File③
事実を、受け入れなくてはなりません。
あらゆる生還の可能性は検討し尽くしました。出入り口へのアクセス権は抹消されています。ビオトープから脱出は不可能です。外部から救助が来る可能性も皆無です。この閉ざされたドームの中で私達は全員死にます。これまでの研究成果も廃棄され、ルドンの研究は二度と再開されないでしょう。
ですからこれはもはやレポートではなく、自己満足の遺書でしかありません。
あまりにも重く苦しい現状ですが、幸いにも私達にはまだ時間が残されています。
現在の人数で分配するなら、水と食料は526日分。
最低限の生存環境の維持と実験設備にのみ電力を回すなら、非常用発電機の稼働期限はおおよそ215日間。
現在ルドンの侵入を防いでいる【命の壁】に養分を補充せず機能を停止させることで、外界からルドンが入ってきてくれるようになるまで最短で20日前後。
ならば私達には二つの選択肢があります。ルドンの研究を進めてから死ぬか、それ以外の行動をして死ぬかです。当然ながら、私達は満場一致で前者を選びました。
私達は研究者として生きてきました。
だから研究者として死ぬべきです。
そして、この断固たる意思の元に行われたミーティングの結果、プロジェクトリーダーの決定によって私達へ次のような指示が下されました。
《居留優先度の制定について》
生存リソース最適化のため、これより居留資格者の選別を行います。ビオトープ内の全生物を以下のグループに分類し、リストを作成して下さい。なお今後の研究に必要な精子の提供は、男性スタッフより行うものとします。
優先度A:研究員。
優先度B:女性被検体、女性雑用スタッフ、食用に向いた動物。以前の実験で生まれた赤子。
優先度C:実験に消極的な研究員、実験に非協力的な女性。
優先度D:男性被検体、男性雑用スタッフ、警備員、食用に向かない動物。
上記リストの作成をもって優先度C・Dはただちに廃棄処分とします。手順書を参考に処置を実施して下さい。処置が完了した被検体は、被検体への糧食として再利用可能な鮮度を保つため、検体保管室にて冷凍して下さい。なお、グループの編成は7日ごとに見直しを行います。
合理的な判断であったのは理解できます。しかしこのビオトープ内の全員がすでに廃棄処分されているというのに、その中でもさらに不必要な人員を決めて廃棄処分するなんて、なんという生き汚なさでしょうか。
そう思いながらも私は反対しませんでした。反対すれば優先度Cへ分類されてしまうからではありません。私だって知りたかったのです。ルドンの正体が。その効力が。私達が廃棄処分されなければならなかった理由が。人の死後に待ち受ける運命が。真実が。ただただ、知りたかったのです。
ミーティング中に誰かがこう言いました。
「外界から切り離されたこのビオトープは、まるでルドンを摂取しなかった母胎内のようですね……」
私には発言者の気持ちが分かります。ビオトープを母胎に例えるなら、外の世界に出ることもできず暗闇の中で命の期限を迎える私達は胎児なのでしょう。何も分からず、何も残せず、意味もなく死んでいく。それだけは耐えられません。私は、私達は、散々見てきた赤子のような死産を迎えたくなかったのです。
この絶望に打ち勝てるものは、正義でも希望でもありませんでした。狂気。狂気です。狂気に身を委ねるしか、私達は理性と秩序を保つことはできなかったのです。
だから、殺してしまいました。
あんなに、穏やかで、優しくて、他人を思いやる心を持っていて、不妊治療の研究という嘘を信じていて、私達スタッフの名前まで覚えてくれていた人達に、『不要』というラベルを貼って、騙して、拘束して、殺してしまいました。被検体などではありません。人間です。一人一人に名前があって、人生があった。こんな所で死ぬべきではなかった人達です。たくさん、たくさん、殺してしまいました。今までの実験でも多少の犠牲はありましたが、殺害を目的に殺したことは、一度たりとも無かったというのに。
安楽死に使える薬品は、私達が最後の最後で自分達に使うために、彼らには使いませんでした。
激毒を静脈から注入された彼らは、ひどく、苦しんで、ああ、今も彼らの顔、彼らの声を、繰り返し繰り返し思い出してしまいます。私がそれまで覚えていたはずの彼らの記憶は、彼らの凄惨な最後の姿で、上書きされてしまいました。彼らは今、冷たい検体保管室の中で無造作に積み重ねられています。
もう、後戻りはできません。
もしも生きる資格というものがあるのなら、私達はたった今それを失ったのだと思います。
研究を続行します。
おかしい。
ルドンがビオトープ内に出現し始めました。
リソースの最適化を行なってからまだ17時間しか経過していません。バイタルチェックを確認する限り二重の【命の壁】はまだ健在です。監視カメラを確認しても、どの出入り口も開いた形跡はありません。それにも関わらず、ルドンがビオトープ内に出現しているのです。それも何十体、何百体と。
ルドンが出現した当初の歓喜は、すぐに困惑に変わりました。ルドンの行動にこれまで見られなかった変化が起きているのです。
まずは外観。
かつては大きくぼんやりと見開かれていたその目は、今や上下から盛り上がったまぶたに挟まれる形で細く絞られています。縮こまった瞳孔の周囲では白目に浮いた血管が網を描き、今にも裂けそうに脈打っています。強い筋収縮を起こしているのでしょうか。その身に込められた力はルドンの頭部全体を歪ませ、全身に波打つような皺を走らせています。
続いて行動。
これまでルドンは人間の飲食物に積極的な侵入を試みていました。しかし今回確認されたルドンは飲食物に一切の興味を示さず、上記の外観を用いて執拗にスタッフの顔の前に集まり睨みつけるといった行動に終始しています。この行動は被検体や動植物に対しては見られませんでした。ルドンは確実にスタッフとそれ以外とを見分けていると思われます。
明確な憎悪をルドンから感じます。
しかし私はその原因を特定したくはありません。
研究者として恥ずべき行為ですが、私はこれまでの研究結果から一つの仮説を立ててしまいました。その仮説の答え合わせをしてしまうのが恐ろしいのです。
どうかその仮説が間違いであってほしい。せめて思い至ったのは私だけであってほしい。
縋り付くようなこの願いは、プロジェクトリーダーの指示によって一蹴されました。ルドンの発生源を突き止めるべく、検体保管室を確認するように指示が下されたのです。誰も言い出さなかっただけで、ルドン発生源の心当たりは一つしかありませんでした。
節電によって薄暗くなった無機質な通路を、私達は歩きました。顔の前に集まり殺意を込めて睨みつけてくるルドンを手で払いのけて潰しながら、重い足取りで私達は向かいました。もはや疑いの余地はありません。検体保管室に近付くにつれて、ルドンの密度が明確に濃ゆくなっているのです。
眼鏡を外してしまえばこんなものを見なくても済むのですが、これほどまでに私達を憎んでいるルドンから目を逸らしてしまえば何か恐ろしいことをされてしまいそうで、とても外す気にはなりませんでした。
『種子であり花である。禁域に咲く冒涜である』
今頃になって世界樹教会の忠告を思い出します。私達は彼らの忠告に従うべきでした。禁域に踏み込まず、禁忌に手を伸ばそうとせず、何も知らない愚かな猿でいればよかった。しかしもう止まれません。私達は二度目の過ちを犯そうとしています。
検体保管室の扉が見えてきました。内部の冷気を遮るための分厚く重い鉄の扉。その周囲では異常な数のルドンが魚群のように泳ぎ回り、殺意の視線を私達へと向けています。
ルドンの群れを掻き分けて、私の手が検体保管室の扉に手をかけました。誰かがやめろと叫びました。ですがそれだけです。物理的には誰も私を止めません。止めてくれません。私だって凄まじい恐怖を感じています。止まりたい。この扉を開けたくない。しかしそれでも身体は勝手に真実へ進もうとするのです。この時きっと私は笑っていました。私を止めなかった同僚達のように。どれだけ恐ろしくても、やはり私達は知りたいのです、真実を。
検体保管室の扉がゆっくりと開いていきます。その刹那の猶予の中で、私はこの研究の動機を思い返していました。
無から有が生まれないならば、有も無にはなりません。生物が死んでも、その体を構成していた物質は別の形へと変わって世界に残り続けます。物質ではないエネルギーですらそうなのですから、もし仮に魂というものが存在するのならば、同じようにその法則に従うはずです。
ならば魂はどの段階で発生するのか? 魂になる以前の状態とは何か? そして生物の死後、魂はどうなるのか?
この疑問から始まった研究は、ルドンの発見と共に新たな謎を呼び寄せました。
ルドンは同種同士、あるいは生物との接種によって破壊されるのは何故か? なぜ人間だけがルドンを接種しなくては産まれてこれないのか? 世界樹教会はルドンの何を知っているのか? なぜルドンの真実を追った私達が口封じされたのか? そしてルドンはどこから発生するのか?
検体保管室の扉が開きました。
人類史の闇に葬られた真実が今、明らかになろうとしています。
ルドンです。
凍えるような冷気の中で、巨大な黒いルドンが何十体も咲いています。
全長は2m以上はあるでしょうか。頭部の中心にはやはり巨大な単眼があり、強烈な怨恨を込めた眼差しで私達を睨んでいます。頭部の表皮には卵子に群がる精子のように小さなルドンがびっしりと群生しており、そこから伸びた鞭毛は束ね合い一つのまとまりとなって植物の花弁を思わせる形を成しています。
そしてこの巨大なルドンの茎は……ああ、やはりと言うべきでしょうか。冷たい床に積み重ねられた処分済被検体へと繋がっていました。ルドンは人間の死体から生まれているのです。
私の仮説は真実となってしまいました。
ルドンこそが人間の魂なのです。魂は魂との接触によって破壊されるため、ルドンは同種である私たち人間との接触によって破壊されるのです。魂を持っている母体と切り離されるから赤子は死産になるのです。中断されたはずの『幽霊を見る実験』は、最初からずっと成功していたのです。
人間以外の動物はルドンを必要とせず接触破壊ができることから察するに、動物にも魂はあります。おそらくは本来なら人間にも他の動物のように魂が存在していたのでしょう。しかしそれは今やルドンに乗っ取られ、取って代わられているのです。私たちが『有る』と思い込んでいた人間の魂はすでに絶滅しており、死後の救済も輪廻転生も人類には存在しないのです。
この世の何よりも尊く意味があると信じていた私たち人間の人生は、このルドンが成長し繁殖するための苗床に過ぎなかったのです。
ルドンは正しく種子であり花でした。
人間の赤子に種を植え付け、人間の死体から咲く冒涜でした。
科学的にも宗教的にも異端として排斥すべき存在でした。
私達は、禁忌に触れてしまったのです。
「嘘だーっ!」
私と同じ結論に至ってしまったのでしょう。同僚の一人が叫びながら眼鏡を投げ捨てました。
私は彼がそのまま検体保管室を飛び出すのかと身構えました。しかし彼は今しがた投げ捨てたはずの眼鏡を探すように顔をまさぐり始めたのです。何もつけていない自分の顔をペタペタと触り、ルドンと向き合って何度も目を開けたり閉じたりして、不可解な行動を繰り返しています。段々と青ざめていく彼の顔色を見て、私は彼の身にそして自分の身に起きている事態を悟りました。
震えながら私は眼鏡に手を掛けました。痛みを覚えるほどに喉が渇き、緊張による発汗がとめどなく流れ出ています。私は巨大なルドンを真正面から見据えたまま、ありったけの勇気を振り絞って眼鏡を外しました。
ルドンは、まだ見えていました。
自分の喉から放たれている叫び声を、私はどこか他人事のように聞きました。
もう私はルドンから逃げられません。死ぬまでこの目玉の怪物に睨み付けられ、憎悪を浴びせられ続けるのです。
そして死後は、私もまたルドンになるのでしょう。
私が殺した彼らのように。
今日まで死んできた、全ての人類と同じように。
ああ、私たちは無知の楽園にいればよかったのです。
何も知らないままでいればよかったのです。
コウノトリが赤子を連れてくると信じる子供のように、生命の真実を知るべきではなかったのです。
魂や天国の存在を信じていればよかったのです。
だけど私たちは知恵を欲してしまいました。
私たちは成長したかったのです。
昨日よりも賢くなりたかったのです。
だから禁断の果実に手を伸ばしてしまいました。
それが一度目の過ちだったのに、私たちは反省しませんでした。
そして再び知恵を求めて、自ら命の尊厳を破壊してしまいました。
もう二度と安寧は訪れないでしょう。
私たちは、再び楽園を追放されてしまったのです。
研究を、続行します。
次回の考察編でこの話は終わりです。