第7話。死骸の部屋
それは完全な死体だった。
呼吸をしない。◾️◾️が四散している。肌に青紫色の死斑が浮いている。血まみれだ。目が見開かれている。◾️が大きく切り裂かれていた。血溜まりが床に広がっている。脈を打たない。死臭がする。◾️◾️が抉り出されていた。
そして◾️◾️◾️を内側より突き破る大きな黒い根が伸びていた。
「うおおおっ!?」
呆然と立ち尽くす私とは対照的に、その場の誰よりも狼狽したのはビステル卿であった。反射的に剣を抜いたはいいものの、危うくランタンを落としかけて空中で再度掴んだ。
「なんなのだこれは!? 昨日はこんなものは生えてなかったというのに!」
「こんなもの、とはあの黒い根のことですか?」
ソル卿がビステル卿の隣を抜けて死骸に近づく。
「待て! 迂闊に触れるな! 何が起こ……バリス卿! その女から目を離すな! バリス卿、バリスッ!」
「あ、う、ああ?」
突然名前を呼ばれて困惑した。
「見張っておれと言っておるのだ! 返事はどうした!」
「あ、え、はい……」
とは言ったものの、私は恐ろしくてもう何も見たくはなかった。ユカリさんも、あの死骸も、床の魔法陣も、本棚の魔術書も、瓶に詰められて棚に並ぶあれもこれも。
ただ下を向いて、早くこの恐怖の時間が終わってくれることを願うのみである……。
「確かにユカリさんに似ていますね。姉妹の方でしょうか。この傷はビステル卿が?」
「うむ……だが、私が殺したわけではない。そこな死体が何らかの魔術儀式の中枢であるならば、それを破壊すればあるいはと思ったのだ。しかし結果は……」
「昨日の時点では、この黒い植物……いえ、わずかに動いていますね。触手でしょうか? これは生えていなかったのですね?」
「いかにも。見よ、この触手は床にも食い込んでおる。触れば身体を浸食されるやもしれぬ」
「ビステル卿、念のためにお聞きします。貴方はこの血を浴びたり肌に触れたりなどはしていませんか」
「我が家名と神に誓って断言する。私は遺体を辱め冒涜するようなことは決して行わぬ」
「今度は私の失言でした。あなたの人間性を疑うような発言をお許しください、ビステル卿」
「よい。必要な確認であった」
今の会話は何なのだろう。あれは触れると危ないものなのだろうか。
それにしても、なぜ彼らはこんなに冷静なのだ。
「ユカリさん、あなたが私たちをこの家に招いた理由は、この地下室を見せたかったからですか」
(コク)
「あなたはこの地下室について、何かご存知ですか」
(フルフル)
「そうですか……」
「悠長に一問一答している場合か! 聞くならば単刀直入に聞かれよ! 女! お前はどこから来た誰なのだ! なぜお前に酷似した死体がここにある! これは何の魔術儀式だ! 全て焼き払えば解決するのか!」
地下室にビステル卿の怒鳴り声が響き渡る。
私は顔を上げたくない。
「ははは、焦り過ぎですよビステル卿。驚かせてしまい申し訳ありません、ユカリさん。もしよければ、あなたが知っていることを、ひとつずつ教えてもらってもよろしいですか?」
(コク)
「では……ユカリさん、あなたの素性を私たちに教えてくださるつもりはありますか?」
(フルフル)
「それは、教えたくないのですか?」
(フルフル)
「となると、教えたくても教えられないのですね?」
(コク)
「誰かに口止めされているのですか?」
(フルフル)
「ならば、あなたも他の住民と同じように記憶の混乱があるとか……」
(コク)
「なるほど、やはりそうでしたか。では次に、この女性の遺体に関してですが……」
こういった調子でソル卿は一問一答を始めた。それを横目にビステル卿は地下室内の探索を初めている。
しかし、私はもう限界だった。
「き、き、卿らはなぜそんなにも冷静なのだ? わ、我々が出会った女性はゆ、ゆ、幽霊かもしれぬというのに……!」
「ははは、それなら私は幽霊にチョークスリーパーをした男になりますね。不死身のソルよりいいあだ名かもしれません。……おや? バリス卿、顔色が優れませんね。一度地上の空気を吸われてはいかがですか? キュリオ卿と見張りを交代しましょう。申し訳ありませんが、彼を呼んできていただけませんか?」
私は彼の言葉に一も二もなく頷いた。
こんな所にはもう一秒たりとも居たくない。どんな影響があるかわからぬではないか。今ではソル卿の笑顔ですら不気味に感じる。
私は地下室から飛び出すように逃げ出し、明かりのない螺旋階段を一人で登った。
いくら暗くて心細くとも、あの場にいるよりは遥かによい。壁に左手を沿わせ、一段一段登っていく。やがて下からの明かりも途絶え、完全な暗闇が私を包み込んだ。
私は右手を前に突き出し、万が一にも壁が無いことを確認しながら階段を登っていかねばならなかった。
時折地下室から聞こえるビステル卿の怒鳴り声さえも今は心強い。いつ何時、得体の知れぬ何者かが地下から這い出してくるのではないかという私の幻想を、あの聞き慣れた声が打ち砕いてくれる。
何も聞こえなくなった。
……おかしい。もう数分は確実に経過している。この階段はこんなに長かっただろうか。
いや、焦ってはならぬ。明かりのあった行きと違って、今は一歩一歩慎重に進まざるを得ないから時間がかかっているだけだ。
「うおっ!?」
手をついていた壁と足元の段差が突然消え、私はバランスを崩して転んでしまった。
「ひいっ!」
ぐにゃりとした感覚。
転んだ拍子に今、何かに手をついてしまった。それは嫌に柔らかく、水気があった。グボボッと何かが吹き出す音もした。不快な臭気が鼻を突く。この匂いは今さっき地下室に篭っていたあの臭いではないか。私の手が何かの液体でヌメっている。こ、これはまさか、血では……?
私は何処にいるのだ?
「う、う、うあああああああっ!」
私は半狂乱になって走り出した。暗闇の中で私は壁を含む様々な物にぶつかり、蹴倒し、踏み壊した。ガラスの割れる音や液体の飛び散る音もしたが、それが何なのか全くわからないしどうでもいい。出口、出口だけが今は。
「うあっ!?」
またもや何かにつまづいて転んだ。だが今度は固く重い。前に突き出した手が予期せぬ角度とタイミングで体重を支えた。あっ、これは階段だ。上に上がる階段がここにある。私は立ち上がることも忘れ、獣のように駆け上った。出口、出口、出口は、出口。出口出口出口出口出口出口!
不安に反して私の焦りに応じてくれるかのように階段はすぐ終わり、ようやく外から差し込む光が見えてきた。
「ふっ、ふうーっ! ふううーっ!」
階段から這い出るなり、安堵のあまりに私は床に這いつくばって泣き出してしまった。
情けない。貴族であり騎士でもあるくせに、なんという失態だ。こんなところを誰かに見られでもしたら……。
「バリス卿!? ご無事でしたか!」
その声に、私の背筋は凍りついた。
嘘だ。その声が前から聞こえるはずがない。這いつくばった四肢がガタガタと震える。顔を上げたくない。その声の主を確認したくない。だ、だってこんなの、おかしいではないか。
「聞こえておるのかバリス卿! あれから何時間経ったと思っておる! 今までどこに隠れておったのだ!?」
「ひっ、ひいいいっ!」
わからない。なにもわからない。怖い、怖い、怖い!
私は、私は……!
「貴ッ様ァ! それでも騎士の端くれかァ!」
ビステル卿に頰を張られて胸ぐらを掴まれた。
無理やり顔を上げさせられ、見たくもない顔を見せられて見せたくもない顔を晒された。
そして皆の顔を見て、私にはもう守るべき名誉など塵ほども残っていないことを悟った。
「わ、わ、わ、私はいったい……ど、どこを歩いていたのだ? わ、私は、私は……?」
ソル卿、ビステル卿、ユカリさん。
地下室にいたはずの三名が、階段を登りきった先で私を待っていた。