第4話。警告
ジェルジェは馬の足ならすぐに一周できるような小さい町でした。
絶えず吹きつける潮風により慢性的な塩害が起こるからでしょう。腐食しやすい木造住宅は見当たりません。漆喰でレンガを塗り固めた建築様式の平屋が主流なようです。
見た所、家々は隣接していますが豚を飼っている家が多いようですね。住民たちが優れた衛生観念を持っている証です。
王都に至っては豚を買うどころか庭付きの家に住めない者たちが大半でした。彼らが窓から糞尿を捨てるせいで通りは酷く汚れ、ネズミや流行り病の温床となっている事実を知った時は、流石に呆れ果てたものです。
それらを自分から処理してくれる豚は、田舎育ちの私にとって思い入れの深い家畜です。
可愛いし、何より食べると美味しいんですよね。
私はあえて馬には乗らず、徒歩でユカリさんと町を見て回ることにしました。
そちらの方が、釣りやすいですから。
「う〜んっ、いい天気……ではないですね、ははは」
「……」
頭上はどんよりと重い雲に覆われていましたが、私は外に出るなり背伸びをしました。
振り返ると、ユカリさんは相変わらず憂い気な顔を伏せています。
ユカリさんは決して私と目を合わせてはくれません。
それも当然ですね。私は彼女に暴力を振るったのですから。
「ははは、そう警戒なさらないで下さい。ずっと部屋の中にいると息が詰まるでしょう? ただの気分転換の散歩ですよ。事件のことは一旦忘れて、ちょっとブラブラ歩きませんか?」
(コク)
「ではこれよりボディガードを務めさせて頂きます、ソル・ラインバルトです。不死身のソルなどとも呼ばれていますが、まだまだ未熟者です。それでも聖骸騎士として精一杯お守り致しますのでよろしくお願いします。美しき姫さま」
私の軽口にも彼女はピクリとも反応しません。
いやあ、滑ってしまいましたか、はは……。
ジェルジェの風景は、まさに平和そのものでした。
少し外を歩けば、貧しくも慎ましく暮らす人々の姿が見えます。洗濯物を取り込む主婦、追いかけっこをして遊ぶ子どもたち、壊れた家具を集めて直す職人。
騎士が珍しいのでしょう。私たちが通りかかると誰もが手を止めてこちらを見てきます。軽く手を振ってみると、素敵な笑顔が返ってきました。
私たち騎士が守るべき民、愛すべき国民たち。
彼らの生活が脅かされることなど、許されないことです。
この町に似合わぬ赤い霧を取り除き、何としても住民たちを解放しなくては。
わざと隙を作ってつらつらと無駄話をしながら先導する私の後ろを、ユカリさんが静かに追従します。
「いい町ですね。都会の喧騒とはまた違う活気を感じます」
「……」
「正直に言いますと私は王都があまり好きではないのですよ。上の者は権力争いや派閥争いにしか興味がなく、民衆は他人を攻撃していい理由を探し、少しでも隣人より上に立とうとする、あの社会の有り様が」
「…… …」
「子どもの頃は騎士に憧れておりましたが、実際に夢を叶えてみると、どうも嫌な面ばかり見てしまうものですね。正義の英雄どころか番犬……いえ、汚れ仕事を押し付けられる雑用係だとは……いやはや」
「……」
「それに比べると聖骸騎士はいいですね。貴族の騎士と違って実力至上主義で単純ですし、給料は安くて命の危険が多くてもやりがいはあります」
「……」
話しかけながらも時折振り返って彼女の反応を確かめましたが、どの話題にも目新しい反応はありませんでした。
悲しげに眉を寄せ、顔を伏せて地面だけを見るようにして歩いています。
一方で私はといえば、振り返るたびに彼女の胸に視線を奪われていました。
揺れるのですよ……彼女が歩くたびに、豊かに実った、その、えっと、母性の象徴が……。
流行りものの服ではなく、肌の全く出ない色褪せた羊毛製の古着を着ていましたが…隠しきれない彼女の豊満な母性が服を下から持ち上げるせいで、かえってその胸の形をくっきりと浮き彫りにして……はは、なんと言いますか、その……。
うん、すごくエロいです!
是非とも一度馬に乗ってみてほしいですね!イエス!
「……?」
彼女が首をかしげて足を止めました。
「ああすみません! つい見惚れてしまって!」
危ない危ない、うっかり失言してしまいそうでした。そんなところをウルグン卿に見られたら、またしばらく口を聞いてくれなくなるかもしれませんね。元から無口な方ですが。
「えー、はは、それで、ユカリさんのご家族はどちらに?」
「……」
しまった。焦って話題をシフトし過ぎました。まだ警戒心も解いてないというのに、これでは逆効果です。
(フルフル)
「そうですか、苦労されているのですね……」
彼女は悲しそうな顔で首を横に振りました。
あの古びた家に一人で住んでいるのでしょうか。こんなに胸が大きくて豊満な胸で胸の大きな美人が……。
「おっと」
顔にハエが飛んできたため、手で払いのけました。
女性の胸ばかり見るなという、神からの警告でしょうか、ははは。……警、告。
「失礼します」
ユカリさんが驚かないよう一言入れてから、私は愛剣を抜きました。空中を不規則に飛ぶハエを真っ二つに……なんて器用なことはできないため、峰打ちでハエを叩き落としました。
地面に落ちたハエの頭は衝撃で潰れていました。私はそれを注意深く観察します。
もし、ユカリさんの言葉が真実ならば……。
「むっ」
嫌な予感は的中しました。
死なない。死なないのです。頭を叩き潰されたハエが。残った手足と胴体を小刻みに動かしながら、悶え苦しんでいます。
「これは……」
ハエの体内から一斉にウジ虫が湧き出してきました。それらは汚らわしく蠢きながらまだ生きている母体に群がり、食事を始めました。母体から滲み出た体液を啜り、手足に噛り付いて貪っていきます。
私の笑顔が消え、背筋を寒気が走りました。
なんとおぞましい光景でしょう。
たかが虫、と笑い飛ばすことはできません。私にはこれが、この先この町の人々に起こる出来事を示唆しているように思えました。
もしこれが、虫だけではなく人にも起こる出来事ならば……。
「……死ねない町。本当だったのですね」
(コク)
ユカリさんは悲しげに頷きました。
私はもう何も言えず、彼女の手を引いて逃げるようにこの場を離れました。
これは本当に魔術師の仕業なのでしょうか。
私たちは、何か決定的な勘違いをしているのではないでしょうか。
神よ。この小さな町で何が起きているのですか。