼り付き、そのまま彼の一部となる。
生きたまま焼かれる苦痛の果てに血も肉も失い、彼は灰の毛並みと溶鉱炉の臓器を持つ四足獣になった。
「ぐっ」
この後に及んでウルグン卿が私を狙ってきたので、ソルが蹴り飛ばした。かろうじて腹部はガードしていたようだが、もうそんな小さなことを気にする必要はない。
落書きみたいな顔をした実体が彼の周囲に次々と何体も現れ、手足に噛み付いて空中へと引っ張り上げていった。その様子は餌に群がる魚を連想させる。
そのまま何十体もの実体にウルグン卿は食いちぎられ、◾️◾️や◾️◾️が空中からどんどん撒き散らされた。
せっかくだから次はクレア卿の所に行きなさい。
クレア卿の周りに護衛はいない。頼りの人狼たちも強化した子供たちが足止めしてくれている。私の子供たちの中でも一番強い子たちがクレア卿を取り囲んだ。
クレア卿は一人だった。
怒り燻るビステル卿から立ち昇る白煙が周囲を漂う。ビステル卿からは絶えず火の粉がパチパチと爆ぜ、彼が放つ高熱により空気が歪む。
クレア卿の額に大粒の汗が浮き出した。
さあ、怯えて泣き喚くか恐怖に震えるか好きな方を選ぶといい。もし上手に命乞いができたら助けてあげてもいい。
貧しきキュリオ卿が大口を開き、彼女の顔を至近距離で覗き込んでいる。強酸性の唾液がボトボトと口元から溢れ落ちて枯れた私の根を溶かした。
クレア卿はそんな鬼の顔に怯むことなく真正面から睨み返している。
それは何の強がり? 騎士らしく最後まで誇り高く戦って死ぬという自己満足? そんなもの簡単に汚して踏みにじってあげる。
罪深いウルグン卿の子供たちがその周囲を取り囲んで旋回している。落書きのような顔を持つ彼らは口々に悲鳴を上げて泣き叫び、母親を探し求めていた。
クレア卿は一瞥しようともしない。
違う。この自信に満ちた顔は、違う。これはただの強がりじゃない。
「……何なの」
クレア卿には私が味わった絶望を味わってほしかった。人の力で抗うことのできない圧倒的な力に蹂躙される恐怖と絶望を与えたかった。
実際にもう逃げ場なんて何処にもない。戦っても勝てるはずがない。あなたに許されるのは泣き叫んで慈悲を請うか、諦めて自害して楽に死ぬかのどちらかしかないはずだ。
だと、いうのに。
「何なの、その目は」
クレア卿の目はまだ光を失ってはいない。私が見たかった恐怖や絶望などの感情は微塵も感じられず、猛禽類のような目が敵を……私を睨みつけていた。
これは怯える羊の目じゃない。狼の目だ、狩人の目だ。狩る側の者の目だ。
怖い。
「何、何なの。まだ何かあるっていうの……」
私は世界樹になって初めて恐怖を覚えた。追い詰めているのは私なのに。ただの非力な人間が私みたいな化け物に勝てるはずがないのに。何なの、その目は。その自信は。その威圧感は。
「早く殺して。こいつは危険だから、すぐに殺して。……ねえ、殺して。殺してってば。殺してって言ってるでしょう! なんで誰も動かないの!?」
三騎士は私の命令を無視して動こうとしなかった。クレア卿が掲げた何かを食い入るように見つめている。あれは……写真と封筒?
「見えるか! 見えているな! 理性を奪われても記憶だけは最後まで残っているはずだ! ならばこれが何か分かるだろう! そうだ! 写真と! 直筆の手紙だ! 遺族達から! お前達への!」
「あ、あーあーあーあぁ〜……!」
クレア卿が声を張り上げると、キュリオ卿が四つの目から滝のような涙を噴出させた。大きく口を開いて子供のように泣きじゃくり、巨大な手のひらを頭の上で合わせてスリスリと前後に動かした。
「ソフィイイイイイ! あああああああ! ソフィイイイイイイイイ!」
「そうだ! お前の妻から送られた手紙だ! キュリオ卿! それだけじゃないぞ! ビステル卿には長女からの手紙が! ウルグン卿には孤児院の子供達からの手紙を預かっている! 彼らの写真付きでな! 読みたいか!? 読みたいだろう!」
何、それ。
「だから思い出せ! お前達は怪物なんかじゃない! 人間だ! 人間なんだぁあああああああっ!」
「ぐ、る、ゥゥゥォオオオオオオオオオオオ!」
クレア卿の絶叫に呼応するかのようにビステル卿が吠えた。真っ赤に溶けた鉄の唾液が撒き散らされる。
「オオオオオオオオオオオ!」
「ソフィィイイイイ! ソブウッ!」
ビステル卿は跳躍してクレア卿の頭上を跳び越し、泣き叫ぶキュリオ卿の顔面を殴り付けた。キュリオ卿はもんどりうって背中から倒れ、クレア卿の足元が揺れる。
ビステル卿がキュリオ卿の顔の側に立った。キュリオ卿が顔を押さえて見上げる。ビステル卿が唸り、燃える指先で私を指し示した。キュリオ卿がガクガクと震えながらゆっくりと深く頷いた。ウルグン卿の子供たちの首輪が砕け散る。
「ゥゥウウウウオオオオオオオオオ!」
ビステル卿がこちらに駆け出した。向かい風を受けてその体は激しく燃え上がる。高速で突っ込んでくる火の玉を人狼たちは慌てて左右に避けたが、軌道上にいた私の子供たちが次々と荒ぶる炎に飲まれていく。
さらにビステル卿は通りすがりに、燃える鉄杭を背中から大量にばら撒いた。ビステル卿から離れた位置にいる子供たちもどんどん鉄杭に突き刺されて縫い止められ燃えていく。
「ソフィイイイイイ! 僕はぁああ! 僕はもう帰れないけど頑張るよぉおおおお! だってこれが僕のお仕事なんだぁぁ! ソフィイイイイィイイイイイ!」
その後ろにキュリオ卿が続く。大通りを塞ぐ程の巨体に踏まれて、ビステル卿から逃れた子供たちも潰れていく。ついでとばかりにキュリオ卿はその長い手を伸ばし、子供たちを通りすがりにごっそり掴み取っては食い散らかしていた。
「何……それ……」
「言っただろう。怪物騎士への対策として切り札を用意してあると。世界樹が捻じ曲げ増幅させた欲望よりも更に強い衝動の答えがこれだ。人間が持つ最も強い感情を利用させてもらった」
「それって、それって、それって、つまり……」
「愛だ」
「ふっ、ざけないでよぉおおおおおおおっ!」
私は怒りのあまり、自分の周りを囲む花の側面を思い切り殴りつけた。私の手も痛んだが、花自体も脆くなっているために亀裂が走った。
「愛の奇跡なんてもの、私には与えられなかったじゃない! 見てよこの体、この有様を! 頑張ったのは私なのに! ソルなのに! それを後から来て横取りしただけのあなたが! あなただけが! 誇らしげに愛だなんて口にしてっ! 大切な人を想う気持ちを! そんな、そんな風に利用するなんて! この……この、悪魔っ!」
クレア卿は眉一つ動かさない。その場から一歩も動かず、仁王立ちで私を睨んでいる。あの目。あの目が言っている。お前を殺すためならどんな手段でも使ってやると。
気がつけばウルグン卿の子供たちも姿を消していた。灼熱の息を吐きながらビステル卿も迫ってくる。
私の周りは敵だらけだ。役に立たない子供たちに、邪魔をした人狼たちに、私を何度も犯し喰らったキュリオ卿。敵、敵、敵。私の世界には敵しかいない。
ソル。あなた以外は。
「くっ、 うううううう〜……!」
私は自分の胸に手を突き入れた。痛みは防衛反応だ。生命の危険から逃れるために体が発する危険信号。
あまりの痛みに涙が溢れて何も考えられなくなりそうになる。でもこの程度の痛みなんて何度も経験しているから我慢できる。耐えられる。
もう私には何も無い。幸福も日常も未来も夢も希望も。最後に残った愛でさえも、もうじき人格と共に壊れて消えようとしている。
私だけがこんな目に合うなんて絶対に許さない。
お前も、お前も、お前も道連れだ。だから世界樹が奥底に隠していた力に手を出した。星を渡るための力。空間を超えられる力。それを無理やり引きずり出して形にする。
痛い。痛い。痛い。あはは、私が苦しんでいる。いい気味だ。死ね! 死ね! 私が世界樹なら、お前も私の敵だ! お前の大事なものも全て奪って壊してやる! でも痛いよぉ。こんなに痛いの、ソル。助けて。
「うっ、うううう、ううっ」
私は激痛に呻きながら、胸から取り出した剣をソルに手渡した。私の顔は涙と鼻水と汗でぐちゃぐちゃだ。ソルに見られなくてよかった。でもソルは私の苦痛を知っているから、心配そうに私を向いている。大丈夫、私は最後まで頑張れるから、心配しないで。
私は脂汗を流しながら笑顔を作った。すぐそこにビステル卿が迫る。ソルが私を守るように立ち塞がり、ビステル卿を迎え撃つ。ソルが私の剣を構えた。
「負けないで、ソル……」
ソルの手には宇宙があった。底無しの暗黒と煌めく星々が織りなす無限の世界が剣の形状を模している。これは剣であり門であり鍵だった。世界樹が他の星に種を撒くための力だった。その実行権限はソルに譲渡してある。ソルの意思と連動して相応しい座標の力をソルに与えてくれるだろう。
本当なら私たちはどこまでも遠くに行けた。
星空の終わりを越えてどこまでも遠くへ。
「グォォオアアアアアアア!」
ビステル卿の口が大きく開き、真っ赤に燃える鉄の槍が次々と射出された。ソルなら避けられないこともないが、背後にいる私を守るためにソルはその全てを撃ち落とすつもりだ。
ソルから星空が溢れた。ソルを中心とした半径3メートル内の座標が書き換えられたからだ。ソルは今、遠い見知らぬ星の地表に立っている。風がソルに向かって吹いた。
「あれは何だ。まさか宇宙に繋がっているのか……」
クレア卿が呟く。その通りだ。この能力を一目で理解できるなんて、相手を分析する能力は流石だと思う。でも初めて見る相手に対策なんて用意していないでしょう。
ビステル卿から放たれた燃える槍は、ソルの星空に入り込んだ瞬間に地表に墜落した。どうやらこの星の数倍の重力を持つ星のようだ。火はすぐに消え、鉄の槍が自重で潰れていく。
「グォォオオオオオオオオオ!」
ビステル卿が激しく燃え上がった。炎は周囲に広がって私の子供たちも巻き込んで炎上し壁となった。炎の壁はその圧倒的な面積でソルも私と焼き尽くさんと前進してくる。
ソルの星空から光が消えた。巨大な質量を持った昏い何かがソルを包み込み、完全な球状の闇となった。
闇が大気を吸い込み暴風が吹き荒れた。ビステル卿の炎が一瞬で飲み込まれて鎮火し、私の枯れた根もパリパリと地表から剥がれて飲み込まれていく。
「ヌウウウウウウウウ!」
焼け焦げた子供たちがどんどん吸い込まれて消えていく傍ら、ビステル卿は焼けた鉄の爪を楔のように地面に食い込ませて粘っている。ビステル卿が引きずられると地面がガリガリと抉れ、30センチ以上の深さの溝が生まれた。
私の根も地表から剥がれ、体が宙に浮いた。
「……」
ソルが穴を消した。私が巻き込まれそうになったことを察してくれたのだろう。少し心配していたが、ソルは無傷で穴の中から出てきた。
ソルはたった一歩でビステル卿との距離を詰めた。ソルが振り下ろした剣を、ビステル卿は前足で受け止めた。金属音が鳴る。鍔迫り合いのままビステル卿が全身から炎を噴出させてソルを炙った。ソルは怯まない。ソルの周囲に星空が広がり、再び座標が書き換えられる。
「ク……ア……!」
ソルの星空に白い雨が降った。ただの水ではないとは思うが、これが何の液体なのかはわからない。
雨を浴びた瞬間にビステル卿の炎が消えた。黒い灰の毛並みに霜が降って固まっていく。抵抗も弱々しくなり、すぐにビステル卿の動きが停止した。ビステル卿の表面を氷が覆っていく。
もちろん冷気の雨の中でもソルは無傷だった。どんな高温も低温も重力も今のソルを殺すことはできない。ソルは本物の不死身になった。宇宙のどんな環境でも私を守ってくれただろう。
座標が元に戻り、ソルの体から白い煙が立ち昇る。
ソルは凍り付いたビステル卿の横腹を薙いだ。ビステル卿は胴体から二つに砕け、胸から上は回転して飛んで地面に落ちた。ビステル卿の断面図も完全に凍っていたので、何も流れ出るものはなかった。
残った下半身へソルが剣を振り下ろした。ビステル卿の下半身は粉々に砕けた。
「やめろおおおおおおおおおおおおお!」
巨大な拳がソルへと迫る。キュリオ卿だ。
しかしソルに不意打ちは効かない。ソルの星空はすでに座標の書き換えを終えている。
「びゃああああああああああああ!!」
青白い光が弾けてキュリオ卿が痙攣した。小さな雷が周囲にいくつも走る。キュリオ卿の皮膚が炭化し、三つの目が潰れた。ソルを包み込むこの球状の光は雷の塊のようだ。
「あああああああああああ!」
それでもキュリオ卿は拳を止めなかった。明滅する青い光の中で、剛拳がソルを捉えた一瞬が私の目に写真のように焼き付く。コンマ数秒、時間が止まった。
「ああああっ!」
キュリオ卿が拳を振り抜いた。爆音が轟き、ソルが殴り飛ばされて軌道上の民家数件が一直線に爆散した。音より遅れて届いた風圧が私の髪をはためかせる。数秒後に大粒のレンガが混ざった瓦礫の雨が降り注いだ。茶色い煙が立ち込める。
「ざあ、ががっでごいいいいい! おまえなんがにまげないぞおおおおお! おまえだぢみだいなばげものを、ぞぶぃーのどごろにいがぜるものかあああ! ぞぶぃーはぼくがまもるんだああああ!」
キュリオ卿の唯一残った目から涙が滝のように溢れた。どうやらキュリオ卿は精神を無理やり弄られたせいか、力に反比例して幼児退行してしまっているようだ。私は少しだけ彼を気の毒に思った。
粉塵の向こうで何かが輝いた。それは煙を切り裂いて超光速で飛翔する。大気との摩擦で真っ赤に燃え上がったそれがキュリオ卿の腹に命中すると、割れて細かい破片となって鬼の腹をズタズタに引き裂いた。
「ううーっ……!」
キュリオ卿が中身の飛び出しかけたお腹を押さえてうずくまった。顔を痛みに歪ませながら涙まみれの顔を上げる。今の飛翔物が引き起こした風で煙は薄まっていた。
煙の向こう側には傷一つ無く立つソルの姿がある。キュリオ卿に殴られた衝撃なんて、今のソルにはそよ風に撫でられた程度のものだろう。
ソルは剣先をキュリオ卿に向けていた。そしてその背後に広がる星空の遥か彼方からは、無数の光の雨が尾を引いて迫ってきていた。
流れ星だ。
「嫌だああああああああああああ!」
輝く星の雨がキュリオ卿を砕いていく。◾️が飛び散り◾️が半分砕けた。◾️◾️が穴だらけになってへし折れた。流星を飲み込み続けた胴体は背中側から破れて石の混ざった◾️◾️を撒き散らした。
「止めろ止めろ! もう止めろ! ソル・ラインバルト! そこまでする事ないだろう! 自分の手で仲間を殺すつもりか!? そんな力がありながら何故お前は……!」
クレア卿の焦った声が聞こえる。
ふと見るとクレア卿は炎と鬼を潜り抜けた私の子供たちに囲まれつつあった。とはいえ子供たちの数と質は頼りなく、再集結した人狼たちが彼女の周囲で奮戦しているので期待はできないだろう。
しかもよくよく見れば、私の子も何体かはクレア卿の味方をしている。脈打つ肉切り包丁を振り回してクレア卿の背後を守っている豚顔の大男は肉屋さんだろう。その隣で網のように血管を広げて他の子を捕まえている釣り針と糸の塊は多分漁師の誰かだ。
クレア卿が時々彼らを褒めながら蹴りを入れると彼らは嬉しそうに鳴いた。
少し眺めていると彼らの合間を抜けて幌馬車に私の子が取り付いた。ゴキブリの脚が生えたナメクジのような子だ。この子がもぞもぞと幌馬車の中に入っていくと、中から悲鳴が聞こえた。あの従者の子の声だ。
背後の悲鳴を聞きつけたクレア卿が振り返り、私の子を剣で突き刺した。獣耳の子がクレア卿に続いて幌馬車に入り、私の子の脚を掴んで引きずり出し、地面に叩きつけた。
「無事かっ!?」
「は、はい! ありがとうございます……!」
従者の子は真っ青な顔で幌馬車から出てきた。よかった、怪我は無いようだ。あの子は何も悪いことはしていないから、なるべく殺したくはない。
そう、殺すのはクレア卿だけでいいはずだ。
「ケ、ヒュー…… コヒュー……」
ソルの流星が止んだので見てみると、キュリオ卿は浴びせられ続けた流星により蹂躙され、燃える岩石の塊からはみ出す肉塊と成り果てていた。
キュリオ卿の口が痙攣するように動いてかすかな呼吸をしていたが、あの状態でも肺が残っているとは驚きだ。
「…………」
「…………」
そして、浮遊する白い布とソルが向かい合っていた。落書きの顔を持つ白い布はソルとキュリオ卿の間に割って入るように立ち塞がっている。キュリオ卿を守るつもりなのだろうか。
ソルはすぐに攻撃を仕掛けようとはしなかった。慎重に相手の出方を探っている。もしかしたらソルはウルグン卿とは戦いたくないのかもしれない。
白い布が次々と寄り集まって溶け合い、中心が盛り上がった大きな一枚の布になった。布はバサバサと大きくはためき、一陣の風に吹かれて飛んでいく。
風の後にはウルグン卿が立っていた。彼は自分で子どもたちを演じて自分を罰していたのだろう。過去に何をしたのかは知らないけれど、そこまでして贖罪を求めるほどに子どもに酷いことをしてきたのだろうか。
「ソル、俺を恨んでいるか」
ウルグン卿が問いかける。ソルは固まったようにしばらく動かなかったが、やがて剣先で地面をガリガリとなぞった。いいえ、と書いてあった。
「ソル、今のお前は聖骸騎士だ。あのクズ貴族に飼われていた頃とは違う。正義も自由も誇りも取り戻したはずだ。それでも、その全てと引き換えにしても、あの女の味方をしたいのか」
ソルは文字で答えた。はい、と。
私は泣いてしまいそうになった。ソル、こんなおぞましい化け物の私のために、ありがとう。ソル。
「そうか」
ウルグン卿が剣を抜いた。今までの剣と形は似ているが、材質が明らかに違う。仄暗く神秘的に青く光るその剣は今のソルの体と酷似していた。ソルの剣先が地面に言葉を綴る。
あなたは、私にとって、本当の父のようでした。
「……そうか」
ウルグン卿が羽帽子を被りなおした。二人はしばらく対峙したまま動かなかった。きっとこれが最後の会話だ。水を差すのはやめておこう。
ふとクレア卿の様子を見てみると、人狼たちとほぼ相討ちになって子どもたちは壊滅していた。無事なのはクレア卿と女の子二人と金狼くらいだ。やはりあの金狼の存在が規格外すぎる。
金狼をこの世界から追い出せるのなら追い出していたが、異物を吐き出すのにも力がいる。そして私にはもうそんな力は残っていなかった。
でも何も問題は無い。どうせソルには誰も勝てないのだから。
「そろそろ、やるか」
ウルグン卿が構えた。ソルに対して左半身を向け、右手に握った剣を目線の高さまで水平に持ち上げる。左手を刃に添えてウルグン卿は視線と刃先を揃えた。ウルグン卿が息を止めると同時に剣先のブレが消えた。
剣の光がウルグン卿の顔を仄かに照らす。その目には底知れぬ哀しみだけがあるように見えた。
ソルは星空の力を使わない。剣一本でウルグン卿と正々堂々戦うつもりのようだ。両手で剣の柄を握り、大きく振り被ってウルグン卿を迎え撃つ。
世界樹になった私は感じる。
殺気。敵意。闘争心。戦いの高揚感。彼らの間にそんなものは無かった。やり場のない寂しさと虚しさが二人の距離を埋めていた。
そしてウルグン卿が地を蹴った。
決着は一瞬だった。
鍛え抜かれた奥義の応酬や互いの剣をぶつけ合う鍔迫り合いなどは無かった。お互いがお互いの致命傷を狙い、どちらも避けなかっただけだ。彼らの戦いは静かに始まり静かに終わった。
血しぶきが上がり、羽帽子がふわりと浮いた。◾️◾️から◾️◾️にかけて両断されたウルグン卿が倒れる。しかし同時にソルの胸にはウルグン卿の剣が深々と突き刺さって貫通していた。
「ソル……!」
ソルが片手を上げた。心配ない、ということなのだろうか。事も無げに胸の剣を引き抜いて投げ捨てる。胸の穴からは亀裂が走っているが、本当に大丈夫なのだろうか。いくら心臓や脳がなくても、私はソルが心配だった。
それにしても、ソルを刺せるなんて信じられない。単なる素材の問題じゃない。物理法則さえ無視する何かが込められていなければ傷一つ与えられないはずだ。
溢れ出たウルグン卿の血も◾️◾️も人間のものにしか見えないけれど、彼に与えた世界樹の因子はあの剣に凝縮されていたのだろうか。彼の人生を象徴するような罪深い何かが。
落ちた羽帽子をソルが拾ってウルグン卿の胸に乗せると、ウルグン卿は左手でそれを抱いた。ソルは上半身を大きく曲げ、斬り捨てたウルグン卿に一礼をした。ウルグン卿は何も言わずにソルを見ていた。
彼らはしばらくそのまま佇んでいた。
「……」
しかし、ソルは唐突に剣を真横に振り抜いた。空間に星空の裂傷が生まれ、ツタのように長く伸びていく。
「クソッ、気づかれたか!」
クレア卿が悔しげに顔をしかめた。
帯のように細長く伸びた星空は、目標地点に到達すると大きく口を広げて獲物を飲み込んだ。
ウルグン卿の剣と、それを拾おうとした金狼がもがきながら吸い込まれていく。
「……! ……!」
金狼は何も無い宇宙空間に放り出され、喉を押さえて声なき声で苦しみを訴えた。
ソルが星空を閉じる。それで終わり。金狼もソルを傷付けられる剣も、どこか遠い宇宙の果てに消えた。
これで全ての可能性は潰した。残る敵はクレア卿だけだ。それにしても、終わってみると案外あっけないものだった。私にはソルがいるのだから何も焦る必要はなかったのだ。なぜ私はクレア卿にあんなに感情的になってしまっていたのだろう。
クレア卿はまだ私を睨んでいた。その隣では私に飛びかからんと牙を剥いて唸る介護役の子を、従者の子が服の裾を掴んで必死に引き止めている。
町中に散らばる生きた肉たちの苦悶の声は、彼女たちの仲間入りを期待しているようだった。
私は勝利を確信してクレア卿に話しかけた。
「流石に手詰まりでしょう? それともまだ他に何か手札があるのなら、どうぞ遠慮なく」
「……そうだな、強いて言えば提案がある」
「提案?」
まさか今から和解しようとでもいうのだろうか。私の気分はすっかり冷めきっていた。さっさと終わらせて……私もまた、終わろう。
「私が今から正々堂々と一対一でソル卿と戦う」
「ふうん?」
「だから、他の奴らは見逃してくれないか」
勝てるわけがないのに、何を言っているのだろう。
……あ、そうか、これは時間稼ぎだ。一分一秒でも時間を稼いで、私の壊死を待つつもりなんだ。
なるほど、この場における最良の作戦かもしれない。ただし成功するにはあと一時間近くクレア卿が耐え続ける必要があるけれども。
せっかくだから最後まで付き合ってあげよう。
「もしかして自分の本当の体は死なないと思っているのかもしれないけれど、残念ながら私もソルもクレア卿もそこの二人も全員本物の体なの。他の人狼たちと違って複製体じゃないから、殺されればそれで終わり。それでもソルと戦うつもり?」
「私達三人は死ねば終わりか。当たり前の事だな」
「そう。その当たり前のことさえ私には許されなかったけれど。それで、やるの?」
「勿論だ」
「そう……わかった。ソル、お願い」
ソルが悠然と前に出た。
「クレア様!」
「大丈夫だ、信じろ。きっと助けは来る」
従者の制止を振り切ってクレア卿もこちらに向かう。あらためて観察すると、クレア卿はすでに弱りきっていた。何日間も寝ていたために血色は悪く、子供たちの襲撃で痛めたらしい足をぴょこぴょこと動かして歩いていた。
助けは来る? 強がりではなく本気で言っているなら大したものだ。まだ援軍が来るならもう来ているだろうに。来ても無駄死にするだけだけれども。
ソルとクレア卿が向かい合って立った。勝敗は誰の目にも明らかだ。ソルはもはや構えようとすらしない。
「どうした、構えろ。それともまさか女は斬らないとでも言うんじゃないだろうな」
クレア卿の挑発に対してソルは左手の人差し指を一本だけ立てて応えた。
「私くらいその指一本で十分だって言うつもりか…? 舐めやがって!」
クレア卿は重そうに振りかぶった剣をソルに叩き付けた。金属音が鳴り、斬りつけたクレア卿の手がわなわなと震えている。
「かっ、たいな! このっ……!」
もう一度クレア卿がソルを斬りつけた。当然ながら結果は同じだ。クレア卿の渾身の一撃はソルに引っかき傷すら残すことはできず、剣が欠けて手が痺れるだけで終わった。
「クソッタレ!」
ソルがクレア卿の胸を左手で軽く突き飛ばした。たったそれだけでクレア卿は1メートルほど飛んで地べたに転がった。
……弱い。大貴族の子飼いの精鋭でもソルに比べるとこんなものか。
「痛っ……たぁ……」
それでもクレア卿は剣を支えにして、まだ立ち上がろうとした。無駄なことをするものだ。天地がひっくり返ってもソルに勝てないことはわかっているだろうに。
クレア卿が立ち上がるのを待って、ソルがまた突き飛ばした。クレア卿が地面に転がり、顔と髪が土で汚れる。だけどまた立ち上がった。ソルが再び突き飛ばす。何度も。何度も。ソルはクレア卿が立ち上がるたびに突き飛ばして力の差を思い知らせている。
少し不自然だ。ソルは理由も無く女性をいたぶったりしない。きっとクレア卿に降伏宣言をさせて、私にもういいと言わせたかったのだと思う。
だけどクレア卿は何度突き飛ばされても、決して降伏しなかった。剣が手から離れ、ソルに胸ぐらを掴まれて無理やり立ち上がらされても、それでも心が折れることはなかった。ソルにツバを吐きかけ、敵意に満ちた眼でソルを睨みつける。
何が彼女にそこまでさせるのだろう。意地か矜持か。そこまでして譲れない何かがあるのか。もう勝機は無いはずなのに。
「くっ、うぅ……!」
空中に放り投げられ、背中から落ちてクレア卿はうめき声を上げた。
「クレア様!」
「この野郎! 次はオレが相手になってやるぞ!」
女の子たちがクレア卿に駆け寄った。
「邪魔だ、から、離れ……てろ……馬鹿……」
クレア卿は強がってはいるものの、もう立てないようだった。
「……」
ソルが再び人差し指でクレア卿を指差した。このジェスチャーに何の意図があるのか私にもはっきりとはわからない。クレア卿一人の命で他の二人は助けるという意味なら、私はもちろんその意思を汲む。もとよりクレア卿以外には大した恨みはないのだから。
しかしソルは星空を展開した。満天の夜空がソルの背中でマントのようにはためく。相手が誰であれ容赦はしないつもりらしい。ソルはまだ人差し指を立てていた。
でも、さすがにあの子たちまで殺す必要はない。ただの脅しかもしれないけれど、ソルにそこまでしてほしくない。
「ソ……」
私が声をかけようとした矢先、誰かがクレア卿とソルの間に割り込んできた。震えながらソルに向けて剣を構える彼の下半身は小便で濡れていた。
「せ、せ、せっ……せっ、せっ」
……ああ、そういえば彼の存在を完全に忘れていた。居ても居なくても一緒のような人物だったからだ。
「せっ……! せっ……!」
いつもいつも一人で逃げたり隠れたりする役立たず。愚鈍で他人に頼りきり、ただ運良く貴族に生まれただけで将来を約束された無能。
これが私の彼に対する評価だった。
そんな彼が、今になってソルの前に立ちはだかっていた。
「せ、せ、聖骸騎士団十ヶ条、第一条! な、仲間を、決して、け、決して見捨てるな!」
バリス・グランバッハ。
今まで一度も戦ったことのない臆病者の騎士だった。