第16話。それはとても眩しすぎて
私は幽霊だった。
生きてもいないくせに、ただそこにいる。
死んだ心を抱えて、フラフラとさまよう。
空は相変わらずどんよりと暗く重い。
太陽どころか、この地獄の底には何の光もない。もし神さまが空の上にいるのならば、こんな地獄を見なくて済むように意図的にこの町に蓋をしたに違いない。
「おはようお姉さん! 朝から早いね!」
無視。
「あれ? お姉さん? ちょっと! 顔から血、出てるよ! 血! 怪我したの!? 大丈夫かい!? あ、お姉さん!? お姉さんったら!」
無視。
「あら〜おはようござ……ちょっと! あなた怪我してるじゃない! どうしたの!? 自分で引っ掻いたの!? 美人なのにダメよ! この子置いてそこの家からすぐお薬取ってくるから! ここで待ってて! いいわね!?」
無視。
「どけどけ! 道を開けろ! 轢き殺されたいのか!」
「なんだってこんなに混んでるんだ!? こんな人数、どこから湧いてきたんだ!?」
「おいおいおい! おかしいぞこの町! こんな朝から祭りでもあるのか!?」
無視。無視。無視。
「落ち着かれよバリス卿。幻覚でも見られたのでしょう。そう取り乱されては騎士の沽券に関わりますぞ」
無……。
「ふん、大方臆病風に吹かれたのであろう。これほど大騒ぎして詳細は覚えていないなど、作り話にしても練り込みが足りぬな」
混雑に紛れて、遠くから彼らの様子を伺う。
同じ顔ぶれの人たちが、前回と同じように動揺している。だからもうこれ以上見る価値はない。再び助けを求めても似たような繰り返しになるだけで無駄だろう。どうせ何をやってもこの町から逃げられないのだから。
一応新しい顔ぶれを探すだけ探してみたが、どうやら今回は新しい人は来ていないようだ。まあ、来ても無駄なのだけれど。
帰ろう。
やっぱり期待なんてするんじゃなかった。少しでも希望を持った私が馬鹿だった。
もう何も思いつかないし、何もできることがない。恐怖も不安も絶望も感じないように、惨劇が始まるまでの短い時間を何も考えないようにして過ごそう。
それに、見てしまうと辛くなるものもある。
私は帰路を急ごうとした。
「どこへ行かれるのですか?」
後ろから手を引かれた。
一瞬だけ嬉しさがあったが、それもすぐに虚しさと寂しさに塗り潰された。私はこの感触とこの声を知っているけれど、相手は知らないのだ。
だって何もかも無かったことにされてしまっている。
「家に、帰るだけです」
私は振り返らずに答えた。彼を見るのは辛い。
「怪我をなさっているようですね」
「自分でやりました。大した傷ではありません……」
「そうは思えません。あなたは今、深く傷ついているように見えます」
「ただの引っ掻き傷です」
「体の傷よりも、心の傷の方が痛むのではないですか。ユカリさん」
「……え」
嘘だ。嘘に決まっている。そんなはずはない。私の名前を呼ばれた気がしたけれど、嘘だ。期待してはいけない。彼が私の名前を知っているはずがない。私と彼は初対面なのだから。期待してはいけない。期待してはいけない。期待してはいけない。私にこんなことが起こるはずがない。
「嘘、嘘です。そんなはずありません……。あなたが、私を知っているはずがないんです。だって、今まで誰も、そんな人、いなかったのに……」
予想していなかった事態に、私はパニックになりかけていた。けれども振り払おうとする私の手を彼は離してくれない。
優しく温かい手だった。このまま全てを委ねてしまいたくなるほどに。
「あなたの名前はユカリ・クレマチス。この狂気の町でただ一人抗い続ける、美しく気高い女性です。忘れることなど、できるものですか」
振り返りたくない。認めたくない。
だって、怖い。
「助かってください、などと無責任なことはもう言いません。今度こそ、いえ、何度繰り返しても必ずあなたをここから助け出してみせます」
「やめて、ください。そんな、期待させるようなことを、言わないでください……」
「なぜですか」
「怖いんです。だって、これで、これで、あなたにも裏切られてしまったら……私は二度と立ち直れなくなってしまいます」
「私は決して裏切りません」
「もしそうであっても、永遠に繰り返される陵辱に、いずれ心が耐えられなくなるはずです……」
「ご安心を。耐えることには慣れておりますから」
「あなたは経験していないから、そんなことが言えるんです。想像できますか、豚の胃袋の中で消化され、糞便と混ざっていく苦痛と屈辱を……。どんなに壊されても、自分の体の全ての感覚を、痛みを、鮮明に感じ続けなければならない絶望を。どんな決意も尊厳も踏み躙る悪意と痛みにこの町は満ちています……」
私がそう言うと、彼は押し黙ってしまった。
ああ、悲しいけれど彼はまだ何もわかっていなかった。やっぱり私は一人でいるべきなんだ。
けれど私が振り払おうと引く手を、彼はそれでも離してくれない。
「失礼しました。あなたの境遇を顧みない軽率な発言だったようです。助け出してみせる。裏切らない。どちらも軽々しく口に出してはよい言葉ではありませんでした。……申し訳ありません」
「あ…でも、そんなに謝らなくても」
「私も無力なただの人間です。あなたの盾となり剣となり、この地獄から救い出してみせる、などと大それたことは言えません」
「そう、ですか……」
「ですが、こんな私にも一つだけ出来ることがあります。そのために神は私をこの地へ遣わし、私の記憶を残してくれたのだと思います。そして、そのたった一つのことだけは、絶対に成し遂げられると自信を持って断言します」
「何ですか、それは」
「あなたの孤独を癒すことです」
肩に手を回されて引き寄せられた。彼と密着して甲冑の硬く冷たい感触が伝わる。だけど、暖かい。自分の胸の奥から溢れ出る熱を感じる。
私の背中にそっと彼の手が添えられた。私は優しく抱きしめられていた。
「あなたが苛まれてきた悪意も痛みも、今日から私がその半分を担います。あなたの苦しみは私の苦しみ。あなたの喜びが私の喜びです。たとえ地獄の炎に焼かれ続ける日々が続いたとしても、ささやかな幸せを探し出しましょう。分かち合うことで喜びを倍にし、分かち合うことで悲しみを半分にできれば、恐れるものは何もありません」
あらゆる苦痛を味わい続けてきた私にも、どうしようもなく耐え難いものがあったことに気がついた。気づかされてしまった。
「艱難辛苦の極みにある道かもしれませんが、どうか一緒に歩ませてください。私にもあなたが必要なのです」
それは、孤独だった。
誰も私を知らない。誰も私を必要としない。どれだけ苦労してもヒントを掴んでも、全てが自己完結。誰に認められることもなく、誰に褒められることもない。
これまでの私の人生は、何も残さず何も生めずに同じ場所を延々と回っているだけの無意味で無価値な人生だった。
だけど、きっとこれからは違う。
私は彼の顔を見上げた。彼は優しく微笑んでいた。
これから悲惨な日々が始まるというのに、それでも彼は笑っていた。
「ソル、ソルッ……! ソルウウウウゥッ……!」
地獄にも光はあった。
私を照らし、暖かく包み込んでくれる太陽が。
それはあまりにも眩しくて、眩しすぎて、ちゃんと見たいのに後から後から涙が溢れ出て止まらなかった。