第10話。汚れた獣
あの家が炎に包まれていた。絶え間なく噴出する黒い煙が空に昇っていき、周囲には灰が舞い散っている。熱気に炙られて私の額に汗が浮かんだ。
大通りは今も大量の暴徒で溢れているが、現場の周辺には野次馬さえいない。無差別に彼らを捕らえて炎の中に放り込んでいる殺戮者がいるからだ。
また一人、炎の中に放り込まれた。◾️◾️を切り落とされた中年男性だ。叫ぶことだけが彼にできた抵抗だったのだろう。声が出なくても彼の断末魔は1週間の終わりまで続く。
地面に落ちていた彼の◾️◾️も拾われ、まるで薪を焚べるように気軽に炎の中へ投げ込まれた。この地面に広がる血の量から察するに、焼かれているのは一人や二人ではないだろう。
殺戮者は腰から下は甲冑を着ていたが、上半身は裸だった。十本以上の短剣を差したベルトを腰に一つ、両肩から脇腹に交差する形で二つ巻いている。
飛び交う灰が返り血で固まってこびりつき、幾層にも重なりあって彼の全身を覆っていた。その姿はまるで黒と灰の毛並みを持つ獣のように見えた。
血に汚れた剣を振りかざす獣は、騎士の一人だった。
「ビステル卿! いったい何をしているのですか!? あなたともあろう方が!」
若い騎士は珍しく狼狽えていた。
「ほう、ソル卿か。私は真理に触れたのだ」
獣はゆっくりと重々しく喋った。その声はどこまでも理性的かつ穏やかではあったが、感情的な怒鳴り声ばかりを張り上げていた時よりも底冷えのする威圧感があった。
「この町に人間は一人もおらぬ。どれもこれも人間に擬態し我々を欺く物の怪よ。この家のみならず、この町の全てを火に焚べ、偽人どもを殺し尽くさねばならぬ。無論、そこの女もだ」
「証拠は、あるのですか。あなたは冷静さを失っているように見えますが」
「私はこの上なく冷静である」
獣は抜いていた剣を鞘に収めた。それを見て若い騎士も、肩の力を少し抜いたようだ。
「この町は汚染されておる。これは魔術などではない。全く系統の異なるおぞましき何か、言うなれば異分子によってこの世の理が書き換えられようとしている。それを見過ごすわけには……いかぬ!」
「ビステル卿!」
すぐ近くで唐突に金属音が鳴り、何かが地面に落ちた。目で追うと、地面には短剣が突き刺さっていた。若い騎士が剣を抜いている。
状況を理解するのに少し時間がかかった。この短剣は私に投げつけられたが、若い騎士が叩き落としたのだ。
「いずれわかろう。これが最善の方法だった、私の言葉は真実であったと。殺す、殺すしかないのだ。死なずとも殺し続けるしかないのだ。一人でも外界に解き放たれた時、人の世は終わりを迎えるであろう」
「確保します! ウルグン卿、援護を頼みます!」
若い騎士が駆け出すと同時に、金属音が連続して響いた。彼の顔を目掛けて放たれた短剣が次々と切り払われていく音だ。
投げつけられる短剣も、それを弾く剣の軌跡も全然見えない。更に言えば、彼らが剣を抜いた瞬間も全く見えなかった。
「ぬおおおお!」
距離が詰まってくると、獣は短剣を投げずに両手に持ち替えた。さらに地面すれすれにまで腰と上体を落として極端な前傾姿勢をとり、大地を蹴った。その姿は四足歩行の獣そのものだった。
獣は剣よりも短剣の方が有利な密着状態にまで間合いを詰めるつもりなのだろう。それを察した騎士が剣の間合いを維持すべく足を止めた。
「なっ!?」
間一髪で首を捻った騎士の頬を銀色の穂先が掠めた。髪の毛が数本巻き込まれてパラパラと散る。
獣は槍を手にしていた。先ほどまで手にしていた武器は短剣だったはずなのに、今では槍に変わっている。獣が唸った。
「本気、なのですね」
それ以降、若い騎士は獣に話しかけなくなった。若い騎士も本気ということだろうか。
彼は獣と死闘を繰り広げ始めた。投げても投げても数が減らない短剣を獣が投げ、騎士が剣で弾く。騎士の突きを獣は持っていなかったはずの丸盾で防ぐ。騎士が獣の短剣の間合いから退がると、獣が振るった短剣はハンマーに変わって騎士を打ち据えた。そして間合いが離れれば、またもや無尽蔵の短剣が雨あられと騎士に浴びせられる。
地面には獣が使い捨てた武器や防具がガランガランと転がっていく。明らかに人が隠し待てる量ではない。
どうやら彼にはもうアレが始まっているようだ。こんなに早く変貌し始める人は稀だったが、今更驚くことでもない。遅かれ早かれいずれ誰もがこうなるのだ。
「あっ!」
私の頬を短剣が掠めた。騎士の注意が一瞬逸れたその隙に、獣が血の染み込んだ土を蹴り上げた。土は騎士の顔に当たったはずだが、その直後に飛来した短剣を騎士は弾く。騎士の顔は血で真っ赤に塗られ目は閉じられていた。獣が退がり、短剣を投げつけた。目の見えないはずの騎士はそれを正確に叩き落とした。
「ウッ!」
獣がビクンと体を震わせたかと思うと、唐突に背後を振り返って短剣を振り抜いた。
そしてその刃は、勢いそのままに宙に舞った。柄を握っていた獣の右手と一緒に。
「ウルグン卿かっ!」
羽帽子の騎士が獣の背後に音もなく立っていた。獣が大きく横に飛び、彼と距離を離した。
「フゥーゥ、フウウウーッ!」
獣は残る左腕に短剣を握り、二人の騎士を牽制しながら荒い息を吐いている。肘から先が切断された右腕からは、赤く発光する粘着性の液体がドロドロと流れ出している。この体液が何かはわからないが、少なくとも血ではなさそうだ。
「迂闊、迂闊であった! ウルグン卿の接近を許すとは! 何度も同じ手を見てきたというのに……! まさかここまで見事に意識から消えるとは!」
「……」
仲間の腕を切り落としたというのに、羽帽子の騎士は相変わらず一言も声を発さない。ただ冷たい眼差しを持って敵を眺めている。
「ウルグン卿、援護を感謝します。それにしても……驚きました。その武具はどこから、そしてその血はいったい……いえ」
若い騎士は顔を拭うと剣を鞘に収め、両手を挙げた。
「この通り、私の負けです。一対一の決闘であったなら私は勝てませんでした。ですからもう剣を納めてください。傷の手当てをしましょう。話はその後で……」
「うおっ、うおおおおおっ!?」
しかし獣は話を聞いてはいなかった。自分の右腕から溢れ出す何かを見て激しく動揺している。あれだけやっておいて自分の異常に気づいていなかったのだろうか。
「何たる、何たることか! すでに私も汚染されておったとは!」
「汚染、とは……」
「卿らもいずれ理解できよう! 異物は絶やさねばならぬのだ! 死なぬのであれば、殺す手立てを見つけ出さねばならぬのだ! この地は死地であった、呪われておった、汚染されておった! よいか! 種の一粒も残してはならぬ、ならぬのだあああ!」
獣が大きく口を開いて叫んだ。その目は焦点が合っておらず、興奮のためか鼻血も垂れ始めた。先ほどまで持ち合わせていた冷徹な雰囲気は消え、今では見慣れた狂人の相をさらけ出している。
「ビステル卿、詳しくその話を聞かせていただくためにも、どうか剣を納めてはくれませんか。あなたの触れた真理とはいったい……」
「汚染! 汚染! 汚染だ! 我らもすでに汚れておる! 汚れておるのだああああ!」
獣は激しく前後に頭を振ったかと思うと、燃え盛る炎の中に自ら飛び込んだ。
「なっ!?」
「あああーっ! ああああーっ! ああー! ……!」
しばらくの間、炎の中から絶叫が聞こえ続けていたがそれもすぐ静かになった。
あまりにも唐突すぎた仲間の狂死を前にして、騎士たちは言葉もなく呆然と立ち尽くしていた。