第6話。元凶の家
雨も降り始めた深夜遅くにビステル卿が部屋に戻って来た。
話しかけるべきかどうか迷ったが、私は彼の靴に付着していた少量の血痕を見つけてしまい、何も聞くことができなかった。
私は彼を避けるようにベッドに潜り込んだ。いつあの怒鳴り声が浴びせられるかと怯えていたが、彼は私に構うことなく、何処からか持ち帰ってきた書類や紙の束を机に並べて向かい合った。
私も何か手伝わなければならないのではという考えが頭をよぎったが、彼が恐ろしくて声をかけることができなかった。
それから彼は長い時間なにかを調べてからベッドに身を横たえたので、もしかしたら何か発見があったのかもしれない。
一方で私は、眠ることもできずに暗闇の中で長い時間を過ごしただけだった。ビステル卿も私が起きていることは知っていたと思うが、一言も声をかけられることはなかった。
やはり私は何も期待されていないのだろう。これでは怒鳴られていた方がまだマシだったかもしれない。
今日一日を振り返るたびに無力感に苛まれる。
他の騎士たちは優秀で、皆やるべきことをわかっているかのように動いている。
それに比べて、なぜ私はこんなに消極的なのだろう。自分からは何も動けず、言いたくても言えないことばかりだ。
その性根を治すために父上によって聖骸騎士に入隊させられたというのに、これでは何も変わらぬではないか。
意味もなく寝返りを打つたびに夕暮れの海辺の光景を思い出す。
若く顔立ちの良い騎士と、その手を取る妙齢の美女。
まるで騎士物語のワンシーンのようだった。
私のような、図体がでかいだけの臆病者が割り込む余地など、どこにもありそうにない。
隣の部屋は、今頃どのような様子なのであろう。
騎士に限って間違いを起こすとは思えないが、あれほどの美女を前にして行動を起こさない者など、それこそ私くらいだろう。
もしかすると今頃ソル卿は、その数々の武勇伝を誇らしげに彼女に語っているのではないだろうか。あるいは更に進展して、男女の仲になっているのではなかろうか。
こんなことを考えること自体が失礼極まりないことだと自覚しながらも、私は次々と湧き上がる不埒な妄想を無視することができなかった。
しかし闇の中でいくら耳をすませても、聞こえてくるのは降りしきる雨の音だけであった。
結局、ひと時も心休まることのないまま朝を迎えてしまった。
ひとまず朝食を、と食堂に来たはいいが、民宿の客は私たちだけではなかった。捜索願いが出されていた冒険者や運送業者がひしめいているために混雑していた。騎士である我らは珍しい来客のはずだが、彼らは不眠と町から出られなくなったことについて興奮した様子で話し合っており、私たちに必要以上の注意を払う者は見られない。
その中で私たちは一番大きな8人掛けのテーブルを確保し、焼いた卵をパンに挟んだだけの最低限の朝食を摂った。
ソル卿がユカリさんの分も注文したが、彼女は無言で首を横に振ってそれに手をつけようとしなかったことが気になった。
そして全員の食事が終わった頃を見計らって、ソル卿がおもむろに口を開いた。
「あらためまして皆さんおはようございます。それでは朝のミーティングを始めたいと思います。昨日は手分けして深夜まで調査を行いましたので、本日はその結果報告から始めたいと思います」
ミーティングは、いつもソル卿の挨拶から始まる。
「ではまず私から……と言いたいのですが、お恥ずかしながら、これが全くの収穫0でして……はは。強いて言えばユカリさんが言っていた通り、この町では眠ることも死ぬこともできない事実を確認できた程度ですね。他に報告のある方はいませんか。何も成果がなくとも結構です」
ソル卿とキュリオ卿がウルグン卿を見た。ウルグン卿は黙って首を横に振ったのみであった。それを見計らってキュリオ卿が片手を上げた。
「実はあの後に私も聞き込みを続けたのですが、この町の異変について知っている者はおりませんでした。役場、教会、ついでに港にまで足を伸ばしましたが、手がかりはなし。あの赤い霧は今日の朝から突然現れたという証言が手に入っただけでした。おっと失礼、もう昨日の朝の話になりますな」
「何か気づいた異変はありませんでしたか?」
「そうですな。港にて、捌いた魚がいつまで経っても死なないと騒ぎになっていたくらいですかな。現時点では以上になります」
「なるほど、ありがとうございます。ビステル卿からは何かありませんか?」
「無論、成果は大いにあった」
「おお」
それまで珍しく無言だったビステル卿が立ち上がり、一同を見渡した。
「だがこの場で話すよりも、実際に現場を見た方が良かろう。場所を移させてもらいたい」
「承知しました。ちょうど雨も小降りになってきましたね。では全員で移動することにしましょう」
「あ、あの。ユカリさんは……」
「当然、彼女にも同行してもらう」
有無を言わさぬ迫力を持って、ビステル卿は言い切った。
嫌な、予感がする。
「おや、ここは……?」
「そうだ、彼女の家だ」
ビステル卿の後に続き歩を進めること十数分。私たち一同は、ユカリさんの家へと辿り着いていた。
「着いてこい。地下室で面白いものを見つけた」
「か、勝手に女性の家を漁ったのか!?」
「容疑者の家宅捜索は基本中の基本。何もわからぬ素人にとやかく言われる理由はない」
「うっ」
ビステル卿に睨まれ、私は心胆が縮み上がった。
ダメだ。ビステル卿はやはり恐ろしい。
「ふーむ、あまり褒められた行動ではありませぬな。罠が仕掛けられていたらどうするのです。この甲冑があるとはいえ、魔術的な罠だとは限りませぬぞ」
「その時は己が未熟を恥じて死ぬがよかろう」
「あのですな、そういう問題ではなく……」
「ははは、まあまあ。ここはひとまずビステル卿が見つけたものを見てみようではないですか」
「ソ、ソル卿。よ、よいのか? こんな勝手なことを」
「どちらかと言えば悪いのでしょうね」
「な、なら」
「ですが、思うのですよ。そもそも彼女は何か見てもらいたいものがあったから、怪しまれるのを承知で私たちを家に招いたのではないでしょうか。ね、ユカリさん」
(コク)
「はは、やっぱりそうでしたか。それでは家主の了承も得られたことですし、早速見てみましょう。地下室はどちらですか?」
「……寝室だ。ベッドの下に入り口が隠されていた」
ビステル卿はどこか釈然としない表情だった。せっかくの手柄にケチをつけられたと感じたのかもしれない。
しかし私もまた、少しばかり気分が落ち込んでいた。ソル卿とユカリさんの間に、確かな信頼関係を感じたからだ。それに嫉妬を感じるとは、私は何と虫のように小さき人間であることか。私は何もしなかったくせに……。
私は何度繰り返したかもわからぬ自己嫌悪に囚われながら、他の騎士たちの背を追って家の中へと足を踏み入れた。
ウルグン卿以外の我々五人が家に入ると、先導していたビステル卿が足を止めて振り返った。
「地下室へ入る前に、この家の中をよく見ておくがよい」
「うーむ……これはさすがに……」
キュリオ卿が抗議ともとれる声を漏らした。
無理もない。家の中はかなり荒らされていた。家宅捜索という名目でビステル卿が引っかき回したのであろう。タンスや戸棚などの中身は引き出しごと引っ張り出され、衣類や食器や芋などが乱雑に床に放り出されていた。
「食器にはホコリが積もり、衣服は使い古した男性用のものばかりであろう。化粧品の類も見当たらぬ。食い物は萎びた芋くらいだ。他の家と異なり豚の一匹もおらず、財産らしきものもない。女、ここは本当に貴様の家なのか。貴様はここで毎日飯を食い糞をしていたのか。どうやって日銭を稼いでいた」
「な、なんと……」
よくよく周囲を観察してみれば、ビステル卿の言う通りであった。確かに家の中にどことなく違和感はあったが、庶民の家などこんなものかと思い込んでしまっていた。
私の位置からではユカリさんの後ろ姿しか見えない。だが、私には彼女が何らかの事情を抱えているように思える。そうでなければ、わざわざ我々をこの家に招き入れはしないはず……。
「あー、ビステル卿、それは私も気になったのですがな。女性の生活や収入に関してはあまり詮索をしない方がよろしいかと……」
「ほう、それはなぜ?」
「直接的な回答は避けたいのですが、女性にはあるではないですか。家に帰らずとも生活ができて日々の収入を得る方法が……」
「ふん、娼婦ということか」
「なっ!?
嘘だ、信じられない! 彼女のような美女が! 孤高に咲く花の如き、俗人では触れることを許されぬ天女のような美女が! 金で下賤の男どもに抱かれるような、薄汚い娼婦の真似事をするはずがないではないか!」
最後まで言い切ってから、自分がらしくもない大声を出していたことに気がついた。
し、しまった。私はどこから声を出してしまっていたのだろう。
「あ……し、失礼……」
ビステル卿もキュリオ卿も押し黙ってしまい、嫌な沈黙が場に満ちている。
う、うむ。気まずいものだ……。
ギチリ。何の音だろうか? 今、前から聞こえたような気がする。
「私の失言であった。許されよ」
あのプライドの高いビステル卿が頭を下げた。相手は私でもなくユカリさんでもなく……ソル卿に。
「ははは、お気にされずに結構ですよ。どうぞ、続けてください」
ソル卿の声色は普段と変わらず、その表情も私の位置からでは見えない。だが、あのビステル卿から謝罪を引き出すほどの何かがあったのだろうか……。
「ん、んん、コホン、コホン」
キュリオ卿が咳払いをしながら私をチラチラと横目で見ている。はて。これは何かの合図なのだろうか?
「ソル卿。どうか冷静に聞かれよ。私とて確信もなく女性の家を荒らしたわけではない。先ほどの可能性は当然私も考えた。その上で念入りに聞き込みを行い、役場にも行って住民台帳を確認した。その結果、彼女を知る者は誰もおらず、住民台帳にもユカリ・クレマチスなる者の記録はなかったのだ」
「そうですか」
「つまり、彼女はこの町の住民ではない。我々と同じく外部から来た者ということになる。その上で、この家に我々を案内したわけだ」
「なるほど」
「ではこの家は誰のものなのか。そちらも調べてみたところ、この家はクローカス・クレマチスという名の老人の所有物となっていた。何十年も昔は港を牛耳る有力者であったが、資産の大半を金銭に変えてからは一人で生活をしていたようだ」
「クローカス・クレマチス。名前から察するに、ユカリさんの縁者のようですね。その老人がこの家に一人で住んでいたということなら、この家にユカリさんの痕跡がないことにも説明がいきます」
「うむ。そしてそのクローカスという老人に関して更なる調査を続けた結果、今回の事件を引き起こした魔術師と思わしき証言も得られた。普段より家に引きこもって怪しげな物品を蒐集していた。この家の周囲で怪異が発生した、などの証言だ」
「おお、流石はビステル卿。この短時間で主犯を特定してしまうとは……いやはや、お見事ですな」
「そしてこの町を覆う結界が引き起こしていると思わしき記憶の混濁に関してだが、ユカリ嬢がその影響を受けぬ理由にも説明がつく。魔術師であるクローカスが、自分やその血縁者には効果が現れないようにしたからだ」
そ、そうなのか? その、クローカスという男が主犯なのか? いくら何でも、いささか話が急過ぎるのではないだろうか。きちんと全員理解しているのだろうか。話についていけていないのは、もしかして私だけなのだろうか……。
「ここで私は一つの仮説を立てた。自らの祖父が魔術師であり何らかの悪しき術式をこの町で行おうとしていることを知った彼女が、それを思い留まらせるためにこの町に訪れた。しかし時すでに遅く術式は発動しており、あえなく彼女も巻き込まれてしまったのではないか、と」
「なるほど、確かに筋は通りますね。そしてその祖父を止めてもらうために我々をこの家に案内した、というところでしょうか」
「うむ、私もそう考えた。だからこそ家宅捜査を強行し、この家の何処かに潜む魔術師クローカスを探し出そうとしたのだ。……そして、地下室を発見した」
「おお、そういうことでしたか。ならば後はこうして我々と共に突入しましょうか」
「待て、最後まで聞くのだ。私はその場で地下室の探索も強行した」
「ビステル卿……」
「功を焦った軽率な行動と咎められても仕方はあるまい。だが幸運にも罠の類は仕掛けられていなかった。あるいは仕掛けられていたのかもしれないが、この甲冑の前には無意味であった。だがその先には……」
そこでビステル卿は珍しく何かを言い淀んだ。
「クローカス氏は、いなかったのですね。もし見つけられていたのなら、ビステル卿が見逃すはずがありませんから」
「うむ、地下室の中はまさしく魔術師の拠点そのものであった。本棚には魔術書が並び、得体の知れぬ薬品や物資が大量に納められていた。だが、当のクローカスの姿はどこにもなかった。そして……」
「そして?」
「……その先は、実際に見た方が早かろう」
「わかりました。ではそのようにしましょう」
ビステル卿はそこで一旦話を打ち切り、寝室へと向かった。その後ろをキュリオ卿、ソル卿、ユカリさん、私の順に続く。ウルグン卿は今回も外で見張りをするようだ。
「この下だ」
ビステル卿が寝室のベッドをひっくり返して壁に立てかけると、その下に隠されていた地下室への入り口が露わになった。
埃が積もり色褪せた床板を闇が四角く切り取り、ぽっかりと口を開いている。ビステル卿が火を灯したランタンを近づけると、地下へと螺旋状に続く石階段が照らし出された。
こんな所に、今から降りるのか……。
「では私は万が一に備え、入り口を見張りましょう。卿らが戻られたら交代ということでいかがでしょうか」
「そうしましょうか。ではキュリオ卿、見張りをお願いします。それではビステル卿、先導をお願いできますか。その後ろを私、ユカリさん、バリス卿の順に降りましょう」
「当然だ。くれぐれも足元には注意されたし」
「ははは、階段から足を踏み外して転落死なんて笑い話にもなりませんからね。ユカリさん、もしよろしければ、手すり代わりにお使いください」
ソル卿が差し出した手をユカリさんは自然と握った。
そして彼らはビステル卿に続いて、躊躇なく地下階段を降りていく。
私はますます募る疎外感に蝕まれながらその後ろを追い、狭い入り口へとその身をねじ込んだ。
「それほど長い階段ではない。1分もあればすぐ下に着く」
滑らかな石造りの壁に手を沿わせながら螺旋階段を降りると、カーブの向こう側からビステル卿の声が聞こえてきた。
「私が入った時、魔術師がいた痕跡はあった。まだ固くなっていない食べかけのパンや、飲み残しの水が入ったコップが放置されている机もあった」
「なるほど、侵入を探知されて他の出入り口から逃げられたのかもしれませんね」
「それはわからぬ。少なくともこの階段の他に出入り口は見つからなかった。まだあの部屋のどこかに潜んでいた可能性はあったが、あれを見た私は深入りを避け、一度引き返して資料を調べ直すことにした」
ランタンの光が、私の前を降りるユカリさんの影を長く引き延ばす。
「持ち帰った資料を昨晩調べたところ、クローカスは天涯孤独の身であった。唯一の肉親である妻と娘は50年近く前に病死しており、他に親族もいない」
螺旋階段が終わった。
湿気で傷んだ木戸の前にビステル卿が立ち、いつもの険しい目でユカリさんを睨んでいる。
「彼にはもう、孫はおろか娘もいなかったのだ」
ビステル卿が木戸をヒジで押すと、軋む音を立てながら木戸がゆっくりと開いていく。
ビステル卿の視線はユカリさんから離れることはない。遅ればせながら、私はビステル卿の手が剣の柄に添えられていることに気がついた。
これはまさか、剣を抜く準備をしているのか……。
木戸が完全に開いた。
ビステル卿がこちらを向いたままランタンを掲げ、真っ暗な室内に光を当てた。
「だからこそ、今一度聞かせてもらいたい」
ああ、なんてことだ。
なぜ私はこんな所に来てしまったのだ。
理解ができない。何が起きてるのか何もわからない。
怖い、ただただ怖い。手も足も口も動かない。目だけが、あれを捉えて離さない。横たわるあれと、あの背中を。交互に。
誰か、誰か私をここから連れ出してくれ。
心臓がバクバクと脈を打ち、滲み出した脂汗が額を伝う。私は胸の十字架を強く強く握り締めた。
「女、貴様はいったい、どこの誰なのだ」
地下室には、ユカリさんの遺体が横たわっていた。